PandoraPartyProject

ギルドスレッド

廃墟

【RP】贄神は星を見る

 夜空が見たい。
 思い立って、廃墟を貫いて立つ樹木の枝に足をかけて、両手で身体を引き上げるように木の上へ。無造作なそれにがさがさと枝葉が顔や手を打つが、痛み慣れしている分、あまり気にはならなかった。
 格闘することしばらく。やっと屋根の上の高さに顔を出すことが出来て、小さく一息を吐く。
 もとから長い幽閉と暴行で随分弱っていた上、それなりにあったレベルまで1に戻っているこの身体は、結構どんくさい。
 太い枝に腰を下ろすと、片足首に嵌ったままの枷が千切れた鎖と擦れて鈍い音を立てた。

「……星。月。……空、広い」

 人と会話をしないとすぐに端的どころか単語になりがちな呟きを零して、まだ夏の気配がしっとりと残る生温い夜風に左右異色の瞳を細める。
 広くて高い、どこまでも続くような夜空が、とても心地よかった。


・異世界からやって来て、ほんの数日。廃墟の屋根の上の、ある日のこと。
・入室可能数:1名
・どなたでも歓迎

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「………おしまいだ」

相手の触れる手の力が一瞬緩んだ隙を狙って翼を引っ込めた。
大分夢中になり始めていたように見え、このままでは延々と触られかねない。それは流石にむず痒いというか対応に困るというか…とにかくタイミングを見失う前に止めておこうと思った。
ばさり、と羽を一度振るわせ背中へと。

例えば、今ここで引っかかった事を質問したとして、もしかしたら相手は答えてくれるかもしれないのだろう。けれどその答えが返ってきた所で特にこれといって自分に出来る事など無いし、返せる言葉もきっと先程の様に間の抜けた相槌だけだ。容易に想像がつく。
星を見に来たと言っていた相手にわざわざ過去を遡らせる理由もない。上を見たいのなら、見させてやればいい。それが出来るからここにいるのだと、目の前の青年は言ったのだから。
気紛れで付き合っている自分が出来る話は、ただ一つ。「他愛のない日常」。
「金が無くても、飯は食えるぞ」

己が持つ生きる知恵をひとつ、要り様ならばと。

「釣りが出来れば魚が食える、罠の張り方を覚えれば新鮮な肉が食える」

要らぬ世話だと言われるならそれでいい。しかし世話好きは最早この男の性。
頭で控えようとした所で、関わらずやりすごそうと考えた所で、結局は手を差し伸べてしまうのだ。
偶に与えられる供物や木の実だけでは、遠くない未来行き倒れかねない。偶然とは言え袖振り合った相手だ。そんな事があっては気も滅入る。…あくまで勝手な想像の域を出ないのだが。

「これからもここで生きていく気があるなら、食料を捕る方法を教えてやれるが」

――どうする?
意志は相手に委ねた。
偶然の遭遇、そして気紛れの会話。その延長線。
男は少し楽しげに、僅かに口角を上げながら相手を見遣った。
「あ」

 翼が引っ込められると、思わず、といった調子の声が零れた。星を忘れるくらい、すっかり堪能しすぎていたらしい。
 少しだけ残念には思いつつ、引っ込められたものを追うような真似はしない。代わりに、ありがとう、と一言。もともと、聞き分けはとてもいい。長い耳の先がほんの少し下がったのだけは無自覚だ。

 狩猟を語る相手の言葉はとても新鮮で、左右異色の瞳がわずかだけ見張られる。
 つり、わな、とただでさえ張らない囁くような声が小さく繰り返す様は、その手のものに全く触れて来なかった証拠だ。
 そんな提案をされるとは思いもしなくて、どこか楽しそうにも見える相手の瞳に映るのは、ぱちくりと何度も瞳を瞬く間の抜けた姿。
 だって、善意の提案なんてもの、知らない。
 でも、ここはもとの世界ではないし、自分の酔狂に付き合って翼まで触らせて、降りる時は手伝ってくれるなんて言う相手を、もとの世界の住人達程度と同じに扱うのは、きっととても失礼で。

「…………知りたい、けれど。対価になるようなもの、これは、持ってない」

 微妙な間の後、少しだけ視線を伏せて呟き返す。
 色々考えた結果、何かをして貰うに見合うだけのものが返せないことに、今更ながらまず思い至った。
 自分は、これは、相手のそれに対して返せるだけの対価がない。技術は力だ、知恵だ、相手が身につけて来た経験だ。この身ひとつしか持たない自分が、何を対価にしたらいいのだろう。
残念そうにする相手に気付かなかったわけではない。けれど翼にばかり意識を集中されてはこちらも手持ち無沙汰になってしまうし、それに自分自身どうしても触れられる翼に意識を持っていかれてしまう。だからこそ今は、会話をする為に翼は畳んだ。
…どうやら耳も、相手の感情の判断をするには有効なようだ。
少し垂れた耳を見ながらそう思った。

そして己が提案した言葉には数度瞬く視線、驚いたような表情。
…そんなにおかしなことを言っただろうか。
食べるのであれば食材が必要だ、食材を獲るためには知識と技術が必要だ。
目の前の青年が行き倒れぬように、必要最低限の生活を自身の手で賄えるように。
何もおかしなことは言っていないはずだ。

男は青年の返事を、じっと待つ。
暫しの沈黙の後、帰ってきた言葉に今度はこちらが目を瞬く事になる。
対価が無ければ成り立たない事が前提として根付いた意識。
そして「これ」とは多分自分自身の事だろうか。物を差す様言い表された一人称。
思考に理解が至れば次第に男の眉間に皺が寄せられていく。

「“対価”というものは、それに相応しい願いにこそ求められる物だ。…オレはそこまで器の小さい出来はしていないつもりだが。」

此度の提案は結局のところ自分本位の考えの元で投げ掛けられたものだ。
己の感情の機微、考えた末の最良の選択。
たったこれだけの事で相手から何かを頂こうという気など微塵も無かった。
故に僅か、機嫌が損なわれるのが眉間の皺となって表れた。
しかしその対価ありきの対人関係がこの青年の根本的な成り立ちとなっているのならば、自分がいくら怒ったところで意味はない。
であれば――

「「知りたい」と、今言ったな?その願いがオレにとっての対価だ。」

それ以上は必要無い。
表情からは眉間の皺が失せ、ただ真っ直ぐな視線が注がている。
 相手が自分のどこを見て感情把握に努めているかなど露知らず、一度下がった耳は驚いた時にまたほんの少し、ぴゃっと先端が上を向いた。
 相手の眉間に皺が寄ったのを見ると、一瞬だけ、ぴくりと肩が揺れた。
 意味する感情は、怒り、なのだろうか。自分は何かしたのか。相手を怒らせたのだろうか。
 おろ、とほんの少し頼りなく視線が泳ぐ。怒りの感情は怖いものだ。大抵、とても痛い。
 けれど、一瞬身構えてしまったのも束の間、次の言葉は自分の予想の範疇外。
 まっすぐな視線に、また呆けたような反応を返してしまう。普段伏せがちの癖を持った瞳が、まぁるく見張られていた。

「……ぇ。そ、れ、君の対価になる、の」

 動揺が声に出て、変に途切れた。
 もしかしなくても。今夜出会ったばかりのこの青年は、名前さえそういえば知らない彼は、やっぱり、間違いなく、とびきりのお人好しなんじゃあなかろうか。そんな人種、物語の中だけだと思っていた。
見ているとこれが中々おもしろい。感情の起伏によって上がったり下がったりする耳。
一瞬機嫌を損ねたことを察したのだろうか、今度は驚いたように上がった耳が、そして揺れた肩が今の青年の心境を物語っている。
こういった感情には敏感なのだろうか、喜楽の感情の時よりも顕著に青年の感情が表情に現れ見て取れる気がする。
伏せられ隠れていた瞳が丸く見開かれた事によってはっきりとその形が見えるようになった。

「十分だ。そもそもオレが提案した事だぞ、むしろ必要ないくらいなんだがな。」

対価を支払わなければいけない状況も勿論この世にはごまんとあるのだろう。
願いに必要な対価を不要だと切り捨てたりはしない。
けれど今回のこれは言うなればただの助力の一端。ざっくりと言えば平均水準の生活をする為の手伝いを少しするというだけの話だ。むしろ対価を貰ってはこちらの気が引けてしまう。
納得できないか?未だ困惑している様子の青年に問い掛けた。
 他者の負の感情は、気をつけなくてはいけないものとして恐怖とともに記憶されていた。逆に、正の感情というものにはあまり縁がない。
 ゆえに、気づきやすいのは負の感情の方だった。
 十分だと言う相手の言葉には嘘がなさそうで、問われると相変わらず瞳がゆらゆらと頼りなく揺れる。
 対価も求めない、善意の提案なんて知らない。
 どうしていいのか、わからない。
 信じて恐る恐る手を伸ばした瞬間に取り上げられることに慣れていると、手を伸ばすことすら迷ってしまう。
 どうしたら。
 どう、すれば。
 じ、と揺れる割には瞬きもしない瞳が、穴が開きそうなくらいひたすらに相手を見つめる。動かない無表情に反し、緊張で、ぴんと耳が張っていた。
 無言が、続いて。

「…………、……たの、む」

 頭の中が忙しくて、返事をするまでにそれなりの時間を要した。
 けれど。
 折角違う世界に来て、折角自由になんでもやれるようになったのなら。どうせ何ひとつ持たない、明日をも知れない身なら。
 まず、この推定とびきりのお人好しを、信じてみるところから始めようと思った。
急かしはしない。
判りやすく不安を宿しながら揺れる瞳。何も言わず只々こちらを定める様に見つめる表情。
たっぷりの間を置いてようやく返ってきた言葉に、男は満足気にひとつ息を吐いた。

「ああ、頼まれた」

男の表情には最初から大して変化がない。相変わらず野仏頂面だ。
けれど声音から満足だという感情がありありと表れている。
どんな目論見であろうと妥協であろうと、目の前の青年から返ってきたのは了承という紛れもない意志。戸惑いから抜け出そうとした一歩目だ。
妙な達成感を感じながら、今の今まで忘れていた肝心な事を実行に移そうと徐に右手を差し出した。

「サイード、オレの名だ。」

握手を求めているのであろう伸ばされた手。
単なる暇つぶしにと足を向けたはずの奇妙な出会いからの思いもよらぬ展開。
我ながら自分のお人好し加減には呆れている。けれど、これで良い。
捨てきれぬ性分は過去への贖罪でもあるのだから。
 すごく、心臓に悪い。
 実際、自分はいつ死んでも、別にいい。とくに困らない。未練になるようなものも、ない。
 でも、それと、積極的に死にたいかは別で。
 生きるための方法は、糧を得る手段は、確かに今の自分にはとても必要だった。
 相手から快い了承が返って来ると、信じてみようとはしていたけれど、やっぱりどうしても驚いてしまった。
 表情こそ変わらないが、また一瞬だけ耳の先端がぴっと跳ね上がって、それから言葉を飲み込むように数秒。
 やっと気が抜けたように、ゆるゆると耳の先端が水平より下がって垂れる。

「?」

 差し出された手に、何度か不思議そうに瞳を瞬く。
 握手、という行為は、生まれてこの方したことがなかった。
 微妙な間ののち、白く細い、けれど荒れた手がそろりと伸ばされて、相手の行動を真似てみただけのようにその手に重なった。

「……オズウェル。これは、オズウェル・ル・ルー」

 小さな声が、名を告げた。
落ち着かない耳元。未だ覇気の無い声。
決めた後もどうやらまだ迷っている様子の相手に、男は遠慮をせずに固く手を取り握る。

出会って少しだが目の前の青年…オズウェルは、たぶん自分から望むことは無いのだろうと思う。望むとしたって他者が関わる事の無い事柄。自分一人で完結できるような事ばかりを願ってきたのではないだろうか。…けれど見た所、やりたい事が無い訳では無さそうだ。

やりたい事があるという事はつまり、生きる事を望んでいるという事。
無意識化であっても生きる意志が根底に無ければやりたい事など思いつきもしないだろう。
そしてだからこそ、限界というものに辿り着く。一人で出来る事の限界。
遅かれ早かれ、何かに手を伸ばさなくてはいけない時が来るはずだ。

そしてそれは、他の世界から来た者にこそ余計に、顕著に、襲い掛かってくる現実。
これが例えば自分の独り善がりなものだったとしても、確かにオズウェルはこの手を取った。望んだのだ。その機微を取り零してはいけない。

「教えるのは今度、日の出ている時にしよう。それでいいか?」

握手を交わした手を相手からも解ける様握っていた力を弱めながら、言葉に合わせて視線は空へ向く。変わらず点々と輝く星と月。
…そろそろタイムリミットだろうか、戻らなければいけない時間だと月の傾きが教えてくれる。
確認の意と共に、男は再び彼へと向き直った。

「オズウェル、星の鑑賞は気が済んだのか?オレはそろそろ戻らなきゃならない。」

降りるのであれば、手伝うが。
そう意味合いを込めて相手へと投げ掛ける。
 固く握り返された手に、ちょっとだけ驚いた。その手が自分のものよりもずっとしっかりして感じるのは、やはり体格のせいだろうか。
 触っていい、手を取れ、そう言われる前に他人に触れたのは、記憶を思い返してもほとんどない。握り返されたということは、多分、間違ったことはしていない。
 相手が自分に対してなにを考えているかなど知りもせず、極度の緊張後の安堵で抜けた気はふわふわとして戻って来ないままでこくりと頷いた。

「わかった。……また、ここに来るか」

 それとも、教わるのなら自分が行った方がいいのだろうかと、静かに問う。ただ、この男はこの辺りの地理にはまだまだ疎い。
 手が緩むと、そろりと自分から手を引いて相手との接触を終える。ひとの手はあたたかいんだな、なんて当たり前のはずのことを少しだけ思った。
 翼は散々触った訳だが、なんと言うか、そちらは普通にひとと手を重ねることとは別ものに感じていた。  
 つい、未知の翼に惹かれてちょっと夢中になりすぎたと言うか。じんわりはしゃいでいたままのテンションで、触りすぎた。だって魅力的だったから、つい。どうしても、気になって。

 星の鑑賞。
 そう言われると、ぱちりと瞳を瞬いた。
 あ。音は出さずとも、小さく唇が動いた。

「……すっかり忘れていた。色々ありすぎて、つい。…………そろそろ、これも降りる。眠い、気がする」

 夢中になったり、動揺したり。
 今夜は、星空より刺激的なあれこれがありすぎた。
 思った以上に、心が動くことは疲れるものだ。なんだか、自覚したらどっと疲れた気がする。いやなものではない、と、思うけれど、ちょっとだけ瞼が重くなって来た。
 やっぱり、本気で手伝ってくれるつもりらしい。
 そう気付くと、少しだけおかしい気分だ。お人好し。
 下りは、落ちなくてすむと嬉しい。
自分よりは明らかに小さな手。その手でこの大樹を登ってきたのだという事実が信じられない様な華奢さに今一度驚いて、つい相手をじっと観察してしまう。
すると返ってきた言葉に少しばかり目を瞬かせた。
"ここ"というのはまさかこの樹の上の事を差してはいないだろうな。
そうであればとんでもない事だ。何度か落ちそうになったと言っていたのを思い出し頭を振る。確認の意図も込め言葉の抜けが無いよう確りと返答をした。

「樹の下には建物があるんだろう?そこで待っていろ、俺が迎えに来る。」

間違っても登って待っていようとはするなよ、と念を押して言えば気を取り直す様に息を吐いて立ち上がり、樹の下を覗き込んだ。なるほど、やはり高い。
視線は再び戻り彼の方へ。頭から足先までを見てから、一度頷いた。

「抱えて降りるが、触れられるのは問題無いか?」

片脇の方に腕で円を作る様な動作。どうやら脇に抱えて降りようとしているらしい。
確認をしたのは青年が先程握手にも躊躇いを示していたから。
獲物でもないものを嫌がってるのも厭わず抱えて飛ぶ趣味は無い。だから確認をした。
背中に乗せては翼の邪魔になる。足に掴まって貰って降ろすという方法もあるが、何分あの華奢な腕を見てしまっては心許ない。相手の両腕を己の鉤爪で掴まえながらというのも見目的にアウトだ。どうしたって捕食に見えてしまう。故に、脇に抱えるという方法に至ったのだろう。
様子を見てみればどうやらうつらうつらと眠気もきているようだし、やはり相手の地力を借りるのは控えておいた方が良さそうだ。

「ああ、オレが邪魔をしてしまったのかもしれんな。…まあ、星はまたいつでも見れるだろう。」

"色々"、というのは大半が自分絡みの事だろう。嫌そうな様子は見られないから、きっと謝るのも違うのだろうなと単なる軽口に留めた。
眠気のせいか今までにも増してのんびりとし始めた話し声を聞きながら返事を待つ。
 人生のほとんどを神殿で過ごしていたとはいえ、実年齢は長命種のそれだ。けれど、その外見は十代後半から二十代。おまけにまともな生活はしていないのだから、痩せ細った身体も、身長が伸びなかったのも、多分仕方がないことだ。おそらく、相手の想像する通りに非力だ。残念ながら。
 観察する視線に気づくと、ゆったりとした動きで小首を傾げる。別に見られることは気にならないけれど、どうかしたのだろうか。
 相手の疑念は恐らくは当たりだ。木の上に来いと相手が言ったなら、異を唱えることなく、ごく素直に了承してまた登っただろう。

「……わかった、待つ」

 危機は、無事に未然に防がれた。
 じんわり眠気を感じながら、少しだけ危なっかしい動きで身体を捻って下を覗き込む。
 当然高いし、下に明かりがある訳でもないから当然暗い。
 ……これ、どうやって降りよう。
 ここは、廃墟の上に飛び出た大樹から伸びた枝。約三階建て。の、屋根より上。
 登って来た時は、どこに足をかけたのだったか。
 登るだけ登って降りられなくなった猫のようなことを考えていたら、不意の提案。手を貸してくれるとは聞いていたけれど、まさか運んでもらえるとは思っていなくて、思わずきょとんとした様子で相手を見返した。
 何度か瞳を瞬き、相手の言葉を飲み込む。
 抱えて、運んで、飛んでくれる、らしい。多分。

「……問題はない、けれど。いいの」

 おず、と問い返す声。
 いいのだろうか。というか、重くないのだろうか。
 戸惑いは、触れられることへのものではなく、そこまでしてもらえることへの方が大きい。まして、いくら痩せぎすとはいえ男ひとりを運ぶのは、苦ではないのだろうか。

「邪魔じゃ、ない。……ん。星は、また見に来る」

 首を横に振って否定しながら、次への意欲をほんの少しだけ覗かせる。
 要するに、またこの大樹の上へと登る気があるということだが。
樹の上での待ち合わせはどうやら回避できたようだ。一つの懸念が解消された事に胸を撫でおろし改め背筋を伸ばす。腕を伸ばしもう片方の腕を交差させ、身体を捻りながら解していけばうちに巡る筋が柔軟性を取り戻していく感覚。
背に収めていた両翼がゆっくりと広がり、その身を覆う程の大きさで影を作る。

不思議そうに小首を傾げた相手に「気にするな」と言いながら柔軟を続けていれば、下手をすればそのまま落ちてしまいそうな危なっかしい動きに咄嗟に首根っこを掴みそうになる。
しかし想定された最悪の状況が起こる事はどうやらなさそうで。
…本当にこの青年は、僅か目を離した隙にとんでもない事態になっていそうで違った意味で末恐ろしい。

十分に解れてきた所でさて、とひとつ呟く。
呆気に取られている相手に手を伸ばし言葉を投げ掛けた。
「降りるぞ、立て」

座ったままの体勢でいられては抱えるものも抱えられない。
相変わらずの武骨な物言いで立つようにそう促した。
言葉の調子から、どうやら相手は心配をしているのだろうと受け取れる。確かに片腕に人一人を抱え運ぶともなれば相当な力がいる。重量が偏る分飛ぶ時のバランス取りも難しい。
しかし男にとって目の前の青年を抱えて飛ぶ事など大して難しい事では無かった。
元来、種の祖先であるイヌワシは狩りの際には己の体躯よりも二回り大きな獲物でさえ狩る事も珍しくはない。男はその血を継いでいる。さらに言えば部族での狩猟の際にもそのような事等は日常茶飯事。
己よりも小さな者を運ぶ事など、造作もない。

「心配するな、そんな軟な鍛え方はしていない。落としたり等しないさ。」

伸ばされ広げられた手を相手の目の前に、その手が取られるのを待つ。
しかし続いた青年の言葉に小さな懸念が再来した。

「可能ならここに登らない方向性で頼む…」
 動く前に体操をするという認識もなく、相手の動きを不思議そうに見つめる瞳。
 大きく広がる猛禽の翼に、表情こそ変わらない癖に心なしか瞳が輝いて、耳がぴこりと上を向く。
 この大きな翼に、さっきまで触らせてもらっていたのだ。やっぱり、すごい。野に生きるものは、すべて眩しくて、いきいきとして綺麗だ。自分には、とても。とても、遠い。

 相手が自分の動きに不安を感じているだなんて気づくはずもなく、ごくマイペースに体勢を戻し、気にするなと言われたから視線は気にしないことにした。
 立てと言われると、大樹の幹に手をついて、下ろしていた脚を引き上げる。座った所から立つのが意外と難しい。
 不慣れな様子でなんとか枝の上で立ち上がり、一瞬よろけそうになって慌てて近くの枝に掴まった。少し、足元がおぼつかない。

「……力持ちだな、随分」

 すごい、と言外に言いながら、枝を掴んでいた手をそろりと外して、相手の手を取った。
 自分を運ぶことで相手にまで連鎖的に不運が発動しないといいのだけれど、とぼんやり考える。
 何しろ、このギフトには不運が強制的に常時セットだ。
 ギフトになってからは己の不幸を糧に幸運を放出する体質は弱くなり、指向性の選択権は与えられた。けれど、セットの不運は制御出来ないし、こうしてギフトになってから他人と接触することもほぼなかったから、自分の不運に相手を巻き込まないかもわからない。
 登った時は普通に鈍臭くてずり落ちたり踏み外したりする以外に、途中で鳥の巣から怒った親鳥に突かれたり、枝を這っていた蛇を握ってびっくりして手を離す、などの地味な被害があった。
 これ、言っておいた方がいいだろうか。でも、それで手が引かれてしまったら、どうしよう。
 ギフトに感謝してはいるけれど、それと、このお人好しを巻き込むかは別の問題だ。悩む。

「登らない方向……外に出る」

 星を見るには、外に出ないといけないらしい。
「生きる為に、必要だったからな」

力はその為につけたのだと、相手の言葉に返す様に。
随分とこの翼が気に入ったらしいオズウェルの視線を僅かむず痒く感じて、広げた翼の羽の先で自分の視界と相手の視界を遮る様に顔の前に壁を作った。
真っ直ぐな視線には、どうにも耐性がつかない。

了承は得られたので、取られた手を引き、抱える様に腰に片腕を回す。
腕と同様、細い腰回り。とは言ってもそこはやはり男の骨格。
流石に回した腕の間に空いた隙間は広くはなかったが、それでも"薄い"のには変わりなかった。

「なるべくゆっくり降りるが、余り動かないようにな」

大きく動かれればその分バランスも崩れる。下手をすれば落ちる可能性も出てきて危険だ。
加えて、舌を噛まないようにとも注意して飛ぶ体勢を取ろうと翼を再び広げる。

…と、不意に見たオズウェルの様子が随分と考え込んでいるように見えて。
「…どうした、やはり抱えられて飛ぶのは不安か?」

怖いのだろうかと思った。
ここに登ってるのだから高所恐怖症のきらいは無いのだろうが、やはり普段飛ぶ事に慣れてない者からすれば地面から足を離し宙に浮くというのは感覚的にとても不安が湧き上がるものだと聞いたことがある。
だから彼も、そうなのだろうかと。

そして続く回答に、更に首を傾げる事になる。
方向性の変え方をどこか間違えている返答に疑問符を浮かべながら、完全に不正解というわけでもない為に頷かざるを得ない。
確かに星を見る為には建物の天井に穴でも開いてない限り外に出るのは必須だろう。
けれど求めていたのは、「危険を冒さない様星を見る方法」だ。この返答はきっと理解していないのだろうな、と。
無知なのか、天然なのか。おそらくはどちらも含むのか。
――本日何度目かの、溜め息をついた。
「生きるための、力」

 ぽつりと小さく呟いて、ほんの少しだけ眩しそうに瞳を細めた。
 視界を遮られると、ある意味では翼が見放題な訳で。まじまじと見つめる翼は、やっぱりとても綺麗だった。

 誰かに腰に手を回されるようなことは、生きて来て、地味に初めてじゃあないだろうか。というより、自分を害す目的以外でここまで誰かと密着することが初めてだった。
 落ち着かない。けれど、それでもそわそわするだけで比較的落ち着いていられるのは、相手を安全だと思い始めているからだ。
 わかった、と返すより先に相手が自分の様子に気づくと、また少しだけ悩むように瞳を伏せて。

「……そうじゃ、ない。その。これのギフトが、少し厄介で」

 言いづらそうに、相変わらずの聞き取りづらい小さな声で答えた。
 飛んでみたかったから、飛べるのは、実はちょっと嬉しい。でも、不運に巻き込むのは嫌だなとも思う。
「効果と、不運が、セットで。不運と言うか、不幸と言うか。突然発動して不運が起きるから、何が起きるのか、いつ起きるのか、これにもわからなくて。……ギフトを得てからこの世界でこんなにひとと接触したことがない、から。君まで巻き込まないか、わからない」

 長く喋ると、少し疲れる。もともと大きな声は出ないのだ。
 訥々とした説明は、ただ、思い至ってしまったそれに相手が巻き込まれたらどうしようという、相手への心配と不安だ。だって、相手は見ず知らずの余所者の自分に優しくしてくれたひとだから。
 飛んでいて不運に巻き込まれて落ちたなんてなったら、自分は自分のせいだからともかく、相手に悪い。怪我、させたくはない。

 相手の本日何度目かの溜息なんて気づきもしない。この男は単純に、ごく素直に、相手の言う通りに「ここに登らないで済む」星を見る方法を考えただけだった。
 星が近かったから木の上は魅力的だったのだけれど。
"ギフト"
確か、混沌世界から与えられたものだったか。望まぬせいか未だ己の手の内には無い代物。
彼の所有するギフトはどうやら随分と犠牲の偏りがありそうだが、説明を聞いた上で成程と考え込んでいた理由に納得した。

「…そのギフトで、死ぬ事はないんだろう?」

暴れることなく身を預けている青年に問い掛ける。
傷なんて今までに数えきれない程つけてきた。そのギフトで例えば不運を招いて傷を負う羽目になったとしても、それは男にとって大した問題ではない。
命さえあればあとはどうとでもなる。
例え不安気な様子の彼がいくら気に掛けてくれたところで、その懸念材料は男の手を引かせる決定打とは成り得ないだろう。

「未来の不幸を憂いて足踏みをするほど、繊細には出来ていないんだ、オレは」

死は訪れるべき時に訪れる。
どう抗おうと、それを避ける事など出来ようはずもないしする気もない。

「……むしろ、」

言葉は途中で途切れ、口は閉ざされる。
男は過去を思い不幸を受け入れる。
犯した罪の分だけの災いを、むしろ歓迎すらしている程だった。
けれどそれを今目の前の青年に対して口に出して言ったところで余計な心算を増やすだけ。
出会ったばかりの青年に吐き出す事でもない。

余計な事を口走りそうになった口を固く結び、思考を振り払う様にオズウェルを抱える腕にぐっと力を込めた。

「とにかく、オレの事は構わなくていい。放ってお前に落ちられでもしたらそっちの方が寝覚めが悪いからな。」

大樹を掴む鉤爪に踏ん張りを加え、膝を曲げて身を低くしていきながらゆっくりと飛ぶ体勢へ。身を屈めた分だけ翼は大きく広がりその羽に風を受ける。
飛び立つまで、あと数秒。

「舌を噛むなよ」

先に忠告した事を、もう一度。
飛び立つ前の感覚は何度経験しようが心地良さは変わらずにその身を湧き立たせる。
どくりと鼓動が脈打つ感覚を感じ取りながら自然とその口角は上がっていっていた。
星の話を、置き去りにして。
「……ない、と、思うけれど。多分」

 自分はせいぜい怪我をしたりするくらいで済んでいるから、多分、おそらく、きっと、死なない。と、思う。
 断定出来ないせいで、その言いようはとても曖昧で、淡々と紡ぐ声は変わらないにもかかわらず、自信がなさそうに聞こえる。見上げていた視線も、自信のなさを表すように少しだけ相手から外れた。
 何しろ、この世界に来てまだ数日だ。要するに、このギフトを手に入れてからまだ数日。検証するには日数が短すぎる。まあ、下手をすると検証結果が出るイコール自分の死、な訳だが。
 繊細ではないと言ったって、怪我をして飛べなくなりでもしたら困るだろうに。本当にいいのだろうかと見上げていたら、不意に途切れた相手の言葉。

「……むしろ?」

 相手が何を思っていたかなど知りもせず、不思議そうに一度瞳を瞬いて、続きを促すように静かに同じ言葉を繰り返した。
 けれど、自分のことは構うなと言われると少しだけじとりと相手を見返して、どことなく不服そうに。

「……これだけ人の世話を焼くくせに。君に何かあると、これから教わるなら、困る」

 自分のことは構うなだなんて、ちょっと無理がある。
 優しいひとは、気になる。だって、無償の善意なんて、優しいお人好しなんて、物語の中の存在だと思っていたから。相手のそれが本物なのか、まだわからないけれど。本物だったら、どれだけいいか。そう思って、手を取ったのだから。
 それに、これから相手から色々と学ぶ予定なのだから、相手に何かあるととても困る。食料確保の先生がいなくなる。
 それだけは言いながらも、相手が飛ぶ動作をした瞬間に慌てて腰に回った相手の腕に手を添えた。自分、どうしよう。これ、どういう体勢でいたらいいのか。
 空。下に降りるまでのひと時とは言え、ずっと見ていただけのそこに行ける。心が弾まないはずがなかった。
お墨付き、には程遠い回答だったが、少なくとも今までに事例がない事が分かっただけで十分だった。
そもそもが狩猟人たる気質、気構えのある者が怪我など恐れていてはどうするのか。
どんな不運だろうと失敗だろうと、怪我をする事は己の責任。己の未熟さが生んだ結果に過ぎないのだ。相手のギフトがどの程度の効果をその身にもたらすのかは未知ではあったが、恐れはしない。誰のせいにする気も、無かった。

「…お。」

言葉を切れば垣間見る事のできた青年の表情。それはこれまでに見たものとは違っていて。嬉しくとも表情は然程変わる事の無かった彼が今は目に見えて不満を露わにしている。
不服を申し立てられているのにも関わらず、男はどこか達成感を感じながらその表情を見ていた。

「初めて表情が崩れたな」

してやったり。そう言っている様にも聞こえる声は楽しげで。
けれど言葉の続きを口にする気は尚も無い。
…そういえば、と。会った当初不平不満の持たない相手を不思議に思っていた事が頭に浮かぶ。それがどうだろう、今、その類の表情と言葉が目の前にある。
…まさかそれを引き出すきっかけとなったのが、己の身を気にかけての事になるとは思いもしなかったが。

飛び立とうと構えれば腕に添えられる手の感触、僅か困惑している様子が見て取れる。
不安定に揺れぬようにしっかりとまた腰を抱え直した。

――ばさっ…!

大きな羽音が一度耳に届けば続けて二度、三度。
大樹の枝を掴んでいた鉤爪の足を蹴る様に宙へ飛び出せば風を一気に受けて浮き上がる感覚。
星が抱く空へと、飛び立った。

「ちゃんと出来るみたいだな、そういう表情も。心配するな、オレが言い出した事だ。中途半端に放り投げて死ぬなんて間抜けな事はしない。」

自身の事に対する口は堅く閉ざされてしまったけれど、「大丈夫だ」と、男はそれだけを強く言の葉に乗せた。
 自分の表情が大きく変化した自覚はなかったけれど、わずかに寄った眉。じとりと相手を見上げる左右異色の瞳には確かに揺れる色があった。長い耳は、ほんの少しへたりと下がり気味。
 不服とか、心配とか。それを感じる相手を今まで持ったことがないだけで、ない訳ではないのだ。
 自分自身のことに不平不満を強く持つなんてことは、もうとっくに遠く、諦めて疲れて忘れてしまった。誰かを心配するのも、それを向ける相手がいなかったから、しなかった。


「……なんで楽しそうなの君」

 淡々とした小さな声にも、やや責めるような、拗ねたような、そんな響きがほんのり宿った。
 心配余って責めているのに、妙に楽しげとはどういう了見だこの男。しかも、問うたことに答える様子はない。別に、無理に答えろとは思っていないからいいけれど。
「わ……!……わ、あ、空、だ……」

 文句も疑問も、鉤爪の脚で強く蹴られた枝がしなってのちの、一瞬の浮遊感に持って行かれる。
 ぶわりと夏の名残りの生温い風が巻き上がって、長い髪が煽られて翻った。
 思わず漏れた感嘆に、心奪われたように呆けた声が続いた。大きく見張ってまん丸になった瞳は、伏せて地を見てばかりの時より、余程幼く素直だ。
 空が、とても近い。木の上に登った時以上に、ずっと。足の下に何もないのがひどく落ち着かないはずなのに、そんなのどうでもよくなるくらいに、空を飛んでいるという事実に心を奪われていた。

「…………、……死なないなら、いい」

 やがて、やっと一言ぽつりと落とす。
 腰に回った相手の腕に添えた掌だけが、少しだけ力を込めることで淡々とした声に反する気持ちを伝えた。
楽しげな己の言葉に、責めるような言葉を乗せた小さな声が返ってくる。
それすらも楽しく思えてしまうのは相手が初めて表情を崩したからに他ならない。
眉根を寄せる事も無かった、言ってしまえば人形の様にも思えた相手が自分の一挙一動や言葉で初めて表情を崩したのだ。図らず気分も上がるというもの。
自身もあまり表情が変わる方ではないし仏頂面が張り付いてるようなもので、人の事が言えた義理ではないのだが。

「表情が無いよりは、微かでも変化があった方がやはり面白いなと思っただけだ。」

他意はない、と続けて零しながら頬を滑り撫でていく風の心地良さに目を細める。
両翼を大きく広げ風を受け、時折緩やかに羽ばたかせながらゆっくり、ゆっくり地上へ。
空にはしゃぐ青年の様子を見ながらなるべく長く空中遊泳を楽しめるようにと、身を包み遊ぼうとする風を慣れた様に自在に操る。
…途中、長い間を空けた後に呟かれた言葉が耳に届いた。
同時に腕に感じる微かな力の感触。
相手の表情は体勢とその長い髪の波によって見ることは出来なかったが、言葉には確かに己の意志に反する音が込められていた。

「………。」

子に縋られる、という感じに近いのだろうか。
生を受けてたったの二十数年。己の子を持ったことは無い。
その上相手の年齢すらもわからぬのに「子」と表すのも如何なものかとは思ったが、その行動は何処か近しいものの様に感じられた。

虚勢、自信、鼓舞。
それらの思いを込めた言葉は口にしてきた。
けれど、"約束"にはしなかった。相手の言葉には返さぬままで、近づいていく地面へと視線を向けた。
 この世界のどこにも、あの神官達と信者達がいない。この世界のどこにも、あの神殿がない。それだけで、随分と口が回るし、随分と気が楽な気がする。
 相手からの言葉はわからないではないことだったけれど、相手だって、きっとあんまり他人のことは言えない。気がする。

「……君もあんまりこれのこと言えない」

 でも、楽しそうにしているのはなんとなくわかってしまうから、なんだか落ち着かない。長い耳の先がほんのちょっと上がっては、また下がって、またちょっとだけ上がる。この耳はそれなりによく動く。
 負の仄暗い感情での愉悦ならともかく、正の感情で楽しそうにされるのには、どうにも慣れていなかった。

 風が心地よくて、星が近くて、夢のよう、とはこういうことを言うんだと思った。
 今夜は、色々なことがあって。とても、とても不思議な日だ。不思議な、ひとだ。
 物語の中のようなひと。
 けれど、触れられる、物語の中じゃない、ひと。
 相手が自分に「子」を想像しただなんて気づきもせず、ただ、その掌のわずかにこもった力と低い体温だけを相手に伝えていた。
 今日初めて会った相手だ。自分は、相手の人生に、決断に、何かを言う術を持たない。その権利もなければ、自分なんかの存在が相手に影響を与えるとも思っていない。自分は、消費されるべき物だ。
 でも。
 優しいから。
 自分にとっては、とてもお人好しだから。
 死なないといいなと、思う。

「……多分。物覚え、よくない、から」

 なんだか相手はこんなにしっかりしていて力強いのに、ふとした瞬間に自らを省みずに死にそうでちょっと怖い気がする。自分とは違った意味で。
 中途半端に放り投げることをしないと、今はっきり言ったのだから。
 有言実行、してもらおう。
 常識レベルから物知らずで、おまけに物覚えがよくない生徒を持ったのが運の尽き。覚えるまで頑張ってもらおうと勝手に決め、風の音に紛れそうな声で、呟いた。
同じ言い分が返ってきたことに、内心で苦笑を零す。
―確かにな
仏頂面が標準で十数年生きてきている様な男に言えるような事では無かった。
記憶がちらつく度に鉛玉が身体中を撃ち抜くような痛み、顔の筋肉が引き攣り笑う事を拒絶する。いつしかどうやって笑っていたのかさえ思い出せなくなる程の時が流れてしまった。

「…言える様な奴じゃないから、言うんだよ」

表情に変化が無い奴よりは変化がある奴の方が、負の感情ばかりの顔よりは正の感情を映した顔が多い方が、そのほうがいいに決まっている。
己が出来ないからこそ、周囲にいるものが表情を変化させてくれればこの痛みも少しはマシになってくれるのではないかと、そんな筋違いな思考に陥ってしまう。

口角が上がる感覚。男の表情が変わる。
しかし笑顔とは程遠い、――その笑みは自嘲の色で塗り潰されている。
物覚えが悪いから時間がかかる、だから長生きをしろと間接的に言っているのだろうか。
腕に抱えた相手は表情こそ乏しい、常識も無い上に自分の事には無頓着。少しの時間で抱いた彼の印象。
けれど表情が乏しいからといって感情が無いわけではないし、自分に対して無頓着なくせに他人に対しては必要以上に身構えるし気を遣っているような印象が見受けられた。

(……優しい言葉だな)


オズウェルは自分では気付いていないのだろうが、彼の内側はきっとまだ多くの"温度"を抱えてるんじゃないだろうか。喜怒哀楽のどの感情にしたって、今まではそれを外に出せる様な環境じゃなかっただけなんじゃないかとその言葉を聞きながら推測していた。

そのまま「子」に例えるのであれば…万国共通して、「子の成長は早い」。
きっと彼も当てはまる。好奇心はそのまま知識欲に繋がる。
だからこそこれから驚くようなスピードでそれらを吸収していくのだろう。彼自身すら、意識しない内に。
それでいい、通過点でいい。

「そうか」

今はその一言を、返すだけに留めた。
 表情を変えること。
 それはきっと滅多にないことで、けれど、それがどれだけ稀有なことであったとしても、笑顔からはずっとずっと、遠い。笑ったのなんて、一体どれくらい前だっただろう。もう、笑い方も、泣き方も、怒り方も覚えていない。激しい感情の波は、もう、ない。
 感情を動かさなければ、疲れない。痛くない。怖くない。辛くない。寂しくも、悲しくも、ない。そうやって何度となく思い込んでいたら本気で忘れてしまったのだから、もう始末に負えない。
 だからか、相手の仏頂面を見ても別に何かを思う訳でもなかった。
 人形のごとき白皙の無表情と、標準装備の仏頂面。
 きっと、さしたる違いはそこにない。

「……これには、難しい」

 自分ができないことを代わりにと望むようなそれに、ほんの少しだけ悩んで、小さく呟くように返した。
 わずかな眉間のしわももう消えて、もとのようにその淡い感情の発露は消えていく。
 角度的に相手の表情を見ることはできず、自嘲の笑みに気づくこともなく。
 見下ろした地面は少しずつ近づいて、それがなんだかとても残念で。迎えに来る、そう言われたのに、次があるのかも少しだけ不安になる。それはただ、わざと期待を持たせて裏切る所業に慣れてしまったからであって、相手に何がある訳でもない。

「次。待ってる」

 端的に。
 喋りすぎて疲れた喉で返せる言葉なんて、こんなものだ。相手が何をどう考えていたのかすら、気づいていない。だから、込められた意味は単純明快で。
 次の約束をしてくれたから、ここでちゃんと待っているから、と。
 木にも、登らないでおく、ことにする。あの星空はとても惜しいけれど、できれば違う方法にしろと言われたから、言うことはちゃんと聞く。
 相手は自分にとってこの世界で初めて「手を取ったひと」で、「空に連れて行ってくれたひと」だ。
 きっと、ずっと、この瞬間を忘れる日はこない。
――鉤爪が地に触れる感触。
最後に一度、大きな羽ばたきの音を静かな夜の中に響かせて、翼はその背に収められた。
地上へ着いた合図の代わりにゆっくりと息を吐く。
その呼吸の早さに合わせて抱えていた青年の身体を降ろしてゆく。
難しい、と答えた彼の表情は元通りの凪いだものに。無意識の内に己が求めていたものに勘付いてしまったのだろうか。やはり、敏いのだな、と。
それ以上は何も言わずに良き頃合で掴んでいた腕を離していく。
続かれた言葉には、少し間を空けてしまった。

相手の何かを変える大きなものなど、何も持っていない。けれど、放っておけないのも本音。この身に染み付いた性だ。
であれば少しの間、別の世界から来たこの旅人が求めるままに。

「…ああ、次」

確認するかのように繰り返す相手に意識の外で自身の手が動き、青年の頭へと伸びていく。
撫でようとしているかのように。

「怪我がないようにな」

"次"を明確にしていく言葉を、繋いでいく。
 短い空の旅が終わってしまったことをとても残念に思いながら、地面についた両足にまだどこかふわふわとした不思議な感覚を覚えた。
 ぐ、と強く両足を踏みしめ、その感覚を追い払う。
 離れていく腕を、無意識に視線で追いかける。相当に久々に自分から触れた他人は、思いの外、ずっと、とても、優しかった。

 次。返された言葉に、ほんの少しだけ安堵したように耳の先が下がって、空気が和らいだ。
 頭へ伸びる手を不思議そうに見た瞳は、先程相手に抱かれて空を飛んだからか、その手に安心したのか、逃げることもしない。
 細くて柔らかな髪は手入れ不足か荒れてはいるけれど、撫でられると心地よさそうに瞳を細めた。
 神殿で長く生きて来たけれど、撫でられたことなんて一度もない。でも、なんだかこれは心地がいいことのような気がした。

「ん。怪我は、気をつける」

 次が、嬉しい。
 こくんと頷いた素直な言葉は、淡々とした中に確かな喜びを伝えた。
最後の言葉に満足したのかひとつ頷いて、受け入れられた手をそのままくしゃりと。
指先に触れる長く細い髪は思いの外柔らかく、内心で驚きながらも嫌がる様子も無かったので少しばかり堪能させてもらった。

数度目の往復の後、男の手は離れてゆく。
青年の髪の毛は少しだけくしゃくしゃと乱れていた。
夜の闇の中ではその黒い髪の乱れを視認する事は出来ずに、気付かずそのままの状態となることが避けられなそうだ。
そして、降ろされた手の代わりにもう一度その背に寄り添っていた両の翼が大きく広げられた。
音をたて、ひとつ翼を羽ばたかせればあっという間にその足は地を離れていく。
二度、三度と翼は羽ばたきその度に風を受けて男の身は上へ、上へと。

"おやすみ"
最後にその口元が言葉を形作った様に見えたものの、強く羽ばたいた風の音でその声はきっと届かなかっただろうか。
男の起こした風だけが青年の髪を揺らしながら名残を残した。
 頭に触れる手に、恐怖や嫌悪は感じなかった。
 心地よさを感じたのは、恐らく、相手に一定の安心感を持っていたからだ。頭部なんて人体の中でも重要な場所に触れられるのだから、そうでもなければ落ち着けない。

 離れて行く手を視線で見送って、羽ばたく翼に、あ、と唇が小さく動く。
 くしゃくしゃと少しばかり乱れた髪は気がつかないまま、見上げる視線はどんどん高く登って行く青年を追いかけた。
 出会った時と同じ、満天の星空と、立派な翼の有翼種。
 やっぱり、その光景をとても美しいと思った。

「…………寝なきゃ」

 風の名残に、最後の声は聞こえぬまま。
 ただ、その姿が見えなくなるまで立ち尽くして見送った。
 小さく呟いた声はどこかぼんやりと、心持ちふわふわとして、今夜のすべてに現実味がない。
 けれど、乱れた髪や、怪我も増えずに木から降りて来たのがその証拠。
 何もかも、本当の、話。

「……夢みたいな夜、だった、な」

 夢の中より夢のよう。
 廃墟の立て付けの悪い軋む扉をくぐって、一度だけ、夜空を見上げる。
 当たり前だけれど、星は、空よりずっと遠い。

 今夜は、良い夢が見られそうだった。

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