シナリオ詳細
<グレート・カタストロフ>自凝島<けがれの澱>
オープニング
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天は鳴き、地は呻く。海は流離い、砂は靡いた。
厄裳は一人、神域に佇み記憶を貪り喰らう。己が腹を満たすのは在り来たりなムービーショウでは事足りやしないのだ。
脈々と続いてきたこの国の歴史は雪道に足跡を残すような美しい物などではなかった。ただ、降り積もった雪がその全てを覆い隠しているだけで大地には無数の屍が転がっていることだろう。
人間とは浅ましく、人の営みは何と穢らわしい物であったか。故に厄裳は食った。食って、食って、その足跡を美しき物にした。
神霊は死すら遠く、微睡みさえ僅かなものだった。悪食であった神霊はけがれを司り、死にゆく罪人の穢れを食った。
八百万を殺したという獄人の男は旨かった。その記憶に染み入る怨嗟は此れまで受けた凶刃の鋭さをも物語る。
獄人の女を殺したという八扇の男は旨かった。その記憶は縺れた糸のように絡み合い何とも言えぬ味わいであった。
腹に蓄えた厄裳は舌舐めずりをした。待ち受けていれば罪人が記憶(えさ)を持って遣ってくるのだ。
伽藍になった罪人は自らの傀儡にすれば良い。傀儡共は市井に帰り、記憶(えさ)を探し求めて遣ってくるのだ。
「厄裳様」
呼ぶ女の声に、振り返った。それは最初に傀儡とした幼子だった。
その時より彼女のかんばせは愚か、姿形に何ら変化もない。九つで時を止めた八百万、『ヤクモ』は微笑みを絶やすことはない。
「記憶を幾つか買いましたが糧にはなりますまいな、厄裳様。
それよりも、世界の鼓動をお聞きになりましたでしょう。幸い、渡りはありましょうに。如何なさいますか?」
ヤクモの傍には男がいた。穢れその物と化した哀れな呪いの血脈。厄裳は眉を吊り上げてから息を吐いた。
「名すら食わせたか、哀れな鬼め」
厄裳に男は笑った。男が身に纏う気配は滅びそのものだ。本来ならば神威神楽の神霊である厄裳はそれを厭うはずだが、酷く焦がれた。
遠き海、天つ地にまで迫り来る世界の綻びは呼吸の仕方を忘れていた地が盛大なる呼気を吐き出したが如く。余りに歪な存在肯定が大食らいの口を開いて天に地に虚空を佇ませたのは致し方もないことか。
「何も持たないからこそオレを利用するんだろう、厄裳」
「旧き鬼よ。貴様はわらわに喰われて幾星霜。今やただの食いカスでしか在るまいが、お役目だけは分かって居たようじゃなあ」
厄裳の長い黒髪が揺らいだ。良く似た顔をした幼子は「ジュカク」と鬼を呼んでから答えを促す。
「ああ」
「申してみい」
「申せ」
またも、幼子がジュカクと呼んだ鬼の脚を蹴った。
柳のようにしなやかで細い脚に蹴り付けられようとも男はびくともしない。眉を顰めたのはその仕草が女児らしからぬ物であったからだ。八百万であるならばそれなりの地位が確約されているであろうに。それに彼女は畝傍家の――
其処まで考えてからジュカクは『興味が無い事を殊更に考えない』と首を振ってから厄裳を見た。
「自凝島の奥底に穴が開いたってんなら如何する、神様よ」
「愉快じゃのう。鱈腹溜め込んだ穢れを放ち、神威神楽を食らい付くさんとするか」
厄裳は唇を吊り上げてから振り向いた。
「良いな、薄雪」
女は答えない。長く伸ばした黒髪に、金色の眸の――『厄裳にもヤクモにも良く似た姿の――女は背筋をぴんと伸ばしたままだ。
「良いな、薄雪」
再度、神霊は問うた。翼に蠢く眸がぎょろりと瞬いた。
見上げる程の巨躯。神樹により誂えられた神霊の肉体は脆い古樹の気配を『滅びのアーク』でコーティングしたがらんどうな代物だった。
「良いな、と聞いておる」
もう一度問うてから厄裳はコヅヱの背後に佇む憂女衆を二人、三人と摘まみ上げ口腔に放り投げた。ばきりばきりと音を立て、直ぐさまに吐き出される。幼子が不得手な代物を口にして吐き出しただけのような単純な動作だ。
「不味い。コヅヱの作る女衆は記憶も伽藍で大した糧にもなりゃあせん。
薄雪よ、貴様がこの厄裳の坐す忘憂大社に異邦人を呼び寄せ、わらわを封じんとすること位はよぉく分っておる」
「……ご冗談を」
初めて薄雪は答えた。目を伏せて美しく微笑む。
「わたくしは、何時だって貴女様の御身が為に働いているではありませぬか」
薄雪の薄い唇が震えた。その視線が厄裳とヤクモを見据える。その肉体が『滅びと結びついて』幾星霜、耐え忍んだ女の正気が揺らぐ。
口では何とでも言えよう。畝傍 薄雪の目的など最初から一つだ。目の前の神霊を封じ、安寧の世をかの帝に捧げることのみだ。
(――薄雪、と。
ああ、『あなた』様がもう一度名を呼んで下さっただけで、この薄雪は幸せでございましたよ)
薄雪はうっそりと微笑んでから厄裳の元へと近付いた。
「御身はけがれを受けすぎた。自凝島という悍ましき地の穢れに、罪人の記憶をも喰らいながら御身は途方もない旅をしてきた事でしょう。
嘸、悔しいことでしょうに。罪人ばかりを喰らい、この様に狭い場所に鎖される事となった旧樹の御身よ。
嘸、悲しいことでしょうに。瑞神は討たれようと再誕を果たしこれ幸いとひとで在るかのように日々を謳歌している。
――貴女様には一つたりとも与えられることはありますまいに。厄裳様。
貴女様に待ち受けるはあの『伽藍の穴(バグ・ホール)』と共の心中か……神威神楽全てを飲み込み屠るかのどちらかだけですもの」
薄雪の胴を鷲掴んだ厄裳は唇を吊り上げた。紅を塗ったその唇の隙間から牙が見える。
「のう、薄雪よ。貴様の前で今上帝をも喰らえばどの様な顔をするのであろうな」
薄雪は、ただ、笑っていた。そうする事だけが彼を護る事の出来る唯一の手段だと知っていたから。
●
混沌各地にバグ・ホールが開いたという一報は直ぐ様に神威神楽にも届いた。
世界各国を学び、結びつきを確固たる物とせんとしていた『陰陽頭』月ヶ瀬 庚の報を受け、その全容の解明に朝廷も奔走する事となる。
「恐れながら申し上げます」
傍には黄泉津瑞神と黄龍が居た。『中務卿』建葉 晴明の顔色は普段よりも暗く、何かを耐えるかのような表情であった。
その沈痛の面差しに『霞帝』今園 賀澄は何か物思うことはあれど「申せ」と告げる事しか出来まい。
「自凝島内部にてバグ・ホールが発見されたという事です。そして――」
一通の文を男は手にしていた。その手跡(て)には賀澄も晴明も見覚えがあった。
「畝傍 薄雪……」
自凝島の麒麟の転移陣周辺はある程度の平穏が保たれている。攻め入る第一歩が為に黄龍が予めその周辺探査を行なった際にその文は見つかった。
神霊『厄裳』は滅びと結びつき、今や大陸を騒がす終焉獣とも呼べましょう。
厄裳は島全ての穢れを喰らい、神威神楽その物を滅びに導かんと画策しております。
人が居る以上、記憶は生まれる。その記憶を喰らい、想起し、兵と為す事の出来る厄裳は島から出してはなりませぬ。
今の厄裳は島に巣食う魔であり、島その物とも言えましょう。
その結びつきを利用し、自凝島に開いた伽藍の穴(バグ・ホール)の蓋とするのです。
わたくしは厄裳がただの古樹であった頃より翌々知っております。
あの『起憶』の獣は人の記憶を喰らい、暴走を繰返す。そのお役目より厄裳を降ろすなれば神をも御し封じるしかありますまい。
その終まであの麗しき『憶ひ獣』厄裳とわたくしは伴を致します。どうか――
「……」
賀澄は文を握りつぶした。薄雪という娘は役目には忠実であった。
何せ、畝傍という自凝島を管理する家に生まれてから極力の世俗との関わりを避けてきたのだ。
唯一の例外が『勝手に乗り込んでやってくる賀澄』であったのだ。意気揚々とやってきて、勝手に場を荒して帰る異邦の少年。
自凝島の次期管理者となるべき当主の娘は困惑した。庭に乗り込んできたかと思えば饅頭を食って帰るのだ。
――然うして彼が青年期を迎え、然るべき加護を受け、豊穣郷を良くするが為に刀を振るう姿までをも見てきた。
薄雪にとって外の世界とは賀澄であり、賀澄とは即ち『この国そのもの』だった。
「……薄雪」
彼女に広い世界を見せてやると約束したが、忽然と姿を消したまま、その約束は果たせぬか。
何せ、その身は滅びに侵食されている。彼女にとって厄裳は自らが管理し、慰めるべき神霊だった。その暴走は己が咎だと認識しているのだろう。
「薄雪の言を信じるしかあるまい。黄龍も『穴』を見付けたのであろう?」
「うむ。……見付けた。確かに薄雪の文の通りだ。厄裳であれば、蓋にはなれよう。
しかし、厄裳の力が衰えぬように記憶でも食わせた方が良いやもしれぬな。腹を満たし、膨れ上がらせ蓋をする」
「どの様な記憶でも良いならば、俺ので構わない」
「賀澄」
叱り付ける瑞神の声に賀澄は肩を竦めた。青年は神使(イレギュラーズ)をぐるりと見回してから屈託なく笑う。
「すまぬな、神使。我が国の事情に巻込んだ。
……知っての通り、俺と薄雪は幼少の契りより知った存在だ。その彼女の真摯な言葉を俺は信じることに決めた。
島に開いた大穴に一先ずは蓋が出来たならば、ある程度の対処はこの国内でも出来よう。
これ以上に何か起こる可能性も否めぬ。その時に対処が行えるために、早々に厄裳とは決着を付けておきたいのだ」
賀澄は静かに息を吐いてから神使を真っ向に見据える。
「俺が使えるのであれば使ってくれ。俺の記憶でも、俺の力でも構わぬ。
無茶はせぬ。何せ、翌々怒られた。貴殿等は恐いな。
……と、言うわけだ。島へ行こう。貴殿等と手を取り合い戦うために、憂いを全て拭い去るのだ」
- <グレート・カタストロフ>自凝島<けがれの澱>完了
- GM名夏あかね
- 種別長編
- 難易度NORMAL
- 冒険終了日時2024年02月07日 22時20分
- 参加人数25/25人
- 相談6日
- 参加費100RC
参加者 : 25 人
冒険が終了しました! リプレイ結果をご覧ください。
参加者一覧(25人)
サポートNPC一覧(3人)
リプレイ
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「賀澄様」
確かめるように、それでいて、何処か困惑を滲ませて。
その忠誠は鋭く、研ぎ澄まされた剱でもある。苦しげな表情を見せる『忠義の剣』ルーキス・ファウン(p3p008870)の呼ぶ声に振り返った今園 賀澄は彼の瞳が宿した意味を理解した様子で朗らかに笑った。
「心配するでない」
唇を噛んだ。ルーキスは忠臣であるが故に、賀澄に進言なぞ出来まい。それがこの国の在り方であるからだ。
そうは言いながらもこの男は圧政を敷く王でなければ、朗らかな気質を有している。何ぞを言えば、頷いてはくれるだろうか。
「賀澄様。覚悟の上で、貴方様が仰ったとも理解しております。手放しで賛成できるものでは無いが……他に有効な方法が無いのも事実。
ならば。その覚悟に応える為にも、封印は必ず成功させてみせる。全ては豊穣を守る為に」
手にした忠義の剱は、澄み渡った色をしていた。
向かうは自凝島。その先に何が待ち受けているかを誰もが知っていた。
「豊穣も、いよいよ大詰めか……歪んだ神霊に在り方を曲げられ、空っぽになってしまった巫女。
ひよのや秋奈も、何か歯車が違っていたらこうなっていたのやも、な」
ふと、そう呟いた『真打』紫電・弍式・アレンツァー(p3p005453)の視線の先には『音呂木の蛇巫女』茶屋ヶ坂 戦神 秋奈(p3p006862)の姿があった。
「……だけど、与えられるだけの記憶なんてまやかしだ。それは『他人の記憶』であって、自分で得た記憶じゃない。
幸せな記憶は自分で掴み取ってこそ、本当の意味がある。だろ、秋奈」
「もち。けどさあ」
秋奈は勢い良く駆けていく。相変わらずだと微笑ましそうに眺める紫電の傍より向かったのは賀澄のもとであった。
「くぁー! かすみちゃん! 徳の高いお坊様みたいな、悟りきったおかおをしやがって!
その全方向にマジ感謝していくスタンス、MIKADOのお仕事ならイイけど、ココじゃ命取りになるからな!
でもどうしてもやるってんならよー。ハッピーエンドで決着つけて実力でそいつを証明してもらおうかーい!」
「はは、出来るだろうか?」
「出来る出来ないじゃあ、なくってやるやらないだぜ」
さて、如何すると肩をぱんちする秋奈にそうだそうだと言わんばかりに肩を叩くのは『黒豚系オーク』ゴリョウ・クートン(p3p002081)。
「ぶはははッ、悔いだけは残さねぇようにな! 生きてこそだぜ、賀澄の旦那?」
「そうだなあ。なら、ゴリョウの飯が食いたい。どうやら胃袋を掴まれてしまった!」
「と言うと思っていたぜ! 腹が減っては戦は出来ねぇってな! おにぎりと豚汁くらいの軽いもんではあるが!」
準備は万端だと笑ったゴリョウに楽しげに賀澄は笑う。そうしていれば彼は本当にただの青年なのだ。
遠く見えた自凝島。その地に向かう事になるまで随分なときが経った。
「まさか自凝島にもあの穴が開いているなんてね。とはいえ、一時的にでも対処できるならまだマシって感じかな。
厄裳にはちょっと悪い気もするけれど……つまみ食いをした罰と思ってもらうしかないね。
さて、私にできることをしましょうか。豊穣のためにも、世界のためにも!」
にんまりと笑った『蒼穹の魔女』アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)に「あの穴か」と『竜拳』郷田 貴道(p3p000401)は予想谷していなかった『モノ』がある事に驚いた様子でもあった。
「んで? あのヤバそうでシャレじゃあ済まねェアレに神霊とやらを突き落とすって事か。
分かりやすくていいじゃねえか、まるで何処ぞの神話みたいだな。それを邪魔する連中を蹴散らすのが、今日のミーのお仕事って訳だ」
成程、実に分かり易いと貴道は笑った。寧ろ、バグ・ホールに一時的に対処できるだけ良いとアレクシアが言うとおり、幾分かマシだとさえも思えてならないではないか。
「行くぞ」
「気をつけるのじゃぞ」
ふわりと浮かび上がった黄龍に『生命に焦がれて』ウォリア(p3p001789)は頷いた。「此処に運命は決まった、それだけだ」と在り方を定めるのみである。
『優穏の聲』ゲオルグ=レオンハート(p3p001983)は賀澄と、その背中を見据える晴明を眺めていた。
「賀澄も晴明も自分の記憶を喰わせてもいいと言ってくれる気持ちはとてもありがたいが。
2人とも国の政に携わっていて、特に賀澄は民の上に立ち、国を背負う帝という立場。
記憶を一つ失えば、胸に抱いた誓いも全く違うものに歪んでしまうこともある。
自分を犠牲にするという選択肢を早々選ぶ事が出来ない立場であるということは忘れないで欲しい。
まぁ、純粋に犠牲になってほしくない気持ちもあるのだが……」
「そう言われると、俺も弱いな」
軽やかに笑った賀澄にゲオルグは小さく頷いた。
彼はそう言う男なのだ。心の柔らかいところにいとも容易く他者を呼び寄せる。
だからこそ、『やさしき愛妻家』黒影 鬼灯(p3p007949)にとっては些か理解に遠い存在でもある。
主と仰ぐならば、この様なことで揺らぐべきではない。それは忍という無情なる存在である自身の在り方でもあるのだろう。
彼の身辺に危機が迫っていることを知った章(つま)は「わたしも行くのだわ!」と唇を尖らせていた。
愛おしい愛おしい大切なお父様と慕う彼女。妻のその様子を見れば嫉妬をしてしまう可愛い亭主ではあるのだが、今は彼の『友』として隣に立つべきだろう。
「本音を言ってしまえば」
前置きに賀澄が顔を上げた。その顔を見れば主君と呼ぶ存在ではなく、ただの青年がいた。
「俺にとっては薄雪と貴殿の思い出はどうでもよい。
章殿が貴殿を父と慕い、貴殿も章殿を娘のように可愛がってくれている。その事実だけでよい。
貴殿がどれだけの記憶を奴に喰わせるつもりなのかは知らないが、章殿が悲しむことは間違いない。故に俺はそれを阻止する。
……実に簡単な話だな? 帝よ」
「鬼灯殿に言われると俺も弱くてな。意地汚い舅にでもなろうかと思ったのだが……
いやはや、婿殿は俺よりもしっかりとしておるのだからなあ」
困ったような顔をして、肩を竦めた賀澄に鬼灯は「章殿の為だ」と、それだけを答えた。
「ニルは……記憶はわたせない。ニルのだいじなもの。ニルを、ニルにしてくれるもの。
思い出があるから、ニルはがんばれました。
それがかなしいことでも……くるしいことでも……ニルは、わすれたくない。忘れちゃ、だめだと思うのです」
震える様子で杖をぎゅうと握り締めた。『おいしいを一緒に』ニル(p3p009185)にとっての大切なものは、屹度他の誰かにとっても愛おしく大切な者であるはずだ。
「……本当は、他の人の記憶がなくなっていまうのも、ニルはいや、で。
でも……そう決めたひとを止めるのはちがうとおもうし。
それが封印を成功させるのに必要なことなのだとは思う、けど。本人がなくすことを望まない記憶をなくすことだけは、止めたいです」
心優しいその言葉を口にして、ファミリアー達に言い付ける。安心して欲しい、と。
屹度恐いことも、苦しい事も、何もないはずだから、と。
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失いたい記憶があるという者も屹度居ることだろう。全てを喪って伽藍堂になって閉まったときの寂しさや侘しさを『昴星』アルム・カンフローレル(p3p007874)は知っている。
(そうだ。俺も初めてこの世界に来た時はそうだった。混沌の前に訪れた世界でも、その前の世界でも……。
霞帝も、中務卿も、この豊穣になくてはならない人だ。そんな人の記憶を食わせるわけにはいかない。
本当は、皆に記憶を失ったときの寂しさ、虚しさを味わってほしくない……
それでもここには、厄裳に記憶を食わせてでも、この国を守りたいという人がいる)
だからこそ、やるべき事は決まっていた。視線の先には知った顔が居る。それも酷く怒っているような顔をして居る。
「賀澄様、記憶を差し出すおつもりでしょうか? 自覚が足りないようですのでお説教してもよろしいですね」
淡々と告げる『心よ、友に届いているか』水天宮 妙見子(p3p010644)を一瞥してから、賀澄は小さく吹き出した。
ああ、この年齢に――思えば随分と歳は重ね、故郷も離れてしまったのだ――なってから『お説教』をして貰えるとは思っては居なかった。
「これはこの国を想う、蕃神からの言葉だと思ってくださいませ。
――貴方の立場を考えなさい。人の上に立つものが簡単に何かを手放せると思わないでください。
貴方がやることは背負っていくことです。何があっても、何をされても、です」
「思えば、俺も突然この世界に落ちるようにやってきて、瑞神の加護を受け甘ったるい理想と共に邁進してきた。
……そうだな、遠くにまで来てしまった。俺は人では無く、天だ。それが豊穣郷の――この国の在り方だ」
時の主上は、帝と呼ばれた者は『君主』として降臨するのではない。神の加護を受けた者が王座につくしきたりである。
故に、彼は選ばれた事によって人ではなくなったのだとそう語った。だからこそ、甘ったるい人間らしい考えを胸に抱いてしまったのだと。
「そしてこれは人としての私から……。
忘れてしまったら今の貴方を大事に想ってくれる人たちはどう思いますか。
薄雪様は貴方を守るために記憶を差し出さるを得なかっただけ。その気持ちを無碍にするのですか?
貴方の役目はこの地のすべてを見守ることですよ。だからここで手放してはなりません」
「あの子は幸せだっただろうか」
「……さあ、どうでしょう」
妙見子は薄く笑って見せた。そんなこと、薄雪にしか分からない。
いっそのこと、聞いてみれば良いではないか。幸せだったか、と。答えが分かったとて妙見子は言ってやる義理もないと賀澄に背を向けた。
「何故自分を犠牲に世界を守ろうとする者達ばかりなのでしょうね。……決めるのは皆さんと妙見子さんですからね。
ええ、私は私のすべきことをするだけ……遠慮なくやりたいようにやってきてください」
やれやれと肩を竦める『死血の魔女』マリエッタ・エーレイン(p3p010534)は嬉々とした視線を送る賀澄に気付いてから何処か気まずそうな顔をした。
「で、賀澄さん。なんで悪い魔女にそんなに興味津々なんですか……天義における死血の魔女。
何十年も前に我が儘の為に大量虐殺を行った魔女。そんなものの何がいいのやら」
「共存している貴殿に興味があるだけだ。大丈夫、魔女も俺とは良い友達になるだろうよ」
本当に困った人だとマリエッタは片眉だけを上げてから「けれど……いつだって魔女は奪う者、貴方の苦しみも奪って行ければいいですね」と囁いた。
「……晴明。この人のこと見張ってなさい。逃がしたら『お母さん』後で拳骨します。貴方も大事な人のこと悲しませちゃダメですよ」
背をゆっくりと向けた妙見子に賀澄を見てから晴明は「お母さん、か」と呟いた。
「妙見子。後で母の話を聞いて貰っても?」
「ええ。構いませんよ。望むのであれば」
穏やかに笑った妙見子は背を向けたままだった。彼は母を幼い日に喪い、父が処刑する光景を見てきたのだという。
そんな彼に母のように振る舞った妙見子を彼はどの様に感じた事だろうか。ゆっくりと進む妙見子の背を眺めていた晴明の背中を『よをつむぐもの』新道 風牙(p3p005012)が叩く。
「カスミさん、セイメイ、あんたたちの記憶は持っとけ。
双子たちの家族であるあんたらが何かを失うことは、彼女たちが失うことに等しい。……あの子たちには、もう何も失って欲しくないんだ」
晴明が目を見開いた。風牙を見てから「つづりとそそぎか」と呟く。
彼女達にとって、自身等は家族だ。賀澄からすれば風牙達とて双子にとっては家族のようなものだろう。
「はは、結局はあの子たち主体で、滅茶苦茶な押し付けだけどな!
でも、まあ、それがオレの偽らざる本音。そのために、オレはどこまでも戦えるんだ」
「風牙。貴殿も何か対価を払うつもりか」
「え? まあ。
……ああ、オレが出すのは大した記憶じゃないよ。『世界各地で食った美味いメシの記憶』。腹を膨れさせるにはちょうどいいだろ?」
軽やかに笑った風牙に「必ず、そうしてくれ。どの様な記憶であっても、双子の『親友』から奪わせたくはないのだ」と賀澄は告げた。
おざなりに頭を撫でる掌に「だから、大丈夫だって」と呟いてから風牙は俯く。ああ、だって、出し惜しみなんてするつもりはなかった、
――見透かすような目をされたって。仕方が無いではないか。大丈夫、『混沌での記憶』は全部が全部抱き締めて行くつもりなのだから。
(わたしの大切な人達の……いいえ、わたしの愛するこの国と未来を、守る)
小さく息を吐く。『約束の力』メイメイ・ルー(p3p004460)は小さく息を吐いてから一歩ずつ踏み出した。
「晴さま」
戸惑う彼は、先程は妙見子に叱責されていた。母親を亡くして久しい彼の困った顔は迷う幼子のように見えたのだ。
「参ります、ね」
「メイメイ」
彼に向けた眼差しは、何処までも真摯なものであっただろう。
「大丈夫。覚悟、をしています。
……晴さま。貴方は、もう何も失くさないでいい。全部、全部貴方に繋がっていくものなのだから、手放さないで」
メイメイはそれでも、と手を伸ばす晴明の手をぎゅうと握ってから微笑んだ。このぬくもりにも慣れてしまった。筆と刀を握る者の掌、硬く、骨張った指先。
「……わたしは、大丈夫。その掌に乗せるのを躊躇うぐらいには、わたしを想って下さっているのでしょう?
わたしは、居なくなりません、から。貴方の傍らが、わたしの居場所。わたしの傍らにも、貴方が居て欲しい」
晴明が目を見開いた。
「愛し――」
メイメイの唇に晴明の指先が触れる。それから首を振ってから、彼は笑った。
「……貴女に言われると、俺が情け無いみたいだな」
ああ、そうだ。あなたはとってもいくじなしでなさけない。メイメイは小さく笑ってから「では、待っています、ね」と微笑んだ。
いやはや、と呟いたのは『悪縁斬り』観音打 至東(p3p008495)だった。
「割と皆様前向きと言うか前のめりと言うかそんな感じなので、ここはひとつ後方防御を見ておきましょうか。
具体的には前線にまで出てきちゃってる厄介も――げふん、帝の身辺警護を。
V.I.貴人ですからね、ローレットの一人や二人、侍らせて損はないでしょう」
「ふ」
思わず吹き出す賀澄と、その言葉に妙な顔をした晴明がメイメイをちらと見る。
「あ、盾役でないのはご勘弁くださいまし。至東はしがない人斬りにございますれば、暗殺に使われる抜け道を見抜くこともありましょう」
「霞帝、人斬りを遂には雇う事となりましたか」
妙な事を言って見せた晴明に賀澄が「それも悪くはないな」と軽やかに笑う。
「黄龍。瑞と一緒に、いつも私を愛してくれてありがとう。私ね、この国を愛してる。絶対、全部護ってみせるよ」
にこやかに微笑んだ『龍柱朋友』シキ・ナイトアッシュ(p3p000229)へ、黄龍は「シキ」と呆けたように呼んだ。
彼女が何処か、遠くに行ってしまうかのような――そんな気がしたのだ。
●
――厄裳様。
唇に乗せれば、その言葉は厄介な音をして居た。名に含まれた忌むべき文字など遠く置き去りにしたような軽やかさであったからだ。
だが、それは『新たな一歩』隠岐奈 朝顔(p3p008750)が厄裳という存在に対して不快感を抱いていなかったからなのだろう。
「知的生物達の記憶に関する談義を観測出来て経験値が獲得出来た大満足だわ。さて……最後の戦闘(観測)を始めましょうか♪」
ウキウキとした様子で『狐です』長月・イナリ(p3p008096)は囁いた。騒動の顛末を『伝えた』竹駒・イナリは此方を観測しているだろう。
狐達は様々な技術を蒐集している。事が起こる前にイナリは「どうするの?」と聞いたのだ。
竹駒・イナリは一つの決定を行なおうとしていると耳にした「あーあ」とイナリは呟く。
――性能を飛躍的に高めた胡蝶忘丸を封印することを検討しているのだと。
「記憶の操作等、彼らには過ぎた代物。過去の記憶に悩み、苦しみ、苦悩しながらも選択、前に進み続ける方が彼らの生態(生き方)にはあっている様だ、もっと彼らを観測して研究してからでも遅くない」などと、口にされれば何とも言えまい。
「参る」
ヤサカの声に反応したように無数の憂女衆が姿を現した。
情報伝達に関わる体内の電気信号が強制加速し、情報密度が上昇していく。武を極めし男は疾風怒濤の踏み込みで、憂女衆を蹴散らす貴道の唇が吊り上がる。
郷田貴道とは己の在り方をその戦い方で表しているのだ。
「邪魔はさせねえよ、ここぞってところだからな。全力でぶちかましたいって連中が、あちらこちらに見えやがる。
テメェら雑魚どもが割って入るのは役不足ってもんだろう? 喜びな、テメェらには勿体無いが……俺が一人残らず蹴散らしてやるからよ?」
唇を吊り上げる。戦場での油断などはない。
ただ、その拳には誉れが、武の在り方が載せられている。距離を詰める。後方にコヅヱの姿が見えた。
「あの女を食い止めれば良いんだな?」
コヅヱを見据えたのは『銀焔の乙女』アルテミア・フィルティス(p3p001981)も同じだった。すらりと引き抜いた剣の先が女を見詰めている。
「狂気に侵されてなお、豊穣の為に尽す薄雪の姿は流石と言うべき、なのかしらね……。
なんにしても、このままバグ・ホールを放置するわけには行かない以上、彼女の策に乗らせてもらいましょう」
それが『薄雪の献身』だとするならば、なんと言葉に出来るか。
自凝島はアルテミアにとっては『妹の策謀』の地でもある。エルメリアが罪人を閉じ込めた際にはこの地は穢れに溢れていただろう。
「私は『巫女姫』の姉として、斬り伏せ戦うだけよ」
アルテミアはすうと息を吐いた。ゆるやかに身を揺らす憂女衆には自らの意志などない。伽藍堂にも思えてならなかった。
「……忘憂神社を管理する為にすごしていただけなのに、慕っていた神に在り方を歪められるだなんてね。
せめて、幸せな記憶を抱いたまま、眠りにつかせてあげましょう……」
静かに囁くアルテミアの背後より、神秘の術式が広がっていく。ゲオルグはただ、憂女衆だけを見据えていた。
打ち払う術式だけではない。仲間を癒し、仲間達の記憶を守る為に誰も失わないという事にも尽力していく。
憂女衆は所詮は有象無象ではあるが数が増えれば並の飲まれて元も子もない。己の記憶を失わぬように、可能性は燃やせば良い。
『支える事』がゲオルグにとって成せることだった。アルテミアや貴道がそれらを払い除け道を開くように。
そして――朽木生駒と名乗る三人の八百万達が居た。腹をばしりと叩いてから、ずんずんとゴリョウは進む。
攻性防禦守護獣術・『性』の一。それは力強い声と共に鋭い眼光によって相手に『こいつを倒さねば』と感じさせる管理技術そのものだ。
堂々たるその振る舞いと共にライオットシールドを手にしたゴリョウへと真っ先に飛び込んだのは一人目の生駒だった。
三人。それは真名と記憶を共有することで自己を保つための『三つ子』なりの在り方であったのだろう。
「おうおう。こっちにこいよ!」
ゴリョウが向き合えば、ルーキスやアルムが頷いた。ヤクモ――そして、厄裳。同じ名を持つその神霊と少女の対処に向かう者には一度たりとも触れさせるべからずと。
勢い良く飛び込んだゴリョウはその身を壁のように利用した。ヤクモに背を向けることは不安ではない。
「俺の記憶は短いけどね。悪いけど、もうなくしたくないんだ……!」
アルムは否定するように生駒を前にしたゴリョウを支え、首を振った。
「生駒君、君は厄裳に囚われ切ってないんだろう?
君や厄裳は……人々の悪い記憶を薄れさせて、代わりに幸せな夢を見せるのが、本来の役割だったんじゃないのかな。
穢れと滅びのアークに侵されて、歪んでしまったけど。最期は……この豊穣を、人々を守るために、動けるって信じてるよ」
「もう厄裳様はその様な夢は見えませんでしょう」
生駒の一人目が言った。
「どういう――」
「厄裳様は歪んで仕舞われた。幸福など分かりませんでしょう」
二人目の生駒が言った。
アルムは三人目の言葉を聞く前に理解した。
ああ、厄裳――穢れに飲まれた悲しき精霊は、あやまって神霊にまでなってしまった。そして穢れた。穢れて幸福など分からなくなったのだ。
(ならば、眠らせてやるべきだ。きっと、彼女は愛した国を守る為にその体を蓋にする)
その為に、幸せを願ってやれば良い。眠りに就いてからやっとの事で幸せになれるだなんて、なんて皮肉であるだろう。
ルーキスが生駒を斬り伏せた。地を蹴った。師より学んだ剣を振り下ろす。身を捻ったルーキスを支えるアルムの福音が響く。
「ゴリョウさん!」
呼ぶ風牙に「任せとけ」とゴリョウは笑った。ああ、任せるには十分だ。
風牙が地を蹴った。狙うはヤサカだ。大きな星を手にするよりも早く、着実に倒し続ける。
「先輩!」
朝顔が呼んだ。ヤサカを惹き付ける朝顔に頷く風牙とアレクシア、そしてイナリは確実にヤサカを『倒す』ことを目的としていた。
ヤサカ。彼女の在り方を朝顔は否定できまい。自らだって記憶を渡した。ならば、彼女は自分の有り得た姿だったかもしれないのだ。
(……この人は、今でも同士なのではないかと、思ってしまう)
そう思って手を抜いてはならないのだ。アレクシアは朝顔を支え、ヤサカを真っ向から見詰めていた。
「ヤサカ君で良いかな。記憶が欲しいんだって聞いたよ。私の物も、興味があったりする?」
問うアレクシアと交代するように前線へと飛び込んだのは風牙だった。
「お前、記憶が奪えるんだってな。オレみたいな異世界出身のイレギュラーズの記憶、きっとお母さんもお気に召すんだろうな。ま、くれてやるつもりはないが?」
ヤサカは記憶を奪えるのだという。ならば、記憶を有している事で挑発できるだろうと風牙は声をかけ続けた。
記憶を奪えるという言葉にぴくりと肩を動かしたのはアレクシアだった。そうだ、彼女の記憶は欠落していく。
(勝手に奪われちゃうとちょーっと困っちゃうんだよねえ)
『こんな状態』でも、いいや、『こんな状態だからこそ』、それは大事にした思い出なのだ。
「ッ、邪魔だてをするな!」
叫ぶヤサカの前にイナリは飛び出した。ふわりと尾が揺れる。大太刀を手に、地を蹴るイナリが跳ね上がった。
「あはははは! 貴方、随分と頑張るのね♪ 親の為かしら? そう人格が構築(プログラミング)された?」
「構築だと!?」
「記憶とは人格、記憶とは容易に変質し、変化し、忘却する曖昧なもの、一連の出来事(神秘)で分かっているでしょ?
だから、問いましょう。その記憶は本当に正しい、本当に自分が経験したもの? 全てが正しいと自分の物だと証明出来るかしら!」
ぎらりとヤサカが睨め付けたがイナリは大して気には止めやしなかった。
ヤサカ経由で自らの記憶を食わせたって構わないとイナリは前のめり進む。
「だって、その記憶は誰かに植付けられた可能性だってあるでしょう?」
「違う」
「いいえ、違わないかも知れないわ。だって、依存なんてものは最も恐ろしい事だもの」
その姿をゲオルグは見ていた。依存なんて事をして、そうして挫けぬようにとヤサカが進む。
視線を遮りながらも、尚もヤサカを、そして『ヤクモ』を助けに行こうとする生駒の前に堂々とゴリョウが立ちはだかる。
「ぶはははッ! どこに行く気だい!? こっから先は通行止めだぜぇッ!」
「そうだそうだ。よくわからんけどぶちのめせばいいんよな! たぶん!
でもなんかしたい。そんな複雑な私ちゃんゴコロ。おっ朝ぽよの熱量すげぇ! 負けてらんねぇな。
さて、音呂木の蛇巫女さまのお通りだ! ここの神様は、誰に祈ればいいんだろうな!」
大地踏み締め走って行く。視線の先にはコヅヱが居る。秋奈と視線が噛み合った。紫電は「憂女衆は任せておけ」と唇を吊り上げて。
コヅヱという女は厄裳の為に戦っているのだろう。その献身は『神殺し』リュコス・L08・ウェルロフ(p3p008529)には素晴らしいものだとも感じられた。
尊い存在だ。だが、それ故に厄裳の歪さが浮かび上がる。
(過去の嫌な思い出……今でも見ないように目を逸らしている記憶しかなかったころのぼくなら進んでぼくの全てをささげてたと思う。
でも、今は誰かの記憶の中にしかいない人の存在がぼくの中にはたくさんある。気軽に「全部あげる」なんて言えない……けど)
けど――歪で仕方ない。厄裳の在り方が許せないのだ。
コヅヱがこうして献身的であればあるほど。
ヤサカがこうして身を砕いていれば居る程。
何もかもが、ちぐはぐに見える。
(……そうだ。何かあった時のためにぼくの見たこと、思ったことは紙に残してきたんだ)
だから、取り戻しやしない。味わえば良い。記憶なんて鱈腹食べて、そして思い知らせるために。
『歪角ノ夜叉』八重 慧(p3p008813)の目の前にはジュカクが居た。一目見ただけで、その存在が的であると分かるのは呪いの影響か。
「……あの鬼は、俺が抑えます」
「はい」
ニルが小さく頷いた。支えはする。けれど――「あんたがジュカクか」と告げる慧の瞳の恐ろしさよ。
「はは。お揃い同士、仲良くしましょ?」
この島に居た理由も、動機も、何もかもをジュカクは持っていなかった。自らの全てを厄裳に渡したのだろう。
全てを憎悪に満たすには空の器が良い。伽藍堂になれば幸福な記憶が無いからこそ更なる憎悪に満たす事が出来る。
「何もかもを持ってないんすね?」
「だからなんだ」
「だから、知らないんだ。この角と呪いがあっても、受け入れてくれる人はいた、幸福は確かにあった。
――だけど、この呪いがある限り、俺は共に行くことを選べない!」
己が何かを残す未来なんて選べない。護る事が出来るのは今だけだ。守りたい、大切に思う心は真でも寂しいことばかりだった。
同じ血を継ぐものだ。
だけど俺は幸運だった、名をもらい、愛され愛すことを知った。
――けーちゃん。
呼ぶあの方は、何時だって優しい。
「ッ、幸せになど慣れるものか!」
ジュカクが近付いた。肩を抉る痛みになど屈することがない。慧は噛み付く勢いでジュカクを睨め付ける。
「俺は、皆と、あの方と一緒に未来へ行く!」
歪角が目の前の男を倒して消えるわけがない。それでも、この先にその呪いを持って行くことなど赦されるモノか。
呪い。
そうだ、呪いだ。
己の身に顕現したそれは、何時しか人を遠ざけた。
辿れば、呪いの発端に鬼達の悲しみがあった。それは血だ。其れ等全てをジュカクごと持って行ってやくれれば。
「何を考え居てる」
「厄裳に全てくれてやれば良い。俺達の苦しみも悲しみも、持って言って貰えば、そんな物、消えてなくなるんすよ」
慧は真っ向からそれを見据えた。己の記憶なんて、やるわけがない。
ジュカクとは、ただ、行く当てなく此処に辿り着いたのだろう。そうして記憶を売った。ただ、世界を滅ぼすことだけを目的に立っていたのだ。
「もうお終いにする、それだけっすよ」
慧が地を蹴った。ジュカクが油断をしたのはそれだけ捨て身で特攻したからだ。
抱き続ける、手放す。どちらも前に進むために必要な事だった。
ジュカクがバランスを崩し、地へと叩きつけられる。其の儘、意識を刈り取った慧は厄裳の元に彼を運ぶ事とした。
厄裳は彼の全てを喰らって腹を満たしてくれるだろう。そうして呪いが終るのだ。ここで、今――全てが先に続くことがないようにと。
●
ヤクモ。そして厄裳。
全ての大元足る神霊は巨大だ。その指先一つで捻り潰されるのではないかと思えるほどの肉。
だが、それ以上に、厄裳を守る『ヤクモ』という娘がやっかいであった。故に、ヤクモの傍にウォリアは立っている。
「邪魔立てするでない、所詮は外様であろう」
「外様? ああ、確かに外よりやってきただろう。だが、心は友が為にある。
――貴様等に一つたりともくれてやるものはない」
ウォリアは真っ向からヤクモを見据えた。記憶を奪われてなどやるものか。背負う全ては此処にある。
堂々と言葉を発し、ヤクモと記憶のやりとりをするウォリアは厄裳を見据えていた。
「狩るべきは見定めた」
「させるものか」
幼子だ。その声音さえも、軽く、相対する度に『幼子を打ち倒す己』という存在を嫌なほどに思い知る。
渋い表情を浮かべるウォリアの背後で『水月花の墓守』フリークライ(p3p008595)は支えるべく立っていた。
「ン。我ノ記憶 渡スツモリハナイ。主ヤ皆トノ縁デアリ我ガ心デモアルノダカラ」
為すべきは癒やしだった。自らは墓守で、自らは人々を守る為にある。望まれぬ死など遠ざけるように戦うのだ。
それがフリークライの在り方だ。ウォリアがやり合うならば、フリークライは支え続ける。
「ン。来ル」
「ならば任せェ!」
地を蹴った。踏込む『藍玉の希望』金熊 両儀(p3p009992)の唇が吊り上げる。
「おまんがヤクモか」
「如何にも、我が名は『ヤクモ』。その他には非ず」
幼い少女の笑みはまるで大人のように曇っていた。何処にも無垢なる気配はなく、鬱蒼とした茂みを行くように重苦しい気配をさせている。
身を捻り上げた両儀に伸ばされた小さな指が記憶を手繰ろうとするか。爪を立てられ傷が付く。痛みがあれど、ダメージだけは取払われよう。
フリークライの『癒し』を受けながら両儀はその時僅かな欠落を感じ、首を振った。
特段取り戻すつもりはない。大切な思い出は幾つもあるが、なんともないと軽やかに笑ってみせるのだ。
何故か。両儀という男にとって記憶よりも大切なものがある。戦を前にして『戦馬鹿』が戦う以外に他の理由を求めて等居ないのだ。
本能が動かす。先行する。動けば良い。肉を断ち、刀を振り下ろせばそれだけで満足できよう。
伽藍堂でありながら、戦に向かえば満足を覚えてならぬのだ。
「――なんでじゃろうな、儂ぁ、記憶を返せと憤る気持ちと同時に。
酷く、おまんらに……悲しみを覚えちょる、忘れてしもうた事に関係があるのか……。
ただ、記憶に振り回されちょるおまんらに儂が思う所があるのか……それもわからん――じゃから、儂が、儂達がおまんらに引導を……渡すぜよ」
「ただの八つ当たりと呼ぶのではないのか。我らは神に捧ぐ供物としておるだけ。
薄雪の甘ったれた言葉に感化されたか? けがれなど、この国では肥え太る阿呆が溜め込むのではなかろうに。
『厄裳(われわれ)』はそれを喰らい、この国を良くしてきたと呼ぶべきであろうよ。感謝を示してもよいじゃろうに」
ヤクモの声音は幼く、たどたどしいが言葉にはその幼さの一つも感じさせることはなかった。
「のう、ヤクモ……儂ぁ、儂はおまんらに会うた事ばあったのか?
この……湧き上がる悲しみの気持ちは、おまんらに対する同情がか? 儂には、儂には何も……ッ!」
「分からぬならば、失った儘でも良いではないか。人は、記憶など無くとも生きて行けるのだから!」
ヤクモの声音に両儀は首を振った。
「ヤクモ様」とコヅヱの呼ぶ声がする。ぞろぞろと姿を見せた憂女衆。ヤクモを倒させはしないと躍起になったかのように其れ等は群を為す。
「……ちまちまと切り取った記憶を手に入れるのは手間だと思いませんか?
僕は全ての神使の中で二番目に豊穣に関わって来た自負があります。霞帝とも親交があります。
交渉です、ヤクモ。僕の記憶を全て渡します。ええ、全てです。その代わり、薄雪さんの記憶を返してあげてください」
『豊穣の守り人』鹿ノ子(p3p007279)の声音を聞いていたのだろう。薄雪が目を見開いた。
「貴女――!」
薄雪の非難めいたその声音の意味を分からぬほどに鹿ノ子はバカではない。寧ろ、彼女の想いを感じ取っては仕方ないのだ。
鹿ノ子はこの国を愛している。
愛する人の愛するこの国を愛している。
それは薄雪だって同じだ。賀澄という男が神威神楽の頂に立ったとき、彼はこの国を愛し守り抜くと決めただろう。
彼がそう願うように薄雪も同じように願っていた。
(僕も同じだ。僕だって、愛する人の愛するこの国を守る為ならば何だって出来る)
一度失い、取り戻した記憶すら、この国のためならば惜しくはない。
「僕がこの世に生まれ落ちてから今日この日まで、その全ての記憶を持っていきなさい!」
「薄雪の記憶を返して何とする? この女はみなまで云わずとも、此度ばかりであろうよ」
「それでも」
鹿ノ子は真っ直ぐにヤクモを見た。
「それでも、この方の記憶は大切だ。刹那であろうとも、伝えるべきを伝えさせてやりたい。
僕の我儘だって言われたって――構わない!」
鹿ノ子が地を蹴った。交渉が届かなくとも構わない。『この国で生きる全てを守る為』ならば、灰となっても構わない!
コヅヱに肉薄した貴道の無数の打撃がその勢いを削いだ。顕れる憂女衆になど構って等居ない。
大元を断つことが目的なのだ。貴道が押し止める中でも未だ距離を詰める憂女衆を鹿ノ子は斬り伏せた。
「コヅち! おひさー! 巫女のよしみで遊びに来たぜー」
邪魔だと吹き飛ばす憂女衆。秋奈を背後から狙う者を紫電は容赦はしない。
「秋奈!」
「おうおうおう!」
にいと笑った秋奈。ぐりんと身を捻った彼女の背後から紫電は一気にコヅヱに肉薄すべく距離を詰める。
「……同じ巫女として秋奈がお前を気にしているようだからな」
「気にされるような身の上ではございませぬ」
コヅヱの拒絶に秋奈が「あ、私ちゃん、今拒否られてね?」と笑った。
「ま、いっか! 知ってるかー? 蛇ってじわりねっとり絞めてくるんだぜ? ね? アリエっち」
秋奈の瞳に怪しい色が宿された。それは蛇の気配だ。光るように鱗が肉体に浮かび上がり刀を振るう腕はうねる。
相変わらずだと紫電は嘆息した。秋奈は上手く共存しているようだが、見ていて驚いてしまう。
「秋奈、有柄は遺伝するのだろうか」
「え? 分からんケド、まあ、頼めば守ってくれんじゃね!? ナンチャッテ」
からからと笑う秋奈は『秋奈』だった。有柄と呼んだけだものは神の域に達した人の怨念であったのだろう。
些か理不尽にも思える事態を超えてきた秋奈と紫電の軽やかな声音にコヅヱは戸惑いを隠せない。
「封印に足りねーなら、ウチは記憶とか別にいんじゃねー? って感じよー。また作ればいい的な? エモい作品をまた楽しめる的な?」
軽やかに笑う秋奈にコヅヱ以上に紫電がぎょっとしたような顔をした。
「オレに食わせられる記憶は……ない。混沌に来る前の記憶も含めて、オレだ。
それを渡せば、オレはオレ自身を保てなくなる気がする。記憶を失ってもまた新しく作ればいいというのは、言うのは簡単だ。
けれどそれをやっているのは、記憶を失う前とはほぼ別人となってしまった当人だ、例えば恋人ですなんて言われても実感がないのだから。
何より、記憶を失う哀しみは、過去のオレがよく知っている……秋奈も、それを忘れないでくれ」
忘れてしまうことは恐ろしい事だ。何よりも、それは恐くて、かなしいのだ。
かなしいのも、くるしいのもニルはいやだった。想いを妨げないように、誰かの思いが届くように。
(みなさまの想いが、願いが、届きますように――)
ただ、ありったけを杖に込め続けた。それがニルが今、出来る事だった。
視線の先でゴリョウが、ルーキスが、アルムが、生駒を超えた。
「ごめんね」とアルムは囁いた。振り向いてから、ルーキスとゴリョウはその姿を確認して駆けて行く。
●
「行くか」と鬼灯が聞いた。賀澄は「ああ」とだけ返す。
何時だって薄雪の元から彼を救う準備は出来ている。神威神楽の霊宝を手にしている青年は静かに男の傍に立っていた。
薄雪と賀澄に対話をさせてやりたいが、薄雪という女は敵だ。
(……何があるかは定かではない。薄雪は最早正気ではない。護りたかった物を傷付けるなどは彼女も望んでは居ないはずだ)
鬼灯の内心を察した様子で、前に進むのはマリエッタと妙見子だった。その狙いは『薄雪』が正気で居る事だ。
ヤクモと相対した鹿ノ子の後押しをするように薄雪を刹那でもただの女としたいと願ったのだ。
「薄雪といったな、お前は帝を愛しているのか」
「……そうであった、筈ですわ」
射干玉の髪、金の眸。長い睫に縁取られた憂いの瞳が揺らいでいる。
「そうか。愛している者に刃を向けることの辛さ、さぞ辛いだろう。
いざという時に、自害も出来ぬなら、俺が貴殿の人生の幕を下ろそう。
――帝に『かつて愛したものを手にかけた』という傷を背負わせない為に」
「もしも、わたくしが自害を為したいと根堅ならば、手伝ってくださいますか」
鬼灯の肩がぴくりと動いた。薄雪の僅かな正気、しかし、狂気にも似たそれは静かに揺らいでいる。
「……ああ」
鬼灯にとっての第一の目標は帰還することだ。誰も欠けずに進むこと。
数多の人々に守られ繋がった命だ。死ぬ気は無いが、守り抜く為ならば努力を厭わない。故に、薄雪と男は対峙する。
「と、言うわけで――ダイレクトアタックからは守らせて貰いましょう。
アレですよアレ、上様が出るまでもない、という奴ですね。
私の様な手練がここにいること、歯がゆく思われるでしょうがそれは私も同じです。
そらまあただの殿方であれば捨て置きますよ。つまり帝の自業自得ですので、次があれば帝の剣術を見せてくださいね」
「自分で言うとなんだが、俺の剣術は惚れ惚れとするものだ。楽しみにして置くが良い」
堂々と告げる賀澄に至東が喜んでと微笑んだ。彼女はただ、対話をしに来たわけではない。
賀澄の事を制止するのが役割だ。そもそも、彼の人となりはこうして話して居るだけでも良く分かった。
彼は実直で、止まらぬ性質だ。それこそ、激情の人とも呼べよう。堂々と全戦で戦うのは蛮勇に他ならないが、立場という者があれば難しい。
「うんうん、ここまで見ていれば良く分かりますよ。
貴方は前線で傷つき、あるいは失おうとする女たちを前に、やけっぱちになってフラフラ出ようとするかもしれないタイプです。
それを諫めるのは、近臣ではなく、彼らと同じローレットたる私の役目です。
喜べとは言いませんが、貴方が見届けずしてどうしろと言うのです。恋し恋した乙女のことは、せめて貴方の疵になさいませ」
「……進言か?」
「忠告です」
穏やかに告げる至東に止めていてと囁いてからメイメイは薄雪の前に出た。
「……わたしの『故郷の記憶』を、取り出して下さい。
雪解けの春、草燃ゆる夏、色づく実りの秋、凍てつく冬。わたしを愛し、育ててくれた場所、です」
「メイメイ――」
晴明が思わず呻いた。メイメイは「これが覚悟です」と笑う。愛していると、口にさせてくれなかったけれど、あなたはきっと伝えてくれる。
薄雪は目を見開いてから「喪っても宜しいの」と問うた。
「はい。わたしの、美しい故郷が、厄裳さまを、いやせたら。
……ですから、薄雪さま、ありがとうございまし、た……厄裳の事は、お任せ、を」
薄雪の瞳が揺らいだ。ああ、なんてこと。唇がそうやって擦れ合わされる。
メイメイは彼女が正気でいられるのはイレギュラーズの姿に自分を重ねているからだと思い知った。
きっと、何時か彼女は飲み込まれて仕舞うはずだった。辛うじての正気が賀澄と、賀澄を守る者達を見たからなのだろう。
「……失うのは、怖い。それでも、これ以上誰かに記憶を失う選択をさせたくないんだ。
賀澄さん。薄雪さんと過ごした時間、感じたこと、抱いた想い。
もうあなたの中にしかないのに、忘れてしまったらその恋が寂しすぎるじゃないか――だから、私に守らせて」
シキはにんまりと笑った。そして、地を蹴る。眼前の薄雪のなんと悲しげな瞳か。
ああ、それだけで分かる。
薄雪は賀澄を守りたい。
ただ、愛しい人の微笑みを抱き締めていたいのだ。
――薄雪。
ただ、その人が名を呼んでくれるだけで、それだけで幸せだった女。
彼女と同じだ。シキは賀澄諸共豊穣郷を守りたかったのだから。
それは風牙だって同じだった。だからこそ、厄裳へと飛び込むことに恐れなど無い。両儀は続く、ただ、打ち倒すべきを定めたように。
「賀澄」
呼ばれてから賀澄が足を止める。ゲオルグは言ったではないか。
――犠牲になってほしくはない、と。
「……ゲオルグ。薄雪が」
「ああ」
「……ああ、そうだな。天という頂は喪うことになれなくてはならぬのに」
甘ったれた心持ちでは、全てを喪ってしまうと賀澄は悔しげに唇を噛んだ。
(さて、如何した事か。やることは決まっている……ですが少し任せます、魔女)
目を伏せたマリエッタに『魔女』が笑った。瞳の色彩がすうと色を変える。柔らかな緑が輝かんばかりの金色へと変化する。
「――考えたいのでしょう? 賀澄もアタシがイイらしいし……相手をしてもらいましょう、薄雪」
くすりと笑い、血潮の気配が増した。戦を魔女に任せながらもマリエッタは何処か困ったような顔をする。
二人のマリエッタ。その視線の先には妙見子が居た。どうしたって忘れたくない記憶がある。
この地で得た術は薄雪の足を止めたことだろう。本当に豊穣の『子』は面倒だと妙見子は思う。
息子(と、呼んでみればなんだかちぐはぐで可笑しくも感じた)と認識して見せた愛しいあの人は、不器用の連続だ。
少女として認識していた娘が蓋を開ければ年頃の女であり、それでも年が離れている以上はその恋心にどう答えるべきかと迷っている。
かと思えば兄貴分は恋患って、この在り様だ。目の前の女だってその一端を背負っている。
「はあ」
「妙見子さん」
「はい……ええ、マリエッタ様」
「大丈夫。私は決めました、賀澄さんの為にも薄雪さん相手に一切の遠慮はありません。
彼女は私が殺す、終わらせる。何より悪い魔女が命を奪うなら……後ろ指を刺されるなら私でいい」
マリエッタは静かに囁いた。妙見子は肩を竦める。嗚呼、本当に――為したいことばかりが大きくって溜らない。
「最初はそこの神様を名乗ってるぽんこつ狐さんの手助けだけの予定だったんですけどね。ここまでするのは……まったく。
賀澄さん。薄雪さんの記憶を捨てたら……少しでも楽になれるんじゃないかと思ってません?
――気持ちはわかる。憶えていることはつらい事ですから」
「ああ、そうだな。その気持ちも大きかったよ」
「でも、薄雪さんがもし一時的にでも戻るなら。トドメは少し止めます。彼女と少し思い出を作ってみてはどうですか?」
「……」
賀澄が真っ直ぐに薄雪を見る。薄雪という女は「何をするつもりですか」と問うた。
「薄雪様。お二人ともこの豊穣のために今まで尽くされてきたんでしょう。お互いの立場もあったことでしょう。
どうか今だけは正気を保って、賀澄様に思いの丈を伝えてください」
「いいえ」
「……今の貴女は中務卿の補佐でも畝傍の一族でもない。『ただの薄雪』です。
後悔のないように。悔いの残らないように、何を惑っていらっしゃるのか」
「わた、わたくしは――」
「惑って等は居られやしないでしょう?」
妙見子の願う奇跡が焔のようにと持った。
「ッ――止めなさい! さもなくば賀澄を!」
薄雪が手を伸ばす。はたと顔を上げた至東がぎらりと睨め付けた。
「東姫の帝に触れるなッ! 下郎!」
叫ぶ至東に「東姫?」と賀澄がぽつりと呟いた。自覚はしていないが、帝という存在は『宗内東姫』という女にとっては最重要な存在である。
賀澄が、ではない。帝という存在が、だ。
だからこそ、その言葉が唇から滑り出したのであろう。
「……そうやって、我武者羅に何を為そうとするのか! この方は背負うと決めたというのに!」
妙見子ははっきりと言った。薄雪は瞳を揺らがせてから、賀澄と囁く。
――わたくし、あなたのことがすきだった。
溢れ落ちた言葉と共に、彼女は静かに笑うのだ。
「この国を、愛し、守るあなたを愛しているのだもの。だから、わたくしはあなたの為ならば塵となって消えても構わなかったの」
「薄雪」
「だから、どうか、わたくしが為したいことに文句は言わないで」
●
――皆の記憶を渡して等なるものか。
厄裳に記憶を喰わせるならば出し惜しみなんてしたくはない。
「今だ!」
ルーキスの声を聞いた。風牙は厄裳をバグ・ホールへと叩き込む。
「記憶泥棒の神もどき。穴を塞いだら、厄除けの神として祭ってやるよ!」
「何をする!」
リュコスは更に、それを押し込むようにフォローする。渋い表情を浮かべたのは慧だった。
「止まる事なんてしない」
慧に頷いて風牙が更に、更にと厄裳を押し込んだ。
藻掻く厄裳の腕を払い除けるように風牙は自らの記憶を流し込んだ。一瞬の怯み、そしてそれを喰らう為に手を伸ばす。
渡す記憶を出し惜しみなどしていない。風牙が渡すのは『元いた世界での記憶』だ。それを全て食わせるのだ。
「風牙!」
賀澄の怒号が飛んだ。ゴリョウが振り返ってその肩を掴む。「賀澄の旦那、覚悟だ」と告げるゴリョウに唇を噛む。
「いや、風牙はつづりとそそぎの家族のようなものだ。だからこそ彼女に喪わせたくはない」
賀澄の声を聞きながら風牙は笑った。「大丈夫だ」と。つづりとそそぎに何も喪わせやしたくなどないのだ。
(だからさ――オレの異世界での半生を持ってけよ。それなりに食いでがあるだろう。
……お父さんも、お母さんも、思い出せなくなるのかな。
ちょっと、きついな。うん、やばい、きつい、泣きそう。でも、それでも、護りたい子たちがいるんだ)
風牙の目尻に涙がじわりと浮かんだ。
――お父さん、お母さん。おとうさん おかあさん ……っ!
ぽかりと開いた穴を満たすように。風牙を呼ぶ賀澄の声がする。双子は彼を父のようだと呼んだ。
ああ、きっと、両親を喪った者達は彼の優しさに寄りかかってきたのだ。薄雪はだからこそ、自分の記憶を賭してでも彼を守ったのか。
「だいじょうぶ、です」
ニルは守るようにと叩き付けた。周囲を打ち払い、放たれた神秘の術。
ニルの杖がきらりと光る。あなたを守ると微笑むように。ふたつぶんの力が確かに支えてくれている。
「ええ、ええ、大丈夫よ。悪いけれど私の――皆の、大事な記憶は簡単に奪わせやしないわよ!」
アルテミアは声を上げた。厄裳を穴に落とすが為に引き寄せる。
痛みなんて、何も底には感じなかった。燃えろ、凍て付け。愛の焔は『二人分』だ。
アルテミア・フィルティスという娘は、この国で苦しい事も、悲しいことも、乗り越えてやってきた。
もしも別の未来があったならば、双子の妹は此処で笑っていただろうか。
――忘れた方が良い?
そんなことはない。彼女の全てを背負って、生きていくと決めたのだから。
「厄裳様、私の記憶を差し上げます! 『隠岐奈 朝顔(わたし)』の恋心、コレは嘗ての私そのもの」
巨躯を屈めた厄裳を見上げる。大きすぎる。その臓腑は一人では見たせぬとは彼女がその巨躯故であるからか。
朝顔は――いいや、向日葵は真っ直ぐに彼女を見上げた。射干玉の髪に赤く汚れた爪先。記憶を貪り喰らう外道はけだもののように餓えを凌ぐ。
「失えば、私は寄す処すら失い彷徨ってたでしょう。記憶の空白の痛みに苦しんでたでしょう。だから前は取り戻した。
けれど今は違う。私の空白を埋めてくれる約束をくれた。今の私は間違ってなかったと思える……王子様に出会えた」
厄裳がべろりと舌を見せた。メイメイが「向日葵さま」と呼ぶ。厄裳の瞳がじらりと揺れ動く。
「わらわの腹を不要品で満たそうなど申すか?」
「いいえ、不要なんかじゃない。決別です。私は選択したのです。
死者を想い続ける道が苦しく悲しくとも、例え世界の全てが今の私を間違いだと断じても。
私は天香・遮那様を愛する隠岐奈 朝顔ではなく、セレスタン=サマエル・オリオールを想う星影 向日葵として生きたいと!」
厄裳は鼻先でふん、と笑って見せた。彼女を否定などしていない。どれだけ悪逆非道に振る舞われようとも、彼女は救いであること喪ある。
記憶は失っていけない大事なモノだ。
そう彼女が口にするならば――ああ、そうか、と向日葵は気付いた。『大事な記憶だからこそ腹を満たす糧』となるか。
「ええ、コヅヱさんが一人では足りないと言いました。そんな訳がない、この恋心は重い――神すら喰らい尽くせぬぐらいに!」
朝顔は奇跡を願いたい。だが、満たされた可能性(パンドラ)は僅かな隙しか差し込むことは出来ないだろう。
信念だけで向き合う。彼女の傍にはメイメイが、そして鹿ノ子が居る。
「叶わぬ現実に心を限界まで擦り減らし、自分で終わりを告げれず……その末路が反転だと分かってても。
可能性がある限り止められなかった私にとって――貴方は救いでした。有難う」
救って貰えたと。朝顔は言葉にした。
「まだ、まだだ――まだ足りぬぞ」
舌をべろりと見せた厄裳をアレクシアは見上げていた。
「任せてね」
朝顔の記憶を喰らった暴食の獣。記憶を渡す事は、困っては仕舞うけれど――それでも、選んだものを手渡すのは恐ろしくはない。
「ねえ、賀澄さん。貴方の記憶はこの国にとって大切なもの。だから、私達に任せておいて。
朝顔さんの記憶を食べて、厄裳のお腹もそろそろ満ちてきたでしょう。なら、これは封印のための蓋だよ!」
アレクシアが捧げると決めたのはこれまでの見てきた思い出だった。美しい風景ばかり。外に出られなかったアレクシアにとっては大切な思い出だ。
記憶は奇跡の代償で欠落していく。それでも、大切に抱き締めていたものを、手放すようにしてアレクシアは手を伸ばす。
「しっかり味わってよ、結構大事な思い出なんだから。
……そう、大切な想い出だよ。大切じゃないものなんてない。
でも、だからこそ、全て失くなってしまう前に、誰かを救う役に立てられれば嬉しいよね。そういう意味では、少し感謝もしているかな」
何もなく、知らない内に喪われて行くだなんて――なんて、恐ろしい事だろう。
「さあ、思う存分お食べなさい!」
バグホールに肉体が僅かに落ちる。厄裳という『蓋』を固めるべく記憶は上から覆い被さっていくのだろう。
「……大丈夫です。だって約束しましたから。
僕が遮那さんを忘れても、遮那さんは僕を憶えていてくれるって。
そして僕は、記憶を失っても、もう一度遮那さんに恋をするって。……約束、しましたから。だから――だから持って行け!」
腹を満たせと声を震わせ鹿ノ子は告げる。
愛しい人。約束をしたあなた。
――もしも僕が、僕でなくなってしまっても。きっともう一度貴方に恋をするから。
だからどうか、僕のことを憶えていてください
彼は悲しい顔をするだろうか。困った顔をするだろうか。怒ったりするだろうか。
それでも、記憶を『支払って』でも、この国を守りたいという献身に、あなたは。
「……厄裳さま。貴女の中に、草香る風が吹き渡りますように」
鈴の音色を響かせて、向日葵と共にメイメイは手を伸ばしていた。
伽藍堂な彼女はきっと知らないだろう。
「枯れ木に花を、咲かせましょう」
神樹に花を咲かせれば、記憶という実が実るはずだ。賀澄を通じ、瑞が施す封印が、屹度全てをよく導いてくれる。
晴明がメイメイの傍に居た。「あなたも無茶ばかりだ」と肩を竦めた彼に「晴さま、も」と笑う。
「俺に守らせてはくれないのだろうか」
「はい。わたしが、守ります」
「……俺もあなたを守るよ」
どこか砕けた様子でそう言ってから晴明は「だから、あなたが故郷の記憶を忘れたならば、俺が教えて貰ったあの地の土を共に踏みに行こう」と静かな声音で言う。
「あなたと共に見る景色は嘸美しいだろうけれど、忘れてしまったのならば俺が教えよう。その栄誉を貰っても?」
「……はい」
メイメイはぎゅっと晴明の手を握り締めた。
嗚呼。本当に。
リュコスが唇を震わせる。
「おかしいよ。みんな相応の覚悟をして捧げてるはずなんだ。
なのにその思いすら全てスパイスのように。ああ美味しい、次はどれって、消費してそれきりとか――不公平だ」
ぽつりと呟いてからリュコスは真っ向から厄裳を見た。
「いくら食べても満たされない理由を教えてあげる。君は人の記憶に興味を持っても真に共感したことがないからだ。
だって相手の痛みと同じくらい自分も痛くなったら。もうお腹いっぱいで入りきらなくなるんだよ」
だから、『朝顔』の失恋の痛みも、美しい景色への郷愁も。何もかもを直に感じ取ってくれればいい。
リュコスの囁きに厄裳が目を見開いた。
はくはくと唇が蠢いた。女のなりをした神様が手を伸ばすがリュコスはその手を握り返すことはしない。
「苦しい? ――その痛みもぼくが食べてあげることができたらいいんだけどね……」
●
「願った程度で掴めないのならどれだけ代償を払ってでも発動してやる、此処で引き寄せねば意味が無い!
起こす奇跡は一つ――厄裳から黄龍の記憶を強引に取り返す事で結ばれている『制約』を白紙に戻し、黄龍を解放する!」
ウォリアは願った。力任せに厄裳を押し込めば目を見開く女のぎょろりと動いた眼球を真っ向から見た。
「違和感があったのだ……オマエ、黄龍を操っているだろう?」
「何故そう思うのじゃ」
厄裳の唇が吊り上がった。ウォリアは押し込み続ける。蓋をする。此の儘記憶を鱈腹食って眠るというならば『黄龍』を解き放ちたい。
それがウォリアの在り方なのだ。同じ姿をして居た。薄雪のように黄龍の性質は薄雪にも良く似ている。
――ああ、麒麟という黄龍の体を食ったからこそ、黄龍は厄裳との間に制約を結んだのか。
「……『制約』とやらの事をずっと考えていたのだ……オレの知っているあいつはな……忘れたいという記憶を持っていた。
まるで、捨てる事を赦して貰えなかったように……記憶でも、などと軽々しく言うものか!
――黄龍、オマエと交わした『約束』から始まったのだ」
後方に賀澄が居る。賀澄の傍には黄龍も、瑞神も存在して居るだろう。全ての加護を持った男、そしてそれを守護する守護神霊。
だからこそ、ウォリアははっきりと奇跡を掴むがために口にしたのだ。
「お前達が大好きだ。訪れればお前達の笑顔溢れるこの豊穣が。そして……お前達に逢わせてくれた、この混沌も。
――その為に、生きてまた共に明日を過ごす為に……今、この戦場に命を燃やす!」
「死なれては困るんじゃよ、馬鹿たれ」
黄龍の声が振った。手を伸ばし、厄裳に触れた黄龍は「吾も、御主とは暫しの別れよ」と笑う。
「黄龍、貴様」
「吾も人の子と過ごす事が随分と気に入ってしもうたからの」
黄龍は「のう、じゃから手伝え、我が焔よ」と囁いた。眼前に、シキがいる。
走って行く、彼女の背中を見るのはウォリアにとっても二度目だった。
「そうだよ、ねえ」
ずっと、ずっと考えて居たのだ。
記憶は抜き出されたら残らない。ただ、薄雪の記憶が恋心と結びつくように、記憶は感情と共にある。
全てを喪ったって、心は『覚えている』のだ。胸の痛みも、苦しみも。
厄裳が喰らうのは事象でしかなく、感情まではどうすることも出来やしていなかった。
ならば。
可能性(パンドラ)は幾許かの見合った。それを賭けの材料にしてしまえば、怒られてしまうかも知れない。
「でも、厄裳、君は黄龍の、瑞の、友達だろう? だから、聞いてよ。だから、見て居てよ」
これが、『心』だ。皆の心を想起する。アレクシアが教えていたあの美しい景色のように。
シキは大好きで、美しい豊穣の景色をただ、ただ、厄裳に与えたかった。
桜を見て、海の傍で、紅葉を拾って、雪を眺めて。
心は揺れる。心が震える。心が、声を上げるのだ。
産声を上げれば其れは止まらない。失くした記憶はまた、結びつく。何時しか、それは手に入れ得られる。
「ねえ、私ってね、我儘なんだ。これがエゴでもいい。
役目を果たし続けてきた厄裳には優しい夢を見てほしいんだ。
眠るときには、この島の外の、美しい豊穣の景色の夢を見てよ。
雪の下に無数の屍が転がっているなら、私がその全部に手を伸ばしてみせるから。
いつか目覚めたとき、少しでもこの国を美しいと思ってもらえるように」
――ねえ、そのためなら、この体が宝石になっても、いいから。
ぱきり、と音を立てた。
「シキ」
と、そう呼んだのはウォリアだったか。その名を呼んだのは、きっと己が朋ならばそうしたからだ。
神霊などと言うくせに『奴』は随分と女々しいところがある。ああ、だからきっと黄龍はシキが居なくなったならば悲しむだろう。
「本当に、わたくしに似て神威神楽が好きな者達はどうして、こうも」
ウォリアは顔を上げた。ああ、この声は――
賀澄が呆然と立ち竦み、その傍には晴明とメイメイが居る。
指先を包む煌めき。その美しさは彼女の肉体が宿したアクアマリンの煌めきだった。
「――薄雪ィ」
両儀は声を上げた。薄雪は両儀の、彼の身を動かす何者かの気配にも気付いて居たのだろう。
「わたくしはここで消え失せる役目。いっそのこと、役に立ちたいというのは間違いでしょうか」
「ハッ、好いた男のためだってンなら止める義理もない。
だがよ――『テメェ』の行いが誰かの傷になる事は覚えていやがれ!」
両儀ではない誰か。だが、それは彼の体には良く馴染んだように動き続ける。
「厄裳、この馬鹿鬼に代わって宣言させてもらおうか。
あるかは分からねぇコイツの記憶も! 奪われた皆の記憶も! 全部引っくるめて……返してぇ、もらうぜぇぇ!」
叫ぶ両儀に頷いたは薄雪であったか。美しい黒髪の女は唇を吊り上げる。
「鬼ではなく、貴方の力を借り受けても宜しくて?」
「持ってけ、ありったけ」
両儀の『中に居た』男はせせら笑った。
薄雪と賀澄が呼ぶ声に彼女はくすりと笑う。
「大丈夫です、大丈夫、わたくしが厄裳に持って行きますもの。
だから、愛い貴女は大切な人を愛してあげて。優しい貴女はわたくしにすべてを渡して。
このお人とわたくしは、一緒に全てを取り戻しましょう。暗澹たる豊穣の夜に星を飾ってくださいまし。
……ねえ、賀澄をどうぞ、よろしくね」
「薄雪さ――」
鹿ノ子が手を伸ばす。今、掌に転がるようにして、そして心の奥底まで染み入ったのは愛しき人の記憶だった。
両儀は簡単に『狙いが定まった』と感じた事だろう。薄雪がそうしてくれている。薄雪が誘っている。
此処で死する女は、それをも分かって両儀の『賭け』に乗ったのだ。
記憶を食らい込み封印を行なうならば、刹那を狙う。厄裳の腹の中に溜め込んだ記憶を『封印完了の刹那』に吐き戻させるのだ。
「ほうら、こんなにもたんまりと下さったのだもの、厄裳。暫し、眠りましょう」
――隙を作る。薄雪の横顔が告げて居る。
「薄雪!」
「わたくしではございません。ただ、あの子達が強かっただけ」
「薄雪! 聞いて居るか!」
まるで駄々を捏ねる子供の様な反応であったか。
「ソウカ。朝顔……向日葵 決心シタノカ。ナラバ我モ約束通リ“隠岐奈 朝顔“ヲ弔オウ。
朝顔ダケデハナイ。鹿ノ子ヤ風牙達ノ記憶ヲ 縁ヲ 心ヲ弔ウ花トナロウ。青龍 アリッタケノ加護ヲ我二。
君ガROOデ実証シテクレタ。コノ身ハ大精霊ノ器ニモナレルト。故二手段アル。青龍。鳥サン達ヲ ヨロシクネ」
「御主も、因果なものよの」
黄龍がぼやく声をフリークライは聞いていた。薄雪の元へと飛び込み、共に厄裳と封じられようとするか。
フリークライのその動きを察知したように黄龍が「我が朋、青龍はその様な事望まぬ!」と叫ぶ。
(――レンゲ 責任取レズ スマナイ。愛ヲアリガトウ)
黄龍の手が伸ばされるがフリークライには届かない。シキを守り抜けたとしても、フリークライを喪えば黄龍の朋は――青龍はさぞや心を痛めるだろう。
「コードPPP。厄裳ヨ 我二宿リ 花ヲ咲カセヨ! 我 アラユル植物ニトッテ理想ノ土壌。ソレガ神樹デアロウトモ!
我ゴト蓋トナラン。厄裳。独リハ寂シイ。コレモ縁。我 永遠ヲ共ニシヨウ。
我 フリック。我 フリッケライ。我 墓守。繋がり共にある者――主ノ墓標タル世界ヲ永久二守ラン!」
堂々と。そう告げるフリークライの背に手を伸ばしてから薄雪が笑った。
「墓守だというならば、わたくしと厄裳を守ってやくださいませぬか」
「薄雪」
黄龍に良く似たかんばせ、いいや、黄龍が真似た女の長い黒髪が揺らぐ。
美しい金色の瞳が細められ、そっとフリークライの背から花を一輪抜き取った。
「あなた様の願った奇跡はわたくしが持って参りましょう。
ね、賀澄を守って。豊穣を守って。わたくしが、厄裳と共に眠りますから――ええ、だから」
薄雪は微笑んだ。厄裳はもはや叫ぶ余地もない。
フリークライから溢れ落ちた花弁をその両腕に抱えてその髪が大きく広がったまま打ち倒れた。髪はバグ・ホールの上に薄い膜のように広がって行く。
「どうか、ここに立つ墓標には名を刻まず、誰のモノと覚えていないまま」
薄雪は鹿ノ子を見た。向日葵を見てから、賀澄を見た。
「厄裳」
「薄雪」
「……わたくしの全てを持って行って。
フリークライと申しましたね、そちらの方。わたくしたちの眠りを守ってくださいまし」
薄雪の唇が緩やかに揺れる。『朝顔』の想いも、風牙やアレクシア、シキの記憶だって。
薄雪は物語のように厄裳に説き聞かせ、穏やかな時を過ごすのだと。
まるで幼子をあやすような声音で言う。
「全て、持って行くから、どうかあなたは」
「――忘れて頂戴」
全ての光が収縮し、開いていた巨大なバグホールに覆い被さり消えていく。
獄の蓋が閉まる刹那に両儀は見た。笑う女の指先から星が幾つかきらめいて、昇っていくのを。
呆然と膝を付いた妙見子は「どうして」と呟いた。
「……妙見子さん」
「ええ、ええ、だって、こんな――」
忘れて頂戴。たった、その一言だけで、『あの女性の声も名前』も思い出せない。
辛うじて黄龍がその姿をして居ただけでその姿だけが留まっているようで。
賀澄も同じであろう。愛おしい人の姿をとっていた神霊を見たとて、彼女の全てを思い出すことはできまい。
だが、確かに彼女がいたことだけは分かって居た。
「――『 』」
もう、二度と名前を呼べやしなかった。はくはくと首を動かしたあとに何も刻まれることない墓標をそこに立てる事だけを男は宣言した。
●
後日、『畝傍 薄雪』という女であったことが過去の報告書より判明したと賀澄は言った。
「何も残してやくれないつもりだったのだろうよ。俺が彼女を大切にしていたのは確かだ。
……昔、彼女が言っていたのだ。『わたくしの事だけは重たい荷物になどしないで』と。それを実践されたのだろうか。
忘れたと言いながら、何となくにでも覚えていることはあるものだな。それは、きっと、俺が迷わぬように、だろう。」
賀澄は困ったように笑ってから、ゆっくりと立ち上がった。
その傍には亥子(がいし)と名乗る神霊の姿があった。黄泉津の内部に点在する小国『中津国』の主神であるその人は瑞神の傍に佇んでいる。
「わたくしは亥子と申します。瑞兆を意味し、繁栄を意味する瑞神と反対にて血合いを意味するわたくしの力を駆使すれば厄裳を暫し眠りの淵に誘い続けることはできましょう」
亥子と名乗った神霊は、閉ざすという意味合いを持っている。故に、けがれをその場に留め続ける力があるのだろう。
それでも、定期的に亥子に降り積もるものを払わねば次は亥子に害が及ぶ。
ニルやフリークライには亥子の世話を頼みたいと賀澄は言った。
「自凝島は暫くは停滞の内にあり、厄裳のけがれが払われ、穴が塞がった頃合いにでも叩き起こそう。
屹度、それまでの間『彼女』が夢物語を語っていることだろうから――
……そして、問題は『今』だ。
今や、混沌各地は危機にさらされている。豊穣は国を挙げ支援を行ない、この国を救うことを宣言しよう」
帝位というのは厄介なものだ。男は元からそうした問題事に首を突っ込んでいく無鉄砲さがあった。
だが、薄雪が何も残さない代わりにこの国を残したというならば――
「遠い昔だが、帝位につく事が決まったときに一人の娘と約束したのだ。
何時か、何か危機が訪れようともこの国を守り切ろうと。俺も人らしくその約束を護って見せようかと思ったのだ。
人として、そして、天として。
何方としてでも俺は、俺として行かねばならぬな。
――大切な事を教えてくれたのは、貴殿等であったのだな、神使(イレギュラーズ)」
男は柔らかに笑ってから刀を手にしていた。
成否
大成功
MVP
状態異常
なし
あとがき
この度はご参加有り難うございました。皆さんの献身の結果として、判定をお返し致しました。
本当はもうちょっとかなしくなるかなと思ってました。そんなことはなかった……!
ありがとうございました。これが最終回です。それでは、混沌世界も救いに参りましょう。
賀澄も、晴明も、神霊達も、皆さんと共に豊穣を救いに参ります。
GMコメント
『豊穣郷』ではちゃめちゃ大きな事件はこれが最後です。<けがれの澱>、その終幕となります。宜しくお願い致します。
●成功条件
・『厄裳』の封印
・『膠窈肉腫』畝傍薄雪の撃破
●自凝島
神威神楽による流刑の地。悍ましき呪いの蔓延る罪人の終の地です。おのころしまと読みます。
嘗て、天香長胤&巫女姫が捉えたイレギュラーズをこの地に捕えた事があります。その当時より肉腫やけがれが蔓延っていました。
この島は刑吏である畝傍家の管轄でしたが、全滅したとして知られています。
黄龍より別たれた自凝島の守護神『麒麟』が中央に坐しています。その内部に瑞神は黄泉津の穢れを集め、現在の麒麟を禍津神にして討伐することで全てを終らす決断を黄龍と行って居ました。
ですが、島内部には『厄裳』という『麒麟』の記憶を食ってしまった神霊が存在し、けがれを鱈腹吸い込み巨大化したようです。
だからでしょうか。けがれに結びついた滅びのアークの気配を辿って巨大なバグ・ホールが開きました。
簡単に言うと
・けがれを利用する神霊をどつくために道を開いた! ←<けがれの澱>禍津忘憂
・なんか其処に居た霞帝の初恋の人の顔した女がやってきた! ←前回 <けがれの澱>亡貌の薄雪草
・女を追い返して、道を繋いで神霊を目指そうぞ! ←前回 <けがれの澱>亡貌の薄雪草
・島には巨大なバグ・ホールが開いているらしい! ←今回
・それでも島そのものと化した神霊が居るから、一先ずは蓋になりそうだぞ。其の儘蓋をして封じよう! ←今回
●敵勢対象
・バグ・ホール
混沌に様々に顕現している穴です。ただし、この場にある物は少し変質しているようです。
異様な空間に生まれたからでしょうか。厄裳で防ぐことが出来そうです。本当に特殊なものです。
触れると死にます。本当です。冗談じゃなく、触れたら即死しますのでご注意ください。
・『神霊』厄裳
記憶を喰らう神霊。元々は普通の旧い樹に宿っていた精霊ですが麒麟の記憶を摘まみ食いしたことで神霊となりました。
記憶を喰らい、記憶を植付けることで他者を操ることが可能です。非常に強い精神操作が可能であり、厄裳が直接記憶を喰った対象は全て彼女の指揮下に入ります。
非常に巨大な肉体を持ちます。島の内部の何処に居たのかとも言える程の巨体です。腰掛け、じっとりとイレギュラーズを見ています。
最初期には見ているだけです。自らが危険に晒された場合は『起憶』によって兵士を産み出します。
【封印方法】
・記憶で腹を満たし、厄裳を一時的に満足させる。
(※記憶は賀澄が支払っても構わないと告げて居ます。これも国のためだという事なのでしょう)
・その上でその肉体をバグ・ホールへと落とす。(何名かが力を合わせれば屹度可能でしょう)
・瑞神に願い出てその刹那に封印の呪文を唱えて貰う事。
・ヤクモ
厄裳に良く似た少女です。厄裳を守る為に動きます。
八百万の少女であり、本名は『畝傍 八雲』。『畝傍 薄雪』の遠縁の親戚です。
厄裳の傀儡であり、厄裳が操ることの出来る直接的な存在。依代です。厄裳の代わりに記憶を『手づかみすることが出来ます』。
近距離に近付くことには注意して下さい。記憶を引き摺り出して厄裳に捧げるようです。
・コヅヱ
巫女。憂女衆を召喚することが出来ます。伽藍堂になった記憶を補うように厄裳から『幸せな人々の記憶』を貰っています。
彼女自身は忘憂神社を管理するために過ごしていましたが、神霊厄裳によってその在り方を歪められたようです。
・憂女衆
白い面を付けた女達です。全員同じ外見をしています。有象無象のザコとして認識して下さい。
・朽木生駒
ヤクモの補佐を行って居る八百万。三人居ます。厄裳によって侵食されたことによりただの一人だけが本来の記憶を隠し持っています。
本来は畝傍に連なる物でしたが在り方が歪められるために敢ての本来の出自を隠したようです。
狂気に飲まれてしまった為、市井で記憶を集めていたのは生駒だったようですが……厄裳とヤクモを守る為に立ち回ります。
・ヤサカ
ヤクモを母親と慕う八百万。齢9つで外見の止まってしまっているヤクモに育てられ、彼女を愛しています。
厄裳が見えません。母親が記憶を売買していると盲目的に信じており、相対した相手の記憶に目印を撃ち込むことが出来ます。
その目印を目掛けて、記憶を奪い去り記憶を瓶詰めにする事が可能です。この能力は厄裳に記憶を食わせるために使用されます。
近接型剣士。バトルジャンキー。真空の刃を遠距離から飛ばし対象に記憶の楔(目印)を撃ち込みます。
・畝傍 薄雪
膠窈肉腫の女性。八百万です。
(※膠窈種は純正肉腫(魔種相応)に原罪の呼び声がへばり付く、もしくは複製肉腫が【反転】した際に誕生する事がある特殊種族です。純正よりも強力な感染力を持ち更に【純正肉腫(オリジン)の誕生を誘発させる】能力を持ちます。)
自凝島の刑吏であった畝傍一族の女であり、天香長胤に仕えていた中務省勤め『だった』女性です。
外見は黄龍そのものであり、今園 賀澄の初恋の人であることが判明しています。当時の中務卿・建葉 三言の補佐でもあります。
賀澄に対して並々ならぬ思いを抱いていましたがその記憶の大半を厄裳にくれて遣っています。徐々に狂気に侵食されおり、厄裳を守る為に立ち回ります。
・ジュカク
八重 慧 (p3p008813)さんにも良く似た角を有する呪いそのものです。角を歪める血の呪いを受け継ぎ核になった存在です。
膠窈肉腫相応であり、豊穣のハグ・ホールの在り方を最初に認知し、厄裳に同化を進めました。
鬼の身の上で生きる事を苦しみ、豊穣など消し去ってしまえと言う考えを抱いています。厄裳を封じられては困るため全力でイレギュラーズを倒しに来ます。
●NPC
・皆さんの記憶
封印に使用することも可能です。また、敵に奪われる可能性にも留意して下さい。
厄裳に食われた場合には記憶は戻って来ません。また、記憶を『奪われた』時に特殊判定としてパンドラを-2使用することで記憶を即座に取り戻すことが可能となります。
※敢て厄裳に食わして封印する場合は宣言した記憶は全て欠落します。その覚悟の上で宣言して下さい。
・『霞帝』今園 賀澄
所謂黄泉津で一番偉い人です。帝。現代日本に類似した世界から転移した旅人です。
迚も正義感が強く獄人差別に抗い、色々と(本当に色々と)大暴れした結果、帝になりました。
薄雪を信頼し、彼女を愛していたからこそ信じて遣ってきました。渡す記憶は故郷のことや薄雪のことで構わないそうです。
神霊の加護を駆使した無数に刀を召喚する戦い方をします。案外頼りになる戦い方ですが無鉄砲さが目に余ります。
・『中務卿』建葉 晴明
中務省(帝の補佐)の長。獄人差別を受けてきた当事者ですがそれから守ってくれた霞帝に恩義を感じ兄のように慕っています。
刀を駆使して戦うことが可能です。賀澄が薄雪を本当ニ大事にしていた事を知っているために心を痛めています。
彼を支えるべくして尽力しています。願掛けに伸ばした黒髪は『父の記憶』と『この国の忌まわしき文化が立たれること』を願ってのこと。何かあれば直ぐにでも髪を切り厄裳にぶん投げて気を惹く所存です。心が、強くなりました。
・『陰陽頭』月ヶ瀬 庚
陰陽頭。符術によるバッファータイプ。黄龍&瑞神を護る事を優先します。
・黄龍
薄雪の姿をしている神霊です。その姿は霞帝の初恋の人を真似ていたので――まあ、そういうことです。
何らかの『制約』が存在して動けません。黄龍自身は戸惑っているようですが……。
・禄存
フェグダちゃんと呼ばれたいお年頃の黄龍の神遣。ウキウキるんるんですが、今は黄龍を守っています。
・黄泉津瑞神
神霊。豊穣の守護神です。御所そのものの保護を行なっています。
・宵暁月&星月夜
瑞神の神遣。速力を生かし偵察も得意な前衛タイプの宵暁月と、後方からの支援と連絡役を担う星月夜のペアです。
瑞を守るように立っています。命に代えても瑞神を守るつもりのようです。
●四神とは?
青龍・朱雀・白虎・玄武と麒麟(黄龍)と呼ばれる黄泉津に古くから住まう大精霊たち。その力は強くこの地では神と称される事もあります。
彼らは自身が認めた相手に加護と、自身の力の欠片である『宝珠』を与えると言い伝えられています。
彼ら全てに愛された霞帝は例外ですが、彼らに認められるには様々な試練が必要と言われています。
●情報精度
このシナリオの情報精度はD-です。
基本的に多くの部分が不完全で信用出来ない情報と考えて下さい。
不測の事態は恐らく起きるでしょう。
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