PandoraPartyProject
月灯の誓いⅠ
夜の帳が降りて、インク・ブルーの夜空に滑りを帯びた満月の光が降っていた。
リビングの座布団に座り、燈堂 廻はスマートフォンを眺めている。
指を繰ればaPhoneのディスプレイには下から上へ情報が流れていった。
廻のアメジストの瞳に画面のライトが反射する。
「お店何処がいいかな。広い所がいいよね……」
画面を見ながら小さく呟いた廻に、燈堂 暁月が首を傾げた。
「何処か行くのかい?」
「はい。バレンタインの日に友達を誘ってカラオケに行こうと思ってるんです」
「愛無君とシルキィ君かい?」
「ええと、ラクリマさんに、アーマデルさん、アンジェリカさんと千種さん、イーハトーヴさんとメイメイさんに、眞田さんと竜真さんとアーリアさんも居るので、大きい部屋にしようかなって」
「それはまた、大勢で行くんだね。楽しそうだ」
希望ヶ浜センタービルから連なる繁華街には沢山のカラオケボックスが並んでいるのだ。
廻が操るaPhoneやニュースを映し出すリビングのテレビも現代日本を思わせるもの。
練達国の一区画、再現性東京街には文字通り『東京』が形作られている。
特に再現性東京2010街の区画を『希望ヶ浜』といった。この街の人達は自分達がかつて住んでいた現代日本に固執し、混沌という世界を受入れていない。しかし、世界にはモンスターや妖怪、精霊は存在する。
希望ヶ浜の街の人達はそれらを有り得ないものとして目や耳を塞ぎ、『自分達の日常』を続ける事を望んでいるのだ。
この街ではモンスターや超能力者は、悪性怪異『夜妖』と見做される。イレギュラーズは夜妖の事件を解決する為に、希望ヶ浜学園に入学し日々戦いに明け暮れていた。その中で、夜妖に取り憑かれてしまった人を助ける事もあった。所謂、『夜妖憑き』と呼ばれる怪異の起こした事件だ。
狼の夜妖や刀の夜妖などに憑かれる事を『夜妖憑き』といった。宿主の身体を乗っ取り暴れたり、生命力を吸い上げて殺してしまうなど様々である。夜妖憑きは深度によって状況は異なるが、祓う事ができるのだ。
希望ヶ浜では夜妖憑き専門の仕事を請け負う『祓い屋』が存在していた。
南地区の『燈堂一門』が有名である。
燈堂家は代々この地に住まい、夜妖憑きやその関連で身寄りの無くなってしまった者達の受け皿。
門下生として祓い屋を多く輩出し、戦闘の後片付けをする掃除屋も育てている。
廻の目の前に居るのは、その燈堂家の当主。燈堂 暁月だった。
彼は瀕死の重傷を負っていた廻を助け、保護者となってくれた命の恩人。
廻はその恩に報いるために掃除屋として日々努力している。
「……」
廻は自分をじっと見つめる暁月に首を傾げた。
「暁月さん……? どうしました?」
自分を見ているようで、何処か遠くを見ているような暁月の瞳。心ここに在らずといった感じだ。
「いや、何でも無いよ。カラオケ楽しんでくるといい」
「はいっ、ありがとうございます。じゃあ、僕はもう寝ますね。おやすみなさい」
「お休み」
パタリと襖を閉めてリビングを出て行く廻。
浮き足立つ廻を見て暁月は微笑んだ。
愛無やシルキィといった友達と遊ぶのが楽しみで仕方が無いのだろう。
廻は夜妖憑きだ。獏の夜妖が憑いている。あまねという名は廻が付けた。
夜妖憑きの中でも比較的大人しく、共存代償を払えば共に生きて行ける者達も居る。
燈堂家に住まう者達にはそういった夜妖憑きが多い。いわば、夜妖憑きたちの住処というわけだ。
だが、廻の中に住まう夜妖はどうだろうか。普段は大人しいけれど何時爆発するか分からない爆弾のようなものなのだ。
「どうしたんじゃ、浮かない顔をして」
リビングにお茶を持って入って来たのは牡丹だ。
狐耳の童女の見た目をした牡丹は燈堂の血を守護する夜妖憑き。
燈堂がこの地に居を構えた時から共に在る彼女は数百年は生きて居るらしい。
お茶を炬燵の上に置いた牡丹は暁月の膝の上に乗る。
「いや、嬉しそうな廻を見ていると、どうも胸が締め付けられてね。私がしていることは間違っているのではないかと苦しくなる」
牡丹の小さな身体を後ろから抱きしめて溜息を吐く暁月。
その頭を華奢な指が撫でていく。
「そうするしか無かったじゃろう。廻を生かすと決めた時から。運命は決定づけられた」
「それでも、自分が――『生き餌』にされているなんて思わないだろう?」
月灯の誓いⅡ
夜は深く。
薄星の落ちる音が聞こえてきそうな程、しんと静まり返った時間。
聞こえるのは、己の息づかい。
春の足音はまだ遠く。
深夜ともなれば冷たい風が頬を浚って行った。
公園の砂が靴底に擦れて音を立てる。
月明かりに暗き闇より這い出てくる何かがあった。
表現しがたい忌避感。禍々しいと簡単に例えることのできない圧迫感。
見えざる者の無数の視線が突き刺さるようで。
燈堂暁月は目の前の怪異を一層睨み付けていた。
相対するのは忌むべき悪性怪異。
夢に移ろう悪夢<ナイトメア>の名を持って闇駆ける。
魂を喰らう者――宿敵『獏馬』だ。
罪も無き人々を大勢喰らい。暁月の恋人をも死に至らしめた相手。
夢の中に住む獏馬を捉える事は、海で砂金を見つけるようなものだ。
それを、ようやく追い詰める事が出来たのだ。
「さあ、お前が喰らった魂を元の場所へ導こうじゃないか」
暁月は腰の日本刀を抜き去る。
妖刀『無限廻廊』の刀身は暁月の瞳と同じ深紅の妖気を纏っていた。
月に雲が掛かり、闇が広がっていく。
風に流された影が晴れる時が勝負の時。胸を押しつぶす緊張感に暁月の首筋を汗が伝っていく。
――カサと。
木の葉が擦れる音がした。
音のする場所へ視線を向ければ、いつの間にか現れた青年が立っている。
日本刀を構える暁月に目を見開く青年。
獏馬と対峙していたとはいえ、近づいて来る青年の足音に気付かないはずが無い。
恐らく、獏馬が誘い込んだのだ。
足音を闇に覆い隠し、この場所まで誘導した。
この青年を次の住処とするつもりなのだろう。
黒い影を伝い獏馬が青年の背中に噛みつく。
その一瞬を暁月は見逃さなかった。
獏馬は人の夢に入り込み、普段は姿を現さない。
最初は見つけることが出来ず、多数の犠牲者を出してしまった。
徐々に解き明かされる獏馬の生態から、宿主へと入り込む直前の無防備な瞬間を狙えば仕留めることが出来る事が分かったのだ。千載一遇のチャンスであろう。二度と訪れる事の無い好機だ。
此処が決着の時。
見知らぬ青年の命と。これまでとこれからの大勢の人の命を天秤にかければ。
選ぶべき道は一つだけ。青年を獏馬諸共――『斬る』他無い。
暁月は意を決して月光に刃を振り上げた。
だが――
良いのだろうか。
本当に、この青年の命を犠牲にしても。未来がある青年の道を閉ざしていいのか。
青年の紫水晶の様な美しい瞳が一瞬だけ暁月に向けられた。
きっとこの後、自分がどうなってしまうのかも分からないであろう純粋な瞳。
月夜に輝く美しい色だ。
「……っ!」
軌道に乗った太刀筋は青年の身体を切り裂いた。
――――
――
失敗した。
失敗した。失敗した。
失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。
失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。
どれだけの時間と犠牲を払って此処まで来たというのだ。
何故迷ってしまったのだと、暁月の腹に冷たいものが流れ込んだ。
――ごめ、なさい、愛して、る。
暁月の脳内に恋人の最期の姿が浮かんでくる。
彼女――朝倉詩織への慕情は未だこの身を焦がしているのに。
最愛の恋人は獏馬に憑かれ、壊れてしまった。
他を害する彼女を斬った時の事は忘れたくとも忘れ得ない記憶。
焦がれて、焦がれて、焦がれて。
詩織を壊した獏馬への憎悪を積み上げた。
燈堂という家に生まれ、誰かを導く事が役目だと育てられた暁月にとって。
詩織は唯一泣き言を零せる相手だったのだ。
暁月の一つ年上。燈堂の門下生。
世話焼きで姉貴面をする彼女が、零す涙が綺麗だと思った。
閉ざされた燈堂の家で緩やかに育んだ愛は、暁月を形作る根幹そのもの。
記憶と想いを食い荒らされ、魂に狂気を刻まれた詩織は他人を傷つける夜妖憑きとなった。
それを暁月は自らの手で斬ったのだ。後悔と未練は膨れ上がるばかりで。
恋人の仇を討伐できる好機を逃したことは、暁月にとって汚点と言うほかなかったのだ。
「くそっ……!」
暁月の一瞬の躊躇によって、獏馬は急所を免れ、闇の中に消えた。
刃撃と強制的に憑き掛けた夜妖を引き剥がされた余波で青年の身体は相当なダメージを負っている。
腕はあらぬ方向へ曲がり、斬り裂かれた衝撃で飛び散った内臓からは血が滴る。
地面に広がる血溜まりは人間が流出していい血液量を遙かに超えていた。
開かれた瞳は苦しげに歪められ、真っ赤に染まった口からは血を吐き出す。
暁月が躊躇した代償。無闇に苦しみを与えてしまったのだ。
「はっ、……ぅ、は」
「済まない。済まない。本当に……っ」
青年を抱え込んだ暁月は、到底助からない命を終わらせようと刀を握った。
これ以上苦しまぬよう。心臓を貫くため刀を立てる。
月の灯りが刃に走った。
「だ、いじょう、ぶ、で、すか」
どうしようも無く辛そうな顔をしていたのだろう。
この青年は今、まさに命を刈り取ろうと剣を突き立てる相手に、手を差し伸べるのだ。
なんて清らかな魂を持つものなのだろう。
今際の際で、暁月に愛を囁いた恋人を思わせた。
色を失っていく唇と虚ろな瞳が詩織と同じで。
行かないで。行かないで。愛してるとまだ伝えてない。
「愛してる、愛してる……っ、詩織」
青年を抱きしめ、詩織への愛を紡ぐ暁月。
「……済まない。詩織。……今、楽にしてやる。だからもう頑張らなくていい」
刃に月光が反射し、刀柄に力が込められる――
「――待って!」
青年の胸に刺さらんとする刃を止めるのは、ぬいぐるみのような見た目をしたものだった。
「な……」
「殺さないで。まだ、助かる!」
必死に叫ぶ目の前のマレーバクのぬいぐるみは夜妖だ。おそらく、獏馬の尻尾。
「利用するつもりか。宿主として。まだこの子を苦しめるというのか!」
怒りを露わにする暁月の手を叩いて、ぬいぐるみは首を振る。
「そんな事はどうでもいいよ。この子を殺さないで! まだ助かるから!」
「何だと……」
到底助からない致命傷だというのに。命を助ける方法があるというのか。
否、騙されてはならない。相手は獏馬の尻尾。
必ず莫大な代償を支払うことになる。それは呪いの類いに違いない。
「信じられるものか! お前達のせいでどれだけの人が犠牲になったと思ってるんだ!
巫山戯るのも大概にしろ。それに、この子が助かるなら、何故詩織は助からなかったんだ!」
暁月の叫びが夜の公園に響き渡る。
「ごめん。その子が誰なのか今の僕には分からない。今までの記憶の大半は向こうが持ってるから。
でも、僕は死んでしまった君の大切な人より、今、ここで死んでしまいそうなこの子を助けたい」
ぬいぐるみは生気の無い青年の髪を撫でる。そこに害意は無く。本当に心配をしているように思えた。
死にかけの青年をこのまま放置すれば助かる確率はやがてゼロになる。
けれど、このぬいぐるみの言うように助かるのであれば。
もし、悪事を働くのであればその時に祓えばいい。
今はただ。命を繋ぐ事が出来るのならば。
「代償は……」
「――この子の記憶と、君の生命力」
月灯の誓いⅢ
薄暗い記憶の反芻。苦々しい思い出。
出口の見えない暗い道を歩いて行くような日々。
夜に迷わぬようにと、他者を導く暁月が進む道は、常闇の中だ。
「だから、本当に申し訳ないと思っている。あの子を夜妖憑きにしてしまったこと。記憶を失わせてしまったこと。それを未だに明かせていないこと」
暁月のオニキスの瞳に睫毛の影が落ちる。
「仕方なかったじゃろう。暁月の判断は間違っていなかった。廻の命を助ける為には記憶が必要だったのじゃろう? それにお主が居なければ廻は今生きておらんのだから」
祓い屋として大を生かし小を犠牲にする判断。それが成功していれば廻という存在は生まれなかった。
名も知らぬ青年のまま人生が終わっていたのだ。
項垂れるように髪を掻き上げる暁月の肩に大丈夫だと牡丹は手を置く。
「失敗したと、思っておるんじゃな」
「……ああ。失敗した。あの時仕留めて居れば獏馬は消滅した。でも、今はどうだ。二つに別たれた獏馬はどちらも追わなければならない。それに……」
「廻への情が湧いているんじゃな? 今の自分では廻が悪性に転じた時、斬ることが出来ないと」
あの時、名も無き青年のまま斬ることが出来ていれば。
宿願は果たされ、非道のままに、一人の命だけで終わらせる事が出来た。
廻に夜妖憑きの中でも重すぎる生存代償を負わせることもなかった。
「そんな悲しい顔をするな暁月。廻はお主を責めたりせんよ」
皺が寄った暁月の眉間を、牡丹は解すように揉む。
「そうかもしれないね。でも、それは私が刻んだ。あの子に強制したものだ」
出会った日から一ヶ月の間、廻は地下牢で過ごした。
獏馬という夜妖の性質が強すぎた事に起因する。
太陽の光さえ届かぬ地下牢で、廻は人間社会で生きて行けるように『調整』されていった。
「命を繋ぐ為に生命力を注ぎ、夜妖が反抗しない様に廻へ服従を刻んだ。記憶の無い廻は従順だったよ」
何故、恋人の詩織が死んで廻が生きているのか。眠る廻の首に指を掛けたのは一度や二度ではない。
後悔と未練、憎悪と愛情は、『調整』から逸脱した負担を廻に強いた。
「何があったかは詳しく聞かぬが、それだけ同じ時間を過ごせば、情も湧く。道理じゃろ」
「それに『あまね』を獏馬をおびき出す為の餌にしたんだ。不完全な状態なのであれば、どう足掻いても元に戻ろうとするからね」
餌として、廻を差し出す行為だ。非道と言われても仕方が無い。
「あまり、自分を責めるでない、暁月。それに廻は阿呆ではない。自分が此処に置かれている意味を理解しておるよ。掃除屋以外に燈堂にとって利用価値があるのだと分かっておる」
「ああ、だから怖いんだ。私が望めばその命を簡単に差し出してしまうだろう」
助けられた恩。助けてしまった後悔。雁字搦めに絡まった想い。
堂々巡り。無限廻廊。
抜け出すことの出来ない輪の中に閉じ込められる。
「けれど。その輪は綻び始めておるよ」
「ああ、そうだね」
あまねと獏馬の夢の中での交信は同じ存在である二人が近づいている証拠。
元に戻ろうとしているのだ。
直ぐ其処まで来ている獏馬の気配に憎悪が募る。
「だが、向こうもそう易々と廻の中に居るあまねを取り出せるとは思っていないはずだ」
簡単にあまねを取り出せる状態で、廻を外で自由にさせておくはずが無いのだ。
それでは――『生き餌』の意味がない。
「度し難い。廻を危険に晒さなければ成し得ない宿願、か……本当に度し難い」
胃の中がキリリと痛む。今、こうしている間にも廻は獏馬の凶刃に晒されているかもしれない。
「……願わくば、全ての子供達が笑顔でいられますよう。暁月も廻も特異運命座標も。
皆、私の大切な子供達じゃからの」
――――
――
aPhoneが震えて、着信を伝える。
ディスプレイには『愛無』の文字。
暁月は緑の通話ボタンを押して、電話の向こうの声を待った。
「はい。もしもし」
『暁月君、どうしたらいい、んだ。廻君が、廻君が……眠ったまま目を覚まさないっ』
普段の無表情の愛無からは想像も付かない焦りの声。
ああ、とうとうこの時が来たのだ。
廻という餌に。
獏馬が掛かった――!