PandoraPartyProject

SS詳細

カランコエが揺れている

登場人物一覧

シラス(p3p004421)
超える者
アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)
蒼穹の魔女

 決戦は間近だ。その言葉をなぞるようにアレクシアは唇に含んだ。決戦は間近だ。それは、此れからの戦いが激化して行く事を物語る。
 故郷も、親しんだ場所も。先行きは不透明だ。だが、それ以上に、アレクシアの記憶の不鮮明さは自身が良く分かる。自凝島での一件を経てから、記憶が朧気に溢れ落ちていって居る事がより強く感じられたのだ。
 アレクシアにとってはだからといって足を止める必要は無い。喪失感が強いというわけでもない。アレクシア・アトリー・アバークロンビーという娘は揺るぎない信念を胸にしていたのだ。
 だが、自身が記した日記帳の文面やローレットの報告書を見る度に『記録』を見ている感覚が強くなっていくのだ。
「……私のこと……の筈なんだけど、なあ」
 思わず呟いたアレクシアに「悩み事?」と声を掛けたのはシラスであった。驚きに報告書の束が足下へと散らばったのは、居るはずの無い青年の声が聞こえたからだ。
 バサバサと音を立てて広がっていく報告書に「ああっ」と慌ただしい声を上げたアレクシアにシラスは「大丈夫?」と手を差し伸べる。
「シ、シラス君か……居ると思わなくって」
「俺もだよ。アレクシアの背中を見かけたから、つい。報告書の確認?」
「うん。まあ……って、聞こえてたよね? さっきの」
「……まあ」
 シラスはアレクシアの身に起きている変化を知っている。アレクシアは記憶を失っていくのだ。それも、奇跡の代償だ。
 彼女の起こした奇跡が終わりを迎えたならば――『兄』と呼んだ幻想種が滅びのアークより解き放たれる時が来たならば――彼女の記憶が欠落し続けることはなくなるかも知れない。寧ろ、それを期待して、賭けるしかないのが実情ではあるのだ。
 シラスからアレクシアの記憶に対して何らかのアプローチを行なわんとするならば、目指すべきはイノリやマリアベルと呼ばれた『元凶』のもとなのだろうが。
(……アレクシアは、どう思うだろうか)
 彼女は「大丈夫だよ」と笑うだろう。「私の為にそんなことをしなくても良いよ」なんて言うのだ。その距離がもどかしい。シラスの抱く感情とアレクシアの感情がどうにも擦れ違って――行く宛が定まらぬような感覚。足下の朧気さは信念だけで動く彼女だからこそ、なのだろうか。
「聞こえてたよ、って言ったらどうする?」
「白状します」
「そうして欲しい。アレクシアが本気でイヤだったら聞かないけどさ。頼ってよ」
「……うん。何だか私の事じゃないように思えちゃったんだよね。この世界が大好きなことも、守りたいことも、戦う理由だってちゃんとあるんだよ。
 でもね、そうなった理由が何となく朧気で漠然としてて、私のことじゃないように思えちゃって。それが理由で戦うことを止めることはないのだけれど」
 拾い集めた報告書を見詰めてからアレクシアは息を吐いた。そんなことで止めることはないのだけれど、もう一度自らの在り方を見つめ直したくなったのだ。
「だから、もう一度私の辿った道を見つめ直そうかなって思ってさ。
 思い出巡りって言えば聞こえは良いのかなあ。そういう事をすれば、きっと、再確認できる。この世界の美しさや、暖かさを」
「……そうだね」
 シラスは頷いた。アレクシアは恐ろしい程に何時も通りの振る舞いをする。何も変わらない様子で明るく微笑むのだ。
 それでも、彼女がぽろりと零した気持ちは本物だろう。他人事のように感じてならなかったのだ。思い出を眺めて居るわけではなく、『記録』を見ている感覚に変化するとはどの様な心持ちであろうか。
 シラスと二人で語らうときだって、彼が大切そうに語った思い出がアレクシアには他人事のように感じられて――酷く、申し訳なさだけが満ちた。
 儘ならない気持ちは落ち着く場所を探すように、爪先立ちで着地点を探し求めているようであったが、どっしりと腰を下ろした信念だけは曲がらなかった。
(アレクシアは、さ。この世界が好きだよって。この世界を守るよって。それがヒーローだよって言うんだろうな。
 自己犠牲で、献身的で。そんなヒーローらしい姿を演じきるんだ。……ただ、そればっかりが大きくなったような、それでも知ったような顔をして)
 シラスから見ればアレクシアは危うく思えてならなかった。それでも、彼女の信念を邪魔したくはない。アレクシアはアレクシアだ。そうやって前を向く姿が好ましいのだ。
 どちらかと言えば自身の方が感情の整理が付いていないのかも知れない。何処までだって走って行けるアレクシアの背中が遠離ることが、こんなにも恐いのだ。
 友情、愛情、それから記憶の不備に備える万が一。喪失に対する無念も、無力感も。何もかもを飲み込めないまま、傍に居た。
「私、これから少し『プチ旅行』をしに行こうと思うんだ。これまでの事を振り返る自分捜し旅みたいなものかも知れないけど」
「それって……俺も行っても良い? アレクシアとは色々と旅をしてきたから、俺もきっと、一緒の場所に行って考えることもありそうだし」
 ぱちくりと、瞬かれる美しい蒼穹の色の瞳。遠い空を見据え、晴れ渡る空の下に笑む花の魔法を駆使する魔法使い。
 彼女の魔法は美しく、見せられた。焦がれるような気持ちを飲み込むのはシラスの仕事だ。だからこそ、自身もひとつひとつを消化して前に進む為に。
「……うん、シラス君も一緒に行こう」
 君と――ほんの少しだけ、特別な旅に出る。これまでの歩いてきた道を反対に辿るようにして。

 晴れ渡った空は相変わらずで。雲は気儘な旅行を楽しんでいる。彼等の行く果てについて行くことなど叶わずに、これから何処へ行くのかと問い掛けたとて声は返らない。
 その場所は何時だって変わらぬ平穏に満ち溢れていた。浮遊する島の上、遺構のように投げ捨てられた柱と、荘厳なる佇まいの神殿。野の花は風を心地良さそうに受けている。
 その場所は空中庭園と呼ばれている。幻想王国の天上。シラスにとっては見果てる空に存在した冒険の涯ての島であり、アレクシアにとっては意識にも存在しなかった御伽噺の始発点。
「すべてはここから……召喚された時はすっごくワクワクしたみたい。シラス君はどんな気持ちだった?」
 地に足を着けてから、アレクシアは帽子を押さえた。さあさあと吹く風は心地良い春風のようにも感じられるが、冬の気配を未だに孕む。
 時折強く吹き、帽子を連れ去ろうとする風に抗うように指先は力を込められた。シラスは喜びに溢れた声音を受けてから肩を竦めた。
「あの日は真冬で野垂れ死んだと思っていたから空の上は意外だったよ。でも見下ろした景色が幻想だと分かって、何かムカついてきた」
「そっか。シラス君にとっては家が見えるんだ。どっち?」
「スラムはあっち。家はあの辺は雑多だから見えやしないだろうけれど、この国は良く分かる。坂を駆け上がれば王城が。下がっていけば掃き溜めだ」
 そうだね、とアレクシアは目を細めた。眩い光の下に広がっている光景はそれでも美しい。人々の営みに、家の軒から軒へと張られたロープにはシーツがかけられてはためいている。
 それらは白い雲が足下に広がっているようにも見えたのだ。美しく見えるからこそ尚更に『むかつく』のだ。己の生きた世界を覆い隠すように、綺麗な部分ばかりを見せるその場所が。
「でも、此処からだったね。私達が出会ったのも、冒険が始まって沢山の人達と戦ったのも」
「そうだな。イレギュラーズにならなかったら俺とアレクシアは出会わなかった」
「そうだよ。私は深緑で家の中でぼんやりとしていただろうし、シラス君は……」
「死んだかも知れない」
「それは、良かった。会えたことに感謝しなくっちゃ」
 顔を見合わせて笑った。アレクシアは此処から始まった道のりを思い出す。
 初めての幻想王国では煌びやかなサーカスを見た。イレギュラーズになったと言われたって、慣れない戦いも、冒険も一つ一つが新鮮だった。
 彼女の語る思い出に耳を傾けながらシラスは眼下の街並みを眺めた。サーカス団がやってきて、狂気が伝播し始めて、そしてその存在が大々的に認知された魔種。
 その悍ましき気配を傍らに、攻め込むラサの盗賊達は新たな国を目指したのだ。あれだって信念があったではないか。
 突き進むようにして、シラスとアレクシアは戦いを経た。天義で相対した冠位強欲。強くその存在を教え込むように滅びの気配は傍にぴったりと寄り添った。
 ラサの砂漠で一つの恋物語に触れたとき幻想種であった彼女はどう思ったのだろうか。シラスはアレクシアの横顔を伺った。
「此処からだと他の国は見えないね。ラサも、天義も。それだけ広い世界を旅したんだなって驚いちゃう」
「……そうかも。俺達は、此処を経由すれば簡単に他の国に行くことが出来るけれど、もしもイレギュラーズじゃ無かったら凄い長旅だぜ?
 馬車で行くのも面白そうだけどさ。盗賊とかに出会うんだ。それで……キャラバン隊を助けたってちょっとした礼を貰って、それを日々の糧にするんだ」
「ふふ、良いね。イレギュラーズとしてあっちにこっちにと飛び回る生活からは想像も付かないような……そんな毎日だ」
 アレクシアは目を細めた。シラスは、その度の行く先は海洋なのだろうと告げる。海洋王国、その場所は二人目の冠位魔種と相対した場所だった。
 リッツ・パークは柔らかな風が吹き、海はさざなみ穏やかさを湛えている。あの頃には絶望の青などと呼ばれていた場所ではあるが、今は静寂の青と名を変えたのだ。
 絶望の青は一度踏み出せばもう二度とは戻ることの出来ない場所として知られていた。近海を越え、更に遠洋航海を行なえば死亡率が上がるのは当たり前のことだが――それだけでは無かった。
 そんな中で、アレクシアは一人の少女と出会ったのだ。鏡写しの存在、本来の姿を取り戻させたならば闇にも溶け行きそうな宵の色をした娘であった。
 シャルロット・ディ・ダーマ。
 双子の姉の持つ光の色に憧れた、宵色の娘。イレギュラーズという眩い光を映し、混ざり、彼女の在り方は大きく変わったのだ。
「シャルロットとのことがあって、魔種だって人なんだって、改めて強く思ったんだ」
 魔種だった。それでも、人だった。アレクシアは彼女の事を思い出す。

 ――ふふ。泣いてくれるんだね。私たちの声を聞いて、私達を映して。
   ……貴女はとっても優しくて、きっと苦しんでる。何もかもが鏡だからなんて言わせない――

 彼女は友人だった。魔種と呼ばれて、人とは分り合えないと言われた存在であったって手を取り合えた。抱き締めてやることだって出来た。
 
 ――「わたしのこと、魔種でも、友達だって思ってくれる?」
   「うん。私と話して、友達になってくれて、ありがとう。これからも、友達だよ」

 その時から、アレクシアの中では『魔種』という存在が変わったのだ。シャルロットの墓標の前で、アレクシアは一輪の花を手にしていた。
 ブラック・ベルベットの花を手に、目を伏せる。彼女はきっと微笑んでくれるだろう。幼い少女だった。それでも、人を殺した過去がある。
 罪だからと全てを断罪するわけではない。全てを許す訳ではない。アレクシアもシラスも神様ではないのだから、何もかもを理解しているわけじゃない。
「シャルロットも、魔種だった。けれど、友達だったよ」
「魔種……人が全く別の者に変わってしまうこともある。反転って一体何なんだろうな、6年冒険してまだ分からないことだらけだ」
「そうだね。分からないことばっかりだ。でも、あの人も、人間だった。私達は同じだったんだ」
 彼女と出会って変わった事がある。アレクシアの中でぱちり、ぱちりとパーツが嵌まるように世界への向き合い方が変化した。
 始めはただ、人の背中を追っていた。『兄さん』と呼んだその人が眠るファルカウへと向かいたいというアレクシアの背を追いかける。
(そうだよな、アレクシアはそうやって進んで来た。
 屹度始めは冒険譚に憧れたんだ。あの人の、ライアムの背を追ってた。それが変わったんだ……きっと、アレクシアという一人の人間にとっての世界の在り方が変わった)
 シラスは息を呑む。彼女の変化は、きっとそうやって重なってきた全ての軌跡だった。
 今のアレクシアを作り上げたのは此れまでの冒険と、戦いと、出会いだ。ベッドの上で膝を抱えて外に焦がれた少女ではない。自分の脚で切り拓く眩い光のような彼女。
 シラスがうらぶれた毎日を過ごしていた時に、アレクシアはベッドの上で物語を読み世界の広さを想像で語っていたのだろう。
 シラスが泥水を啜り、盗みを働いていた頃に、アレクシアは己の中で枯渇していく魔力に藻掻き苦しんで自分の脚で立つことを望んだのだろう。
 二人とも違った毎日を送っていた。遠い世界の遠い人。二人が出会った事だって大いなる変化だったのだ。
 それが重なっていく。彼女の憧れが、変化した。人の夢を追いかけていることを止め、自分の夢を抱いた。その先にあるのが――魔種との共存だったなら。
「ファルカウに来るのもなんだか久しぶりな気がしちゃうのは……やっぱり此処が一番落ち着くからなのかな」
 アレクシアは深くアルティオ=エルムの空気を吸い込んだ。アンテローゼ大聖堂の手伝いにも向かっている彼女はそれなりに深緑には訪れていたはずだが、それでもこの血を訪れると郷愁の念に駆られるのか。
 瑞々しい草木の気配に、柔らかな空気がその体を満たすのか、それともアルティ=エルムの抱いた神秘的作用の気配が幻想種の体に良く馴染むのかは分からない。
 長い耳を持ち、長命とも言われる彼女の背中を追い変えてシラスは何も言うことはなかった。
(……ライアム。アレクシアのお兄さん……)
 彼はこのファルカウに封じられている。彼女と交わした約束を思い出してからシラスは唇を引き結んだ。
 兄という存在は、シラスにとってもアレクシアにとっても特別だった。アレクシアは血こそ繋がっては居ないが家族同然だったその人だ。
 シラスは『半分』だけ血の繋がった兄こそが唯一だった。拠り所だったとも言える。ただ、拠り所であったと同時に、恐ろしい程に越えることの出来ない相手でもあったのだ。
 兄を越える。それがアレクシアとシラスの目標で、互いに交わした約束だった。
(彼女といつかお兄さんに追いつくと約束していた、俺も兄貴を超えたいと願った。……2人とも叶えられたのかな)
 アレクシアの兄は優しかった。故に、その心が壊れてしまったのだ。それはアレクシアの未来を見ているような気がして、シラスも不安になったものだ。
 どれだけ努力をして、努力をして、努力をしても――救えないことはある。
 それでも、彼女は強かった。奇跡を起こすためならばなんだって捨てて構わなかった。だからこそ、アレクシアは正気を保ったまま、記憶を代償にした。
 シラスは拳を固める。言葉はなく、ファルカウに向き合うアレクシアの背を眺めている。
「兄さん、約束はきっと果たすよ……だから、最後まで見守っていてね」
 そっと囁く彼女は何時か、兄との再会の日を望んでいた。
 ライアムはきっと、アレクシアとの再会を喜ぶだろう。彼女が兄に追い付くと願ったそれを「とっくに追い越されてしまったなあ」と彼は笑うのだ。
 彼女の夢が叶う。シラスにとっては喜ばしい事だ。だが、自分はどうだったのだろう。
 目標にまで到達した彼女に追い付くことは出来ただろうか。兄を超えたい。カラスと名乗ったその人は、フィッツバルディの血筋であった。
 アレクシアと共に相対した彼は飄々としていたがその眸には強い信念を抱えていたように思える。あの夕焼けの日に抱き締めてくれた兄と変わりなく見えたのは、きっと気のせいだ。
(俺も、兄貴も変わったのにな)
 アレクシアとライアムが変わらなかったように、自分たちだって関係が変わっていなかったなら――
「シラス君?」
「いや……次は如何する?」
「んー、そうだね、そろそろ幻想に戻ろう。シラス君の家に」
 アレクシアが良いかなあと問うたその超えにシラスは緩やかに頷いた。彼女との思い出が詰ったシラスの家は、二人で協力して作り上げたものだった。
 一緒に廃屋を掃除して造り上げた家は今は居心地の良い場所だった。玄関の扉を開いてから「どうぞ」と促せばアレクシアは「お邪魔します」と楽しげに笑うのだ。
 ふかふかとしたソファーに腰掛けるアレクシアに、シラスはいつもの通りに紅茶を淹れる。手順に迷うこともなくなったシラスを眺めて居るアレクシアは此れが日常なのだと深く実感するのだ。
「はい、紅茶」
「ありがとう。……シラス君の家は……のんびりゆっくりしてることが多かったよね。こうしてお話したり、お料理したり……後はどんな事があったかな?」
 シラスはティーカップを手にしたアレクシアの前にクッキーの入った皿を置いてからぴたりと動きを止めた。
 そうだな、この場所では、と反芻する。小さな思い出から大きな事まで.沢山のことがあってもアレクシアは屹度取り零した思い出がある。
「メダル集めで一番になった時にここでお祝いしてもらったのは嬉しかったな。王様に表彰されるよりもずっと。
 後は……たまに辛くて頼ったりもしたよ。アレクシアは弱音上げたことなかったから安心していいぜ」
「ええ? 本当?」
「本当。俺の方がいつだってアレクシアに甘えてるんだ。……それも忘れててくれて良いけどさ」
「覚えているかも」
「そういう事だけ?」
「そういうものなんです。だから、シラス君が隠したって無駄だよ?」
「別に隠してもないし、そういうものなら仕方が無い……いや、忘れてくれよ、そういう事を覚えずにさ」
「あはは」
 シラスは揶揄うように笑えばアレクシアも小さく笑みを零した。楽しそうに笑っているが、その言葉にはひた隠された心がある筈だ。
 何かを零している。記憶は雫のように漏れ出て、掌で掬いあげた砂のように地を叩いて、慣れて来て仕舞ったと行っても、全てが全て受け入れられるわけがない。
 ショッキングなことだろう、彼女は内心で傷付いているに違いない。いくら、幻想種が永きを生きるため、物事に対する向き合い方が人間種とは違うと言われていたって、彼女は全てを鮮明に覚えていることを選ぶ筈だ。
(でも、アレクシアはそれを誰かに悟られないように振る舞っている。俺も、彼女がそうするならそういう風に接さなくちゃならない)
 それでもこうやって笑ってくれるから、シラスはこの強さに寄り添っていた。アレクシア・アトリー・アバークロンビーを作り上げる思い出が、アレクシアのものでなくなろうとするならば、シラスが全て覚えていて、教えてやろうと考えたのだ。
「ふふ。……色々見て回って、覚えていないことがあまりにも多かったけど……これまで歩んできたこの世界が大好きな気持ちはまだ忘れていないって改めて思ったんだ」
「そっか」
「そうだよ。シラス君と沢山見て回ったでしょう?
 その間に出会った人達のことも思い出したんだ。その時に話した事も、顔も、朧気になって行っている人が居る。
 会話のことだって、だんだんと欠落していって、忘れちゃうのかも知れない。それでも、その人達はそこで生きていたり、そこに何か生きた証を残してくれていた」
 時折、街を歩けば呼び掛けられることがある。アレクシアも、シラスも有名人になったと顔を見合わせたものだ。
 幻想の勇者と呼ばれたシラス。それから、蒼穹の魔女と呼ばれるようになったアレクシア。二人が救った命は数多く、彼等の笑顔を守り抜く事も出来るはずだ。
 鉄帝に赴けばラド・バウで名を知られたシラスの事をビッツの子犬と揶揄う声もある。革命派に所属していた子供達はアレクシアの周りをぐるぐると回った。
 天義に行けば騎士団の詰め所でイルが手を振るのだ。アレクシア、シラスと一緒かと微笑む彼女は朗らかで、楽しげで。
 冠位魔種に直近まで脅かされていた国であったとは思えぬほどに誰もが強かに生きていた。その光景がアレクシアにとっての希望ともなる。
 ラサの砂漠を越える旅は、その中で出会った人々の在り方をも思わせる。アカデミアと呼ばれる人々と出会った時、それから、彼等が手を伸ばす深緑――
 人との出会いも、乗り越えてきた事も、そして、二人が此れまで生き残ってきたことだって奇跡の連続だったのだ。
 アレクシアはその光景を胸に刻み込む。記憶とは、自分を形作るものだから。美しい景色を見ただけでも、それをその目に焼き付けただけでも光の柱のように、歩いて行くための力にもなるのだ。
「生きた証か、そうだな。……分り合えたことだって、アレクシアにとっての成果だ。それに、生き残ってくれた人達は俺達が超えた戦いを語ってくれるよ」
「そうだね。英雄譚みたいな、とはならないかもしれないけれど。私達は誰かにとっての光になる事が出来るのかも」
 アレクシアは嬉しそうにはにかんだ。その微笑みを見つめているだけでシラスも強くあれる。
 真っ直ぐに、突き進んでいく彼女。抱いた思い出は、花束のようだった。その中の一輪になれたならばそれだけでも嬉しいだろう。
 花束から溢れ落ちた花がればシラスが、そして、友人が拾ってやれば良い。だからこそ、傍に居るだけの力になれる。
「私の大好きな世界は、きっとこれからも続いていけるんだ。
 ……だから私、頑張るよ。きっと世界を、みんなが笑顔でいられる場所を護ってみせる。この気持ちだけは、最期まで忘れない」
「……俺はどうだろうな。好きでも嫌いでもないよ、世界だって別に初めから泣きも笑いもしないさ。
 いつか自然と消えてなくなるならそういうものなんだと思う。
 ただ、キミがそう誓うなら。俺にとってそれは永遠だ……ずっと守っていくよ。今日はありがとう」
 世界が其処にあった。息をして、当たり前の様に存在して居る。シラスにとってはこんな世界どうでも良かった。そう思えるような生き方をしてきた。
 けれど――それでも、シラスが出会った少女はそんな世界でも奇跡はあると、幸せになれると堂々と告げるのだ。
 その在り方に鮮烈に見せられる。だから、君の言葉を真似るように言うのだ。
 ずっと守っていくよ、と。それは彼女への小さな約束だ。花束から溢れ落ちたカランコエの花を握り締めるようにシラスはその願い事を、誓いを、世界への約束を共に抱きかかえていたかった。
「ふふ、私こそ有り難う。シラス君と一緒に見て回って、沢山の事を思いだしたような気がする」
「いいえ。何処へでも行こう。アレクシアが見忘れた事だって世界には色々とあるよ。
 それにさ……君が見たかった世界の美しさは俺が覚えておけば教えてあげられる。練達の技術を使えば全ての時を止めたように鮮明に保存だって出来るだろう?」
「写真って凄いね。その中で私と君が笑っているのも撮らなくちゃ」
「皆を誘おう。それでさ……今の俺達が生きてるんだぞって証にすれば良いよ。アレクシアは、そういうの好きだろう?」
「勿論」
 シラスは嬉しそうに笑うアレクシアを眺めて居た。その蒼穹の眸は曇りなく、美しい未来だけを見ているから。
 汚らしい者も、崩れ落ちていく滅びの欠片だって、何だって見逃すことなく見詰めた後、其れ等が全て救われることを信じた強い眸で彼女は言うのだ。
 シラスはずっと待っている。彼女が世界を救った後に、何時ものように云う事を。

 ――ねえ、シラス君。次は何処へ行こうか?

 君に向けた感情には名前を付けずに閉まっておこう。友情と、愛情と、それから。
 もしも君が全てを覚えていられるようになったなら、これまでの零してしまった思い出を「あの時はこうだった」と語ってやれば良い。
「アレクシア……」
「ん? どうかした?」
 クッキーをかじっていた彼女にシラスは「ううん、何も」と首を振った。
 穏やかな時間が流れていく。時計の針の奏でた音に、彼女が顔を上げてから「あ、もう遅くなったね、そろそろ帰るね」と立ち上がるまで、あと少し。
「今日は本当にありがとう。シラス君のお陰で色々と見て回れたよ」
「うん。また。何かあったら誘ってよ。……次もついていくからさ」
「ふふ、ありがとう。……またね」
 ゆっくりと玄関の扉が開かれる。アレクシアが外に一歩出た。シラスはその光景をスローモーションのように眺めて居る。
 引き留めることもない。ひらひらと手を振ってからシラスはゆっくりと手を下ろす。
 見送る事には慣れやしない。もっと一緒に居よう、此れからのことを話そうなんて、そんな事があればと思ってしまうのはきっと悪いクセなのだ。
 最後の戦いが来るよ、なんて笑った彼女とこれっきりなんてことがないように。
 ただ、ただ、それだけを願っていた。


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