「馬鹿げておる」
　それが望月とまで称された男の口癖であった。
　朱塗りの美しい柱と漆喰の壁が張り巡らされた天香邸で、天香長胤は畳に座して眉を寄せた。
　流刑に処した神使が忽然と姿を消したと報告を聞いての事である。

「馬鹿げておる」
　視線を上げれば苦しげに頭を抱える義弟天香・遮那が見える。
　彼は複製肉腫をその身に宿し、苦しんでいるのだ。
　何処ぞへなりと逃げ隠れていればいいものを、未だこの屋敷に留まり続けている。

「馬鹿げておる」
　巫女姫は寵愛していた姉が神使の手によって奪われ絶望の声を上げたらしい。
　天守閣を見上げれば黄泉津瑞神が座すのが見える。
　その身に纏っていた『大呪』は先ほど、光と共に和らいだ。

「馬鹿げておる」
　仁経寺では忌拿家卑踏が霊長蠱毒なる邪法に手を染め、何事かを策謀しているらしい。
　唐笠にせよ卑踏にせよ巫女姫にせよ、面妖なる怪のようなものに、京が好き放題に踏み荒らされていた。
　それに加担するは長胤の家臣楠 忠継もまた、魔の呼び声に応じたのだろう。
　謹厳な男であったが、その性そのままに世を破壊せしめんとしているに違いない。
　その目的は皮肉にも、天香家の為だなぞと世迷いをほざきながら！
　各々が己の思惑に従いで動く様は、醜悪な滑稽さすら孕んで見える。
　しかし今の長胤には一笑に付すことすらおぼつかぬ事であった。
　全てに疲れ果てた破月の男は、己自身もまた愛欲の呼び声によって人の身を辞していたのだから。

　――馬鹿げている。何もかも。
　後先の見えぬ愚か者共は自由気ままに神威神楽を蹂躙し、今やその国体を傾かせてさえいる。
　呪詛の蔓延するこの大地に降り立った神使達は、中務卿に巫女達、帝や四神、黄龍共と手を結び、ここへ進撃を企んでいると言うではないか。
　間違いなく、京を二分する大きな戦となろう。
　大政大臣たる長胤は、官と賊との瀬戸際に立たされているのだ。
　官軍となるのは、この天下分け目の決戦における勝者のみである。

　政治家である長胤は、これまで大を生かすために小を斬り捨ててきた。
　妻を失った不幸な事故に際してさえ、その私事をあくまで公へ持ち込まなかった。
　支配者の矜恃は、この後に及んでもこの地の安寧を望んでいる。
　恐らくその目で見るに叶わぬであろう夢は、怒りに震える長胤に一縷の正常をすら抱かせていた。
　つまり『どこで腹を切るか』である。
　疲れ果ててさえ、原罪の呼び声による狂気に堕ちてさえ、長胤は政治家であり続けていた。
　されど七扇軍の総大将である長胤は、決め込んだ腹の内を口へ昇らせる訳には行かぬ。

「麻呂の弓を持て！　戦ぞ！
　帝は悪しき逆賊の手により、奪い去られておる。
　賊共は帝を拉致したばかりか、四神さえ誑かした。
　その上、不遜にもこの京へ上らんとしておるではないか！
　されど案ずるなかれ。我等には巫女姫様と黄泉津瑞神様がついておる！
　必ずや帝を奪還せしめんがため、必勝の陣を立て迎え撃とうではないか！」

　――オオオォォッ！！！

　鬨が如き喝采のただ中。
　己が思い描く中で最も馬鹿げた命を下した後に、長胤はもう一度忌々しく呟いた。

　――馬鹿げておる！

　――

　――――

「何を書いているんですか？」
「……名前だ」

　秋風戦ぐ天色の空に小鳥の鳴声が木霊する。
　天香邸の奥座敷に天香・遮那の自室があった。
　何処か人目から避けられるように配された部屋で机に向かう遮那。その手には筆が握られている。
　黒い墨が筆の先から和紙に滲んだ。綴る軌跡は忘れたくない記憶を書き記す。
　夢見 ルル家は遮那の机に淹れ立てのお茶を置いた。

「アレクシア・アトリー・アバークロンビー」
　遮那は一つ一つ噛みしめるように名前を綴っていく。
『忘れたなんて言わせないよ！　だって、私が渡した本の感想、まだ聞いてないんだからね！』
『まだまだ読んでもらいたい本はたくさんあるし、遮那君からも教えてもらいたいこともたくさんあるんだから！』
『だから、そのまま行かせやしないよ！　待ってる人がいることを忘れないで！
　そして、戻ってきなさい！』
　頭の中でアレクシアの言葉を反芻する。

「リンディス＝クァドラータ」
　丁寧に引かれていく黒い線。
『ええ、リンディスです。アレクシアさんも居ます。ルル家さんも、百合子さんも鹿ノ子さんも朝顔さんも居ますよ。この戦場には居ないリゲルさんも、大地さんも、結乃さんや無量さん、正純さんにクレマァダさん、ユンさん、Binahさん、狂歌さんだって貴方の帰りを待っている！』
『何度だって私たちと紡いで思い出して重ねて、何冊だって本にすればいいんです！』
『抗って、立ち上がって！　大丈夫、私たちが助けます！』
　夏の日に共に遊んだ神使の顔が浮かび上がる。

「タイム」
　筆を硯に置いて名前を指でなぞった。
『囁きかける『声』にどうか負けないで！　わたし達の声を聞いて！
　聞こえてないはずないでしょう！　わたし達の言葉が！』
『夏祭りの時、あなたは怖い目に合いながら決して逃げようとせず、必死で逃げ遅れた人達を守ってた』
『あの時咄嗟に大丈夫って言ったけど　本当はわたしも怖かったの。笑っちゃうよね』
『でもね、苦しむあなたを前に逃げるなんて出来ない！
　だから何度だって言うわ！　大丈夫よ！』
　優しい声が包み込んでくれるようで、目頭が熱くなる。

「隠岐奈 朝顔――星影 向日葵」
　天色の瞳を思い浮かべ、本当の名を記した。
『遮那くん！　聞こえてる！？　私たちは此処に居るよ！』
『愛してるよ！　大好きだよ！　遮那君を想ってるから！』
『奇跡は願わない。私が起こす！』
『遮那君が耐えてるのに願うしかないと、この想いは無意味だと思いたくない！』
『応えてよ私のこの想いに――！』
　私は遮那君が大好きです。
『――私は君と一緒に生きたいんだ！　星影　向日葵は天香・遮那君に恋しています！！！！』
　堪えきれなくなった涙が頬を伝っていく。

「鹿ノ子」
　決して涙を見せない強き少女の名を呼んだ。
『約束を果たしに来たッスよ！　遮那さん！』
『そうっスよ！　鹿ノ子っスよ！　僕は絶対に遮那さんを助けるッス！　だから、助けてって、死にたくないって、お願いだから言ってくださいッス！』
『初めてであった時の事を覚えてるっスか？』
『手合わせをしたときのことを覚えてるっスか？』
『琥珀の雫をあげたことを、神威風雅をもらったことを。
　手を繋いで眠りについたあの夜のことを覚えているっスか？』
『大好きッス、遮那さん！　僕は、遮那さんと一緒に生きていきたいッス！』

　透明な雫が和紙の上に落ちて、名前が滲んでいく。
「……っ、う」
　皆が紡いでくれた言葉が遮那の心を震わせた。
　名前を書く事に意味など無い。されど、記しておかなければ挫けそうになるのだ。

『――なあ、もう良いのでは無いか？　苦しいのだろう？　楽になればいいではないか。
　もう十分頑張っただろう。兄上の為に、国のために、良い子でいるのに疲れただろう？』

　脳内に直接響く厭な声。
　この身に巣くったままの肉腫の呪いか。更に上の膠窈（セバストス）の侵食か。
　それとも、己自身が持っていた悪しき心なのだろうか。
　姉の為、拾ってくれた兄の為。正しき行いをしていれば胸を張って生きて行ける。
　其れだけを信じ、前を向いていけるのに。
　脳内に響く声は耳を塞ぎたい言葉を突きつける。
『それに、天香の血を引いてないお前が、本当に兄上の役に立つと思っているのか？
　宮中の女官や邸宅の家僕が、幼いお前に口さがなく宣った事を忘れては無かろう』
　――下賎な外の血が。虫の死骸の上でのうのうと笑っておる。
『何も言い返せなかっただろう。悔しかったのだろう。何せ本当の事だからな』

「違うっ！！！！」
　突然声を張り上げた遮那に、傍に仕えていたルル家が目を丸くした。
「遮那くん？　どうしたのですか？」
　ルル家は直ぐさま遮那に駆け寄り、背中を擦る。
「私は、兄上の為に……、役に立ちたいと思っていただけなのだ」
　頭が割れそうに痛んだ。
「はい。分かっていますよ」
「だから、行かねばならない。兄上のお役に立たねばならない」
　天香・長胤が自ら兵を率いるのであれば、弟である遮那が馳せ参じるのは道理。
　されど、其れは神使との対峙を意味する。
　遮那は痛む頭を抑え、立ち上がった。
「行くぞルル家。私にはやらねばならない事がある。兄上が死なず、この京が滅ばず、神使と和解出来る道があるはずなのだ」
　正しき心で全てを望めば、必ずたどり着ける。
　そう信じているから。
　そうとでも思わなければ、どうにかなりそうであったから。
　遮那は自室の襖を開け放ち、光の中へ飛び出した。

　果敢な背を追う前に、ルル家はぽつりと零し――

「……ですが遮那殿。その全てを追うことは、最早叶わないのです」


＊決戦の時が、間近に迫っています！

---

＊カムイグラ限定クエスト黄龍ノ試練が発生しています！　黄龍ノ試練は近日終了予定です！！
＊カムイグラ全体シナリオ『＜傾月の京＞』で発生した捕虜判定は此方で確認できます。
＊カムイグラの一角で死牡丹 梅泉の目撃情報が発生しています――

これまでのカムイグラ / これまでの再現性東京

GWRC購入キャンペーンの抽選結果が発表されました！

三周年記念RCキャンペーンの抽選結果が発表されました！ →SS＆ピン担当者はこちら！