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空蝉の聲
登場人物一覧
鈍色に沈んだ街をゆく人々の足取りが、アレクシアには重たく映った。彼らが開かせた花はいずれも、美しく雨粒を躍らせているのに。長雨の時期だからかな、と瞬ぎつつも彼女は先を急ぐ。一輪の花が描き上げる軽やかな脚は、周囲の視線を吸い寄せた。
雨に降られても足運びはいつも通り。転がる雫を靴先で蹴り、水溜まりを踵で搔き乱していく。たとえ、通ううちに見慣れた景色が、梅雨特有の匂いと彩りとで彼女を包み込もうとも。
駆け抜けながら、くん、と鼻を鳴らしてみる。すると普段であれば胃へ訴えてくるほくほくしたコロッケや、揚げたてのから揚げの香りを紛れさせてしまう存在が印象に残る。それこそが。
――水のにおいだ。
浮ついた気分で、アレクシアは世を覆う水の香をよそにマンションの一室へ到着する。
ドアは間もなく開かれた。
「お待ち致しておりました、アレクシアさま」
未散はドアを押した腕で嫋やかに、どうぞ、と訪問客を招き入れる。
アレクシアは胸を弾ませて、街を進む間に明るく咲かせていた
やがて彼女の背を押すように、ドアが外と部屋とを切り離した。
●だらだらと
未散がアイスティーを運んでくる頃にはもう、アレクシアの身体はビーズソファへと呑み込まれていた。一度その弾力の海に沈んでしまえば、二度と陸へは戻れまい。大々的にアピールされていた商品フレーズ通りの光景で、未散の眦も微かに緩む。
しかもアレクシアの頬は、ソファへ無防備に押し付けられ、むにっと潰れてしまっていた。いつもは笑顔と共に持ち上がっているはずの、ふくふくとした頬も。今は誰に憚るともなく、存分に寛いでいるらしい。
こうしてソファに埋もれる彼女の姿は、未散にとって特別珍しくもなかった。
しかしどうしてか、本日ソファに沈んだアレクシアの身体は、妙にずっしりして見えた。
理由を問いはせず、未散も自分用のソファへ身を預けた。生憎の天気でも変わらず賑わう街を通って、未散が住むマンションへ辿り着いたアレクシアだ。他者の意識に入らずに済む室内でなら、ぐでんと伸びるときもあるだろう。
あるだろうと予測しつつ、未散は別の路線も片端に置いていた。ただ、アレクシアが表に出さないのだとしたら、未散も覗き込まず間合いを保つのみだ。
代わりに未散はさりげなく腕を伸ばす。先ほどから気になっている、潰れたアレクシアの片頬へ。
「わ、冷たっ」
とろんと閉じかけていたアレクシアの瞼が、驚きで跳ねる。彼女の頬に触れた指は、アイスティーを運んだ実績を示していた。
「外暑かったから、ひんやりして気持ちいい……」
湿度の所為か雨の所為か、体内に籠って仕方がなかったアレクシアの熱も、未散の手によって解き放たれていく。うっとりしたアレクシアの表情を前に、未散も指を戻すタイミングを掴み損ねた。
「あまり暑いようでしたら、どうぞ水分補給を」
喉を潤すことを未散が勧めると、寝転んだアレクシアの片腕がやはり重たげに動き出す。
「んー……」
身体を極力動かさぬまま呻き、アレクシアは汗をかいたグラスを得るのに成功した。すると、待ちかねていたと訴えるかのようにグラスから雫が滴る。続いて氷が歌えば、肌を冷ます雫が腕を伝い、それすらも気持ちよくて、アレクシアがほうと息をつく。
ふたつの冷たさに触れた結果、ずっと喉の奥辺りで痞えていたものが取れた気すらして。
ゆえにアレクシアは話の種を蒔く。自分の、未散の、だいじな『記憶』にまつわる種を。
「……ねえ未散君」
人をだらけさせるビーズソファの誘惑に敗北した者同士、顔を見交わす。
「もしも、もしもだよ。何もかもすっかり忘れてしまうなんて日が、もし来たら……」
アレクシアは言い終える直前、潤したはずの喉が渇くのを感じた。
「その日が来たら、どうしようかなあ」
不安を言葉にするや、アレクシアの瞼がひくつく。彼女の眼は未散を捉えず、かといって別の何かを捕捉するでもなく、ただただソファから床まで滑り落ちていった。神妙な面持ちで問いながらも、しっくりこない感覚がアレクシアを苛む。本の一頁が抜け落ちたかのようなもどかしさだ。
そして未散もまた、すぐには答えを紡がずに。まだアレクシアの唇が続きを模ろうとしたのを、付き合いの長さから察している。
未散の眼差しに促され、隔てられた外界へアレクシアが視線を向ける。けれど、低く垂れた空と涙を流す窓硝子は、来た時から変わらない。時間の流れすら、ゆっくりしている。
「こんな日だから、いろいろ考えてみるのも悪くないのかなって」
何処かへ出かける気にもなれず、のんべんだらりと過ごす日なればこそ。
そう理由を連ねたアレクシアの睫毛が、濡れて震える。
彼女の眼に映る未散は、いつもの面差しのまま。じいっとアレクシアを見つめる瞳の力強さで、射抜かれる錯覚に陥るほど。
彼女の眼に射抜かれたら、見透かされる。
アレクシアがそう捉えたのはきっと、己の不安を声に出したから。今しがた告げた想いを秘めるのが、アレクシアからすれば「ヒーローとして当然」の振る舞いだった。アレクシアの思考が、自身の喉を締め付ける。
たとえ絞められても、外面へ滲ませはしなかった。それがアレクシアというひとの生き様でもあって。
にも拘わらず彼女は云ってしまった。零してしまった。
がんばれないことに消沈し、忽ちアレクシアが溜息をつく。
何故ならヒーローは、誰かを悲しませてはいけない存在だ。傷つき苦しんでも、笑顔と顔を上げることを忘れては駄目で――出口らしき光すら無い、長い隧道を彼女は進んでいる。暗い道をゆくからこそ、彼女を追いかけてくるのも不安や焦りといった感情だった。
ぐるぐると回る悩ましさも連夜に及び、アレクシアの身体も、もしかしたら悲鳴をあげているのかもしれない。
「……忘れる日が来たとしても、『騎士』様がいたことくらいは、ぼんやり覚えてたりするのかな」
ぽろぽろと零れ出る言の葉たちは、身じろぐことも侭ならぬアレクシアの情を、ありありと模った。
だが彼女は、たすけて、などと重たく求めはしない。
雨と薄暗い空に
未散がそばに居てくれるから。
そんなアレクシアに触れられる距離で、未散は耳を傾けていた。アレクシアの聲なき聲を聴く間も、雨滴の声は同じ調子を保っている。二人が今日を迎えたときから絶えず続いてきたもの。二人が常に目にして、耳に入れてきたものでもある。
未散もどことなく、判断力までずぶ濡れになった心地を覚えた。
「ねえねえ、アレクシアさま」
纏わりつく感覚を拭うべく、未散がはっきりと名を呼ぶ。
「ぼくは、あなたさまの事を好いておりますよ。それはいついかなる時も、鈍りはしないでしょう」
断言した未散の胸裏で、声色や言葉で表現しにくい気持ちが綯い交ぜになっていた。
好いている。そう、好いているのだ。
言葉選びに不思議はなくとも、分類を迷っている節が未散にはある。短く、何より容易く言い放てる『気持ちのかたち』でも、正確な立ち位置が不明瞭だ。紡ぎ手が判断に迷っているのだ。受け取り手も尚更わからないはずで。
一度だけ瞬いたアレクシアからは。
「私も好きだよ、未散君のこと」
未散が発したのと近しい響きで、『好き』が語られた。感謝を伝えるとの同じ温度だ。
交換した『好き』を噛み締めた後、未散は話を繋げる。
「忘失の其の先……忘却の彼方へ踏み入れたなら。ひとりぼっちで御座いますね」
慈しみ育てた分だけ、未散は己のギフトで以って輝きを失う。
そしてアレクシアは、起こした奇跡の反動が時間の流れに沿って訪れる。
互いに、忘れたくないものが多すぎた。
「怖くはないです、恐らく」
未散は淡々と話しながら、ソファをぎゅっと摘まむ。力のやり場が、身体を支えているソファに集中した。
「唯、只管に寂しくなるんでしょうね」
過ぎ去りしときを追想する機会すら与えられぬ、「いつか」の未来。
忘れてしまえば残るのは――罅割れた想いの柩から、寂しさが溢れていく様子だけ。
二人して、そんな胸の内を想像した。想像できてしまった。
「恰も空蝉の様」
「空蝉の……?」
未散の囁きへ、アレクシアが首を傾いだ。
「見聞きした覚えが御座います。空蝉が木に留まろうとも、魂の行き先は分かり兼ねる……そんな物悲しさについて」
精一杯に鳴いて生きた存在が突然居なくなり、生きた証だけが居所に遺される。
そんな物悲しさを詠った一文があった気がして、未散は少しだけ俯く。ソファへ一旦は顔をうずめるも、すぐにアレクシアの方へと顔を戻して。
「ふふ、御転婆な『魔女』が居たって、覚えて居たいものですが」
ソファの布地に吸い込まれていった、ささやかな望み。
お互い近くで寝転んでいるからこそ、それはアレクシアの耳にも籠って届いた。
吐息めいた微かな祈りを拾って、アレクシアは眸を細める。
「そう、だね。……だといいなあ」
薄く念う。普段は燦然と輝き、時にあたたかなおひさまも、この時だけは弱々しい笑みを浮かべるのみ。
奇跡。
そう呼ばれたものの影響で、現世の濁りを忘れるだけであれば。アレクシアもこれほどまでの不安を知り得なかっただろう。
発現させた『奇跡』の代償は、今を、これからを生きる彼女の身を切り苛むには――奇跡を起こした事実を悔やむことこそ無かったとしても、充分すぎる重しだ。
忘れてしまう日が来るとわかっていて、「何度でも思い出すよ」と言い切れるほど、背筋を伸ばしていられなかった。少なくとも、雨の音に囲われた現在のアレクシアは。
沈黙が漂う。叩きつける雨の声が、これでもかと二人の耳朶を打った。
やがて、未散の目線が宙を彷徨い始める。手持無沙汰で蘇ってきたのは口寂しさ。すぐに彼女の意識は、
未散の指先が慣れた形を取った。煙をくゆらせれば、雨でねじれた風景から気を逸らせるかもと考えはした。しかし、一服しようにも直ぐ湿気るだろうと肩を落とす。
直後、からん、とグラスの内側でじれったそうに氷が鳴いた。
透る音色に打たれた未散はふと、空きっぱなしの手を伸ばす。二人してビーズソファへ寝転がったままの、力の抜けた姿勢で。
「アレクシアさま、お手を」
この体たらくで発する台詞でもないと未散自身、苦みを口の端へ刷きながらも、手を差し出さずにはいられなかった。
言葉をどれだけ尽くしても。胸のどこかに生まれた空間は、なかなか満たされてくれず。
だから確かめたかった。此処に在るぬくもりを。
「うん。こう、でいいかな?」
望まれるがままアレクシアが手を重ねる。
すると何を云うでもなく未散は、そこに在る温かさを真剣になぞっていく。ふっくらと隆起した丘を上り下りし、細くも健康的な指の節まで。眼前の形と温度を己へ刻んでおきたくて何度も、何度も。
手のひらへ文字を描くのとは違う動きに、「なんかくすぐったい」とアレクシアが肩をもぞりと動かして笑う。
そんなアレクシアもまた、名残惜しむ光を瞳に宿していた。心が通うときならではの穏やかな温もりは、ひとりきりだと決して浸れぬもの。
手と手のふれあいで、未散が真剣に指を滑らせ、重たい雨音を払う頃。
彼女と自身の手を交互に見つめたアレクシアはふと、窓を一瞥した。
雨上がりまで遥か遠く、暮れなずむ空がなぜだか目に沁みる。じわりとした熱が眼から滲んできてしまうから、逃さぬようアレクシアが瞼を落とした。雨に見舞われ、知らず底をついていた熱が、意欲が、皮膚の下を巡りだしたのをアレクシアは感じ始めている。身体を起こす気力が湧く気配は、微塵もないけれど。
どんなに動きたくなくても。どんなにだらけていても。
やっぱりこの手を放したくないな、とアレクシアが物思いに耽っていたら。そこへ。
「……今更、ひとりぼっちになど戻れるものか」
ひとりでは味わえぬひとときの最中、未散の呟きが窓硝子を叩く雨よりも小さく零れた。
震えて届いた一声に、アレクシアは反射的に口を開いて。
「屹度、独りきりにはしないから」
大丈夫だよと言い切るほどの強さで、未散へと迫る寂しさを押し退けていく。
アレクシアはどうしてか不意に、ドアの向こう側へ置き去りにしてきたはずの霖雨と水のにおいを想い起こす。
――いつ来ても、ここは未散君のにおいがする。
部屋の主という立場を考えれば当たり前のことでも、実感するたびにアレクシアはホッとできた。
――未散君が居てくれる場所、なんだよね。
だからだろうか。外にありふれた日常から遮断された、マンションの一室で。
彼女は仄暗い景色を遠ざけて、未散との他愛ない時間へと溺れていく。
濡れそぼったままの傘はまだ、開きそうにない。
- 空蝉の聲完了
- GM名棟方ろか
- 種別SS
- 納品日2023年07月15日
- テーマ『『イチリンソウの雫』』
・アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)
・散々・未散(p3p008200)