シナリオ詳細
<太陽と月の祝福>Antenora
オープニング
●Antenora
産まれたときから、そうであることを宿命づけられていた。
周りで誰が努力をしようとも、歩みを進めようとも、それは関係の無いことだった。
「にゃあ」
可愛い振りをして猫のように鳴いてみせる。眼を擦り、眠たげに微睡みの淵に居座り続ける。
皆で並んで努力しましょうね、という子供染みた努力目標がカロンは嫌いだった。
足並みを揃えて出発し、ゴールを目指す。ルールもへったくれもない世界で生きていたかった。
怠惰に眠り、停滞を良しとする。それが生きていく上で最も楽な方法であったからだ。
長きに渡る生、永遠をも思わせる長寿の樹木。停滞にも似た時の流れ。カロンはこの国を好んでいた。
『アルティオ=エルム』の時の過ごし方は、永遠にも似た長い時間を停滞し揺蕩うように過ごすカロンには丁度良いと感じるほどの場所だった。『怠惰』に生きているわけではないのだろう。だが、幻想種達は己の長い生命に胡座を掻いている。他の種とは違う寿命を受け入れて、ゆっくりとしか歩を進めることはない。
人の一生が、誰かにとっての瞬きと一緒だった。
「にゃーあ」
疲れた、とカロンは言った。努力することも、誰かのためにと頑張る事も嫌いだった。
同じ冠位魔種(オールドセブン)を見てみれば良く分かる。アルバニアはカロンの在り方が嫌いだっただろう。
彼とぶつからなかったのはあくまでもカロンが争う気が無かったからだ。ベアトリーチェの『強欲』さもカロンは受け入れられなかった。
……ベルゼーは良い。『暴食』は暴走するまでは善人の皮を被っていたのだから。
もしも、『暴食』がその殻を食い破って牙を剥き出しにしたならばこの森などさっさと蹂躙されていただろう。
そうしないからこそ付き合い甲斐がある。但し、彼のために何かをしてやる気はカロンには毛頭無かった。
疲れたのだ。
誰かの為にと頭を捻るのも。何かを為すことも。人と共に過ごすことだって疲れた。コミュニケーションだって、面倒だ。
もう眠っていたい。眠って、全てを無かったことにしたい。ぼんやりと過ごし、諦観の淵に立っていることが一番楽だった。
――別に、生まれながらの怠惰だって、今まで誰かと関わって来ていないわけではないにゃ。
初めて、それを零した相手はベルゼーだっただろうか。驚いたような顔をして「それは我々(オールド・セブン)以外で?」と問うてきたものだ。
――まあ、そうにゃ。共に何かを為したい。そう言われたって『怠惰』にはそんなことは出来にゃい。
そうすると、奴らは言うのにゃ。裏切者、と。
誰かの顔色を伺って、誰かのために努力を重ね、人の為に生きていく。
そんな、変化を望む心なんて持ちたくもない相手にお仕着せがましく理想を重ね、外れれば糾弾する。
ベルゼーは「所詮、人間などその様なものでしょう」と笑った。だからこそ、カロンは傷つきたくもなければ、関わりたくもなかった。
長く生きてきたならば厭と言うほどに分かる。人間なんて、碌に変わりないのだと。
だからこそ、森を閉じよう。
静寂の微睡みの淵に過ごそう。
もう、二度とは目覚めぬように。
カロンは欠伸を漏した。話し相手であったベルゼーも去ってしまった。
彼は冠位魔種(オールドセブン)にしては優しすぎた。それが偽善と言おうとも、その仮面を被っていられるならば及第点だ。
残されたカロンはだらりと腕を下げる。
「出番かにゃあ、やだにゃあ」
怠惰に、無気力に、何もカモを無かったことにしたかった。そうとも出来ないならば――ああ、そうだ。
もう一度この森を閉ざしてしまおう!
辿り着く者全て、眠りの淵に叩き込み。そうして一緒に眠るのだ。
もう、何も恐れるものなんてない。夢を見よう。裏切りなんてない素晴らしい夢を。
●『non-scriptum』
ブルーベル、という名前が嫌いだった。青空のような髪も、醜いアヒルを思わせた翼だって。何もかも嫌いだった。
出自だって大して良いものだとは言えやしない。一家で移り住んでジナイーダの家に預けられるまではその日暮らしだった。
ジナイーダ――幼馴染みと呼ぶ関係になった商家の娘は大層恵まれていた。
可愛らしい笑顔を浮かべて、仕立ての良い服を着ていた。彼女より痩せぎすで、可愛らしくもなかった自分と比べて仕舞うのは屹度、仕方ない。
――ブルーベル、ブルーベル、ねえ、ベル、可愛いわ。だいすき。笑って。
口癖のように彼女は言った。その隣にはもう一人の幼馴染みのリュシアンが居て、三人で過ごす時間だけが『あたしたちの平穏』だった。
大人を信用してはならない。アイツらは何時だって子供を道具のように扱うから。
身に着けたスリの技術もこそ泥と呼ぶ程度のものであった。生きていく上でこれから罪を重ねるのだと思えばげんなりした。
母親は「ベル、女は笑顔が武器よ」と言い付けのように繰り返した。
だから笑いたくなんてなかった。笑顔と愛嬌を身に着けて、武器として行き着く先は何処だ?
ジナイーダみたいな天真爛漫な女の子になりたかった。
リュシアンみたいな芯の曲がらない強さが欲しかった。
何方も足りず、奴隷商人からジナイーダを逃がして逃げ果せた先で『あたし』は願った。
――助けて! もう、何もかも変わらない平穏が欲しい!
あの子が、ジナイーダが笑っていてくれたら良かった。あの子が、リュシアンがずっとジナイーダと一緒であれば良かった。
元から何も持っていなかった。奴隷商人に追われようとも、四肢を切り取って臓器を売り払って、それで終わりだと思った。
無理だ。誰が助けてくれる? こんな小汚いこそ泥の子供を。
呆気ない人生だ。
簡単に死んじまう。
呆気ない――
――助けてやろうかにゃ? 何もかもを捨て去って、そうして共に過ごすのにゃ。停滞と微睡みは、心地良いにゃあ。
囁く声が、心地よかった。
その人が差し伸べてくれた手だけが、愛おしかった。
ジナイーダは『あたしより沢山のものを持っていた』。嫉妬は、していたと思う。
リュシアンは『あたしより沢山の力を手に入れていた』。憧憬は、滲んでいたと思う。
だから、二人と過ごす時間は幸せで、同時に窮屈だった。友人にさえそんな感情を抱いた自分が何よりも恥ずかしくて。
「主さま」
その人だけが、何の干渉もなく、何も望まないその人だけが、愛おしかった。
けれど。
「主さま、あいつ……『修道女』はどうするんですか。主さまだって信用してないでしょう」
「そうにゃあ。面倒くさいから全てを渡してもいいけどにゃあ。
『裏切者』は何時だって現れるにゃあ。ブルーベルに沢山渡した少しを『修道女』に分けるにゃ。
ブルーベルと『修道女』ふたりでひとつ。命を共有するって言うのは嫌いかにゃ?」
けれど。
「いいえ。そうしましょう。あたしは主様の味方だから、裏切りませんよ」
――友達だと、笑ってくれた人が居た。
手を繋いで歩いてくれた人が居た。話を聞こうと笑いかけてくれる人が居た。
Bちゃんと呼んでくれる人が居た。ジナイーダのことも全て、理解しようとしてくれた人が居た。
……殺そうとされた方が幾分かマシだった。どうせ、イレギュラーズと魔種は殺し合う運命だったのだから。
救おうとしてくれるな、イレギュラーズ。
頼むから。あたしの目の前に何て現れてくれるな、イレギュラーズ。
頼むから。頼むから。頼むから。
……あたしの為に、命を捨ててくれるなよ、イレギュラーズ。
●『堕ちた修道女』
最後に一目会いたかったその人とは心の臓へと刻み込むように傷を付けた。
それが癒えても痕となって残れば再び相まみえるときが来るはずだと信じていたからだ。
――おにいさま。
幼い子供の様に永遠に過ごしていたかった。
それでも『クラリーチェ・カヴァッツァ(p3p000236)』であった彼女は応えを選び取った。
怠惰の冠位魔種カロン・アンテノーラは『自身の権能』を部下へと分け与えることが出来るらしい。
そうして、その力を各自に駆使させる。
精霊達を従わせる疎通の能力、周囲に滅びのアークによる存在を生み出す能力。
眠りの世界を大きく拡大する能力。強制的に眠りへと導く能力。
そして『ライアム・レッドモンド』が欠片ほど有していた『夢の牢獄』へと誘うための能力。
クラリーチェはブルーベルから一つの能力を分け与えられた。
それこそが、クラリーチェが声を受け入れた切っ掛けであった。
――『修道女』、いいか? あんたとアタシの命はイコールみたいなもんだ。天秤に掛けたられた。
あたしらはカロン様の要だ。……疑ってる? ホントだよ。ホント。本当じゃないと、信じらんないけどさ。
ブルーベルは、肩を竦めた。
クラリーチェは何でも良かった。それが、カロンの能力を少しでも分断し、イレギュラーズに有利になるならば。
戦う事は好まない。その肉体を締め付ける棘が、生に執着するように傷を付けるかも知れない。
それは、人間の奥底にある生存本能によるものだ。それをクラリーチェ自身が制御することはできまい。
だが、それ以外の積極的な攻勢には転じる気は無かった。
戦いの中で死ぬ。その中で、誰にも悟られぬようにカロンの権能を一つ持って、命を落す。
あの冠位魔種を倒せるように。
根幹に存在した願いは揺らがなかった。魔種にその身が落ちようとも。
生きることを長引かせたくはない。此処で、カロンと共に死ぬだけだ。そうして、彼等の未来が明るいものになるように。
「ええ、構いません。Bちゃん。私は……どんな能力を貰ったのでしょうか」
「あんたの能力は――」
- <太陽と月の祝福>AntenoraLv:50以上完了
- GM名夏あかね
- 種別決戦
- 難易度VERYHARD
- 冒険終了日時2022年06月30日 23時06分
- 参加人数109/109人
- 相談7日
- 参加費50RC
参加者 : 109 人
冒険が終了しました! リプレイ結果をご覧ください。
参加者一覧(109人)
サポートNPC一覧(2人)
リプレイ
●La Belle au bois dormant I
茨に包まれたその場所は、まるで眠れる森の美女の寓話のようであった。
エメラルドグリーンの森を有する永劫にも近しき雄大な森、迷宮森林。其れを擁するは幻想種達の命のみなもととまでさえ呼ばれた大樹ファルカウ。
この地は国家では無い。彼女達は王国の民ではない。共同体である。
通常の人間種よりも永い時を生き、衰えを感じさせない肉体に高い魔術的親和性を有した長耳の乙女達。
共同体である彼女達は大樹ファルカウを愛し、そして信仰した。木々と偽らざる本音を交わし合い、心穏やかに過ごし続けた。
その、生活へと一刺し。
糸車の針はいとも容易く共同体の平穏を奪ったのだ。
「――だからどうした、という話ではありますけどね!」
アルプスは駆け抜けて行く。オフロードバイクのエンジン音が場を目覚めさせるように響いた。
サスペンションが軋む。ファルカウを昇り征く自立自動二輪車に跨がったホログラムが僅かに歪んだ。
「さあ、出番です! 敵を轢き殺しましょう! 冠位部隊、後ろは任せて下さいよ!」
一番槍。駆動音が鳴り響くその背後よりずんずんと地を走り征くのはヴィリスと百合子。
「クハッ! どこもかしこも地獄の如き惨状ではないか!
だが、あのデカブツ共を潰せば冠位共の下に皆を送り届ける為の道筋となろう! ――いざ雷撃の如く踏み荒らさん!」
霹靂の如く現れたイレギュラーズを待ち受けるのは無数の夢魔。そして、その最奥には欠伸を噛み殺した冠位魔種。
「さぁ、さぁ、とくとご覧あれ! 今回の『最終章』を始めましょうか!」
アルプスの前を進むように軽やかな足取りで飛び込んだヴィリスの黒靴は研ぎ澄まされた剱となって大怪王獏を踏み抜いた。
流麗に弧を描いた蒼銀の髪、プリマを支えた剱の靴は遊撃手たる乙女の歩みを止めることはない。
躍動的に踊り狂うヴィリスの掌が地を叩いた。足を持ち上げて蹴撃が竜巻の如き円を描いた。
「主役にはなれないけれどフィナーレの一番手くらいは担わせてもらってもいいじゃない? さぁ、星々が輝く舞台を整えてあげましょう!」
星々の煌めきや良し。戦士とは輝いてからこそなのだ。夢へと牙を突き立てる夢魔になど己が魂をくれてやるものか。
百合子は狂人の戯言をも『真に受ける』。咲花論・万有極彩/空間境層は美少女へと確かな力を与えた。
並行世界上の可能性を束ねよ。その制服に恥じぬ動きを見せるが為に。虚空を見上げるような動作は巨躯の夢魔を拳の力で打ち上げた刹那。
俯き気味に楚楚に歩んだ乙女の行動に続き叩き込まれたのは竜をも穿つバルムンク。オリーブの上質なる長剣は鈍く光を帯びた。
飾り気など存在しなくても良い。あくまでも露払い――そして、ファルカウをも上り詰め茨の眠りを醒ます『王子様』を届けるが為。
(……相手は決して弱敵ではありませんけど、冠位魔種に比べれば余程楽です。
それを引き受けるのですから、やり遂げなければなりません。此れより先を制圧することこそが鉄帝国の誉れ)
その心に、眸に、身体に。燃えさかる炎を身に纏いオリーブはぐるりとその身を捻った。
「――随分とまあ、尖りすぎたパーティだ。だからこそ、やりやすい」
ショットシェルを入れた音、続き、フォアエンドを引いて戻したジェックは標的を定める。
先ずは『準備』から。そして照準を見極める女の瞳は獲物を見据える鷹の如く――死地へと飛び込み征く仲間の背後より、銃口は怪しく光った。
戦場のコントローラー。
その名をほしいままにする。慈悲も、躊躇も、命乞いすら赦しはせぬ破片侵襲弾が広く平伏だけを求めるが如く広がった。
「尖りに尖ったこのパーティの中だと、ボクはまだ常識的な方じゃないかい?
ちょっと過充填爆撃を連打して咀嚼するように敵を噛み砕くだけだよ。では、戦い(しょくじ)を始めるとしようかな」
「どうだか」
揶揄うようなジェックの声音にロロンはぷるりとその身体を揺らがせた。裡なる海、星霊の庭へと接続――列なる記憶が戦い方を教えて呉れる。
逃さないと定めた意志は執拗にも夢魔を追い求める。ロロンの身を包んだ中華風セーラーの襟がひらりと揺らいだ。
「夢魔かあ」
その指先は『不定の願望』により人を象った。叩き込まれるのは氷槍。ジェックの弾丸と共に戦場を制圧すべく広域へと広がり夢魔達の動きを妨げる。
「クハハハッ、吾らに任せよ! この地は受けた待った!」
「ええ、ええ、此処は任せて下さいよ。山道で動物と出会うのは本位ではないですけれど――任意保険に入っていない方が間違いですから!」
弾む声音のアルプスに百合子は腹を抱えて笑った。戦場に漂った気配。『ファルカウ』よりリソースを奪う冠位魔種の元へと最短ルートで仲間を届ける為に。
「助けてくれた皆に恩返ししないとね! お手伝いするよ、さとちょー!」
にんまりと微笑んだユウェルは『せんぱい』達が心置きなく戦えるように努力するのだと告げた。
「ユウェル……! そ、そんな、起き抜けで大丈夫?」
慌てる琉珂を振り向いてユウェルは傍らの鈴花と顔を見合わせる。不安げな顔をした桃色の髪の亜竜姫の目元は僅かに赤い。
「あ、言い忘れてたわリュカ。おはよ、一人で泣いてなかった?」
「な、泣いてないもの!」
首を振った琉珂を揶揄うように鈴花は「小さい頃のリュカはねー」とぎゅっと手を握り腕をぶんぶんと振り回してやった。
情に絆されやすい亜竜種の娘。それ故に、無数の人々に愛され育まれてきた亜竜種の里長。
「さ、受けた恩はちゃんと返す、それがフリアノンの誇り。
ってことでその辺の邪魔な奴らぶっ飛ばして、操られてる人は起こす! いくわよゆえ、かっ飛ばすわよ!」
進むわよと指差す鈴花に「オーケー!」とユウェルは頷いた。宙を駆けるユウェルと鈴花の目標は『いちばん数を斃して貢献するのは亜竜種達』であることだ。
「ここまで来たら乗り掛かった舟っス! 竜種が去ったからって深緑をほったらかしていい理由にはならないっス」
にい、と笑ったのはライオリット。戦場に沸き立った濃い戦の気配は僅かな身震いを運ぶ。
「琉珂嬢、大丈夫っスか?」
「ええ。大丈夫。ライオリットさんも……無理はしないでね」
頷いたライオリットは滅海竜の鱗より鍛え直されたという軍刀を握りしめた。竜の力は亜竜種にはよく合うというように宙を駆け抜ける。
難局と呼ぶしかあるまい。だからといって、此処で諦めてなるものか。何より、冠位も魔種も『強敵』と『難局』だらけであるこの戦場で気取られる事こそが命取りなのだ。
最低限の動きで味方をカバーできるようにとその身を盾として進むリウィルディアは苛烈なる陽光の如く『叡智(ミミル)』の気配を宿す。
ノルンの娘の儀礼剣は蝕みの術を放つ。スロースボギーがぴょんぴょんと跳ね回る。
「全く、一カ所で大人しくしていることも出来ないのかな」
構えた剣にぶつかった邪妖精の一撃に眉が寄せられた。苛立ちの如く、呟かれた言葉に「けれど、首が来てくれるなんて嬉しくありません?」と声を弾ませたのは大太刀を振り上げた斬華であった。
「んふふ♪ 首がたくさんですね!」
紅迅の振袖を揺らがせて微笑む斬華は効率よく首を狩る為に戦場を駆け抜ける。首が無数に存在すると言えばそうなのだろう。リウィルディアは攻撃手としてより多くの夢魔を刈り取る斬華の盾となるようにその身を滑り込ませた。
「うふふ、さあさあ、首、貰っていきましょうね♪」
流麗なる斬撃は『首刈り』に特化している。斬華が首だと言えばそれは首なのだ。『首刈りお姉さん』は果実を刈るような迷いのない仕草で太刀を振り下ろす。
夢見るようにうっとりと笑い、変質したその体を突き動かした夢魔等をまじまじと眺めてからメルランヌのシュライク・ソングが放たれた。
執拗に抉り取るための死の囁きは『嘆きの聖母』の名を冠する麗式格闘術の型。
嫋やかな美貌からは想像も付かぬ貴婦人の一撃は、艶やかに舞う白鳥の如く美しい。
「醒めてこその夢、起きてこその朝。わたくし、動き回っている方が好きな性質ですので……どうぞこの辺りでくたばって下さいまし」
身を包んだボンテージスーツがその脚線を寄り美しく演出した。女子力(きくばり)は周囲に及ぶ。
(精霊や幻想種の命まで奪う趣味はございませんものね)
森の嘆きを耳にしたように。この地には無数の精霊達が住んでいた。幻想種と精霊。日々を営み、穏やかに過ごしていた彼女らを脅かしたくはあるまい。
その命までをも奪わぬようにメルランヌは細心の注意を払い続けた。
「……操られているらしいな。しばらくそこで『停滞』していろ」
不要なトドメは差さぬように。執行人の『杖』を構えたレイヴンは『断頭台の刃』を番えてぎり、と引き絞った。呪術に囚われた者達に必要以上の傷を負わせることはしない。
夢魔を却け、目指すは冠位魔種。苦々しく思い出したのはあの絶望の気配だ。嫉妬の焔に身を焼かれた冠位魔種は『レイヴンの憧憬』を一身に背負った竜の名を呼んだ。あの強大なる姿に、重苦しい程の波濤の気配に。ひりついた膚の感覚は今でも思い出される。
(――海洋の二の舞にならなければいいが、)
否、『暴食冠位』が居たのだ。テイクツーが此方だというならば、此処で畳みかけるだけ。
相手は冠位魔種。しかも、無数の権能を複数の戦場へと分け与えている。この地にまでこれだけの軍勢が押し掛けることさえ想定の外であっただろう。
「此の儘畳みかけられるか」
「ええ。有象無象程度ならば可能でしょう。……琉珂さんも宜しくお願いします。頼りにさせていただきます」
楚楚と一礼する沙月は穏やかな笑みを浮かべた。戦場には似付かぬ流麗なる仕草を見せる沙月に琉珂はこくこくと幾度も頷く。
「ねえ、鈴花、ユウェル、私もああやって綺麗にお辞儀というものができるかしら」
「さとちょーはどうだろう」
「リュカじゃあねえ」
揶揄うような二人の声音が空より降った。むうと唇を尖らせてから巨大な裁ち鋏を構える琉珂は「沙月さんが頼りにしてくれるんだものね!」とやる気を漲らせる。
イレギュラーズ達のように上手くは戦えないかも知れない。それでも、彼女が此処に居るならば沙月は支えるだけだった。
操られた幻想種達を『無力化』する。流れるように放ったのは連撃は水面に映る月影に幾つもの波紋を漂わせるが如く。
一歩、そして凪。風をも感じさせぬ仕草で距離を詰めた沙月の背後から眩い光が広がった。
「僕的には夢と言うのはもっと良い物だと思うけども……悪夢を覚ますのも僕達の役目。恨みつらみは正しくあの冠位魔種に投げ捨てさせちゃおうか!」
これが『悪い夢』だというならば。身をも操られる彼女達を救うのみ。
マルチディヴィジョンは似姿を限定的に召喚した。軽装に長剣はその身によく馴染む。カインの一閃は神聖なる光と化した。
意識を奪えば良い。その痛みは彼女達が感じる必要のないものだった。
「此の儘、道を切り拓こう! この先に悪夢なんて必要ないんだから!」
●Bluebell
「……ふむ。佳境ね。どうするのが正解なのかしらね、こういうのって。
まぁ、こういうときは得てして何を選んでもすっきりしないものなのでしょうけれど」
ヴァイスはぽつりと呟いた。複数の魔種に、冠位魔種の権能が割り振られている。それらを此処で排除することが『勝利』に繋がっているのならば。
倒さないという選択肢はない。ヴァイスは友好的な態度を取っては居るがブルーベルは冠位魔種の片腕、高位の魔種だと認識している。
「戦闘の回避は無理でしょう? ……何か、誰かに伝えたいことはあるかしら」
穏やかなヴァイスの言葉に、息を呑む音がした。
「関わり合わなければ よかっただなんて……そんなことはありませんの。
好いた雌に 吸収されてしまう アンコウの雄が、あるいは 喰われてしまう クモやカマキリの雄が はたして 後悔なんて するでのしょうか?」
ノリアは呟いた。自身だって『食糧適性』がある。つるんとしたゼラチン質のしっぽをのれそれにしてくれるのならば、愛しい人に捌かれてしまったとて本望だ。
「……そんなの 口だけだと おもわれるなら、ブルーベルさんも わたしを 捌いて お食べになると いいですの」
ノリアをまじまじと見詰めたのは鶩を思わせる翼を有しているブルーベルであった。
目を伏せっていたブルーベルはとん、とんと地を蹴ってから「いーや」と首を振る。
「アンタはさ、決意できてるんだよ。そのゴリョウさん? 好きな人に喰われても良いって決意。
……あたしには出来ないよ。そういう愛も識らないし、そういう覚悟も出来ないし、アンタみたいに強くはなれない」
だからこそ、仲良くなんて鳴りたくなかったとブルーベルは悲痛な表情を見せた。
被食者の覚悟を有したノリアはきゅ、と唇を噛む。しっぽくらいくれてやったって安いもの、それでもブルーベルはその覚悟を受け入れた上で必要はないというのか。
「あたしは弱いからアンタたちとは争い合うだけの敵であれたら良かったってずっと思ってる」
ブルーベルの傍らにはリュシアンの姿が見えた。睨め付ける眸は、これからを見据えているかのようである。
肩を竦めてから正純は「リュシアン」とその名を呼んだ。
「……こんにちは」
「ふふ、こんにちは。ご挨拶をしていただけるだなんて、貴方は良い子ですね」
正純の金色の眸がきらりと輝いた。まだ、弓を番えることはない。ブルーベルと、リュシアン。二人の魔種を前にして正純は敢えて周囲の露払いに徹した。
目的はリュシアンとの対話だった。彼はブルーベルとジナイーダ、幼馴染みを大切にしている。だからこそ、こんな戦場にまでやってきたのだろう。
「リュシアン君……久しぶり。また、戦うことになっちゃったねぇ」
苦しげに呟いたシルキィの糸はまだ、だらりと垂れ下がっていた。戦うしかないという現状はシルキィにとっても苦しい物だ。
「お会いするのはファルべライズ以来でしょうか。あの時は共に戦いましたが、今はこうして向かい合っている」
正純は苦く笑みを食んだ。ブルーベルを庇うように立っているリュシアンはイレギュラーズの動きを確認しているのだろう。
戦闘が始まれば、彼は直ぐにでもその武器を閃かせることだろう。
「私には貴方が分からない。今まで見てきた中で、どれが本当の貴方なのでしょう。
皆が苦しみながら、ブルーベルさんと相対しています。クラリーチェさんであったものと相対しています。
魔種であるからと、即座に断じるのはいい加減難しいんです――だから聞かせてください。貴方のことを」
「リュシアン」
ブルーベルが呼んだ。戸惑う眸がノリアを見てから、正純を、そしてシルキィを眺め遣る。
リュシアンはブルーベルの『覚悟』を識っている。彼女にとって冠位怠惰は親であり、恩人だ。絶望の淵より救い出してくれた存在であった。
彼が坂を転げ落ち地獄へと叩き込まれるならブルーベルはその手を握りしめるであろう事をリュシアンは良く分かっていた。
――あたしは、主さまが好きだよ。
知ってる。知ってるから、此処に来た。
理性と恋とは、まるっきりそっぽを向き合ってる。
僕らが魔種であるように。君が人であるように。
理性と現実とは、まるっきりそっぽを向き合ってる。
僕らが侵略者であるように。君が救世主であるように。
だから、僕は――『俺』は。
「俺は『ジナイーダ』が好きだった。ブルーベルと、ジナイーダと当たり前のような、それこそ、お前達が過ごす何気ない日常を過ごしたかった。
今更だよ。俺もブルーベルも。沢山のことをしでかした。今更、救われたいなんて思ってない」
「……もしも、救いの手があっても?」
シルキィの震える声にブルーベルは微かに笑ってから頷いた。
「『修道女』……クラリーチェの事は災難だと思うよ。けど、あれだってあいつの選んだ道だって、皆、そう思うだろ。
主さまの力を渡せって。それを持ったままイレギュラーズに斃されて……主さまを弱体化させたいんだって。困ったもんだよね」
ブルーベルは肩を竦めてから、困ったように短剣を握りしめた。それは明確な主への裏切り。
それでも、ブルーベルは見て見ぬ振りをした。握るナイフには勿忘草の色をした美しい色彩の石が嵌められている。
「あたしも、リュシアンも、救われたいとは思ってない。
けど、救われる未来があったんならさ、『こうなる前に出会いたかったよ』」
正純が唇を噛んだ。二人とも『普通に愛される人に戻るには、沢山のことをしでかした。
「そう、だねえ。キミ達と同じように、わたし達にもやらなくちゃいけない事がある。だからわたしは……わたしに、出来る事をするねぇ」
「そうしなよ、シルキィ。
俺も、ブルーベルもそれに応える。でも、もしもさ――」
縛り占める蚕の魔導に僅かな罅が入った。リュシアンの短剣もブルーベルと同じ細工のものか。
正純はリュシアンお言葉に目を見開いてから「ああ」と呻いた。
――もしもさ、ブルーベルが死んだら丁重に弔ってやってほしい。
花一杯の棺に、人形を入れて。ジナイーダがひとりで寂しく死んだようなことがないように。
「ッ、……あちこちで、悲しい顔をしている人を見るの。
けれど、皆『叶えたい思い』を抱えてここにいるんだ。悲しくても、それを遂げるために」
やりたいことが無数にあった。彼が、彼女が、そう言うならば。ルアナだって信念のために戦わねばならない。
(私と年の変わらなさそうな女の子と男の子……別の出会い方、してみたかったな。なんてね)
そう、思わなかったことはない。屹度、手を取り合って砂漠を走り抜けることが出来たのだ。オアシスへ向けて、笑い合える。
そんな関係がもう『無理』だと分かりきっているならば、諦めるのではなく、彼女達の未来の為にルアナは刃を振り上げる。
勇者は、割り切らねばならなかった。向こうの戦場で『おじさま』が戦っている。
――威風堂々、此処で剣を振り下ろすために。
「あ、久しぶり! 本名は……ブルーギル? ブルーベリー? ブルーレットちゃんだっけ?
……とりあえずBちゃん! ここ会ったが1年半目? とりあえず酷い目に合わせてあげるわ!」
「そう、そうしてよ!」
イナリの木製のダガーが閃いた。稲荷神の構築した式(ソフトウェア)をダウンロードする。その肉体へと下ろした身体能力はイナリの身体を押し進めた。
彼女には死んで欲しく無い、と思う。
――しかし、私は『イレギュラーズ』の一人、正しい『イレギュラーズ』を演じる必要がある。
この世界を破滅に導く存在と、この世界を救う『可能性』を有した存在。
互いが敵同士なら。せめて、仮面を被って戦わねばならないのだ。泡沫に消えてゆく願いの残滓を、力に変えて。
「ジナイーダ、か」
エイヴァンの言葉に短剣を構えていたリュシアンとブルーベルがぴたりと止まった。
「その短剣、ジナイーダの『色』か? 勿忘草の髪飾りを確かにあのキマイラはしていたな」
エイヴァンとて『彼女だったもの』を斃した現場に立っていた。リュシアンの眸にじわりと苛立ちが滲んだ、ブルーベルは途惑いを浮かべただろうか。
「……イレギュラーズが『ジナイーダ』だったものを殺したんだ。
それは変わらない事実だ。そこに怒りや悲しみはあるか? その変わらない思いや記憶を捨て去るのは俺はもったいないと思うがな」
「ジナイーダの仇討ちだって大義名分で、ナイフを向けてもいいのかよ」
「良いだろうよ。そうやって俺達は戦ってきてるんだ」
盾を構えたエイヴァンは静かにそう言った。英霊の魂を、その生き様を顕現するかのように身へと落とす。
魔狼の如く吼え、凍て付かせる堅牢なる拳がブルーベルのナイフにぶつかった。
「ッ――『どんな事情』があったって、敵同士なんだから、戦わないと、」
言葉を紡ぎ掛けてから。
ブルーベルは目を見開く。エイヴァンの盾へとぶつかったリュシアンの刃も僅かに鈍った。
ルル家はブルーベルを抱き締めた。ブルーベルへの攻撃を――『魔種への攻撃』を庇うことになろうとも、構わなかった。
「私だって、Bちゃんを助けたかった!」
過去に触れた。
大きな間違いだったと叫びたい。彼女の過去を追体験して、その恐怖を、恐れを識った。
商家の娘、ジナイーダ。天真爛漫な彼女に嫉妬することもなく、その幸せを願った優しい空色の女の子。
「今は、だって、もう、私は何もしてあげられない!何も出来ない!」
「やめろって! やめろ、離せって!」
ルル家を引き剥がそうとブルーベルは腕に力を込めた。細くて、直ぐに折れてしまいそうな華奢な腕。
ルル家の引き攣った泣き声だけが響く。
「だからって……正しいからって、友達を傷つけられる訳ないじゃないですか!」
ブルーベルはルル家の腕を逃れようと身を捩った。
奇跡を乞おうとした彼女。その命。『ブルーベルとカロンの繋がり』を断ち、普通の少女として此処に居て欲しかった。
アレクシアがライアムにしたように。
「離せ! 莫迦! 莫迦、言っただろ、言っただろ!?
あたしの為に死んでくれるな、あたしの目の前で死ぬな!
お願い、お願いだから、やめて。やめて、やめて! お前が死ぬのなんて見たくない!」
あんな顔を見て『殺しましょう』と言えるだろうか。リュティスは唇を震わせる。魔種を殺せ、とその唇は音を宿せない。
優しい心を持った人が居ると気付いてしまった――この手で、殺す事が出来るのだろうか。
「Bちゃん様」
「あんたも、止めろよ! 止めろ、奇跡なんて乞わないで……こんなあたしの為に、命を削らないで」
リュシアンを一瞥してからリュティスは息を呑んだ。ブルーベルを傷付ける事が出来なくなったのは彼女の悲しげな顔を見たからだった。
一度の共闘だけ。たったそれだけだったのに――どうして、こんなにもやり辛さを感じるのか。
リュシアンが此の儘、剣を振り上げればルル家の命くらいは奪えるはずだ。だが、彼は動かない。
「リュシアン様……?」
「ふたりとも、もう、いいよ」
少年の若草色の眸は濡れていた。
「――此の儘、ベルを殺して」
どくり、とリュティスの心臓が跳ね上がった。今まで感じた事の無い胸の痛みが鼓動を早めてゆく。
「Bちゃん! もう一度会えて良かった!」
「Cちゃん、こいつ、ルル家を止めろ。リュティスも。……あたしを殺せって言えよぉ」
ぼろぼろと涙を流して身を捩るブルーベルを見詰めてからしにゃこはすう、と息を吸い込んだ。
「そうですね、はい、そうです。
ここで絵本の様な英雄なら奇跡を起こすなり命を投げ捨てても手を差し伸べたかもしれないですけど……。
生憎しにゃはただの美少女! 戦う以外思いつきませんでした!
だからせめて精一杯のしにゃの気持ち、受け取ってください! ありがとうBちゃん! 大好きです! だから……負けません!」
「……あたしも、好きだよ。Cちゃん」
ブルーベルは笑った。しにゃこは唇を噛みしめてから「どいてください!」とルル家に叫ぶ。
「Bちゃん!」
ルル家が叫ぶ。リュシアンが力尽くでその体を引き剥がした。リュティスを地に叩きつけ、獣の獰猛な双眸が睨め付ける。
「やれ!」
地を蹴ったのは朋子であった。肉薄する。『あちら』――クラリーチェを相手にする部隊との連携はとれている。
斃さねばならないというならば、此処でそうするのみだ。
リュシアンは深追いすることはない筈だ。ブルーベルが倒されるなら、逃げるはず。シルキィと正純がその『隙』を産み出し無駄な深追いをする必要もない。
「ブルーベル!」
天をも揺るがす大咆哮が響いた。名を呼んで、神器ネアンデルタールを振り下ろす。
赫々たる戦意を揺らがせて、決意と決心を胸に畏怖の存在たる己の身を前線へと飛び込ませる。
「ブルーベルさん……主に忠誠を尽くすその姿勢は、本当に素晴らしい。そんな貴女もまた、立派な騎士なのかもしれませんね」
「騎士? 入れ込みすぎた莫迦の間違いじゃない?」
唇を吊り上げたブルーベルの短剣が朋子の脇腹を切り裂いた。
ここから先は、互いに命の削り合い。リディアはいいえと首を振る。フランとの共鳴が、あちらを教えてくれる。
輝剣リーヴァテインの淡き光が災厄を払除けることを信じてるのだ。
ヴァイスはリディアとブルーベルの様子を眺めていた。トレーネは白く煌めき、薔薇の花と共に暴風を作り出す。
白薔薇が咲き誇るように揺らがせたドレス。皆が言葉を尽くした結果が此れだというならば、彼女と最後は戦い続けるだけ。
誰もが傷だらけであった。相手は魔種だ。油断をしては此方も削り取られる可能性がある。
ヴァイスは「戦いましょう」と声を掛けた。ルアナは小さく頷く。剣を、振り下ろさねば此処で『戦況』が瓦解する。
「あたしは莫迦だからさ、戦う道しか分からないんだ。
……友達も大事だけど、主さまも大事。主さまを殺すあんたらを、殺したくないけど、殺さないと」
ブルーベルは困ったように笑ってから、朋子へと肉薄した。振り下ろした短剣がネアンデルタールにぶつかる。
「……立派な騎士ですよ。騎士は誰かを護るための盾であり剱である。
出会い方が違えば、また違う話が出来たのかも知れません。ですが、運命(さだめ)は変えられない」
「そう。『敵』になったからには削り合うだけ! これが信念のぶつかり合いでしょ!?」
最初から全力だった。朋子とリディアを前にして短剣を握るブルーベルはちらりとリュシアンを見遣る。
「リュシアン」
ルル家の腕を掴み続けて居たリュシアンが息を呑む。離してと叫ぶルル家の腕を握る力が強まった。
「あたしさ、次に生まれ変わるなら――」
リュティスの目が見開かれ、しにゃこが「Bちゃん」と呼んだ。ルアナは、屹度、良いトモダチになれただろうと感じただろうか。
――友達を泣かさないように真っ当に生きたいんだ。
あたしが此処で死ねば、主さまを倒して、友達が笑ってる未来があるんだって。
だからさ、此処で死にたい。……先にジナイーダと待ってるから。あとから主さまも来てくれるんだろ?
なら、此処で死にたい。あたしは、主さまと一緒が良いから。
リュシアンの腕を振り払ったルル家がブルーベルを抱き締めた。
「莫迦だなあ」
リュティスのナイフが、ブルーベルの背へと突き立てられる。
ノリアはその様子を見ていた。その言葉が、愛と呼ぶのだと教えてやる時間さえない。
「莫迦だなあ」
ぽつりと言葉が毀れる。魔種なんて死ねと叫んでくれれば良かったのに。
「莫迦、だなあ」
――天秤は。
●Clarice
「堕ちた修道女……よもや、クラリーチェが魔種になるとはな」
人に害を与えるような欲求があるようには見えなかった。人畜無害、と称するには底の見えぬ娘ではあったとグレイシアは感じている。
袖振り合うもなんとやら。彼女との縁もある。魔種となった彼女が『そうされる』事を望むというならば、その決意を無駄には出来まい。
「……ああ、」
薄らと開かれたアメジストの眸は、揺らいでいる。幼少の頃に焦れた世界への『停滞』は、有り得ざる世界の有様だったのだろう。
「何故魔種になったか、吾輩にはわからぬが……願わくは、望んだ結末とならんことを」
クラリーチェは――そう名乗っていた修道女は最早何も答えることはなかった。
戦闘行動を取る気も、他者を害するつもりもないのだろう。道を切り拓くが為に叩き込まれていく鋼の驟雨を薄らと見遣るクラリーチェの眸は何処か夢見るようで。
「クラリーちゃん……」
焔は苦しげに呟いた。苦しいだろうよ、と焔の頭をぽん、と叩いてからルーキスは嘆息する。
「うーん、折角送り出したのに反転して帰ってくると来た!
よしお仕置きだ、お仕置きしようそうしよう。なんなら全力で叩くけど。其処は気合で耐えてもらいましょうか修道女様?」
ルナールは妻の怒りを感じ取っていた。彼女は、憤っている。大切な『クラリーチェ』を『クラリーチェ』が蔑ろにしたと感じたか、それとも――
それが最後の手向けだとでもいうように。皆の気持ちを届ける為にやってきた。
「よーし歯ぁ食いしばれ、一発ぐらい殴られなさい!! こうでもしないと腹の虫が治まらないでしょうとも!」
「ああ。ルーキス……道を切り拓こう」
彼女が用意してきた灼熱の瞳。その気配は魔種の反撃機能を封ずる為に持ってきた。
全ては蜻蛉の為。優しすぎる友人の思いを届ける為なのだから。
ルナールは「いけるか」とネーヴェへと問い掛けた。小さく頷いた白いうさぎはきゅ、と唇を噛みしめる。
(……反転を選んだ貴女が、正直羨ましくて、仕方がない。
けれど……誰かを悲しませてまで、反転しないと、いけなかったのでしょうか。貴女は、貴女が思う以上に、きっと。大切に思われているのに)
――それでも、選び取る道があったのならば。
ルナールとネーヴェの視線の先でクラリーチェは何も云わない、言おうとはしない。
その心境たるや、悟られぬように彼女は徹底して茨に包まれているのだ。
――Bちゃん。私は。
――分かってるよ、莫迦な修道女。『あんたは主さまを弱体化させるため』にその道を選んだんだろ。
命を賭してでも。万人の命や、無数の可能性(パンドラ)を束ねずとも冠位を打ち破るために。
たった一人でその犠牲となろうとした。そんな、献身とも言える穏やかな自殺は誰も知らなくても良いのだ。
「何を思って、……いらっしゃるのですか。カヴァッツァ様」
ネーヴェの言葉には応えることはない。蜻蛉の言葉を伝えてやりたいというのが、彼女達の願いであったから。
「姉上」
姉と慕う蜻蛉の気持ちを考えればこそ、レイチェルは何も云う事は出来なかった。唇を噛みしめて、小さな願いを胸に秘める。
レイチェルが願うのは蜻蛉の思いをクラリーチェへと届ける事だった。そして、それ以上に『クラリーチェ』が大切な友人を、仲間を、その棘で傷付けない事だ。
彼女を包んだ棘と茨は彼女の心を表しているようにも感じられた。二人の心がこれ以上傷つかないことをレイチェルは望んだのだ。
(……最期まで見届けるのが俺達の在り方だよな)
運命を捻じ曲げること何て、出来ない事を知っていた。それでも、歪め、捻じ曲げる為の力をジョアンナが教えてくれたのだから。
燃え尽き灰となるまで。止まることのないレイチェルは赤を侵食する祝福の蒼き色彩を感じ取りながら、祈る。
「姉上、大丈夫か」
「……大丈夫よ」
そんな切なそうな貌で、笑わないで欲しい。
レイチェルは蜻蛉にそう云う事は出来なかった。医者として、クラリーチェの最期に立ち会う。そうして、看取りを『姉』に捧げるのだ。
マルクはブルーベル側の撃破を合わせ、彼女らが得ている『カロン・アンテノーラ』の権能の消失を狙っていた。
(カロン・アンテノーラ――『裏切り』の名か。
怠惰であったからこそ、人を裏切り裏切られる変化を厭うていたのに皮肉な名前だな。クラリーチェは少なくとも……)
彼を裏切っている。そうとしか思えぬ行動を取っていた。
天秤、なんとも皮肉な能力ではないか。
マルクの唇が緩く吊り上がった。ブルーベルの忠義に、クラリーチェの裏切り。それ故に天秤は均衡を保っているとでも言うのか。
「……レイチェルさん、クラリーチェの事は『見ていてください』」
「ああ。任せろ」
修道女の最期のために。蜻蛉の言葉を届ける為に、出来うる限りの支援は怠らない。
唇を噛みしめてキルシェはブレスレットに魔術を込めた。家族が無事に帰ってきて欲しいと願ってくれたそれ。
同じように、一針ずつ『家族』が無事を願ってくれたローブを身に着けているフランが其処には立っている。
クラリーチェが得られなかった家族の絆を纏った二人。
「お姉さん」
「……ううん、迷って、なんて。迷って何てないよ」
共に回復を担う立場であるキルシェはフランの迷いと途惑いに気付いて居た。
(……魔種は、悪い人で、殺さなきゃいけなくて。そんなの、魔種の両親を、リオーネくんを殺した時に解っていた。
クラリーチェ先輩はあたしみたいにわんわん泣かずに、いつも穏やかな表情をしてた。死は、万人に与えられるから……)
何時だって、安寧は横たわっていた。
「あたしはやっぱり解らないし、呑み込めないし、今だって倒したくない。でも、倒さなきゃいけないなら――」
唇を噛みしめて、共鳴するリディアの響きを聞き続けた。
「リシェは、支えるの」
キルシェは震える声音で、前を向いた。クラリーチェを『倒す』らしい。その決意をしなくてはならないらしい。
其れが自分に出来ているのかは分からない。それでも『ママ』はその決意をしてきたのだ。
「クラリーチェお姉さん。ここにいる人達はみんなクラリーチェお姉さんに会いたくて集まったの。
蜻蛉ママの、クラリーチェお姉さんに貰った簪使った姿も見て欲しいの」
美しい簪が、きらりと輝いている。彼女だけじゃなく、皆がクラリーチェの『反撃』で倒れぬようにと支える事が使命であるから。
「ねえ、ねえ、クラリーちゃん。今まで色んなことしたよね。
……楽しい事も、辛いことも、変な夜妖退治にもいっぱい巻き込んじゃったっけ」
ボクのせいじゃないよと叫んだ焔にクラリーチェが疑いの眼差しを向けてから、ふっと微笑むその顔が好きだった。
困ったような、それでいて、叱るような優しい瞳。困惑に混じった穏やかなさが心地よかったのだ。
涙がつい、と頬をなぞった。
「あっ、教会の猫さん達のお世話はしておくから! ボクも猫さんは好きだし、ちゃんと可愛がるから。だから、安心して……安心、して……」
声が震える。魔種の肉体は、反射的反撃しか取らないせいか、最早傷だらけだった。
死という概念は焔にとっては難しい。神にとっての死とは、遠離る眠りでしかないからだ。だが、この世界ではどうか。
死は永劫を意味している。覆らぬ世界の在り方をまざまざと幼い『神様未満』へと知らしめるのだ。
人が人たり得るならば。クラリーチェが『そうしてきた』ように過ぎ去る命を眺めるだけだ。
「やっぱり」
震える焔の声に「そうだな」とコルネリアは頷いた。ぐしゃりと髪を撫でて「アタシも巻込まれた側だけど」と揶揄うように笑う。
「やっぱり、イヤだよ。……これからもいっぱい、一緒に色んな事、したかったよ」
これからいろんな事をしたかった。呆れるように笑う彼女と沢山の時間を過ごしたかった。
「……クラリーチェ、大した覚悟と決意だ。誰かの為に絶望までも呑み込む姿。恐れ入った」
コルネリアは敢えて敬意を示すように『福音砲機』の照準を合わせた。命を吸い込み歌うCall:N/Aria。
光と栄光を求めた技法。己を犠牲にしてでも力ずくで叩き込まれる血濡れの光。
歩んだ道は別だった。修道服に身を包めども、弾丸を放ち続け、死を運ぶコルネリアは神様に安寧を祈るだけ。
「だが、それでもアタシは、優しい修道女であったアンタには生きていて欲しかったよ」
――天に召しますわれらの父よ。アタシは今もここにいる。
――われらの罪をもゆるしたまえ。アンタに願うのはたったそれだけ。
友を殺す事は、罪と呼べるのだろうか。
願望器(ははおや)に頼らずとも願いの先を切り拓きたかった。
皮肉なことに『祈り』を捧げることで『イノリ』の先を求めてきたのだ。リアは『ベアトリクス』に可能性を示したかった。
「リア」
呼ぶ母の声にリアは「何よ」とつんとした態度を示す。
「あんたなんて居なくったって、上手くやれるわ。だって、サンディもいるのよ」
肘で突かれたサンディは「責任重大だよな」とぼやいた。
蒼穹のような眸を持った三人。本来は交わらぬ運命の上に立っていた『シスター』と『路地裏の孤児』、そして『処刑人の旅人』
その三人が手を繋いでいればどんな奇跡だって起こせるとサンディは感じていた。
「ま、シキは今、留守にしてる。リアが命懸けで奇跡を願うってんなら、止めるわけにはいかねーさ。シキとも約束だ。見過ごす訳にもいかねー。
……そこでさ。必要な代償が命ひとつってんなら、3人で払えばお釣りはくるはずだよな!」
ゴミ山の英雄の言葉にリアは「莫迦ね、あたしひとりで事足りるでしょ」と揶揄うように笑う。
美辞麗句を並べ立てることなんて、彼女には必要ない。サンディはアドラステイアの聖銃士が使用するショットガンを手にして笑った。
「――死ぬなよ」
勇気であって、正義であって、死に急ぎ。知っているからこそ、サンディは端的に告げる。
「誰に言ってんのよ」
リアは母に「下がっていて」と言った。手出しはするな、と。
残された時間も幾許かしかない母が戦場に飛び出してきた事を『似たもの親子』だと笑う仲間達。
似ているからこそ分かるのだ。母は、此処で死ぬ気だ。それも、自分を庇って。
「巫山戯た事しないでよね。あたしは、あたしの魂を奇跡の一滴に変えて、フロースへ注ぐのよ。
まだ残滓としてでも残っているのなら、彼女の旋律が聴こえるなら、この奇跡で彼女を掬い取る」
リアがぎ、と睨め付ける。手繰り寄せたい。その僅かな命でも。欠片でも、彼女の傍に居るならば。
眼前の修道女は、ゆっくりと睫を震わせた。
「精霊さま――……?」
『彼女』は感情増幅の力を持っている。だからこそ、蜻蛉の旋律(かんじょう)をクラリーチェに届けたかった。
それは救済ではない。気持ちを伝えたとて、彼女に待ち受けている未来は――
「クラリー……あたしはいつか母さんの後を継ぎ、貴女の愛したものを守るわ……ごめんなさい」
リアは唇を噛んでから、呻いた。淡く、空を融かしたような指先がクラリーチェの掌を包み込む。
――りーちぇ。りーちぇ。
クラリーチェであったものの眸が、見開かれた。揺らぐ、その気配が『クラリーチェ・カヴァッツァ』を感じさせる。
「辛くても友の為にやるんだろ? ……なら、行け!!」
レイチェルが蜻蛉を送り出した。縺れる足になんとか力を込める。
「……貴女の生き方と選択に、敬意を。忘れない事しかできないけれど……それだけは、約束します」
マルクはクラリーチェを真っ直ぐに見ていた。蜻蛉が転ばぬように支えてからその身体を送り出す。
「寂しかったんよね」
蜻蛉は走った。花弁が、その指先から毀れ落ちていく。致死量の毒として。
「……貴女のほんまの寂しさに気づいてあげらんかった、ごめんね」
猫の事は、ご心配なくと凜と背筋を伸ばして雪之丞は寂しげに笑っていた。
いつまでも、大切な友達よと悲しげに涙を堪えてエンヴィはそう囁いた。
二人の気持ちは、持ってきた。
「……これで、終わり」
紡いだ蜻蛉の唇が揺らぐ。
「――――、」
クラリーチェの声音が、漏れた。淡い空を融かした精霊の腕に懐かれていた魔種の指先が伸ばされる。
「クラリー」
蜻蛉の指先が震えた。
ねえ、これだけ持って行って。ひとりにはしないから。
高く結った髪を蜻蛉の三日月の小太刀が切り裂いた。その刃は、光を帯びてクラリーチェの眸の色のように輝いている。
クラリーチェがくれた最後の贈り物を握りしめて、蜻蛉は唇を震わせる。
結わえた髪だけでも、せめて側に行かせて頂戴。
月のように微笑んでいた貴女。お天道様の下は二人とも、少し似合わなかったかもしれないけれど。
それでも、貴女が呟いたその言葉が。
――あいしてました、たいせつな、
フロースの腕に懐かれて、微笑みながら瞼を伏せたクラリーチェの頬を撫でる。
その身を包んでいた茨は枯れ堕ちたように一人の娘の身体だけが其処にはあった。
もう生命活動を是とせぬ幻想種の肉体は静かに朽ちる道を辿る。
蜻蛉は駆け寄った。その背中をキルシュが、フランが追掛ける。
指先の一つ、脈動を止めた心臓が血液を押し流すことは最早ない。撫でた頬は擦り傷だらけだった。
ふふ――こんな日も、本当にいいものですね……――
膝に猫を乗せて穏やかに微笑んでいた彼女の声が遠ざかる。
精霊達が齎した月明かりの下で、『四人』で躍ったその時を思い出す。
「……今日はええ夢が見られそうよ、おおきに」
蜻蛉は、あの日のように呟いた。
瞼を閉じれば、眠っているようで。
胸は上下しない、呼吸の音は聞こえない。貴女の「おやすみなさい」も聞こえやしない。
就寝のお祈りは、代りにしておくから。どうか、優しい夢を見て。
大好きよ。
おやすみ、クラリー。
――天秤は、静かにその気配を消した。
上手くいったのだと、顔を上げた焔は、それでも尚、悔しげに涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭うことはなく。
フランは天を眺めた。
ファルカウを燃やした火が陰る。どうか、どうか雨が沢山降りますように。
――あたしも、皆も。流した涙なんて隠れちゃうくらい、大粒の雨が降りますように。
●La Belle au bois dormant II
「……あのすごく怖い竜の次は全力の冠位だなんて震えてくるね。
でも、イレギュラーズはこんなの相手に二回乗り越えてるんだよね。だったら今回も乗り越えられるように支えるまでだ!」
帳は呟いた。イレギュラーズ達が乗り越えてきた危機は幾重にも存在して居た。
「死なせないし、絶対に力尽きさせなんてしないんだ! 最後まで全力で行こう!」
助けを求める誰かの元へ一秒でも早く駆け抜ける為に。工夫こそが必要不可欠。帳の身を包み込んだ風の加護。
深き森の気配を膚に直に感じ取る。戦いを最適化する特殊支援――そして、滄溟は幽玄なる輝きを持って仲間達を持つ積み込んだ。
大いなる海原の力をその身に宿す帳の囁く声音を聞きながら、どろりと伸びたのは魔物の腕。
「冠位暴食。会ってみたかったな。喰ってみたかったな。
結局の所『好きなモノは最後に喰うタイプ』ってだけなんだろうが。……それに比べて怠惰達のお優しい事だ」
愛無の唇がつい、と吊り上がった。怠惰は即ち停滞。飢えをも知らぬ眠りの淵。
それは奪い取ることを為ず、我を通すことをせず、静かに朽ちて行くだけの優しさだ。
「冠位の優しさが部下にも伝播してるのか。誰も傷つけず。何も奪わず。優しい生き方だが。世界というモノは酷く即物的だ。
――さぁ、喰い散らかすとしよう。『ヒーロー』にも露払いは必要だ」
咆哮が響いた。暴食のように後に全てを食い散らかす相手であれば危険度は増して行く。
だが、どうか。
少なくとも怠惰は――変化を望みやしない。
望まないからこそ、酷く苛立った。
「静かに眠る。成程それは私も好ましい事だと思います。
ただですね、テメェの面見ていると腐れ上層部のドグサレ共思い出してな、気に入らねぇんだよ!」
バルガルは叫んだ。血管が浮き出た額に見開いた瞳が苛立ちを讃えている。
呪詛の鎖は、死滅の槍は。狂乱と撃運を授けるように男の怨恨を力へと帰る。
冠位魔種の放った無数の符術。それらを押し退けるようにして、自身の死をも厭わぬ覚悟でバルガルは飛び込んで行く。
「よお、冠位魔種!」
「くあ……ブルーベルと修道女はどうかしたのかにゃあ。まあ、いいけどにゃあ」
『追求』する事も諦めているか。それとも、裏切りを感じ取って興味を失ったのかは定かではない。
優しすぎた二人の魔種を好きにさせていたのはカロン・アンテノーラその人だ。愛無に言わせれば優しすぎる在り方だが、バルガルに言わせれば他人任せの責任逃れだ。
後先なんぞ考えるな! 今目の前の敵だけを仕留める事だけを考えろ!
血塗れとなり、吼えるように男は叫んだ。奇跡が此処に現れなくとも、カロンの頬に付けた傷口が――
「だからこそ、とっと其処を退きやがれや!」
――大樹ファルカウのリソースを奪うようにして塞がった事をまざまざと魅せ付けられる。
「ッ――!」
ファルカウのリソース。即ち其れは、森のいのちそのものだ。
奪われる様子を眺めればリースリットは何と惨いと呟くだけだ。符を払除け、攻められる好機まで余力を残すことが黒狼隊と『希望を求めた』幻想種達の在り方だ。
「アルティオ・エルムが閉ざされてから、ようやくここまで来れました。
『冠位怠惰』カロン……眠りの内、安寧なる泥の内に滅びを迎える等と――誰もが、とは申しません。
絶望を抱える者、世界の終焉を望む者。憎しみ故、或いは欲望の為に害を望む者も居るでしょう」
「『そうある事を宿命づけられた』、にゃーんて。生まれを見せ付ければ同情してくれたかにゃあ?」
カロンはこてりと首を傾いだ。それが『優しすぎる』イレギュラーズの心を揺さぶる一声である事には違いない。
だが、それ以上に護らねばならない物が多く存在した。ファルカウに、家族に、それから。
「けれど、それでも多くは望んで等いないのです、そのような事は。……滅ぼさせはしない。絶対にです」
世界を背負うなんて、リースリットには重すぎたのかも知れない。だが、幾人もが分け合えばそれは立派な力となる。
朱華の目的はベルゼーだった。それも、悲痛な表情をした琉珂を思えばこそだ。
琉珂がベルゼーに入れ込んでいる理由は良く分かった。彼は『端か見れば優しい男』だ。父性さえ感じさせる。
「まあ、だからこそ――なんでしょうけど。ベルゼーが『退いてくれた』んだもの。朱華の目的は一先ず先延ばしになったわ。
ならやる事って単純じゃない? 此処から先は覚悟を魅せたアレクシアとその仲間達が決着をつけるべきでしょ!」
灼炎の剱は朱華を象徴する。己が身の内に沸き立った竜覇がその剱を包み込む。
まだ無銘であろうとも『煉』を捨てた娘はただの朱華として戦場を駆ける。
「――守られてあげるんだから、頼んだわよ?」
漂う精霊へ、炎の剣戟は周囲を覆う様に広がった。揺らぐ紅の髪先にまでその炎はちらつき燃え滾る。
大地を踏み締める。大樹ファルカウの禁足の地、焦れた草木の匂いが鼻先を包もうとも手段など選んではいられまい。
「女性を護るのは俺の役目って言うか? いやぁ~久々冠位戦独特なこの緊張感、世界の伊達千尋が粉々にした奴よか強い?」
揶揄うように笑った夏子に千尋は「『世界』の俺からするとな~」とけらけらと笑い続ける。
「まぁ今回も世界の伊達千尋チョップで一撃八つ裂き大解決っしょ え? 違うん?」
「冠位魔種ってアレだろ? 海洋で俺が倒したアルバニアと同格の奴だろ?
相手にとって不足はねえ。それに、べーやんのツレが世話んなったみてえじゃねえか。ま、今回の主役は俺じゃねえ」
くいくいと指先で示された先にはアレクシアの姿が見えた。「ははあーん」と夏子の唇が吊り上がる。
「ま、アレクシアちゃんには思い切りやって欲しいしね」
任せといてよと夏子は「よしゃっ一丁深緑救っちゃいましょっ」とぱちんと手を叩いて見せた。
「冠位との戦いか。以前の戦いは海洋での物だったが──相手が相手だ、ただの決戦とは違う。
為すべき事(オーダー)に変化はない。冠位魔種を討ち果たし、この決戦を勝ち抜いて深緑を守り切る――黒狼が牙、存分に浴びせてやるとしよう」
ベネディクトの号令に沸き立ったのは黒き狼の闘志。
黒狼の外套を揺らがせ、セレネヴァーユの騎士が有することを赦された剣が銀に一閃。男の傍を駆け抜けて行くのは騎士盾を手にした誠吾。
「はー……ついに『冠位』なんて相手とぶつかることになるのか。猫にしか見えないんだが。
いや、外見に惑わされてる場合じゃないな。牙としてやれるだけのことはやりますかね」
己が牙である。誠吾は誠吾なりの矜持を胸に。燻って、恐れてばかりの『俺』なんて、この場所には必要ない。
魔種に身を落とした奴が居る。選択が心からのものならば、全うできたとその生に祝福を与えてやるために、此処で折れてはならないのだ。
誠吾と共に前線へとベネディクトが駆けて行く。祈るように指先を組み合わせ、タイムの周囲に鮮やかな光が踊った。
(……諦めるってどんな気持ちかしら。それが海の底で静かに安寧に身を任せるようなものなら良い。でも、ううん、たぶん違うわね。
諦念の中に微かな希望を残して彼女は選んだ。なら、それを未来に紡ぐのがわたし達に出来る事!)
時をも忘れるような、輝いたイヤリング。月の光は美しい、焦れるような夜は愛おしい。
――けれど。
(諦めない、絶対に)
諦める事とめげる事。立ち上がらずに俯く事。タイムはそれが嫌いだった。
癒やしの力は誰かを守るためのもの。誰かを守り抜く為に『自分を癒やして立ち続ける』事が出来る力。
「世界の危機に仲間を助けろとあっちゃ行くしかあるまい
冠位? 大魔種? 大いに結構。なんとも分かりやすい状況じゃねぇか。なぁ? ベネディクトよ!」
からからと笑った天川は『陽光』に『月影』を忍ばせた。
天川が走り出す。ベネディクトが切り拓くと宣言した道へと叩きつけられた人外の剣。覇は疾く、地をも削り続ける。
大地を蹴った天川がぐりんと身を捻った。無数に踊った弾幕の符は自律し、獣の如く飛び込んでくる。
冠位魔種の使役術。その衰え知らずのリソースが大樹ファルカウを震わせる。
(――長期戦ならば、此方の分が悪いか。だが、『隙』さえ有れば、畳み込める。
外にリソースを求めるという事は、本体(うつわ)はそれ程協力ではないという事だ)
ベネディクトは天川と入れ替わるように槍を突き出した。
ぞくりと誠吾の背筋に入ったのは強敵との戦いへの不安。
「……怖いよね」
花丸は何時だって『一番に可愛い服』を着て戦場へとやってきた。お洒落で、丈夫でテンションが上がるような可愛い服だ。
「……私も怖い。けど、皆と一緒だもん。だから、大丈夫。戦えるっ!」
夢に何て囚われていられない。明日が欲しい。明日を目指したい。明日、起きたら何て言おう?
――おはよう、元気。今日は何しようか。
私はね、元気だよ。さあ、一緒に出掛けよう!
そんな楽しいことばかりを言葉に描いて。傷付け壊すことしか出来なかったその拳が刹那の煌めきを懐き路を開いた。
符であるからこそ、産み出すには時間が掛かる。僅かな隙へ寛治の狙撃が叩き込まれた。
時に性格であるからこそ、ビジネスパーソンは『与えられた仕事』にも性格だ。
「あ、いつもどおり報酬はリースリットさんでお願いします」
「……え?」
ぱちりと瞬いたリースリットの傍で寛治は眼鏡の位置をくい、と正した。無数の弾幕の如く、符の獣が襲い来る。
乱れた前髪さえも気には止めずカロンの意識を散らすことを目的とする。
相手が1ならば此方は数をも数える余裕もないほどの多勢。勇者が希望を紡ぐならば、寛治は牙を突き立てるサポートをするだけ。
サポート。分かり易い程に『理に適った仕事』だと男は笑う。
――怠惰の罪は、私にもいつだって纏わりついていて、全てを投げ出して、もう嫌よって子供のように泣いて眠ってしまいたい時がある。
アーリアは、囁いた。もう、答えは聞けやしない。自己満足になるかも知れない呟きは静かに『夢』へと融けて行く。
「……ねぇ、くらりーちゃん。貴女も、そうだったのかしら」
夢見るように昏く、夜のように優しい安寧の揺り籠。永遠を求める大樹ファルカウの中でアーリアは欲張ったおまじないを沢山に詰め込んだ。
少しだけ欠けた、愛しい気配。足りないから求め合って、人は生きていく。
私と『あなた』がそうであるように。屹度、そうすることが出来たなら――
贋作でも紛い物でも構わない。魔女の色香が執拗に符を追い立てて甘い菫の囁きへと変化した。
「大勢揃って面倒だにゃあ」
「面倒? 大いに結構じゃない」
アーリアの赤いルージュの唇は、笑った。
「怠惰な貴方なら、私の攻撃を避けることなんてできないでしょ? ほら、そうしたら――黒狼が喉笛を食い千切るわ!」
符の合間を縫うように、至近へと飛び込んだのはルカの刃。
「カロン、お前は案外優しいやつだ。傷付いたり挫折したやつに取っちゃあ、救いの主みたいなものかも知れねえ」
「冠位魔種(いきてるだけでもじゃま)なのにかにゃあ?」
「魔種だが――お前の望んだ『停滞(はんてん)』は傷つき苦しい奴にとっての安寧だ。
だが、アレクシアの起こした奇跡を見ただろ。そんな心配なんざいらねえ。俺らは大丈夫だ。
傷付いたって苦しくったって前に進める。倒れたやつがいりゃあ手を差し伸べられる。だから面倒な事なんざやめてゆっくり寝てな」
カロンの口許に笑みが浮かんだ。小さな牙が覗いて、カロンは「にゃあ」と鳴く。
「宿命ってのは面倒だにゃあ」
此処まで来て、穏やかな、緩やかな自殺のように。只、呼吸さえも面倒だと『止めてしまえたら』何れだけ楽であったか。
結局は冠位魔種(イノリのこども)として生を受けたからには、身体は自分を生かそうとする。
怠惰であるからこそ、死ぬ事さえも『面倒くさい』というのに――!
ルカの身体を弾いたのはカロンがたしりと叩いた符から産み出された靱やかな猫であった。
ぶつかり合った黒犬が僅かに軋み、欠けを作る。
はらりと袖が割れた。ファルカウのざわめき、カロンの傷を修復する『速度』。
流石はアルティオ=エルムの象徴か。その力は冠位魔種を自動的に修復し、傷をじわじわと癒やし続ける。
「優しくも、苦しい原罪の呼び声か……クラリーチェさん……魔種が、同族を生み出すその在り方。
感染するかのように伝播していくもの。受ける側に、応じるだけの要素がある……まるで心の在り方を問われているかのよう」
冬佳はまじまじとカロンを見遣った。産まれたときから怠惰出ある事を宿命付けられた。
宿命であるからこそ『付け入る隙が最も存在した』相手。
「そう考えれば、魔種……冠位魔種ですらその実、ただの歯車に過ぎないと言う事。
今更ながらに、改めて感じますね。これが世界の滅びを天秤にかけた試練であるのなら、それを成さしめるものは悪趣味も良い所です」
強敵ではありながら戦うというリソースさえも面倒がる怠惰の在り方。
伝播する眠りが意識を眩ませる。花丸が「起きて!」と叫ぶ声が、響いた。
カロン・アンテノーラは『直接攻撃』もさることながら、その魂を捕らえて永劫の眠りへと誘うのだ。
(ああ、そうする事が貴方にとっての最適解とは何とも悲しいものですね――)
冬佳は戦線を維持すべく癒やしを送る。血濡れになろうとも剣を振るうこと『だけ』を識っている天川が切れた口端の血を適当に拭う。
「クラリーチェ。短い付き合いだ。あいつのことはまだ何も知らない。
それでも同じ隊で戦った仲間だ。だからよ……借りは返させてもらうぜ。カロン!」
名前を呼んだ天川に、タイムは唇を噛みしめた。
そうだ、もっと識っていく時間が合った筈だった。穏やかな修道女がヴェールの下に隠した本音さえ、識らなかった。
「――これ以上誰かを失いたくないの!!」
今更恨みも、怒りも言葉に出せやしない。何て紡げば良いのかなんて分からない。
……誰か、感情に名前を付けて。
●La Belle au bois dormant III
(……反転、本当にそれしか無かったのか。俺と彼女に面識があった訳じゃねぇ、偉そうなことは言えねぇが……
生命への希望を断ってまで眠りにつくことを選んだってのかよ…。
わからねぇ、わからねぇが、俺は、俺のやれることを――救える生命は全て救う、それが俺だ……!)
唇を噛みしめた聖霊はクラリーチェが『望んだ未来』を受け入れることが難しかった。それは死を選ぶのと同義だ。
緩やかなる自殺。そう称したって構わない。だが、そうしでても尚も、望んだ未来があったというならば。
己は医神の寵愛を得た存在として、誰かを支える他にない。アメシストの煌めきを蛇が食んだ。
「……誰一人死なせてたまるかよ。生きたいと願うだけでいい、俺がぜってぇに治してやっから諦めんな!」
彼女が『求めた未来』が『自身以外の犠牲を払除ける』事であったならば。聖霊はそれに答えるのみだった。
怠惰を越えて無気力とさえ言えるカロンの在り方は、文字通り『其処に居るだけで災厄になる』存在だった。
風花の目はぎらりと光を帯びた。望むは冠位魔種、只一人だ。
「生きるのも面倒、死ぬのも面倒、では矛盾してますね」
「そうかもにゃあ」
思考することさえ面倒だとでも云う様にカロンはくああと欠伸を噛み殺した。風花が指先を宙に翳せば魔弓礼装は『狂咲』(ゆみ)の形を作り出す。
ならばこそ、花影(や)は狂い咲く花の下に密やかに差し入れるだけだ。
「全知全能の存在は究極の怠け方をする、あらゆる努力が必要ないから……とすればあなたはそれに近いのかもしれません。
自分の在り方を受け入れ、諦めたそれですよ、貴方の在り方は」
「永遠って識っているかにゃ。兄弟に一人、永劫に変わりなき自分に絶望して酷く『嫉妬』をした奴がいたにゃあ。
あれだけの嫉妬を身に宿せるのも、憤怒に身を委ねる奴も、凄い事にゃ。カロン・アンテノーラは『そんなことできにゃい』」
風花は身構える。可愛らしい猫のように伸びをして、カロンの手がぱしりと札を叩いた。
浮かび上がったのは無数の鴉。それらは宙を踊り、次第に分散して弾幕を思わせるように変貌して行く。
(流石に冠位魔種――『生きるのに疲れ』ながらも、『死ねやしない』からこそ、簡便にでも抗うのでしょうね)
全身の力を活かし、その魔力は鏃へと乗せられた。貫く一矢が盾のように分散した鴉たちをも蹴散らしてゆく。
「これだけの部隊が集まると壮観ね……なんて言ってる場合じゃないわよね。助けられる人は皆助けてしまいたい所よね?」
妖精の木馬は人間用に作られたが随分とじゃじゃ馬だ。だが、ルチアは鏡禍と協力して出来る限り負傷者や幻想種達を救う事を念頭に置いた。
「さて、主役は他に任せて、私は少しでも助けられる命を拾い上げようか」
馬車を使用して出来る限りの人員を後方へ。メカ子ロリババアを連れたゼフィラは無数の符の弾幕や夢魔達の嵐の中でも、出来る限りの命を救いたいと願った。
白い花の装飾を施した機械式義手は簡易盾として符の獣を受け止める。痛みが、身体を軋ませた。
その痛みを打ち払うようにルチアが一瞥する。頷いたのは鏡禍。遊撃部隊が救った命を後方に運ぶ為にその視界は広く保たれる。
「護ることが僕のできることです。ルチアさんも含めて」
自身等は回復部隊だ。森の木々を抜け、広く走り抜けるために、この場所にやってきた。馬車に乗せた人命は『本来は害されることのなかった命』である。
鏡禍の手にした鏡面は暗い湖の底の如く。それでも尚も、鏡面が割れるまでは倒れてなる物かと決死の意志でここまでやってきた。
冒涜されざる命に。無数の幸いあれと願うが如く。馬車の荷台がぐらりと揺らいだ。
その気配を感じ取りながらするりと傍らを過ぎ去って行くのはエマそのひとである。
「冠位魔種でごぜーますか。相も変わらず冠位との決戦は人外魔境でありんすなあ。
くっふふ、怠惰の魔のが無害なお猫様なら人気のひとつも出たでありんしょうが……はてさて、かのお猫様の真意は如何に?」
可愛いだけならば何れだけ愛を囁き合えただろうか。そんな言葉を紡ぐエマへと「許容できる物ではないでしょう」と静かに囁いたのはすずな。
「冠位魔種、七罪。強欲、嫉妬に続く3人目。漸く対峙まで漕ぎ着けましたね……!
司るは怠惰、停滞、諦観。……どれも、私には容認出来ないもの」
絶対に折れぬ、屈さぬ意志。怠惰に沈むことなど赦されまい。姉で死にも、先に身を挺した彼にだって顔見せできないではないか。
負傷者を運ぶ仲間達を全て護って進むからこそ力とは真価を発揮する。
「私は――今に満足して止まりたくない。
前を往くあの人に。高みに居る彼の人に。少しでも、追いつきたい。
その為に足掻き、前に進む! ――怠惰に、夢に囚われている暇はないんですよ!」
「立派だにゃあ。でも、『相容れない』事は許せないかにゃ?」
「ええ、許せません。貴女を許してしまえば『弱い自分』を認めることとなる」
すずなは地を蹴った。無数の符がエマを襲い、その身を支えるのは虚と稔。二人で一つの天使の姿。
「何処ぞで会った生意気な小娘。そして、あの猫が主様とやらか。
不変と停滞、そんなものは糞食らえだ。前にも言ってやっただろう? イレギュラーズが居る限り、お前達の望みは決して叶わない」
そうだ。言ってやれとすずなの唇は吊り上がった。不変と停滞。そんな澱に溺れていることを嫌がった『嫉妬』が兄弟に居ながら、それでも尚も宿命付けられた停滞に浸り続ける。
稔は万年筆で癒やしを描く。悔恨や苛立ちがじわじわとインクのように広がろうとも、此処で支えぬ己に後悔したくはない。
支えを受けて、前へと飛び込むすずなへと手を伸ばす無数の幻想種。
彼女達を外へ、外へと運ぶ役割を担った零時は仲間との協力を惜しまない。精霊も、幻想種も、皆、生きている。
自由を奪われている方が幸せだというならば笑ってやろうとニコラスは睨め付ける。
零時の治癒の賦活術が青年の身体を前へと押し遣った。
「夢の牢獄でのお前の言葉。その答えを叩きつけるためにここに来た。
なあ、カロンよ。博徒って奴らはどんな奴だと思う?
それはな、戦って結果を変える奴らのことだ。
勝って届く道がある。負けてこそ見える道がある。賭して未来を変える者こそ博徒。己の未来を追い求め掴み取る。その意志こそが俺たちの強み」
ニコラスの握る漆黒の大剣が紅色の光を宿した。
唇を吊り上げる。夢など、遠く怠惰の声なんて聞こえやしない。それが『あの牢獄を歩んで来た』己だからこそ出来た決意だ。
ライアムはニコラスを見遣ってほっと胸を撫で下ろす。彼が手にした夢の残滓はライアムが開いた『門』の向こうで得られたものだった。
「――だから俺は『怠惰』なんざ認めねぇ! それは俺の生き方とは! 望む在り方とは正反対のものだから!」
全ては博打だ。
ライアム・レッドモンドに対する奇跡だって。アレクシアが望んだ其れが叶ったことさえ『奇跡』と呼べる博打だった。
博打で終わらせたくはない。それが確信となるように。
すずなは刀を閃かせる。その一閃を届かせるまでの僅かな刹那。
『己が出来る』という決意を胸に、その尾を揺らがせ飛び込むだけ。
「だから! ここで、斬ります――カロン・アンテノーラ……!」
●La Belle au bois dormant IV
「悪夢であるか無いかに関わらず夢は、好きでは無いのですよね。
何処まで行っても悪く言えば脳内……現実と比べると何もかも足りませんので」
夢は夢。現状に何の変化もないならば、それを求める事はしないとヘイゼルは嘆息した。眼前には無数の夢魔。
黒狼隊や希望や夜明けを求めた仲間達の道行きを妨げるように進むそれらは酷く邪魔な存在だ。
「ですので、眠りの世界は勘弁願いたいのです。
故に、悪夢を砕くためにも……いつも通りに、ゆるりと参るのです」
かつん、と地面を叩いたのは錆び付いた棒切れ。ヘイゼルの指先から伸び上がったのは赤い魔力糸による結界の術式。
指輪から紡がれる魔力糸は花吹雪が如く極小の炎を纏わせた。
「さあ、遊撃手を見縊る勿れ」
隊列に対しての反撃だけでは遊撃手は抑えることは出来まい。
するりとヘイゼルの傍を通り抜けていったのは灰色のサッカーボール。エメラルドの嵐は紫色の重力エネルギーを伴って夢魔を薙ぎ払う。
「ユルいツラしててもやっぱ冠位って事っスか。
だったら尚更深緑を好き勝手させる訳にはいかないっスね、何考えてるか知らねぇが、ここで終わらせる!」
眠たげに欠伸を噛み殺している暇さえ与えやしない。前線でヘイゼルが惹き付けた夢魔をサポートし、後方での回復支援部隊を護る為に葵は走る。
広いコートを隈無く眺める冷静なるスタンス。焦燥が戦況に大きく影響を及ぼすことを彼は知っている。
ストライカーらしく、地上を走り抜けて行く葵の号令を聞き、顔を上げたイズマは符によって作られた鴉の鳴き声を聞いた。
「怠惰は心地よいが、しかし決定的に物足りない。
楽しさも強さも音楽すらも追い求められないのなら……俺はとてもじゃないが、ずっと眠ってなどいられない」
夜空を懐いた細剣を指揮棒のように振り上げたイズマが纏うのはプロトコル・ハデス。その気配と共にカロンへの道を塞ぐ符を凡百では追い切れぬ武の奥義にて切り伏せる。
「深緑だって、動きたいから外へと開いたはずだ――それを望まぬ眠りに叩き落とすと言うのなら、抗い打ち破る他はない!」
「そうかにゃあ」
「……何が云いたい?」
イズマは符に乗せて響いたカロンの声に顔を上げた。穏やかな声音、それでいて、どことなく甘えるような響きが感じられる。
「変化を求める奴だけではないという事にゃあ。現に、変化に付いていけず脱落していく奴もいる。
それは堕落して、徐々に苦しみを生み出すだけ。そうして手を取った奴だってたーくさん居るのにゃあ」
イズマは唇を噛んだ。冠位魔種の甘い囁きは、そうして人の心を惑わせてきたのだろう。
「――だからって『変化しない』を選んで居ちゃ何も変わらないじゃない」
メルナの唇が震えた。カロン・アンテノーラを倒すことこそがメルナの目標だった。いや、その目標さえも遠いのかも知れない。
消耗させる程度か、はたまた。大樹ファルカウからリソースを吸い上げるカロンを『集中攻撃』で倒すまでの路を開くだけ。
「……だって、否定されちゃたまらないんだ。
頑張る事も、足掻く事だって……それが望まない事でも、そうせざるをえなかったから、私は……中途半端だとしても、私は……!」
足掻くことを止めたくはなかった。
私の太陽(にいさん)。貴方が照らした世界を、私は月となり護るべきだった。
苦しくとも、辛くとも、太陽(にいさん)のように。月は陽の影となる。孤独な心を、否定なんてさせたくない。
「カロン……クラリーチェさんに呼び声かけたの君?
なら、僕は絶対許さない……心の底から怒るよ。例え猫でも…友達の大切な主でも! ぶん殴る!」
「怒られる謂れはにゃいにゃあ」
くああ、と欠伸を噛み殺したカロンはヨゾラを眺めていた。蒼天を思わせる瞳に乗せられた苛立ちをカロンは頓着することはない。
ヨゾラは願望器たる魔術紋。だが、それは『不完全な願望器』に他ならず――彼は、彼の願いのままに『幸せになって欲しい皆』の為に走る。
届かせるために。
夜の星の破撃は、子守歌なんて聞こえやしないのだから――!
「何もしたくないならひとりで眠っていればいいよ。他の人間を巻き込むなら容赦はしない。目標冠位魔種。破壊する」
淡々と告げるオニキスはファルカウのリソースが『カロンの生命維持』に使用されていることを確認する。
より深手を負った時、ファルカウはざわめいた。そして、もうひとつ。『カロン・アンテノーラ』はイレギュラーズの攻撃を弾くようにファルカウの力を借りて符の障壁を作り出す。
「やっぱり。機敏に回避するとは考えにくい。防御手段があるか再生能力でゴリ押してくるかかな。
それをファルカウが供給しているんだ。……なら、攻撃は一斉で与えた方が良い。回復の為にファルカウに頼ったときこそが狙い目だもの」
マジカルゲレーテ・アハトは足を止めて打ち続けるための決死の鉛。オニキスの全てを叩き込むために八十八式マジカルジェネレーターが稼働する。
オニキスの大容量大出力であるそれは『彼女の力』となって戦場へと広がった。
狙え。
仲間と共にその意志を集めて――!
「眠りは大事だよね。疲れた体と心を優しく包んでくれる。でも目を閉じていたら、好きなものを見る事が出来ないんだ。
見て、この命の輝きを。まるで星のようにきらきらしているね。
駆け足でもゆっくりでも、どちらでもいい。歩み続ける皆を助けたい――一緒に見る夜明けは、きっととても綺麗だ」
ウィリアムが指先を空へと翳せば、同じように掌が重なった。
兄と妹。その二人で此処までやってきた。
「何もなくとも怠惰に過ごすのもたまには良いですが、ずっとは無理ですね。
目指したいところがあるのです。見てみたい景色があるのです。
そしてその時は、皆と一緒にその喜びを分かち合いたいのです。だから私はこれからも起きて歩み続けます!!」
今、兄と共に歩んできた奇跡を。ハンナとウィリアムは諦めたくはなかった。
全てを擲って仕舞えば夜明けが遠離る。身体が動く限り、夜明けに向けて走り続けたい。
ハンナがひらりと舞い踊る。ガンエッジががしゃんと音を立てた。悠久の命よ、不屈の魂よ。
――刮目せよ、幾千幾万の夜を越えて積み重ねた我が剣舞。武神(かみ)に捧げる血の舞を!
ハンナの舞を支える様にウィリアムの魔術は柔らかな光を踊らせる。魔導の探求者は凡百のみなれど諦めることを識らない。
「んードラゴンもやばかったけど本命はこっちか。いやぁ最終決戦って感じするね。うん、頑張ろうか」
頬を掻いた茄子子は――ナチュカは、笑った。
「会長もねぇ、怠惰に生きたいよ。会長、頑張るのとか嫌いだし。
でもねぇ、生を受けたからには、目標に向かって嫌でも努力しなきゃいけないんだよ!ㅤじゃなきゃ、死んでるのと変わんないじゃんか!!」
生きているからには、足掻かねばならない。言葉を費やして、鬱陶しいと撥ね除けるそれさえも生きているという実感になるはず。
笑みを湛えることもなく。足掻く。茄子子は、ナチュカは、足掻くからこそ生きている実感を得られる。
「生きるってのはね!ㅤ嫌なことをする事なんだよ!!」
「――生きるってままならにゃいはなしだにゃあ」
どうしても、死ねない。死ぬ事さえ面倒くさかった。イレギュラーズを前にしてファルカウから供給されるリソースは『カロンが此処を拠点とした』時からだった。
故に無尽蔵にも思えたカロンのリソースはファルカウより常に供給され霊樹へと影響を齎した。
カロン・アンテノーラは『自身の能力を管理する』事さえも放棄していた。それさえも嫌だというならば、どうしようもない大馬鹿者だ。
「貴方の望み通りにはさせないので、御覚悟を」
「望み……平穏に眠るのはそんなに悪い望みかにゃあ」
愛おしい人と、のんびりと過ごす。ただ、それだけが望みだと言われればボディには否定することは出来ない。
だが、カロンの望みは誰かを傷付ける。無数の命を弄ぶように『彼が生きているだけ』で世界へと『怠惰の権能』が抗うのだ。
切り裂いて、千切り、切り進め。カロンの道となるように。カロンへとただ、一太刀を浴びせるために。
符より産み出された鴉へと叩きつける『捨石』の中の『本命』。秘めたる戦闘の最適解こそがこの場所では求められる。
(冠位を倒して画竜点睛、と言ったところでしょうか。狙うは撃破、撤退ではない。此処が正念場です。
投げ出すことは簡単でも、取り戻すには難しい……怠惰。貴方を此処で討ちます)
その決意を星穹が為すことが出来たのは彼が隣に居たからだ。彼の盾となる。
無幻星鞘を手にしたときから、鈴鳴る刃を握るその指先が誰かを抱き締めることを教えてくれたから。
心を護る。嗅ぎ慣れぬ硝煙にその身を包まれながら。
「行ける?」
「ええ」
ヴェルグリーズの問い掛けに星穹は頷いた。ヴェルグリーズは『切断』の概念をよく知っていた。
冠位魔種と、この世界を『断ち切る』為に、その身を剱とするのだから。
「変わりたくない、何もしたくない、それはいつだってすぐ隣にある感情だ。
ゆえに人の業の一角となったのが怠惰という罪、きっと人はその誘惑からは逃れがたい」
地を踏み締めて叩き込んだのは光輝の魔術。カロンの符が反撃をするように伸び上がる。
星穹の籠手が音を立て、弾いた。
「――だから……とことんまで付き合おうカロン、このままではいけない、これでは駄目だと
キミが音を上げるまで俺は逃げない……これは総力戦にして、持久戦だ」
「私達は負けない。負けるつもりもない。夢の残滓は教えてくれる。
私達が生きて、護る世界の愛おしさを――何もかもが嫌になって、全てを諦めてしまいたくもなるけれど。もう私に、諦めていい理由はないの!」
諦める事は嫌いだった。
諦めても得られる未来(もの)なんて、どこにもないから。
「我 フリック。我 フリッケライ。我 墓守。永遠ノ眠リ護リシ者。
諦メ死ヲ待ツ為ノ眠リデハナク 生キタ果ニアル死後ノ眠リヲ 護ル者也!」
フリークライの癒しは傷だらけになった利香を支援した。
フリークライは願う。自身は墓守。正しくはない死を与えんとする存在を否定する。
故に、命を削ってでも『皆を回復し続けたかった』。フリークライは夢に閉ざされること亡きように仲間達を支え続ける。
おかえりなさいと、いってらっしゃいを告げるために。輪廻は正しくなくてはならぬと、囁くように。
口端の血を拭って利香の唇が吊り上がった。
「ねえ。クーア。私、夢を見たわ。争いに疲れ役目を捨て敵国に逃げた女の夢
男の穢れを啜ってでも生き続け、人の国に希望を望めど人も悪魔も等しく醜かった――本当に嫌な夢」
ふらり、と身体を揺らがせた。震える。諦めの先に希望があった。この世界は穢れた自分を受け入れてくれた。
利香の傍らで、クーアは「ええ」と頷いた。
酷い悪夢。それに彼女が囚われるのは我慢ならなかった。
「リカのくれたこの身体。今の私の矜持は、きっとこの姿にこそあるのです。新米とはいえ私もサキュバス。
『素敵な』夢を司る存在として、我らはあの悪夢を絶対に赦さない。共に悪夢を打ち砕いて……そして二人で帰るのです、リカ」
彼女の指先をそうと、握りしめてからクーアの炎は鮮やかに舞い踊った。
「貴方の悪夢も終わらせてみせる、カロン。だってそれが夢の女王、サキュバスの役目なんだから!」
餅は餅屋、危険は『勇者サマ』の仕事。
彼女は常日頃呆れ笑っていた。私の望みは皆に幸福な夢を見せる事――無用の危険や先の名誉は必要無い。
けれど――『少しだけ、宿命とやらを察して死んだ子の気持ちがわかったわ』
利香の行使する全てを肯定する。彼女の――『リドニアがいるその場所』の機能を全停止させれば良い。
ひとの夢は怠惰の為にはない。夢の女王(サキュバス)が望むというならばその眷属が肯定せずなんとするか。
クーアは「リカの全てを肯定します」と微笑んだ。眩い命の光が、揺らぐ。奇跡よ、どうか。どうか、と願うように。
●La Belle au bois dormant V
「言い方は悪いですけど今回は冠位見物ってとこもありまスね……旅人が混沌に喚ばれた理由とも言えますから」
そう呟いた美咲は酷く嘆息した。上司が幅を利かせるブラック職場であった彼女にとって勝手な理想を押し付けるなと言う言い分は分からなくはない。
冠位魔種。それが如何に強大な敵であれどイレギュラーズならば負けないはずだと言う実感が感じられたのは此れまでの冒険の為せる技だろうか。
オートマチックピストルは即応敵に何時でも手にできるようにと忍ばせた。
気配は極小に。そして、仲間を支援する事だけを忠実に『任務』として遂行し続ける。
「…ああ、でも、一つ言えることがありましてね。やりたくてやってるやつもいるんスから勝手に理想を押し付けるな」
そうだ。理想を並べれば人にとっては救いなのかも知れない。
停滞も微睡みも、生来の悪人とは言えぬ人々に救いの選択肢を与えたのかも知れない。
ブルーベルがそうであったように、クラリーチェが望んだように。弱い心に密やかに囁かれた甘い蜜。
「……それが平和と安寧を齎すものじゃないのはこの深緑や他での魔種絡みの事件で明らか。
それにあの夢檻にはとても安らぎなんてなかった。
だから私は貴方を倒す。辛くても苦しくても、安らぎは僅かだとしても。一緒に手を繋げる人たちと一緒に歩いていく為に」
ルビーの手にしたカルミルーナは妖しい光を帯びた。
何者にも構うことはなかった。カロンだけを真っ直ぐに見据える。
大丈夫、スピネル。私は何処までも走って行ける。
だって――
「私は―――ヒーローだから」
風を切る音がした。駆け出すルビーを支える様に癒やしの波動を広げ、昼顔の指先は震えた。
(何でまた、僕は殺意しかない場所に居るんだか。
でも仕方ないよね……無事で居て欲しい人達が此処に居るんだから)
仲間達を支えたかった。故に、戦場に立っていた。危機に陥れば直ぐにでも仲間へと後退する路を開いてやるべきだった。
いのちの天秤が失われた今でも、死ぬ事を恐れるばかりではない。誰かを護る為にこの戦場に立っていると決めたのだから。
響け、天使の福音よ。太陽の光が、生命の躍進を伝え広げてくれるはずなのだから。
「ねぇカロン貴方はきっと何もかもが面倒なんだよね。本当は部下や世界の事だってどうでも良いんでしょう?」
Я・E・Dは首を傾いだ。全ての言葉を、究極の怠惰である永劫の眠りへとカロンを誘うために費やした。
どうせ泥沼の戦場だ。全てを諦めたくなるときが来るはずだとЯ・E・Dの眸は怪しく光った。
「無茶ばっかりするんだから! おねーさんが手伝ってあげるわ!」
包み込む愛は、無敵だった。ガイアドニスの愛は盲目。見ていてくれればそれで良い。
カロンだって、きっと一目でも見てくれれば、愛のままに直向きに受け止めてやることが出来るのだから。
「ねえ、カロン。カロンったら。こっちを向いて? ね? ね?」
囀るように言葉を紡いだガイアドニスを一瞥してから猫はくあ、と欠伸を噛み殺した。
「面倒だにゃあ。愛することも、愛を求めることも。人に何かを求めるのは『退屈』な事だろうに」
「……ふふ」
ガイアドニスの唇が吊り上がった。本質的には理性が阻むところがある。それでも『そうでなくても良いとき』は此処にあった。
大きな命が小さくって儚くて、可愛くって、愛おしい一生懸命な誰かを護る盾になれれば其れで構わないのだ。
「カロン、これ以上……好きにはさせねぇ!」
全員が生きて返るために。零の指先で銀のリングがキラリと光った。未来永劫を誓ったからにはこんな場所では死ぬわけにはいかないのだ。
チトリーノの腕輪を揺らし、投影した武器を高速射出し続ける。食べる事さえ面倒くさいとも言い出しそうなカロンにはパンの一つも渡す余地もない。
希望を紡ぐと決めた仲間達が居た。彼女達のためならば、此処を支え続けるだけ。
カロンは怠惰。怠惰が故に、隙がある。だが――その隙を埋めるようにファルカウから供給される『リソース』が森を傷つけ続ける。
クルルはマントを翻して唇を噛みしめた。ファルカウの力を秘めた長弓がクルルに力を与えるように、カロンにとて力を分け与えているというならば。
(酷い――)
それを許せるわけもなかった。
美しい森。その命を食い物にするかのように『其れは存在するだけ』で悪となる。
「ただ眠るだけの生なんて受け入れられないよ。
例え何時か枯れ行く日が来るとしても。花咲き、番い、実を付ける……命を繋ぐ為に、現在を精一杯に生きているんだから!」
木々を傷付ける物など許せない。神をも殺める呪いを帯びたヤドリギよ。どうか貫き届けて欲しい。
クルルの傍を飛び越えていったのはアルティオ=エルムの象徴の如き大樹の矢。
「ピンチヒッターとはいえ、深緑の狩人を舐めてもらっちゃ困るぜカロン! ファルカウは、テメェの物じゃねーんだよ!」
クルルも、ミヅハも。何方もファルカウを我が物のように扱われることを良しとしなかった。
全てを捻じ曲げろ。夜のとばりを切り裂くように。ミヅハ・ソレイユは『太陽』を連れてくる。
幻想種達の故郷、愛おしき木々。それらを蔑ろにされることを赦しておけるわけがないのだ。
狩人は瞬時に弓矢を作り上げて行く。色褪せたポーチか取り出したワイヤーは無数の符の鴉により軋んだ木々を支え、足場を整えるが為に使われた。
希望の象徴は赤い色彩を。ならば、其れとすれ違うのは蒼を纏った瑠璃雛菊の刄。
(……これが冠位魔種の力か。猫という愛らしい姿をしているが、最悪にも程がある)
思えばルーキスが主と慕う霞帝が座する神威神楽とて『神霊』の暴走が見られたのだ。其方は白き犬であったが、現状を見れば愛らしさと凶悪さはイコールではないと思い知らされる。
希望を紡ぐ仲間達への道を切り拓け。隈無く周囲を見回して、目を光らせた男の刃は宙をも引き裂いた。
誰もが『彼女達を前へと進めるため』の努力を重ねている。故に、カロンへ届く攻撃が少なくとも、前へ前へと走り征く魔女の背中を送り届けるだけの力となった。
ルーキスの刃にぶつかった符の獣。牙を剥いた影の如き鴉たちが宙を踊り、弾丸のように降り注ぐ。
弾幕、雨霰。
その下を走り抜けて行くのは錬。夢の檻の主という認識ではあったが『使役術』を行使する符術の担い手か。
怠惰の冠位魔種としては鬱陶しい事、この上ないが能力としての手合わせならば暴虐のように腹を空かせて己の能力をキープし続けた暴食よりはまだ楽しめる。
錬は符に力を込めた。圧倒的な魔力をその身に宿し、式符より火弾を産み出し叩き込む。無数の符の弾幕を落とす火の流星は煌びやかに大樹を照らす。
「惰眠を邪魔する事を謝りはしない、なんせ俺たち旅人は魔種に対抗するために呼ばれたんだからな!」
この地が『火を厭う』事を識っている。だが、其れよりも尚、乗り越えねばならぬ未来が存在して居るのだから。
錬の符の嵐を背に受けて、ミーナの希望の剣は癒やしの気配を讃えた。澄んだ青空の如く剱は光を返す。
「私だって怠け者だけどな……明けない夜はないってわかってんだよ。だから、私は起きて、生きて、前に進む!」
ヴァルキリードレスを揺らがせて、攻防一体の構えを作る死神は何時だって前へと飛び込む機会を狙っていた。
いつまでも眠っていたいことは分かる。分かるが――それでも目覚めの時は必要だ。
命を燃やしてでも太陽を呼び寄せる。太陽か月か.そのどちらかにしか祝福が与えられないのならば、ミーナは間違いなく太陽を選ぶだろう。
「さて、終わらせるか。夜明け前が一番暗いが……太陽は必ず昇るんだ」
朱い旗が閃いた。無数の巫術が周囲を躍る。流石は『怠惰』――瑠々は睨め付けるようにその姿を見遣った。
何かが罅割れる音が響き続ける。それは、カロン・アンテノーラの『権能』が少しずつ破壊されていった証拠であっただろうか。
リソースを供給する手段のみ手許に残している時点でカロンは狡猾だ。だが、権能が剥がれ続けるという事は、弱体化している事は否めない。
(苦しい状況である事には違いねぇ――)
決意を揺らがせる。天よ、地よ。血反吐を吐けども構いやしない。死にたいと、消えたいと願えどもクソッタレで安い不幸自慢な人生に誇れる場所が出来たのだ。
誇れ白百合の如く。その身に奇跡をもたらせと願うように唇を吊り上げる。
「生かしたな?」
カロン・アンテノーラの攻撃は強力だ。弾け飛んだ障壁、軋んだ破邪の結界。だが、それだけでは『まだ死なない』
「――死ね!」
●『夢の牢獄』
少女は走っていた。夢への干渉を行う。それはライアム・レッドモンドが『権能を持ち逃げ』出来たからこそ為せた技だ。
カロンが倒されず、イレギュラーズが敗北したならば彼女は一生この地に取り残されただろう。
(……ええ、ええ、それもありえましょう! けれど、是とは致しませんわ)
無数の眠りを目覚めさせた。ライアムが救いの手を差し伸べたことも分かって居る。
それでも――それでも、だ。
リドニアはライアムの手をぎゅっと握り微笑んだのだ。
「奇跡を」
彼が、アレクシアと戦場を走るだけの時間を。
リドニアは『魔種の権能の中に居たからこそ』分かって居た。ライアムは元に戻ったわけではない。時限式だ。
何時、彼の中にカロンとのリンクが復活するかも分からない。
それでも――アレクシアが命を賭す覚悟で掴んだ奇跡だ。
「もう少しだけ、彼女と走れますように」
「……君は、それでいいのかい?」
「ええ。仲間が望んだんですもの」
微笑んだリドニアはライアムを送り出してから、ふう、と息を吐いた。
少し疲れてしまった。けれど――……温かな光が、その体を包み込む。
幾人かの声が、奇跡を束ねた光が、少女を包み込んだ。
安寧と、幸福感。
――夢の女王(サキュバス)が壊してあげるわ! あんな、檻!
その声は、利香のものだっただろうか。
――リカの全てを肯定します。
それはクーアの願いか。
――俺は、俺以外の犠牲は認めない!
――全部引き受けてやる!
彼と、彼女の声。
それが『彼女』を外に送り届ける光であることは、目を伏せたリドニアには良く分かった。
ああ、けれど待って、この檻が壊れるまでのあと少しだけ。案内人として、佇むから。
●La Belle au bois dormant VI
「急ごう、アレクシア!」
ライアムにアレクシアは頷いた。走る背中を見詰めてからヴァレーリヤはふ、と微笑んだ。
風に溶けるように彼が消えてしまう前に。最後の審判が来ても再会が叶わない彼女の事を思えばこそ、アレクシアにはそんな思いをして欲しくはなかった。
如何なる犠牲を払おうとも。戦わねばならぬのならば。
「アレクシアのために道を切り開きましょう。
その先に待っているのは、必ずしも救いではないかも知れないけれど、これが唯一、友達として私がしてあげられることだから」
ヴァレーリヤはメイスを起動する。前進せよ、恐れる勿れ。聖句を口にすることで、誰よりも強くなれるはずなのだから。
太陽よ、天に昇れ。振り下ろす濁流の炎が、光を帯びた。
ヴァレーリヤの傍らを雷が走る。紅雷は疾く、敵を穿つ。
「友の為、大切な物の為に戦う。私にとって、戦う理由にこれ以上のものは望めない。
ヴァリューシャ、行こう! アレクシア君の為! ――クラリーチェ君の為に!」
誰かのためだというならばマリアは何処までも強くなれた。彼女の望みを叶えることこそがマリアにとっての一番。
カロンの元へと届いたのは、仲間達がその背中を送り出してくれたから。ならば、マリアは『マリアの一番の強み』を叩き込むだけだ。
「カロン君! こっちだよ! 怠惰の魔種たる君には面倒しかないだろうけど、私との我慢比べに付き合ってもらう!
私に出来ることは君のリソースを削るだけだ! でもこれならばイレギュラーズの誰にも負けはしない!」
「ファルカウのリソースを削るだけにゃあ。にゃあの意志に関係なく、其れは広がって行くからにゃあ」
「ッ、そのリンクが何時までも続くなんて思わないことだね!」
雷が眩くも、カロンを包み込んだ。堂々と叫んだマリアの傍を走り抜け、血反吐を吐こうとも騎士(メイド)道を揺らがせぬエッダは堂々と叫ぶ。
「義を見てせざるは勇無き也。勇を見て応えぬのは戦士の名折れ。
怠惰にしている暇などないのであります――斃れるには……まだ早い!!」
敵の意識を掻き混ぜろ。青き薔薇を花(ひと)と思う勿れ。
棘(まじん)はそこまでやってきた。武術は誰が為のものであるか。エッダはよく知っている。
少しの間でも良い。カロンを引き寄せるのだ。
猫の瞳がちら、と見遣った。その気怠げな光に慄くことはなく、息を呑む。
夢の気配が漂う。幾人もの仲間が『眠りの淵』へと叩き込まれるか。ならば、リドニアが眠りから起こすが為に奮闘してくれることだろう。
彼女が内部で戦うならば、アルヴァは外から奇跡を乞う。
「起きろ、起きてくれ。寝ている場合じゃない筈だ、まだやるべき事が残っているだろう――!」
散々引っかき回してきた『クソネコ』の権能如きに負けて堪るか。
アルヴァは唇を噛みしめた。停滞なんてしていられない、そうしていれば、幸せだと『姉』が笑おうとも関係はない。
「そんなに何もかも面倒くさいなら、永遠に眠っちまえばいい。お前の怠惰にこれ以上、関係のない者を巻き込まないでくれ」
「其れが救いの奴が居てもかにゃあ?」
笑わせるな。何が、救いだ。それは諦めと呼ぶに相応しい感情ではないか。
隻腕であろうとも、武器を手にすることは出来る。起きろと叫んだ『奇跡』。目覚めの鬨の声は蒼穹に焦れた獣の命を削り取る。
「紡いだ希望の先の戦場。戦う場所としては最高じゃないか。
アレクシア殿とライアム殿の兄妹が共に戦うというのならそこに華を添えさせてもらおう」
奇跡が幾度も紡がれてきた。アルヴァが起きろと叫ぶ声を聞きながらブレンダはヴァルキリードレスをふわりと揺らす。
「怠惰というには随分と働き者じゃあないか。貴様には永遠の暇をくれてやろう!」
「んんん、好きで動いてるわけじゃあにゃいけどにゃあ」
「ならば――! もう夢に微睡む時間は終わりだ。
そろそろ目覚めて朝が来てもいいだろう。貴様たちを倒してこの夢を終わらせる時が来たという訳だ!」
夜明けが訪れるならば今でいい。夢から解けて、進むのならば胃まで良い。
瞳に映るのは黄金色の魔道式。其れが人のみに余る代償を求めようとも、ブレンダはウェントゥス・シニストラを振るう事を止めなかった。
カロンへの至近距離、腹を穿つ式符の一撃に構うことはなく多重に剣を振り上げる。
吹き荒れる風がカロンの頬を切り裂いた。
ファルカウのリソース供給が遅くなっていくのは『周囲で彼の権能を分けた相手が撃破され続けていくから』か。
カロン・アンテノーラは権能を振り分ける。
配下である敵が生き残れば生き残るほどにその力は健在。支える者も多かった。
だが、どうだ。イレギュラーズは陣を分け、隊を組み、その『権能』を打ち破る。
カロンはそのたびに大あくびをしていた。眠たげな仕草。その理由がブレンダの脳裏に過った。
――カロン・アンテノーラは権能を取り戻すために眠らなければならない!
ならば、眠気を噛み殺してまで戦場で戦わねばならぬのだ。故に、ファルカウからのリソースが乱れる。故に、弱体化する。
だからこそざんげの支援がなくとも打ち破れる『可能性』が其処にはあったのか
。同時進行的に、決戦を仕掛けた事によるイレギュラーズの『数の強み』が此処に生きたのだ。
奇跡を束ね続けた。大量召喚を経てから集めた可能性は数知れず。
――世界に認められた精霊種(グリムアザース)。
――境界で手を取り合うこととなった秘宝種(レガシーゼロ)。
――あの波濤を越えて出会った鬼人種(ゼノポルタ)。
――そしてROOを経て、出会うことが出来た亜竜種(ドラゴニア)。
其れ等の力を集めたからこそ、為し得た『決戦』だ。数が力となり、怠惰の魔種の弱みへと刃の一刺しが叶ったのだ。
(ざんげからの支援なく冠位と相対するのは、混沌では初か。不安はあるが、いつまでも頼ってちゃ成長がないしな)
此れまでの事が、自身等がざんげの支援なくとも戦える『可能性』を見出せた。
ラダは静かに息を吐く。
空繰りに蓄積された可能性(パンドラ)はこの世界を救うが為に、決して削り続けて良いものではない。
ならばこそ。
「明けない夜は無い。ブランシュ達がそれを証明させるですよ! ――夢は、此処で終わり!」
防御力はないに等しい装甲は全てを攻撃に傾けた。『ネクスト』の正義国で見られた概念武装を抽出し、その身へとそつヤクする。
刀を握ることはしない。エルフレームはそれでも誰かの剱になれる。
ブランシュは風を切るように走った。神速の一撃から叩き込まれたのは渦巻く波動。
「くあ」
欠伸の音が僅かに漏れた。カロンのふにりとした小さな掌が構えていたのは符だ。
符が僅かに『破れた』。ぱちぱちと音を立てて霧散してゆく黒き気配。服の裾が切り裂かれた事にさえ頓着せぬ冠位魔種はブランシュをまじまじと見詰めて首を傾ぐ。
「長く眠れる夜の方が心地よくないかにゃ?」
「暖かなお日様だって、必要なのですよ!」
ふにゅう、と間抜けな声を出した冠位魔種が手をすい、と動かした。周囲にばら撒かれてゆく符より無数の刃が産み出される。
「ッ――!」
ブランシュが一歩後退する。
「漸く捕捉したぞ、カロン。猫の面汚しめが……!」
白き尾を揺らがせて牙を研ぎ澄ませるように汰磨羈は叫んだ。
獣は狩猟本能を失えば終わりだ。故に、汰磨羈は妖刀に慈愛を求め執念の如く振りかざす。
赤き彼岸花の奇跡は血潮の如く赤く眩く。
「自らの牙で獲物を喰らいに行く気概も無く、ただ怠惰に堕した貴様の力を振りまき、災厄を垂れ流す――そんなのはもう、うんざりだ。
故に終わって貰うぞ。今、此処で!」
存在そのものが災厄だというならば、此処で赦してなるものか。大地を蹴って、カロンへと肉薄する。
ファルカウのざわめきにスティアは唇を噛んだ。母はこの森で穏やかに暮らしていたのだろうか。
『エイル』は屹度、大樹を愛していた。この大霊樹から力を補給されるなんて、許せやしない。
(……お母様の故郷である深緑を守りたい。お姉さんみたいな存在であるアレクシアさんの力になりたいとも思う)
スティアの周囲に展開されたのはサンクチュアリ。
花吹雪のようにスティアの周りと舞い踊った月光の花。符による『獣』その全てを己の元へと引き寄せて、一気にサクラが切り伏せる。
「今回は雌雄を決する一戦。絶対に負ける訳にはいかないね――いくよ、サクラちゃん!」
「サポートよろしくねスティアちゃん!」
持てる力を出し切って尚も勝率は五分以下。そうだろうと宣言するサクラはそれでも負けられないのだと禍つ光を放つ聖剣を振り上げる。
眠っている時間さえも勿体ない。天空の竜を大地へと叩き落とすが如く。
符の嵐など、この場で打ち払えば良い。銀弾は籤のように当たるも八卦当たらぬも八卦と叩き込まれる。
「死者は生き返らない。だからこそ望む安寧があるだろうよ!」
銃底の9人の賢者が顔をつきあわせて話し合おうとも、永劫にわかり得ぬ結果が其処にあるならば。
ラダは弾丸を叩き込む道を選ぶだろう。
籤を引き直す時間さえももどかしく感じられるのだから。
「フランツェル!」
風牙が叫んだ。アンテローゼの魔女は、彼女の力を持ってきてくれた。
クエル・チア・レテート。霊樹を束ね、この森を穏やかな眠りから醒ましたその人の命の欠片。
「任せて頂戴。だから、進んで!」
風牙は走った。
クエルの力を使って、一度カロンの『動き』を止めてくれ。
それが、灰薔薇の魔女の腕に痛みを走らせようとも――彼女は身を挺す。
全部、全部、全部、アイツのせいだ。クラリーチェが反転したのも、アレクシアが兄と戦わねばならなかったのも、クエルが死んだ事だって。
もう少しで手が伸ばせたはずだった。全てが目の前から奪われるその絶望。
そんな『絶望』なんかに俯いては居られない。
奇跡が欲しかった。
そうだったからこそ、何度だってプラックは願った。
希望を紡ぐ者達が居て、黒き狼たちが牙を研ぎ澄ます。
バルガルの怒りが、光のようにカロン・アンテノーラへと突き刺さる。
冠位魔種(オールドセブン)。だからどうした。天空の少女の空繰(からくり)に奇跡のリソースを分け与えろと叫ばなくとも――!
やれるだけはやってきた。
冠位暴食の腹を満たしたことも。
玲瓏公の命の雫が冠位暴食に帰還を促したような。霊樹達の奇跡を束ねた一人の老女がその命を費やしファルカウを護ろうとしたことも。
『蒼穹の魔女(アレクシア)』が有り得ざる奇跡の一瞬を求めたことも。
『夢の少女(リドニア)』がその奇跡を僅かにでも長引かせることを願った事だってそうだ。
――自分の命を賭してでも、冠位怠惰の『権能』を封じ己が身を停滞に費やした少女がいたことも。
「痛い事も苦しい事も、世界にたくさんある!
それでも前に進む事の大切さを、そうしてこそ掴める希望を、誰かと結ぶ絆のあたたかさを私達は知っている!
だから、その歩みは止めさせない! 希望は潰えさせない! あなたはここで永遠に、眠れ――!!」
兄と共に走る未来を夢に見た。それだけがアレクシア・アトリー・アバークロンビーの目標だった。
広がった桃色の花弁。
ヘリアンサス・アネイス。極大の魔方陣の上に蒼穹の魔女が立っている。
魔女の魔法は、密やかに。毒を含んで、そして――希望を束ねる。
「アレクシア! 狡いぜ!」
シラスが笑う。アレクシアの両手は何時だって空いている。泣いている誰かを抱き締めるために、けれど、今日は。
そっと、シラスの手を握りしめた。
「君は、俺なんかよりよっぽど勇者だよ、狡い、狡いよ」
暗闇の先に手を伸ばす勇気を、進む道を切り拓く覚悟を、持ってきたんだ。
「俺にもちったァ格好つけさせろって!」
揶揄うような笑顔に、右手のぬくもりがアレクシアの眼窩の魔方陣を閃かせる。
「まあまあ!」
くすりと笑ってから未散はアレクシアの左手をそっと握った。
身を横たえて閉じ隠り、人に識られず、強いられず。そんな未来は、お嫌いかしら。未散の求めた心地よい物語。
ああ、けれど。それじゃあ、駄目だと主人公も、騎士も、柄じゃない『ぼく』へと彼女は言うのだから!
彼が狡いと笑うなら、『ぼく』だってこう言いましょう。
――ならば一緒に勇者になりましょう?
「ミャオ! 猫を被るのはぼく、上手なんです 何たって強欲で、あなたさまをズタズタに切り裂きたい想い!
射干玉、九重、闇の果て、雲晴らし。昇らないおひさまなんて無いのだから」
握る指先に、僅かな震えが生まれた。光よ、どうか、お日様の祝福を。
「ファルカウのリソースを奪うなんて許せないよね。僕は願望器たる魔術紋だ。
願望器(ねがい)を受け止めるならば、何だって――何だって構わない!」
ヨゾラは叫んだ。夜空。月の光を懐くのは自分で良い。カロンの腕を掴んだ。
その全てを『引っ剥がす』事を望んだ彼はたった1%の奇跡でも、求めたかった。
Я・E・Dは緩やかに囁いた。
「この世界に未練なんて無いでしょ?
何もかもが面倒なら全てを捨てて貴方の権能で永劫の眠りにつこうよ。そうすれば、ほら、何も悩む必要は無くなるよ?」
「悪くはにゃいけどにゃあ」
顔を拭く仕草を見せたカロンの眸が怪しく光る。
「悪くはにゃいけどにゃあ。身体は、どうしても言うことを利かないにゃあ」
何もかもを投げ出せるほどに、都合よく終わりが来ない。Я・E・Dは糸を手繰るように言葉に奇跡を乗せることを望んだ。
カロンは怠惰そのもの。その気配が漂えば、全てが眠りへと誘うのだ。生きているだけで、全てに影響を与えるとでも言う様な。
「……大丈夫。直ぐに『その全てを取り払って』あげるから」
Я・E・Dは囁いた。風が吹く。月の微笑みなど、何処かへやってしまうような夜明けの気配を連れて。
――月の下は心地よい。微睡みなんて、吹き飛ばせ。
その拳が、その命が、『俺』にそうあれと叫んでいるのだから!
「この戦場に命を賭ける奴なんざ無数に居るんだ。分かってる、縁も所縁も無い? 莫迦言えよ!」
魔種の身体を抱き締めた彼女が望んだ奇跡も。
冠位魔種を滅するために一撃必殺を望んだ男も。
起きろ、起きてくれと叫んだ航空猟兵の叫び声も、墓守の優しさも。
全てを懐いてみせると叫んだ『願望器』の青年の願いさえも。
「全部、全部、全部、全部、俺へと寄越せ!
俺は強欲なんだ。俺は俺以外の犠牲が出るなんざ、赦しやしねえ――!」
プラック・クラケーンだけじゃない。朱色の旗が閃いた。百合草 瑠々とて同じだった。
死なば諸共? いいや、『命の肩代わり』なんざ重たい荷物でも分け合えば、何とでもなるじゃあないか。
立てよ。百合の花は凜と咲き、血反吐を吐いても旗を振る。生き様だ。とくと見ろよ、『お前が生き残らせた命』じゃないか――!
瑠々が吼える。
「死ねェェェェッ――――!」
直情的に、叫んだ言葉。
奇跡を束ねた様にプラックの火の玉ストレートが飛び込んだ。
追い縋る、魔女の光が。
眩くも朝の気配を運び来る。
「はあ」
カロン・アンテノーラは目映さをその目に映す。
「確かに多くの悲劇を生み出したのは事実だろう。それは許されない事だと思う。
だが、最後の眠りにつこうとしているものを邪魔する権利などきっと誰にもないだろうから――」
ゲオルグの優しい言葉にカロンはこてんを首を傾いだ。
「お人好しにゃあ」
「ああ、それでも叶わないさ。もうその眠りを邪魔するものも咎めるものもない。
いつか在り方や生き方を誰かや何かに決められたり縛られたりしない。新しい命としてこの混沌に生まれ落ちるその時まで」
それが、男の願った奇跡であった。ファルカウからリソースを得ようとするならば、其れを断ち切り『死』という安寧を齎せば良い。
ゲオルグの願った奇跡はバルガルの一撃とは相反しているようで、そうではなかった。
確かな終わりを、与えるために。閃く光は、男の一撃と共に『大樹ファルカウ』との繋がりを絶つ。
「はああ」
眠たげな欠伸を混じったその吐息。最期まで怠惰であったその猫の眼前へと飛び込んだのは――
「寝言は聞かねえ! 光栄に思え、クソ猫! お前の願いは叶うぞ!
そんなに何もかも面倒なら、息をするのも心臓を動かすのもしなくていいようにしてやるよ!!」
己の有りっ丈全てを撃ち抜いた。風牙は唇を吊り上げる。サクラが云う様に勝率は五分だ。
死ぬ? そんな『莫迦らしい事』合って堪るかよ!
槍を押し込んだ。怠惰な猫の吐息がはあ、と吐き出され、失せて行く。
森を包み込んだ眠りの深き茨(ゆめ)――
解けて行く。何もかも。
「ああ、雲が――」
見上げれば、ぽつ、ぽつと大地を叩いた雨の気配。
繋いだ手を離さぬままに未散は「雨が」と呟いた。
火の気配も遠離るような、美しき緑の森に雨が降る。
それは、100年の呪いが解けるかのように、美しき森への恵みであった。
成否
成功
MVP
状態異常
あとがき
お疲れ様でした。
『皆のPPPを肩代わりする』という決意をなさった方が二人。
その勇気と、決意に敬意を。もしも、お一人であったならば、その全てを奪い去っていくつもりでした。
アレクシアさんのPPPから始まったライアムという奇跡。
クラリーチェさんの反転が作り出した冠位魔種の隙。夢の案内人となるために敢えて夢に残ったリドニアさん。
イレギュラーズの皆さんが選び取った結果が『冠位魔種と相対する際にパンドラの力を借りず』に冠位を一人打ち倒せたのだと思います。
深緑編は練達へのジャバーウォックの襲来から始まり、覇竜のNPCを絡めて展開して参りました。
御伽噺のように「めでたし、めでたし」と口遊めるまで走り抜けて下さった皆様へ。
怠惰魔種(深緑編)へのお付き合い、有り難う御座いました!(あとは祝勝会ですね!)
GMコメント
夏あかねです。
●成功条件
『煉獄篇第四冠怠惰』カロン・アンテノーラを撃破すること
●決戦シナリオの注意
当シナリオは『決戦シナリオ』です。
<太陽と月の祝福>の決戦及びRAIDシナリオは他決戦・RAIDシナリオと同時に参加出来ません。(EXシナリオとは同時参加出来ます)
どれか一つの参加となりますのでご注意下さい。
●行動
【冠位部隊】:冠位魔種カロンへの対応全般を担う部隊です。
【魔種部隊】:魔種ブルーベル&『堕ちた修道女』へと対応する部隊です。
【遊撃部隊】:各種遊撃を行い敵勢対象への対応を行う部隊です。
【回復部隊】:各部隊へと有効な支援を与え、死傷率を減少させます。
グループで参加される場合は【グループタグ】を、お仲間で参加の場合はIDをご記載ください。
1行目は行動を、二行目は同行者を指定してください。三行目からは自由となります。
書式は必ず守るようにしてください。
==例==
【冠位部隊】
月原・亮 (p3n000006)
にゃーんじゃないよ
======
●敵情報
1、『煉獄篇第四冠怠惰』カロン・アンテノーラ
冠位魔種。七罪(オールド・セブン)の一人。非常に強力なユニットである事が推測されます。
とても可愛らしい猫のような風貌をしています。和風の衣装に身を包み符による『使役術』を得意としています。
深緑を棘に閉ざしたり、眠りにつけさせたりしていた張本人です。
a、『お前等手伝えにゃー』
正式名称は『分裂する魂』。カロン・アンテノーラは無数にも及ぶ強力な権能を選択した対象に分け渡すことが出来ます。
権能を分けられた存在が死亡した際には『その力が大きいほど』カロンの元に戻る時間が掛かります。
※つまり、一斉に攻撃を行いカロンの権能を有する者を多く撃破するだけカロンは『弱体化』してゆきます。
b、『夢の牢獄』
対象を理不尽にも夢の世界に閉じ込め、深き眠りに閉ざす事が出来ます。
その力は非常に強力で『理不尽』であり、カロンが意識的に仕掛ければ対象の抵抗判定を大幅に下げた状態で【夢檻】状態へと移行させる事が出来るようです。【夢檻】状態に陥った対象は行動不能となり眠り続けることとなります。
また、その力は深緑全土に及んでおり、カロンに近付けば近付くほどに効果はより強くなります。
(具体的にはカロンが居るファルカウ上層部ではカロンが意識的に権能を駆使すれば【夢檻】判定が1Tの内に10度行われる状態になります)
※ラリーシナリオ『夢檻の世界』『夢の牢獄』の結果を受けてこの権能は弱体化しています。
(06/13追記)
※【夢の牢獄】の守護者が破壊されたため、【夢檻】に対する判定は2-3Tに1度程度に減少しています。
c、『微睡みの果実』
カロン・アンテノーラが有する自己再生&自己強化能力です。
自身が対象に定めた存在からランダムでリソースを回復または自己強化を行います。
リュミエ・フル・フォーレ曰くカロンはこの対象にファルカウを定めています。
強力な力を有する大霊樹ファルカウより汲み上げられる力は膨大なものであることが想定されますが……。
d、『助力の聲』=『らくちんにゃー』
e、『悪意の船渡し』=『おまえやれにゃー』
f、『穏やかな死』=『いいゆめにゃー』
g、『牢獄の鍵』=『マジでおきたくないにゃー』
h、『いのちの天秤』=『おまえががんばれにゃー』
上記はそれぞれカロン・アンテノーラの配下に分断された能力です。
2、『魔種』ブルーベル
カロン配下。カロン親衛隊のように振る舞っている怠惰の魔種。口が悪い女の子。
カロンの側近であり、カロンを主さまと呼んで猫を猫かわいがりしています。
妖精郷から『咎の花』を指示で奪い去った少女。カロンのためなら何でも出来ます。彼女の目的はカロンの平穏。奴隷商人に拐かされて命の危機であった際に助けてくれたカロンを盲目的に愛しています。
……が、『根っこが狂い切れていない』為に、イレギュラーズとの此れまでのことで心が揺らいでいます。
どうせ、殺し合うことになるのだから、関わり合いに何てならなければ良かったと絶望したように呟くようですが。
・魔種としてもカロンの最側近であるために強大な力を有します。
・魔術を駆使しながら近接での攻撃も得意としているようです。リュシアンから戦い方をパクりました。
・カロンの権能『いのちの天秤』と『茨咎の呪い』を有します。
・『いのちの天秤』
後述する『堕ちた修道女』とその能力は50:50に分断されています。
カロンから溢れたリソースを自身の中に流し込み周辺フィールドに対して影響を及ぼします。
この戦場にいるイレギュラーズに対して、毎ターン、ランダム対象に『使用できるスキルの封印』または『HP/APの減少』を齎します。
戦場内のイレギュラーズのHPが多ければ多い程、効果を及ぼす対象が増え、スキル封印が御こなれます。
戦場内のイレギュラーズのHPが少なければ少ない程、効果を及ぼす対象は限られますが『HP/APの減少』幅が大きくなります。
詰まり、HPが少ないイレギュラーズが対象に選ばれた場合は即死する可能性があるため注意して下さい。
※ブルーベルと『堕ちた修道女』の何方もを撃破することでこの能力は失われます。
※片方のみを撃破した場合、『能力が大きく傾くため』どの様な状況になるかは分かりません。
・『茨咎の呪い』
元は大樹の嘆きが駆使していた能力ですがカロンが奪い取りブルーベルに与えました。
『麻痺系列』BS『相応』のバッドステータスです。100%の確率でそのターンの能動行動が行えなくなります。(受動防御は可能)
麻痺系列『そのもの』ではないですので、麻痺耐性などでは防げない呪いを付与します。解除可能。
3、『堕ちた修道女』
イレギュラーズのクラリーチェ・カヴァッツァ(p3p000236)さんが反転した姿です。
自身の事は莫迦な女、堕ちて狂った修道女と呼び、哀れみも何もかも必要とはしないというスタンスです。
己の心を封ずるように棘に絡みつかれ、只、その場で目を伏せて立っています。
・『棘の防衛反応』により、攻撃を反射します
・戦う気、対話も余り必要としていないかのような反応を本人は行います。。
・カロンの権能『いのちの天秤』を有します。(※説明は上記参照)
4、操られた幻想種&精霊たち
大樹ファルカウに存在した精霊や幻想種達です。彼らは眠りに落ちて夢を見ながら、体を勝手に操られているようです。
負傷することで目覚めることもありますが、躯は『カロン』が操っているために動きを止めることはしません。
5、夢魔
カロンの眷属達。大怪王獏(グレートバクアロン)やスロースボギー、スロースエムプーサが存在します
・大怪王獏(グレートバクアロン)
本来は悪夢を食う妖精ですが、冠位怠惰カロンの影響により変質し、怪王種(アロンゲノム)化しています。
ここに居る個体は、魂を食う恐ろしい怪物です。
近距離物理攻撃を得意とし、スマッシュヒット時にパンドラを直接減損させます。
・スロースボギー
本来は世界にあまねく邪妖精、幽霊や妖精のような存在ですが、冠位怠惰カロンの影響により変質し、怪王種(アロンゲノム)化しています。神秘属性の攻撃にはMアタックや摩耗、窒息系BSを伴います。
・スロースエムプーサ
本来は世界にあまねく邪妖精『夢魔』ですが、冠位怠惰カロンの影響により変質し、怪王種(アロンゲノム)化しています。
神秘遠距離攻撃を得意とし、麻痺属性BSで悪夢を見せ、HP吸収を伴います。
6、魔種『リュシアン』
ブルーベルと共に行動します。危なくなればブルーベルが『撤退してくれ』と願っているようです。
魔種ブルーベルの幼馴染み。初恋の人で、もう一人の幼馴染み『ジナイーダ』を自身が師事していた『博士』と妖精郷を襲った魔種『タータリクス』によりキマイラへと変貌させられた事が切欠で反転しました。
現在は『色欲の冠位魔種』の使いっ走りをしています。
その結果、タータリクスを反転させたり、カムイグラの動乱の切欠ともなった巫女姫を反転させたりと派手に動いている節はあります。
彼の目的は狂人である『博士』の撃破。其れまでは死ぬわけには鳴らないとイレギュラーズとの直接戦闘を避けているようにも思われます。
今回はブルーベルの気持ちを汲んで横槍を入れています。彼女の目の前で誰も死なないようにしてやりたいそうです。
●『夢檻』
当シナリオでは特殊判定『夢檻』状態に陥る可能性が有り得ます。
予めご了承の上、参加するようにお願いいたします。
●同行NPC
・珱・琉珂 (p3n000246)
・フランツェル・ロア・ヘクセンハウス (p3n000115)
ご指示在れば何なりとお願いします。
琉珂は皆さんがオジサマと対峙したときに助けてくれたからと此処に来ました。今度は皆さんの力になりたい。
フランツェルはリュミエを『<太陽と月の祝福>冬尽きて(愁GM)』へと送り出し、カロンの元に馳せ参じました。回復支援行動などを行います。
また、フランツェルは『朽ち逝く霊樹レテート』の最後の力を杖に有しており、いざとなれば障壁を張る事が出来ます。
・玲瓏公『ベアトリクス』
参考シナリオ『永遠のルシェ=ルメア』
リア・クォーツ(p3p004937)さんのお母さん。ベルゼーが『退いてくれた』為に命があと一滴残っています。
リアさん(と、リアさんの友人)を心配してこの戦場に馳せ参じました。
彼女はおかあさんですので、突拍子もなく飛び込んでくる可能性もありますが……。
・ライアム・レッドモンド
アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)さんの憧れた冒険者。『兄さん』。
幼い頃からアレクシアさんに冒険譚を聞かせていた青年は、深緑を襲った『よくある賊の襲撃』により大切な人を失いました。
ですが、アレクシアさんが起こした『奇跡』により、現在は『通常の人間』として活動しています。その猶予も幾許かしかないようですが……。
今回は皆さんと共に戦います。残された時間を、少しでも役に立てたいそうです。
●Danger!
当シナリオにはパンドラ残量に拠らない死亡判定が有り得ます。
予めご了承の上、参加するようにお願いいたします。
●情報精度
このシナリオの情報精度はC-です。
信用していい情報とそうでない情報を切り分けて下さい。
不測の事態を警戒して下さい。
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