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シナリオ詳細

<美徳の不幸/悪徳の栄え>Fortuna caeca.

完了

参加者 : 10 人

冒険が終了しました! リプレイ結果をご覧ください。

オープニング


 その声音は甘露の雨の如く大海の心を満たして行く。
 叩き付けるように指先を降ろした鍵盤の如く、不協和音を叫べども恨み言さえも睦言のように聞こえていた。
 それだけアタナシアという女は彼女に盲目であった。
 ――出自も、経歴も、殊更語る事ではないとアタナシアは考えて居る。理由など単純明快だ。過去は何も齎さない。
 過去の遍く全てが今にまで影響するというならば、それは所詮過ぎた日の栄光を語っただけの不味いミックスジュースでしかない。適当にブレンドした思い出という名前の苦々しい毒薬に過ぎない。
 だからこそ、アタナシアは全てを忘却した振りをした。愛する事は即ち、過去をも捨て去ることだ。

 その日、その時、彼女は憤っていた。ヒステリックにも程がある声音は爪先で硝子を掻き毟るかのようである。
 ワルツを踊るように地を叩く脚は世界中で目を背ける不束者達を踏み締めるようであった。幼子の癇癪のようにも見えるのは愛嬌だ。
 実に愛おしいとアタナシアは主人の――『冠位色欲』ルクレツィアの怒り狂う様を眺める。
 眉を吊り上げて一言も発する事などしないままで夜の女は唇を引き結ぶ。
 愚者は成事に闇く、智者は未萌に見るとはよく言ったもので斯うしたとき不要な発言を行なうのは焦げ付いたパンケーキに蜂蜜を掛けて誤魔化そうとするバカらしい行いと同等だ。
「アタナシア」
 鋭くルクレツィアは呼んだ。
「アタナシア!」
 名を呼ばれてからアタナシアは笑みを浮かべる。
 銀の縁取りは下がる眦を美しく見せた。手入れの行き届いた長髪を勢い良く掴み上げた女の眸がぎらりと輝きを帯びる。
「『分っていて』?」
 アタナシアははて、と首を傾いだ。何をだろうか。
 不届き者の聖女に対して批判のラブレターでも投げ入れれば良いのか。それとも、八つ当たりをその身に受ける栄誉を賜れるという事か。
 ルクレツィアは忠犬の顔をして、それでいて、何一つ分っちゃい無い女の髪を捨てるように話した。
 目の前に膝を付き、頭を垂れて、愛を囁く女は『ルクレツィアの勝利を信じて疑わない』のだ。
「愛しきぼくの月。あなた様が陰る事なんてないでしょう?
 憤る顔も愛おしいけれど、ぼくへだけ微笑むあなた様を見て居たい。その唇がぼくの名を呼ぶだけで、天にも昇る心地なのですから」
「よく囀ること」
「この唇はあなた様への愛を謳うために存在して居るのだから。
 この眸だって、あなた様を見詰めるために存在して居る。ああ、それに――この命はあなた様の為にある」
 死ねと言えば、容易に死んでみせるだろう。
 ルクレツィアにとって『扱いやすく』て『扱いにくい』女はうっそりと笑った。月光に魅入られたかのように、夢見るように。
「呼ばれた理由は分かっておりまして?」
 分からないフリをしていられるならば、何れだけ良かっただろう。アタナシアの声音は弾み、眼前の『主人』を見た。
 ああ、月の光のように神々しく微笑むそのかんばせが歪む姿も愛らしい。
 愛しき貴方、慈愛の月。天上の調べよ。至極の喜びの如く、ぼくに命を与え、ただ、行くだけの力をおくれ――


「もしも」
 レディ・ノワールはカクテルグラスの中で弾むシャンパンの泡を眺めながら何気なく言った。
「もしも、ルクレツィア様があの聖女(かた)の手の内にかかってしまったならばどうなさるの?」
「正気で聞いているのかな」
 アタナシアは幻想の街、広場に立って静かに囁いた。王城より、下り落ちていくリンゴは傷付きながら次第にスラムに流れ着くだろう。
 誰も目を留めることはない。蹴り飛ばした小石のようにさしたる興味を抱くわけもない。
『黒聖女(あのおんな)』にとって、ルクレツィアもそんな物だったのだろう。彼女はイノリしか見ていないのだから仕様が無いともアタナシアは理解している。――だからといって、宝石(ルクレツィア)が掌に転がり込んでくることが無い事だって。
「正気ですわ、ミズ」
「もしもそれが正気だというならば君の頭を鎚で五度ほど叩いてチューニングを直してしまいたい衝動に駆られるな、レディ。
 ぼくの月はぼくの為に輝かねばならない。そう、だから――蝶々を捕える蜘蛛の糸なんてぼくは燃やし尽して仕舞いたいよ」
 レディ・ノワールは「恐ろしいこと」と呟いてからシャンパングラスを何気ない仕草で地へと叩きつけた。ぱりんと音を立てた途端に周囲の人々の目が女を捉える。その隙を『縫う』ように旋律は風となり周囲へと響いた。
 無数の人々がレディ・ノワールに傅く。指先に口づけを、その髪先へ愛を囁き、至高の女神と褒め称える。
「準備は出来ましたのね」
「嗚呼、勿論だとも。素敵なゲストをお呼びしたのさ」
 アタナシアはくるりと回ってから坂の上から遣ってくる一人の淑女を眺めた。
 柔らかな黒髪はよく手入れされた鴉の濡れ羽色だった。金色の似合うあの一族の中では異色とも言えよう彼女は妾の座に着いた薄汚い野良犬であったという。
 だが、寵愛は確かなものだった――と女は理解している。腹に宿した子は紛れもなく貴族の血統と、その一族を意味する金色に身を包んでいたからだ。
 女は故に、こう名乗った。
 ――フィッツバルディと。
「ご機嫌よう」
 産み落とした息子がその血筋だというならば、女とてそう名乗る意義を持てよう。
 貴族の男の甘言は、最も信用ならぬ言葉だ。レディ・ノワールは少なくともそう理解している。
 愛している、迎えに行く、必ず。まるで薔薇だと偽ってキャンディを差し出すような児戯が如き言葉の代物だ。
 そんな言葉を信じた女は死してから、尚もその魂を拾われ伽藍の肉体を得たというのか。
「ご機嫌よう、ミセス・フィッツバルディ」
「ふふ」
 女は夢見る少女のようだった。説明を求めるレディ・ノワールに「彼女はマコ。マコ・フィッツバルディさ」とアタナシアは言う。
「君の息子は二人居ると聞いたよ。ミセス・フィッツバルディ。
 一人はカラス。射干玉の名を宿しても黄金は揺るぎない血統を意味して居たろうね。
 もう一人は――シラス。君に良く似た射干玉の髪の青年さ。今やこの国の勇者筆頭様そのものだ」
「……ええ。カラスはわたくしとフィゾルテさまの愛しい子供ですもの。今も元気かしら」
 謳うように彼女は言った。レディ・ノワールは僅かな違和感に眉を顰める。二人、と言ったけれど。
「シラス? ……誰かしら」とマコは首を傾いだ。
 女にとってカラスとはフィゾルテ・ドナシス・フィッツバルディとの間に生まれた子であり、宝だった。夢そのものだ。
 だが、シラス(p3p004421)という息子は追い立てられるようにフィッツバルディ邸を後し、日銭を稼ぐために身を売った代償そのものだった。
 少なくとも、シラスが知っている母親は『その実情に気を病み、己を理解することなく幼い子供の様に唄を歌っていた』女だった。
 少年期に苦い思い出ばかりを抱いていたであろうシラスにとって、マコという女は蓋をしたい思い出の一つであり、救いのない道の先に立っているものそのものだ。
「勇者筆頭様もさぞ驚くだろうね。ミセス・フィッツバルディ。
 きみが生きて、息をして。ぼくと共に幸せになるのさ。何ならフィゾルテという男を捜してきて宛がっても構わない。
 死後であろうとも愛し合う人々は共に手を取り合うべきなのだから。ああ、良いことをした――!」
 嬉しそうに笑ったアタナシアはレディ・ノワールの周囲に蔓延る人々を、怯えながらも狂気の声に身を巻かれる有象無象を。
 そして、佇み唄を歌い続ける『マコ・フィッツバルディ』を眺めてから天を仰いだ。
「ああ、ルクレツィア様――」
 愛しきその人は、こう言った。

 あんな雑な連中には出来ない、きめ細やかでより致命的な――
 私達に相応しい猛毒めいた一撃をこの世界にくれてやれば良いのです。

 ええ、毒を喰らわば皿まで。愛しき『オニーサマ』にばかり尾を振られるのは嫉妬してしまうけれど。
 あなた様の恋路を邪魔など致しませんとも。屹度、褒美の一つは下さるでしょう。
 この国を、壊せば宜しい。それだけで解決するというならば、ぼくは悪逆非道な存在にだってなれてしまうのだから!

GMコメント

 夏あかねです。宜しくお願いします。

●成功条件
 ・『享楽』のアタナシアの撃退
 ・レディ・ノワールの撃破

●フィールド情報
 幻想市外。スラム街にも近い広場です。当たり前のように一般人達が存在しています。
 アタナシアとレディ・ノワールの目的は幻想に狂気を撒き散らし支配を行なう事なのでしょう。
 スラム街には幾人が居るかも分からず、下町の雰囲気が溢れ始めた市中には雑多に人々が暮らしているようです。
 つまり、『何れだけの人間がいる』のかは分かりません。目に見える範囲では『スピリトーゾ』となったものが死霊に揉まれながら存在して居ます。
 何を優先して、何を選ぶかが最優先事項となります。

●エネミー
 ・『享楽』のアタナシア
 色欲の魔種。冠位魔種ルクレツィアに心酔している女性です。男性のような口調で語らい、ルクレツィアの騎士を自称しております。
 基本的に何方に対してもポジティブに好意的に接します。非常にお喋りでナルシストです。
 大体のことを自分にとって都合の良い事に解釈します。ごめんね、ぼくが美しすぎたばかりに……。
 『<ヴィーグリーズ会戦>ne vivam si abis.』にて夢見 ルル家(p3p000016)さんの「生きて帰れたら『超絶美少女のルル家ちゃんに負けた』アタナシアと名乗ると良いですよ!」の言葉を面白がってその様に名乗ることもある程度に、途轍もなく『ノリが軽い』が実力は確かな存在だと考えて下さい。

 ネクロマンサー。無数の死霊を手繰り戦います。
 非常にEXFが高く、ネクロマンサーでありながら前線で戦う装備を有しています。魔法剣士と呼ぶのが相応しいでしょう。
 自身が前に出る際、もしくは『お喋りに熱中』している段階には死霊の操縦が緩みます。
 アタナシアは自らが手を汚さず再利用していると言います。人を殺すのも労力が居るからなのでしょうね。
 【ルクレツィアに危険が差し迫った】【ルクレツィアが撤退する】時には彼女もそっと撤退します。性格です。

 ・『死霊』マコ・フィッツバルディ
 アタナシアが拾ってきた死霊です。魔種リュシアンの協力を得て伽藍の肉体を得たことによってその姿を変容させた存在です。
 シラス(p3p004421)さんのお母さんの全盛期の姿です。つまりフィゾルテ・ドナシス・フィッツバルディの愛人であった頃の姿をとっています。
 マコは何故かフィッツバルディを名乗り、自らがその一族の存在であるように振る舞います。
 また、彼女にとっての息子は『カラス』のみであり、シラスはうらぶれた後に生れ落ちた子供であるため自らの息子である事は認めません。
 魔術師としての力を手にしており、後方で戦います。ヒーラーとしての能力にも長けています。
 これが最も重要な能力ですが【狂気伝播アンテナ】の役割を果たします。レディ・ノワールに相互に干渉し、レディ・ノワールのちからをより強力なものとしています。

 ・『死霊たち』
 2Tに1度5体ずつ増えます。初期に20体。アタナシアが『やる気を失う』と供給が減る彼女の死霊達です。
 逆に言えばテンションが上がると供給量が増えていきます。今日も今日とてテンションが高いです。
 アタナシアは幻想王国で使い捨てられた者や地に根付いた怨念を無尽蔵に生み出す能力を有しています――が、それもやる気が続く範囲での話です。
 兵士としては全体的に戦力は統率されてるとは言い難いです。弱い者も混ざり、幼い子供などが動員されることもあります。
 ピンキリであります。が、今回『も』『何故か』運が良く言い手駒が多いようです。

 ・レディ・ノワール
  自称人間種とする幻想貴族。社交界に現れては笑みを振り撒く淑女。
 マーメイドドレスを身に纏う紺碧の髪を有する美女。冠位魔種ルクレツィアの内通者であり、幻想の貴族達の情報を収集していました。
 歌を巧みに利用した精神阻害を得意とします。音を武器に攻撃を行なう魔術師です。
 旋律が乱れると精神への干渉が乱れるため、静寂を好みます。ルクレツィアによって能力的を強化されているのか非常に卓越した『精神干渉』技能を持ちます。
 これまでは音を武器としていましたが、ルクレツィアの干渉を経て、一度でも意識を惹いた者には永続的な精神支配を行えるようです。ある種の魅了(チャーム)能力と同等です。

 ・『スピリトーゾ』
 周辺広場の一般人です。初期では20人程度。
 強い精神干渉を受けており、レディ・ノワールを護る為に戦います。武器を持った一般人ですがちょっとやそっとのことでは倒れない強化を為れています。
『個体差があり』誰から影響を受けるかは分かりませんが、数ターン(最短で4T)で反転し魔種へと変化します。
 また、この数は増え続けます。狂気は伝播し続けるからです。狂気の呼び声めいたものが響いています。

●情報精度
 このシナリオの情報精度はD-です。
 基本的に多くの部分が不完全で信用出来ない情報と考えて下さい。
 不測の事態は恐らく起きるでしょう。

●Danger!
 当シナリオにはパンドラ残量に拠らない死亡判定が有り得ます。
 予めご了承の上、参加するようにお願いいたします。

  • <美徳の不幸/悪徳の栄え>Fortuna caeca.Lv:50以上完了
  • GM名夏あかね
  • 種別EX
  • 難易度HARD
  • 冒険終了日時2024年01月28日 22時20分
  • 参加人数10/10人
  • 相談6日
  • 参加費150RC

参加者 : 10 人

冒険が終了しました! リプレイ結果をご覧ください。

参加者一覧(10人)

シラス(p3p004421)
超える者
アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)
大樹の精霊
雪村 沙月(p3p007273)
月下美人
長月・イナリ(p3p008096)
狐です
ベネディクト=レベンディス=マナガルム(p3p008160)
戦輝刃
チェレンチィ(p3p008318)
暗殺流儀
星穹(p3p008330)
約束の瓊盾
グリーフ・ロス(p3p008615)
紅矢の守護者
ユーフォニー(p3p010323)
竜域の娘
マリエッタ・エーレイン(p3p010534)
死血の魔女

リプレイ


 まるでオーケストラだと両の掌を宙へと掲げてアタナシアは言った。
 泣き叫ぶ大人を追い縋り血に塗れながらも懸命に駆けて行く子供。襟を掴み引き摺り倒し、その顔を何度も何度も殴りつける奇怪な光景。
 暴力と、殺戮と、怒りと、苦しみと、悲しみに溢れたこの場所は、慈しみと愛などとは程遠い。
 色欲の玉座に座った美しき『女王陛下』はこの状況を眺めたならば鼻先をはんと鳴らして目を背けるのだ。
 それで良い。咲き誇った白百合に、艶やかなる湖、月を映したワイングラスに、揺らぐ水面の爽やかさ。それだけを映していれば良い。

 ――ああ、ルクレツィア様!

 その名を呼んで。芝居がかった仕草を一つ見せてからくるりと振り返ってから、アタナシアは微笑んだ。
 その唇から、ちらりと覗いた八重歯に華やいだ微笑みはエメラルドの瞳が一滴、穏やかな光を宿した。
「また会えたね」
 逢瀬を楽しみにして居た恋人のように。うっとりとした言葉で彼女は言った。
「今日もお元気そうですね、アタナシア」
「沙月も今日も美しい姿をしている。君の蜜色の髪を梳く機会をぼくにいただいても? レディ」
 そっと目を逸らした『月下美人』雪村 沙月(p3p007273)は小さく息を吐く。何て軽薄な言葉を吐くのだろう。
 その唇は思ってもないことばかりを乗せて笑うのだ。まるで都合の良い口説き文句を説くかの如く、質実剛健なる戦いの場には似合いはしない女の姿を一瞥し、マントを翻したのは『騎士の矜持』ベネディクト=レベンディス=マナガルム(p3p008160)。
 周辺には逃げ惑う人々の姿がある。とある貴族はこの場所を肥溜めと呼んだか。幻想という国は天と地が明確に分れている。
 煌びやかな王宮に放蕩の呼び名を欲しい物にして居た若き王子が即位してから、国は腐敗し荒れ果てた。現状ではそれもなんとか立て直し剣王と呼ぶには未だ遠い途方もない道のりを彼は走っているのだろうが――
(この場所は、相も変わらず果実の腐り落ちる様を体現している)
 無数の人々が実を寄せ合って犇めきあった。それらの安全を願えども、全ての対処を行う事が難しいことを知っている。
 ベネディクトは唇を噛み締めた。アタナシアという娘は飄々と姿を見せては何処ぞへと去って行くのだ。強力な魔種であり、明確な欠点がある。
 ――冠位魔種ルクレツィアを愛しすぎている、と言うことだ。彼女はルクレツィアの身の上に何らかの不幸が迫ったならば直ぐさまに撤退する。それ程の追求を必要しない相手だが、問題は。
「お前を逃がした時に舞台の上はさぞや荒れるのだろうと理解していた。だが、悔んでいる暇も、思い悩み立ち止まる暇さえ今の俺にはない。
 此処で終らせよう――『レディ・ノワール』」
 呼ぶ。鴉の濡れ羽色には藍染の気配を宿す。夜を体現した女の唇が吊り上がる。
「ふ、ふ、ふ」と笑ってから彼女は恭しくも淑女の礼をして見せた。大きな鍔の帽子が影を落として、ゆったりと顔を上げる。
「幕引きは鮮やかに行きませんと」
「ええ。我々の思う以上に急激にフィナーレは近付いて着たようです。足音が聞こえ始めれば、追い立てられるようにルクレツィアも動き始めた。
 ……アタナシア、そしてレディ・ノワール。先日は力及ばず敵いませんでしたが、今回こそは」
 じらりと睨め付ける『暗殺流儀』チェレンチィ(p3p008318)に「隻眼の君!」とアタナシアは声を上げた。
「宝石(ルクレツィアさま)はより素晴らしい舞台をお選びになっただけさ。そう、決して黒聖女(くそおんな)に煽られたからではないさ」
 楽しげに弾んだ声音は言葉では彼女を庇うが、その実、「黒聖女に煽られて舞台に引き摺り出されただけ」だとも語っているかのようだった。
 ああ、そうだろうとも。アタナシアにとって最たる幸運はルクエツィアが自らの手許に転がり落ちてくることだ。彼女が焦り、何らかのトラブルに見舞われたならば直ぐに甘い言葉を掛けてやる――つまり、恋愛の初歩の初歩。そんな技能を見せ付けるつもりであるのだ。
「……色欲といいますが、言い方を変えれば、多様な愛のひとつ。それを否定はしません」
 アタナシアというのは飄々とした女ではあるが多様な愛を抱いて活動して居ることは分かる。
 純愛か。そう思えば色欲の魔種というのも理解も出来よう。『愛を知った者よ』グリーフ・ロス(p3p008615)は彼女の愛を否定しない。
「――ただ、私には私の”愛”があるから。
 なにより、冠位色欲は以前にアルベドやキトリニタスを生み出すよう、リュシアンさんを通して働きかけた存在。
 誰にもなれない誰かを生み出すこと。誰かを歪めること。私はそれに、抗います」
「ああ、リュシアンか」
 さも詰らなさそうにアタナシアはその名前を呼んだ。
「薄汚い子犬だった。ぼくはあの子が嫌いなんだ。ルクレツィアさまに重用されていてうらやま……ううん、実力を比べられている気分だ。
 知っているかな、愛を宿した麗しのレディ。愛する人に比較され、一番でなければ、恋をする人間というのは容易く死んでしまうのだよ!」


 溢れ落ちていくのは数字ではない。1、10、100。数えるのは容易くとも、それが命であると識れば何と悍ましいことであろうか。
 全てを繋ぎ止めることがどれ程に難しいかを『竜域の娘』ユーフォニー(p3p010323)は理解している。だからこそ、全てに向き合うと決めて居た。
「……アタナシア、と言いましたね」
「ご機嫌よう?」
 レイピアを手にしたアタナシアを一瞥してからユーフォニーは「リーちゃん、お願いね」と囁いた。ふわりと宙空へと浮かび上がるファミリアーのリディアは折れた耳をぴくりと揺れ動かした。
 アタナシアにとってはドラネコは見慣れぬ存在だ。黄金色の瞳を持った猫を「愛くるしいペットを飼っているのかい。良く似合うね」と彼女の唇が朗々と告げるのだ。
『……お話をさせて頂いても?』
「秘密事かい? ふふ、そういう事は嫌いじゃあないさ」
 ――やりにくい相手だ、と。ユーフォニーが感じる前に『死血の魔女』マリエッタ・エーレイン(p3p010534)が呟いた。周辺を逃げ惑う人々の声音をバッグミュージックに立ち振る舞っているにしてはあまりにも、明るすぎる相手なのだ。
「随分とまぁ、ぶっ飛んだ相手ですねアタナシアというのは。
 追ってくる過去を振り切れてない私としては羨ましくも思いますし……何より死霊術、魔種というのは私の欲しいばかり持っていて嫌になりますね」
「なんだ! つまり! ぼくが好きなのかい!?」
「……し、しかし、こう。調子は狂う相手ですね。勢いがカロルみたいで!」
 困惑するマリエッタ。その言葉を聞いたならば元聖女は酷く憤慨するだろう。『私はもうちょっとましよ』なんて言いながら拗ねた様子でマリエッタの脇腹を突くのだ。明るく天真爛漫に振る舞うカロルと比べれば眼前の女は悪意等と言う者は無いが、倫理観がズレている。
 ――そう、『平常の人間としての倫理観』や振る舞いそのものが欠落した女が『約束の瓊盾』星穹(p3p008330)の前には立っているのだ。
「何時もと変わらぬ様子で何よりですわ、アタナシア」
「星穹! きみも逢いに来てくれたのかい。ああ、きっと、きみはぼくに焦がれたことだろう。可哀想に、直ぐに連れて行ってあげようか」
「……遠慮致します。前回はしてやられましたが、今回はそうさせるわけにはいきませんので」
 じらりと睨め付ける星穹の眸にそそるなあとアタナシアは笑った。彼女が死霊使いだという事は聞いている。そうそう、と指を打ち合わせ、ぞろぞろと現れた『雑兵』が無数の死人であったとしても決して揺らぐことはない。
 寧ろ、レディ・ノワールの声音に誘われたかのように姿を見せた一般人達の方が『蒼穹の魔女』アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)にとっては心痛む存在だった。そうある筈だった。それ以上は、こんな場所に必要も無い感情なのに。
「シラス君」
 呼ぶ。呼んだ。彼の名前を。呼び慣れてしまった大切な人の名前が今はただ、伽藍堂に思えてならない。
「ミセス・フィッツバルディだ。ご存じかい?」
 その顔は『竜剣』シラス(p3p004421)には深く刻まれていた。何れだけ非道になろうとも実母の顔を忘れる事は出来やしない。
 それだけ、シラスという青年は、いいや、少年期からかれは『割り切ることが出来て居れど』人間だった。
「――この俺を、見くびるなァッ!」
 地を蹴った。感情を隠さない、隠せない。クールなイレギュラーズで何て居られない。
 肉体の内部に存在する血液が全て沸騰し、ざわりと音を立てた。皮膚は泡立ち気味の悪いほどに怒りが体を支配する。
 双竜の飼い犬などと見くびって、飼い主を連れて来たつもりか。ミセス・フィッツバルディなどと『生前終ぞ呼ばれることの無かった名を有した女』を連れて。
「……なんて、下品」
 目の前の女が眉を顰めた。シラスにとってよく見慣れた顔で。アレクシアにとって誰苑俤を感じる顔をして。
「ッ――!」
 心の底に飼っている怪物に名は与えてやならぬのだ。餌も与えず、臓腑を食らい尽くさんとするそれを鎮めていなくてはならない。
 ――出来るわけがないだろう?
 シラスの眸がぎらりとレディ・ノワール配下に位置したスピリトーゾ達を捉えた。獲物の首を区域欄勢いで無数の糸が周囲へと広がって行く。
 彼の怒りは尤もだ。アレクシアとて『彼の兄』にあった事がある。フィッツバルディの血を引いた青年――つまり、シラスは一方だけの血の繋がった兄が大貴族の血縁者であったということだ――カラスを知っており、息子だと公言する彼女は――
「成程。彼女は彼の母親だという事ね。そして死別をしている。死霊術使いだという事は良く分かる。
 ええ。騒々しいのは嫌いじゃないけど、死霊とか騒音とか勘弁願いたいわね。その脳天にクレームを叩き込んで大人しくなってもらいましょうか!」
『狐です』長月・イナリ(p3p008096)が手にした大太刀は鋭い風を纏った。叩き付けた突風はシラスを巻込まぬよう、乱戦状態ならばただの一度となるだろうか。
 母親。その言葉にアレクシアはシラスとは対照的に腹の底まで冷えていく気配を感じた。
「……私、今結構怒ってるよ。亡くなった人を叩き起こして。罪のない人も巻き込んで。人の生命を、心を、魂を何だと思っているの!」
 拳を固め、震わせて。アレクシアは唇を噛み締めた。マコ・フィッツバルディと呼ばれた女の傍でレイピアをすうと抜き取ってからアタナシアは「ぼくは彼女を紹介して貰っただけさ」と笑みを零す。
「紹介……? ところで、あの黒髪の死霊は……わざわざあなたが探してきたの?」
 詳しいことは『思い出せない』。けれど直近の記憶でカラスを、そして、シラスを見てきたからこそ分かって仕舞ったのだ。
「いいや! 違うさ。彼女はね、ルクレツィアさまから賜ったのさ。丁度、我が愛しき月はフィッツバルディにも一枚噛んでいたからね」
 フィゾルテ・ドナシス・フィッツバルディの関連か。アレクシアは唇を噛んでから「悪趣味だよ」と呟いた。
 何も覚えてやいられないけれど。もしも、覚えていたならばこんな気持ちにならずに済んだのだろうか。
 ――彼の大切な思い出だって、話してくれたひとつひとつを、忘れる事が無いように抱き締めていられたならば、あの苦しみにも寄り添えただろうか。
「大切な人を傷つけるような真似をするのなら、私はあなたを許さない!」
 アレクシアのブレスレットから三角の魔法陣が浮かび上がった。それは宙に躍って赤き花と化す。魔力の塊は炸裂し、紅色の花吹雪となった。
 テロペアの魔力に顔を上げたのはスピリトーゾや死霊達か。数が多い、それは『一つでもミスをすれば戦線瓦解』の可能性があるということだとアレクシアは認識していた。
 振り向かずとも足音で分かる。たん、たん、とリズミカルに踊るように前線へとやってくる沙月は美しき花弁が如く舞い踊る。スピリトーゾ達を打ち払わねば魔種へと転ずる。ならば、その前に。
「酷い事ばかりをなさるのね」
「酷い事? それは何方の話だろうか。生憎だが悠長にティータイムを過ごす猶予は内容なのでね」
 ベネディクトの槍がスピリトーゾを斥ける。アタナシアだけではない。レディ・ノワールとて強力な相手である事は別っている。
 ここは果敢に攻め立て一つずつ排すのみ。そうで無くては、振り払えまい。目指すのはレディ・ノワールまでの最短ルートだ。
「アタナシア。少し大人しくしていて下さいませ」
「おや、ぼくと遊んでくれるんじゃ無かったのかい? 麗しきぼくの盾」
「……あなたの盾になった覚えはありませんが」
 眉を寄せた星穹は相手にしないのも作戦の一つだと敢てアタナシアの言葉を遮った。一分でも、一秒でも早くベネディクト達を送り出すためにスピリトーゾを引き寄せる。
(……私とアレクシアさんの二人で死霊に耐え凌ぐ。アタナシアとは会話をすればある程度此方に構いそうですが。それも、此方の役目でしょうか)
 シラスを心配するアレクシアに『喧しい女』を背負わすのは何となく気が惹けた気がしてマリエッタは血印に魔力を流し込みながら肩を竦める。
「随分と盛大なパーティーを開くのですね、アタナシア」
「我らが愛しき主が満を持しての登場さ。素晴らしきパーティーにしようではないか。
 きみは面白い魂をして居るのだね。ならば、ひとりぶんくらいぼくに頂いても? 今日は機嫌が良いんだ」
 ぞおと背筋に嫌な気配が走った。楽しげに声音を弾ませるアタナシアに引いている場合ではないのだと息を吐く。
「……やって見せましょう。死血の魔女の実力も甘く見てもらっては困ります」


 マコ・フィッツバルディと名乗る女は現在に置いてその名をフィッツバルディに遺したわけではない。
 ルクレツィアによる余計なお節介と多分な憐れみが彼女がそう名乗ることを許諾したのだ。
 詰まり、アタナシアにとっては『何だか良く分からない女を押し付けられた』という一方で、幻想の勇者と名高き竜の飼い犬が牙を剥き出す光景を見るに至ったのだ。
(ふふ、それもこれもルクレツィアさまから見ればぼくを信頼してのこと。
 ああ、なんて幸運なのだろう。ミセス・フィッツバルディと遊んでいれば、ルクレツィアさまは褒めてくださるだろうから!)
 彼女にとってルクレツィアと自分、その他大勢といった世界の構図は変わらない。
 何れだけの美男美女であろうともルクレツィアより美しく、聡明で、それでいて迂闊(すこし抜けていて)、癇癪持ちで可愛らしいプリンセスは居ない。何れだけの美男美女であろうともアタナシアという存在以上に彼女に愛される人間はいないと信じているのだ――!
「ローレットのシラスだ。広場に魔物が出たが安心しろ、直ぐに片付ける。
 ハッ、野次馬に来るんじゃねえぞ。戸締りを頼むぜ、いいな?」
 堂々とその声音が響いた。嗚呼、苛立つ。スピリトーゾの追加を抑制するべくスラム街の人々に掛けた声音は確かな意味を持っていただろう。
 シラスという青年は幻想の勇者であり、スラムの出身であるとも識られている。それ以上に、うらぶれた下町のどの様な依頼だって拒絶しない『ローレットの代表格』という認識があるのだ。
 この街で、数え切れないほどの人間に向き合った。薄汚れた仕事だって、なんだってしてきた。坂を昇るため。より高みへと向かうために。
 そうやって重ねてきた実力が――ローレットのイレギュラーズである『シラス』の戦歴が彼等を留めることに適していたのだ。
「アタナシアさんは、どうして魔種になったのですか?」
「え? ……さあ、どうだったかな。ぼくは過去には縛られないのさ。
 あ、これは素晴らしい話だから聞いておくれよ。ルクレツィアさまが『あの男(イノリ)』を愛していたっていつかはぼくをみると知っているから許せるのさ」
 アタナシアの唇がついと吊り上がった。ユーフォニーは何処か困ったように眉を下げる。
 魔種に転じたきっかけとは即ち情状酌量の余地がありはしないかと、その人となりを知ろうと考えたのだ。
 過去に鍵があり、魔種の弱点を露呈させることだってある。だが、彼女は大して過去を語らない。その表情は雄弁にどうでも良いと語っていた。
「では、どうしてルクレツィアさんをお好きになったのですか?」
「んふ。聞くかい? あれは美しい月夜の晩だった。出会ってしまったのさ! 湖の精霊(プリンセス・オデット)と!」
「……」
 いやはや、なんと言葉にすれば良いのだろうか。興奮を禁じ得ぬアタナシア。その死霊の扱いはややおざなりになっただろうか。
『リーちゃん』越しに声を掛けながらもスピリトーゾ達の相手をするユーフォニーは得も言えぬ顔をした。
「今宵の相手は貴女でしょうか。とある鴉に貴方の主に似ているといわれたこともありまして。少しばかり目を向けていただけますか?」
「冗談を言ってはいけないよ。ミズ。
 あの方は何千何万の命と引き換えたって比べものにはならないぼくの月。美しき世界の在り方。
 そのお方と似ている!? ああ、いいやミズが悪いのではない。きみも魅力的さ。けれど、あの鴉は女を見る目がない。具体的にルクレツィアさまの素晴らしさを理解しようとしていないのだ。嗚呼、嘆かわしい」
「……」
 マリエッタがちら、とアレクシアを見る。マコ・フィッツバルディはアタナシアのコントロールが緩もうとも後方である程度の支援を行えるのだ。つまり、非常に厄介な存在はアタナシアと言うよりもマコだ。
(此の儘、アタナシアの意識を引き続ければ良いのですが――)
 やる気が下がってくれれば有り難いが、フラットな操作技術にウェットな感情を乗せて朗らかに笑うアタナシアの死霊はダンスパーティーにでも興じるかのように動き回る。
「アタナシア、何をしていらっしゃるの?」
「きみこそ。レディ?」
 旋律を手繰り、歌声とする。眉を顰めるレディ・ノワールにアタナシアはどこか拗ねた様子で唇を尖らせた。
 周囲を飛び交う鳥たちの声を聞きながら「ああ、全く。手駒が遠離らんとする」と忌々しげにレディ・ノワールは呟いた。
(ここは無法地帯でしょうが。数に圧倒されれば価値は見込めません。
 これだけ大袈裟にやり合えばある程度の時間稼ぎは出来るはず。立て直しが必要にならぬように……)
 グリーフはアタナシアを見た。アタナシアは前線に立っているからこそ、イレギュラーズ側の戦法をよく理解している。
 例えば、ヒーラーを潰せば戦線が瓦解することをあちらもよく理解しているというのだ。ヒーラーであるグリーフに、敵中の只中であれど自らを支え続ける適性のあるアレクシア。狙うならば何方から、というのはアタナシアの取る戦法だろう。
 だが――沙月は今日のアタナシアはそれ程前には出て来てやいないのだと理解していた。
(マコに気を遣っている……? 確かに、マコはヒーラー。そして最も狙われやすい立場でもある。
 アタナシアは特段誰かにサポートをもらいながら戦う相手では無いなら……マコが支えるのは、レディ・ノワールか……?)
 視線の先、レディ・ノワールは歌い続ける。鳥の羽ばたきや砂塵の揺らぐ音、潮騒の叫声、花びらの舞い散るひとひら。そうした音色を響かせる。
 スピリトーゾが押し退けられ、最短距離でやってきたベネディクトをレディ・ノワールが睨め付けた。
 その後方から素早く飛び込んだのはチェレンチィであった。駆ける宙空に、自在に羽ばたくチェレンチィの艶やかな眸は夜色の女を見据えている。
「――♪」
 歌声は衝撃波となって翼を叩いた。だから、なんだというのか。僅かに崩れた姿勢を立て直す。
 レディ・ノワールを飛び越え、マコへと飛び込んだ。狙うべきはマコだ。レディ・ノワールとアタナシアを立て直されては困る。
 アタナシアは「おや」と呟いた。彼女を抑えるマリエッタの表情は苦しげだ。それだけ、目の前の魔種は『やる気がある内』は難しい相手なのだ。
 戦法さえも難解だ。筋などない。「貴女は私を見て居れば良い」。その言葉を口にするだけで熱烈だと笑うのだ。
 スピリトーゾ達を引き寄せていた星穹はちらりと其方を見た。執拗に狙いを定めるスピリトーゾ達は伽藍堂になった左腕を狙う。
 義手へと叩き付けられるじんと痛いその気配。斥けるように、叩き付け、捕縛した者は後ろへと投げ遣った。
(……スピリトーゾは最早全て対応が終る。ならば――)
 マコを倒さねばならない。顔を上げる星穹は癒やしの気配を宿すマコを睨め付けた。背負うグリーフの命は、この戦線を支えるもの。
 マリエッタとアレクシアに囲まれたアタナシア。この現状ならばイレギュラーズは自らを支え続ける事が出来る。
 ――だからこそ、グリーフは仲間が決定打を与えるまでは立つのだ。
 レディ・ノワールの声音が響く。その歌声には眩まぬように。首を振ってからグリーフは真っ向から向き直る。
 簡単には倒れぬように、準備をしてきたつもりだ。戦場を支える為の力がある。これが根競べであるのは確かなことだ。
「んー、死霊&死霊使いか肉体サンプルは不要だわね。面白味が薄いわ……というわけで、大人しく戦闘経験値をだけ置いておきなさい!」
 ぴょんと跳ねるようにしてイナリはアタナシアの向こう側に――マコへと攻撃を定めた。
 全てを分断し、的確に倒す事を目的としている。その為の準備は整えてきたのだ。
 マコの機動力を狩り取るように動く。イナリは無数の式を一般市民の避難にも気を配り続けた。
(嗚呼、本当に。目の前の彼女だって死霊で、その肉体だって擬態のようなものだものね。
 うん。経験値にしてしまえば良いわ。全て狩り取ってしまえば構わないとも思うのだもの)
 尾をゆらりゆらりと揺らしてからイナリは微笑んだ。大太刀を振り下ろす。運命を手にして、そして駆けずり回るのだ。
 牙を研ぎ澄ませた『狐』はころころと笑うように進む。ああ、だって――典型的な『狐っ子』は式として様々な素材を得る事を求めるのだ。
 それでも、これでは余りに糧にはならないと切り捨てる。擦れ違うように沙月はマコに肉薄した。
「貴女に恨みなどはありませんが――」
「ならば、どうして私を害するのですか。フィッツバルディに仇為すなど」
 眉を顰めるマコに沙月は嘆息した。ああ、だって、彼女はフィッツバルディにその名を残していない。
 家系図にはその名も無く。都合が良く改変された彼女の在り方は見ていて忍びなくもなる。
「本当にそうですわ。貴族に仇為すなど、許せませんでしょう」
 歌声が響いた。その悍ましさに沙月は首を振る。体の動きを阻害する、それを振り払うがべく力を込めた。
「其の儘、いただいても?」
「差し上げることなど致しませんわ。
 ……一体いくら人を馬鹿にすれば満足するのかしら。
 誰かを操ることでしか戦えない貴方に、何ができるというの。アタナシアのように剣でも握るなら別ですけどね」
 星穹は真っ向からレディ・ノワールを見ていた。
 魔種と転じたその姿。その姿をイナリは直ぐに確認し、命を狩り取るために動く。
 こんな所で戸惑って等は居られないからだ。
 イナリがぴょん、ぴょんと跳ねる。マコは自信を回復することに手一杯か。
「ああ、どうして」
「どうして、だなんて聞くことではありませんよ。だって……」
 あなたが、誰かを傷付けるのだから。ユーフォニーは唇を噛んだ。
 魔種であっても心を分かってやりたい。魔種であってもその生きる意味を理解してやりたい。
 そう思いながらもどうしようもないほどに苦しくもなる。
「終わりにしよう。『母さん』」
 シラスは地を蹴った。『母さん』の言葉にマコはつい、と顔を上げる。
「カラス?」
 ――と彼女は呼ぶのだ。
 美しい子守歌を歌いながら、背丈もうんと高くなって大人になってしまった兄を幼子のように掻き抱くのだ。
 一度で良いから笑って欲しかった。シラスと呼んで抱き締めて欲しかった。
 子供染みた欲求だ。シラスは皮肉に笑う。

 ――もしも。
 もしも、母が居たら見てくれる。シラスと呼んで抱き締めてくれる。幻想中の人の眼を集めれば、そんな空想だって真実だ。
 己の息子だと認めて、微笑んで欲しかった。ただ、母親の温もりが欲しかった。
「母さん」
 唇は動いただけで音さえ作らなかった。ざらりと擦れ合ってから、酸素が抜けていく。
 賊も怪物も、魔種も倒した。薄汚れた仕事だって構わないと手を伸ばした。
 イレギュラーズになってローレットの一員としてギルドの仕事を熟し続けた。暗殺だろうが人助けだろうが、仕事だった。
 ラド・バウのS級闘士にだって挑んだ。まだ、負けちゃ居ない。買っても居ない。取り置いた『目標』だ。
 それに――そう、それに『あなたが焦がれていたあの一族』の、黄金の竜は名を呼んでくれたのだ。
 シラス、と。
 竜とだって渡り合った。真にこの世界の英雄だった。
 その度に「シラス」と呼んで笑う母親の姿だけが浮かんでは消えた。思い描いては笑顔が分からなくなっていく。
 空しさばかりが募り続ける。悔しさばかりがそこには横たわった。

「でもさ、分かったよ。
 俺を反射するこの瞳は俺を見ていない。これが本当の母さんだ。
 やっと会えた。……今の俺がその前に立てた」

 アレクシアは悲痛な声で「シラス君」と呼んだ。

 ――家族に何て二度とは会いたくないなって思ったけど……その時から変わったんだ。
 あの日から俺なりに胸を張れるように生きていくと決めた。やれることは全部やってきたつもり。
 もしまた家族に会えたら、その時は褒めてもらえるようにってね。

 それは、覚えている。『もしも』があったら、変わることがあったら。
 薄汚い力無いガキだと彼が笑う事も無く。
 幻想王国の勇者とまで呼ばれるようになった彼が希望と呼んでくれた『蒼穹の魔女』の手を引いてくれて。
 傍に居てくれる。ただ、その時に一つ零した悲しさが、実るかも知れなかったのに。
 母だというならば彼を抱き締めてやって欲しい。『家族に愛されて育った少女』は、『家族に愛されなかった青年』を見ている。
 未だ年若く少女のままの幻想種と、それを追い越して背丈も随分と伸びてしまった人間種。
 ――それでも、あなたの心は苦しいでしょう。
「シラス君……ッ!」
 アレクシアは藻掻くように手を伸ばした。死霊が邪魔だ。届かない。
 マコの体が傾いでいく。アタナシアが後方を一瞥してからはん、と鼻先を鳴らした。

「ああ、満足だ――愛してるよ」


「ふふ、うふふ。ああ、全く――」
 レディ・ノワールは頭を抱えたまま首を振った。狂気の伝播を行なうマコが打ち倒され、スピリトーゾの数も減った。
 周辺の警戒も進んでいる。この間にも楽しげであったアタナシアを抑えるマリエッタとアレクシアも満身創痍か。
 マコを狙っていたイレギュラーズの事も攻撃の標的にして居たレディ・ノワールはベネディクトを真っ直ぐに見た。
「どうして邪魔をなさるのかしら」
「……どうして? そんなことを問う必要があったのか」
「いいえ、ありませんわ。でも、ご理解なさって。後がありませんのよ」
 首をふるふると振ったレディ・ノワールの旋律が空気を震わせた。周囲を包み込んだそれは眩い光を落としたように降り注ぐ。
 目を瞠り、悍ましい程の気配に息を呑んだ。これが、ルクレツィアが能力を底上げした結果だというのか。
「後がないのだろう。失敗すればお前の命はないと考えれば良い」
 ベネディクトは槍を振り下ろし、地を蹴った。至近距離に詰め寄った。身を捻ったレディ・ノワールの唇がついと吊り上がる。
 くすりと笑った女の歌声が周囲に旋律を作り上げ、ぽん、とぽん、と弾いた。
 それらは無数に氷柱の如く叩き付けられていく。ベネディクトの腹を引き裂く音の刄。癒やしを与えるグリーフの傍を駆けていくイナリ。
「残念ね」
 くすりと笑ってからイナリはその至近まで迫った。大太刀がレディ・ノワールの刃にぶつかった。
「アタナシアは助けてくれないわ」
「ええ、あの人はわたくしには興味などありませんもの」
 レディ・ノワールの怨めしそうな眸をうけてもアタナシアは飄々と死霊達と踊り続ける。沙月はその数が増えた事に気付き、支援に向かった。
 あと少しだ。押せ。押せば良い。歌声を聞くことはなく。空よりチェレンチィは飛び込むが――その腕が痛んだ。
 音が、指先から昇り肉体の内部を掻き混ぜんとしているか。眉を寄せる。癒やしの気配がただ、支えてくれることだけを願う。
「興味が無い……はい。アタナシアさんは、何も答えてやくれませんもの」
 苦しげな顔をしたユーフォニーに「本当に」と顔に貼り付けていたマリエッタが嘆息する。
 歌声が響く。響いて、響いて、それが周囲を包み込む。

 ――♪

 レディ・ノワールの腕を突き刺した槍を引き抜いてベネディクトが「此の儘、攻めろ!」と声を上げた。
 余力があるわけではない。退く意味も無い。星穹がグリーフを守ってくれている今ならば、まだ、『倒れたとして起き上がれる』。
 膝を付いたベネディクトを支えるグリーフは「もう少しです」と囁いた。
「ッ、此の儘行きます!」
 星穹の声が響き、チェレンチィは自らの翼に突き刺さった音の刃など気にせずに、レディ・ノワールの胸へ、心の臓に刃を突き刺した。
 ぐらりと傾いで倒れていく女の髪が夜のとばりのように波を打つ。
 見下ろすように見ていたアタナシアは「ああ」と囁いてからイレギュラーズを眺めた。
「この間ぶりですねぇ、アタナシア?」
 唇を吊り上げてからチェレンチィは嫋やかに笑って見せた。その姿を一瞥してから、アタナシアは「会えて嬉しいよ」とうっとりと言った。
「ぼくはね、生憎のことだけれどルクレツィアさまが居ないならば余り手を汚さないのさ」
「ですが、ルクレツィアは貴女に何か望んだのでは?」
 チェレンチィがじいとアタナシアを見た。銀の髪に、八重歯を覗かせた彼女は絶世の美貌を有する吸血鬼の如き風貌をしている。その美しさに影を落とすのはこの傾倒した愛情と、青年をも思わせる話し口調に他ならないのだけれど。
「そうだね。ぼくは言われた! そう! ぼくをみて! あの人は!
 ――きめ細やかでより致命的な、私達に相応しい猛毒めいた一撃をこの世界にくれてやれば良いのです、と。
 ああ、一字一句違えることのない彼女の言葉だ。素晴らしいだろう? ふふ、素晴らしいのさ。これが愛なのだから」
 うっとりと告げるアタナシアは戦場に自らと死霊のみとなっても余裕を滲ませていた。
 倒れたレデゥ・ノワールにも、崩れ去ったマコ・フィッツバルディにも構うことはない。
 マコの肉体はただの木偶であった事に気付いたとき、シラスは「それでいい」と呟いた。死霊の群の中で傷付きながらも耐え忍ぶアレクシアの心は悲鳴を上げた気がしていた。
「ええ、愛だというならばそれで構いませんわ、アタナシア」
 星穹は静かに言った。マリエッタとグリーフを庇うように立っている星穹は傷を庇うようにそっと左腕を押さえた。
「もうアタナシアの好きにはさせませんわ」
「ああ、そうだ。……プレゼントは受け取ったよ、最高の気分だ」
 シラスが地を踏み締めた。真っ直ぐに見る。唇を引き結んでやわやわと力を抜いた。
 あの眸は自身を見ていなかった。幼き日に見た母と再会を果たしたからには礼をくれてやればいい。
「ねえ、アタナシア。……私は、あなたには負ける気はしないんだ」
「その心を聞いても良いかな。花を纏うレディ?」
 アレクシアの周辺に花が咲いた。マリエッタと、自身を支えてきた。じり貧にならぬようにも気を配った。
 グリーフが健在であろうとも、いつかは力比べがやってくる。アタナシアを倒しきるならば彼女が一人きりであるときが好ましい。
 これまで沙月が相対してきた結果からも言えよう。彼女は悪ふざけをし、余力を残しているのだ。本気で戦を行なう機会がくるまでに、ある程度の時間が必要ともなるだろうか。
 アレクシアの鮮やかな眸はただ、アタナシアを見た。
「……絶対に誰も傷つけさせやしない。世界も滅ぼさせやしない。
 想い出が消え逝こうとも、それが私の積み重ねてきた理想だから!
 あなたはどうなの、アタナシア! 何があってそこにいて、何が今のあなたの想いを作り上げたの!」
「ぼくは全てを棄てたからだ。そして、新しいぼくが出来上がった! ぼくは『いとしい人のため』にあるのだからね。
 ふふ、うふふふ。ぼくの夢はただ、ルクレツィアさまがぼくを愛する事だけだ。その『結果』がどうなろうとも構いやしない」
 アレクシアは唇を噛んだ。話は通じない。彼女は狂った様子で笑うのだ。
 イナリは「何だか、不思議な方ね」と眼を伏せった。
「アタナシアは自分で殺している訳ではないと言っていましたが、どうして死霊達が多いのでしょうか?
 普通に考えれば事前に別の誰かが殺し回っているような気がしますが……」
 問うた沙月に「置き土産に一つ、教えてあげよう」とアタナシアは微笑んだ。
「ぼくは地に染みこむ記憶を操るのさ。それこそ、記憶(たましい)をムリにでも型に嵌め込んで突き動かすような――ね?」
「……では、あなたが使っているのは」
「これまで幻想で死んだ者や、レディ達が殺した者だってそうだ。
 だから、ぼくは死霊術は苦手なんだ。本来の得意な術式は、そう! 記憶(たましい)を操作すること、なんてのはどうかな?」
 まるで揶揄うような声音であった。それがジョークであるのか。そうでないのかは定かではない。
 が、飄々としていたのは『ここまで』だった。
「――ルクレツィアさま」
 ぴくりと肩を揺れ動かしてからアタナシアは一歩後退した。
「テメェ……何処に行くつもりだ?」
 全ての技能を用いて、何度でも『ぶち殺してやる』と決めた相手は戦闘意欲を失った様子でレイピアを下ろしているでは無いか。
 シラスと、そしてアレクシアを前にしてアタナシアは「帰らなくては」と告げた。
「……どう言うことかな」
「愛しい人に何かあれば駆け付けるのが騎士道だと思ってね」
 アレクシアが柳眉を逆立て、その傍らで星穹がじらりとアタナシアを睨め付ける。
「騎士道……? あなたは、誰かの気持ちを踏み躙って生きているというのにその口で騎士道を語るのですか?」
「騎士だよ。それも、愛に生きるね」
 唇を吊り上げたアタナシアを前にして沙月も、ベネディクトも動く事は無く見詰めている。
「愛おしい方に何かあったと? それは私達の勝利を意味するのではありませんか?」
「さあ、どうだろう。ただ、彼女に傷が付くだけでもぼくは耐えられやしないのさ」
 唇をついと釣り上げてからアタナシアはマリエッタを見た。彼女はレイピアを握っては居ない。
 だが、これ以上の深追いは禁物か。多重反転を行なったレディ・ノワールに、回復手であったマコ・フィッツバルディを打ち倒しただけでもイレギュラーズの勝利だ。
「ぼくも此の儘戦って、きみたちと命を奪い合い、愛し合いたかったのだけれど。
 ……ふふ。ぼくが喪われるのは世界の損失だし、本当に戦うならば誰の邪魔もなく――ね?」
 死霊達の群が一気に産み出された。その刹那に身構えた星穹が「アタナシア!」とその名を呼ぶ。
 遁れるための者か。ちぐはぐな動きをする死霊達の中を彼女は愛おしい人の元へと向けて帰って行く。
「それではまた、月の夜に――」

成否

成功

MVP

なし

状態異常

シラス(p3p004421)[重傷]
超える者
アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)[重傷]
大樹の精霊
雪村 沙月(p3p007273)[重傷]
月下美人
ベネディクト=レベンディス=マナガルム(p3p008160)[重傷]
戦輝刃
チェレンチィ(p3p008318)[重傷]
暗殺流儀
マリエッタ・エーレイン(p3p010534)[重傷]
死血の魔女

あとがき

 お疲れ様でした。
 それでは、また、月の夜に。

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