ギルドスレッド
手記
(この森は、朝方にはかならずうっすらとした霧に覆われる。日の光が射すのと入れ替わるように薄れ出したその霧の向こうに、澄んだ湖面を晒す泉が見えた。軽く目を細めて、そのまま家の脇に設けられた井戸から水を汲み始める)……いい朝。今日はやっぱり、晴れるわねえ。(水で満たした手桶を運びながら、空を仰いだ。清々しい早朝の空気を、心地よさそうに吸い込んで)
うーん、買い出しはあとにして、先にお洗濯を済ませちゃおうかしら。(家の中へ戻り、そのまま朝食の支度にとりかかる。薄く切った固焼きのパンにチーズと野菜を乗せて、年季の入ったフライパンを火にかけた。戸棚から香草茶の葉を出し、湯を沸かす。――毎日繰り返してきた、一人きりの朝の光景だった)
(パンは少し焦がしてしまった。珍しい失態に、胸の内で軽く舌を出す。けれど、お茶はうまく淹れられたようで、きっと帳尻はちゃんと合っているだろう。どうせ、食べるのも飲むのも、私だけなのだけれど)
……、(縁の掛けたカップを、口許へ寄せる。鼻を擽る湯気からは、少し薬っぽい独特の香りがする。苦手なひとも多いけれど、私はこのお茶が昔から大好きだった)(家の中は森閑としていて、窓の外から聞こえる小鳥の鳴き声が、ひどく優しく耳を打つ)
(お茶を飲み終え、使った食器の洗い物と簡単な掃き掃除を済ませる。そうして、家の外に大きな盥を用意すると洗濯に取り掛かった。ここ数日分の衣服、寝具のカバー、その他いろいろと。とはいえ、私ひとりが暮らす中で生まれる洗い物など大した量ではなかった)――さて、取り掛かりますか。(腕をまくり、スカートも思い切りたくし上げて留めてしまう。はしたないなんて思わないでね、だって誰も見てやしない!)
(盥に水を張り、小分けにした洗い物を沈めていく。作り置きの洗剤はもう残り少なかった。蓋を開ければふわりとラベンダーの香るそれを適量使ってじゃぶじゃぶと洗っていく)ああら、これほつれてる。あとで直さないと……もう長いこと使ってるわよねえ。私が子どもの頃からだから……。(端切れを縫い合わせた長椅子のカバーは、幼い頃に母が手製したものだった。たくさんの布に囲まれて縫物をする母の姿を思い出す。裁縫なんてろくにしたこともなかったろうに、器用な彼女は気づけばそれを趣味にしてしまっていたのだと笑った、父のことも)
(懐かしさと、すこしだけの寂しさ。思い出すだけで涙がこぼれる時期は、とうの昔に過ぎ去った。いまはただ、愛おしいだけだった。――そう、父と母だけではなく)
(洗い終えた布たちを、ピンと張ったロープにかけていく。この作業が意外と大変で、なにせ水を含んだ布というのは案外に重いものなのだ。すべてを終えた頃にはすっかり汗だくになってしまった)(水を飲んで一息つく)
……そういえば、そろそろじゃないかしら、ヴァイノが来るの。(ふと、そう思い至る。手紙が届けられたのは先週で、彼は手紙の中で王都を何日に発つと言っていただろうか。書き物机の引き出しから取り出したそれを確認すれば、)……いつも通りなら、着くのは明日か、明後日くらいね。シーツ、洗っておいてよかったわ。あのひと、そういうところ口うるさいから。
(ヴァイノ。王都に居を構える商人で、私にとっては古馴染みの友人でもある。最近は雇人も増えて自分で行商に出ることはなくなったというが、それでも遠方に住まう私を心配して、半年に一度は顔を見せてくれるのだ。彼はきっと、五つも年下の私の兄貴分のようなつもりなのだろう)(村のひとたちは恐らく、そうは思っていないのだろうけれど。それも仕方がない。独り身の女の家に定期的に男が泊まっていくとなれば、邪推するのも当然なこと)
間違いなんて、起こったこともないけどねえ。(第一、村のひとたちは絶対に、私の関係者だと知れ渡っている彼を泊めてくれやしないだろう。小さな村に宿屋などあるわけもなく、友人と野外に追いやるなど冗談ではない。となれば、両親の寝室が空いたままのこの家に泊めるしかないではないか)(内心でそうボヤキながら、休憩を終えて腰を上げる。向かうのは、先ほど手紙を取り出した机だ) さて、そうとなればお仕事もすこし、片づけておかなきゃ。
(今受けているものは、母が子へ語り継ぐような民話たちの翻訳だった。ロエメ語の中でもこうした性質の物語は地方色が強く、辞書や論文などを駆使して調べながら進めてはいるものの、もう随分と苦戦している。〆切はあってないようなものではあるが、それにしても、)……振るにしても、もうちょっと適切なひとはいたんじゃないの。廃れた分野とはいえ、ちゃんとした研究者だっていないわけじゃないでしょうに。ああ、だめ、この言葉もわからない。食べ物っぽいけど……形的にはたぶん末期の……、(仕事のおおよそ大部分は、こうした細々とした調べもので終始する)
(気づけば時刻は午後を大きく回っていた。休憩を兼ねて、遅めの昼食をとる。野菜のスープと蒸かして潰した芋だ。スープの残りは夜に)ああ、塩ももうあんまりない。ヴァイノが持ってきてくれるといいけど。(丘向こうの町でも手には入るが、王都に出回っているものよりもかなり質は落ちるのだ)
(傷み始めている野菜も今夜の夕食で使い切らなければいけないと思案しながら、貯蔵庫のストックをざっくりと調べた。次の買い出し用に手帖へ書き付けて、ヴァイノが間に合えば荷物持ちをしてもらおう、などと考えながら立ち上がって――そうして、)
(空を見上げる。この澄み渡った青色のどこかに、黒衣の少女が佇む空中庭園が浮かんでいるのだろう。探す気はないが、視界の中にそれらしき影は見当たらない。――この空は、決してわたしの望む場所には、つながっていない)
(頬の弄る風に、故郷を思う。父も母も土へと還り、あのひともまたあるべき場所へ帰っていったけれど、友はおれども家族と呼べるひとはもういないけれど。それでも、私は必ず、帰るから。還るから。そうしたら、墓前に、空に、風に、友との酒の肴に、この不可思議な世界のことを、私の冒険物語を(さて、私はこの先冒険などするのかしら。わからないけれど)、語ろうと思う)
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国の外れに、その森はあった。
名はなんといったろう。森の入り口にあたる小さな村のだれもが、名前など知りはしない。
――森は、森。
どうやらよくない謂れを持つらしいその森を、村人たちはあまり好ましく思ってはいないようだった。
森のかぼそい小路を、途中でさらに脇道へ逸れると、やがて小さな泉に行き当たる。
あたりには小剣のような葉を持つ植物が群生し、季節になると素朴な、けれど美しい花を咲かせるのだが――今はまだ、その盛りには遠い。
泉のほとりには、小さな家が一軒建っている。
木材で作られた家はこの辺りではありふれた造りで、こじんまりとして、どこか忘れ去られた風情を持ちながらも、廃屋というふうではなかった。
日が昇って、しばらく。
朝もやが薄れ始めたその家の扉が、不意に開かれた。
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