PandoraPartyProject

SS詳細

プリムラ

登場人物一覧

シラス(p3p004421)
超える者
アレクシア・アトリー・アバークロンビー(p3p004630)
大樹の精霊

 冬越えの季節がやってくる。雪色に染まる事の多い深緑はシャイネンナハトの準備に忙しない日々が送られていた。アンテローゼ大聖堂の聖夜のミサを手伝うためにアレクシアはやってきた。
 ステンドグラス越しに燦々と注ぐ陽の光は心地良く、冬である事を忘れさせるような和やかな陽気だ。準備を終えたら、自宅に帰ろうか。それとも――そんなことを考えて居れば扉の開く音がした。
 司教だろうか、それとも。振り返ったアレクシアの視線の先には予想外の人物が立っていた。射干玉の色をその身に宿した青年は冬物のコートで少しばかり着膨れしたように見える。白いと息を吐く限り、注ぐ陽光は暖かくとも風は冷たいものなのだろう。
「アレクシア」
「あれ、シラス君だ」
 白い息を吐く彼を見てからアレクシアは「どうかしたの? 何か用事?」と問うた。
「近くに寄ったんだ。深緑の依頼があったからさ。そういえば、君がいるんじゃないかなって。なんとなく」
「そっか。依頼お疲れ様。寒かったでしょ。……あ、そうだ。お昼ご飯はまだかな?」
「まあ、余りこのあたり知らないからさ……アレクシアは良さそうな店知ってる?」
「じゃあ、私もまだなんだ。一緒に行く?」
 シラスは「アレクシアの時間が許すなら」と言った。彼女はと言えば時計を一瞥して「少しだけ、待って貰っても大丈夫?」と問う。
 勿論だ。寧ろ案内されるのは自分の側なのだと頷く彼を聖堂内へと通してから、アレクシアは手にしていた準備物の整頓へと向かった。
「じゃあ、此処に座ってるね」
「はーい」
 何となく聖堂の内部の椅子に腰掛けながらステンドグラスを眺めて居たシラスは慌ただしく動くアレクシアを目で追った。彼女はアクティブだ。『記憶』が溢れて行く不治性――それも、現状と言うべきか。もしも、『世界を救ったならば』その状況は寛解する可能性もある――の病にも似通った事情を抱えていても、笑みを絶やさない。
(アレクシアは、いつでもアレクシアだな)
 シラスはぼんやりとそう思った。ヒーローだ。彼女は何時だってシラスにとって眩い太陽である。
 誰にも記憶を欠落させることを悟らせることはなく、書き留めた日記から補完し続ける。それが自らの在り方である事を知っているかのように振る舞うのだ。
(でも、そんなアレクシアを癒やせるのは誰なんだろう。何時だって、明るく振る舞って、真っ直ぐで。
 ……傷付くことも厭わない。ヒーローはそう言うものだと言われたって、まあ、なんというかさ。ちょっと悔しいな)
 彼女の記憶の欠落は最近になって著しいと言った。まるで、他人の書いた日記を読んでいるような感覚がするのだ、と。
 それを悟ったのは何となくシラスが口にした出来事をアレクシアが一瞬だけ反応を遅れさせたからだ。「そうそう、あの時は」なんて言わずにぱちりと瞬いてからぎこちなく笑った。
 それが知らないとは言い出せない――相手が大切にしていた思い出を阻害してしまうような感覚がするのだろうか――からこそアレクシアはぎこちなく笑ってから「ごめんね」と言うのだ。記憶を失うことを知っているシラスに『それを覚えていないことをやんわりと伝えるため』に。
 ぎこちない笑みを浮かべるアレクシアは些か悲痛にも見た。無理をして居るのだ。痛みを堪えるように歯でも食いしばってくれればいい、泣きじゃくってくれたって構わない。そうしてくれれば、彼女の弱いところにまで手を伸ばすことが出来るだろうに。弱さはひた隠して、なんら苦しみなんてないような素振りで彼女は毎日を過ごしていく。
 それを悔しいと思わないわけがない。悔しい。『世界からの贈り物ギフト』なんてものは、それこそ神様じゃなければどうしようもないだろうことが悔しくて堪らないのだ。
「シラス君」
 はた、とシラスは顔を上げた。冬用のコートを手にしたアレクシアが此方に歩いてやってくるのが見えた。
「お待たせしました」と溌剌に笑った彼女はいつもの通りに帽子を被って居る。位置を調整するように確認し、コートを羽織った彼女に従うようにシラスは腰を上げた。
「何か見ていたの?」
「アンテローゼ大聖堂の中って、そもそも余り入らないだろ? 俺にとっては物珍しくてさ」
「あはは、そうかも。私にとっては結構見慣れてきた場所だけれど、綺麗でしょ。何時も色とりどりの花に囲まれてるんだよ。
 司祭は皆、心の憩いになりますように、って。季節ごとに花を植えるんだ。だから、アンテローゼ大聖堂は何時だって美しい花に囲まれてる。地下庭園は薔薇が年がら年中、それはそれは凄い光景だよ」
 今度は見せて貰おうかと笑うアレクシアにシラスは「そうだね」と何となく頷いた。何時も通りの彼女に、それ以上の言葉が出なかったからだ。
「……ああ、でも、そうか。冬は花の季節とは聞かないしね」
「そうだね。色鮮やかな光景を期待していると少し残念な気持ちになっちゃうかも」
「でも、綺麗だったぜ。あの花……名前は分からないけれど」
 コートを羽織ってからシラスは外に出た。雪がちらつき始めたのだろう。アレクシアは「傘をとってこようか」と振り返る。
「ああ、そうだね。有り難う」
「それから、今、シラス君が指差していた花はね、プリムラだよ」
 プリムラとシラスは反芻した。アレクシアは「花言葉はね」と思い出すように一度目線を宙にやってから――「青春の恋、かな」

 傘をとりに戻っていったアレクシアは誰かに呼び止められたのだろうか。シラスはぼんやりと聖堂の外で待ちぼうけだった。背中を柱に預けてからプリムラをぼんやりと見る。
 青春の恋。青春の終わりと悲しみ。それは冬に咲くその花は、夏を待ち望むように過ごし、そして枯れていくのだ。夏に逢うことは無く枯れ逝く花のわびしさをそう称したのだろう。
 冬の寒さを忍び、春に沢山の花へと囲まれて、燦々たる陽射しの下に向かう最中に途絶えてしまう。その一生を思い浮かべてからシラスは「物悲しい花だな」と呟いた。
「お待たせしました」
 先程と同じように言葉を弾ませてアレクシアがやってきた。慌てて走ってきたのだろうか、少しだけ息を切らした彼女は傘を二つ手にしている。
「はい、傘。返さなくても大丈夫だよ」
「それは悪いよ」
「ううん、フランさんがね、忘れ物の傘も多いからって。傘も冒険に出たがってると思う、とか言ってたから」
 楽しそうに笑った彼女は灰薔薇の魔女フランツェルに呼び止められたのか。彼女もシャイネンナハトの準備に追われて居るのか。
「フランツェルはアレクシアがランチに行くのを羨ましがってただろう?」
「勿論。だからね、今から行く店のランチボックスが欲しいっておねだりされたんだ。そしたら、ルクア君たちも」
 嬉しそうに笑う彼女は三つほどのランチボックスを買って帰らねばならないというを仰せつかったらしい。
 それは大忙しだと揶揄うように言えば「責任重大ですよ」とアレクシアが傘を揺らす。傘に少しばかり積もった淡雪は直ぐに水になって溶けていくだろう。ここまでくれば、雨なのか雪なのか、どちらであるかの区別も付かない程度ではある。
「少しだけ歩くんだけれどね、秘密基地って感じのお店なんだよ。そこも今はプリムラが咲いてるかな」
「プリムラ。さっき言ってたけど、花言葉は色々あるんだろ?」
「うん。沢山の色があるから、気に入るものがあれば幻想に持って帰ってもいいね。シラス君のお庭に植えようか」
 嬉しそうに笑ったアレクシアに「そうだね」とシラスは目を伏せた。草木は雪に濡れ、重苦しくこうべを垂れた。沸き立つような緑の香りは今はなく、澄んだ冬の気配が身を包む。
 アレクシアの手にしていた傘は紅色だった。その色は朗らかな彼女が纏うにしては鮮烈で「赤色とか」と思わず口遊む。弾みで飛び出した色彩に「赤いも綺麗だね」とアレクシアが返した。ああ、そうだ。傘の色ではなくて、花の色の話だったかとシラスが思い返すよりも早く「でも、赤色だけだと寂しいかな」とアレクシアは言った。
 くるりと傘が回った。子供の様に少し指先で遊んだのだろう。その彩りは目を惹いて離さない。鮮やかな空色を纏うことの多い彼女の差した鮮烈な色。まるで雪化粧に咲いた花のように鮮やかで。
「……何が良いかな」
「黄色とか、紫。綺麗だよ。一緒に植えても良いかも」
「アレクシアに任せようかな」
「ええ? シラス君のお庭なのに? でも、うん、頑張ろうかな」
 任せて欲しいと笑った彼女は堂々と胸を張る。えへん、と言って胸を叩けば自信満々な博士の研究発表会にでも見えるだろうか。アレクシア博士の研究発表テーマは『シラスの家に咲く花の色』だと言えば彼女は「一番に良いものを選ばなくっちゃね」と軽口を返すのだ。
 単調なトークのやり合いが、打てば響くだけでも心地良い。軽いジョークだって、彼女とならば華やぐ色を帯びていくのだ。まるで、彼女の傘のような紅色に。
 それでも、いつかはこんな日常のやりとりは忘れられていく。不出来な奇跡が彼女に齎した代償にしては、
(――やっぱりさ、大きすぎるぜ、そんなの)
 忘れたいことが多いのは自分の方だとシラスは噛み締めた。彼女が当たり前の様に培ってきた思い出は何かに食われるようにして失われていくのだ。
 アレクシア博士なんて呼んで揶揄う他愛もない会話はシラスにとっては大切な宝物で、アレクシアにとってはいつか失われてしまうものなのだ。失せ物捜しもできやしない。
「どうかしたの?」
 立ち止まったアレクシアが不思議そうに小首を傾げた。美しい空色の瞳にシラスは「いや、寒いなって」と返す。ひゅうひゅうと吹く風の冷たさが、いっそのこと背中を押して「俺はこう思って居るのだ」と当たり前の様に伝えてくれれば良いけれど、寧ろ雪は本心をも覆い隠すかのようだった。
 ランチに向かった店舗は霊樹の根本にあった。元々は小屋があったそうだが、それを覆うように霊樹が成長したらしい。今や霊樹の根本に店が存在して居るちぐはぐな場所だ。
 慣れた様子で扉を開けばベルがりりんと音を立てる。軽やかな響きを耳にして「こんにちは」とアレクシアは微笑んだ。弾む声音に「こんにちは、アレクシアさん」と店員が朗らかに返す。
「今日はお連れ様がいるんですね」
「はい。お友達です。幻想王国からわざわざ来てくれて」
「じゃあ、サービスしないと」
 店員の女性は榛色の髪を高い位置で結い上げた幻想種だった。先程のアレクシアの傘のように鮮やかな紅色の眸は聡明さが宿っている。
「こんにちは」とシラスが挨拶すればエプロンを締め直した彼女が「ようこそ、いらっしゃいませ」と笑った。
「こんな辺鄙な場所までようこそ。こんな所に店があるのか? って思いませんでしたか」
「正直。けどアレクシアが連れて来てくれたから」
「ふふ、私の案内がなかったらもう二度とは来ることは出来ないかもね」
 揶揄うように言ったアレクシアに「本当だよ、迷宮森林で迷ってしまう」とシラスは肩を竦めた。店主は朗らかに語らう二人を微笑ましそうに眺め、ランチプレートを準備してくれていた。
 今日のランチはオムライスなのだという。ランチボックスには小さなオムライスとチキンスティック、サラダを添えたものを用意してくれるらしい。フランツェルからだと言えば、店主は「デザートもですね」と笑うのだ。どうやらあの魔女は「デザートは必須よ!」なんて事を言って店員を何時も困らせているのだろう。
「良く来るんだ?」
「うーん、フランさんの行きつけなんだ。私と言うよりフランさんが良く来るのかも。
 ほら、やっぱりあんまり深緑に居られる機会って多くないし。フランさんはアンテローゼに何時もいるから常連って感じだけど」
「まあ、忙しくなってきたしね」
「うん。忙しない毎日だし……やっぱりね」
 アレクシアは運ばれてきたオムライスを前にして「いただきます」と丁寧に言った。シラスもそれに倣う。
 奪い奪われ命のやりとりをして居た頃には『いただきます』と穏やかに口にすることも早々無かった。
 それが当たり前の様に染み付いて、のんびりとランチを食べられるようになったというのは身の回りが随分変化した様に感じられてならない。
 スプーンを口に運んでから「美味しいな」とシラスは呟いた。「そうでしょう」とアレクシアが嬉しそうに笑う。どうやら彼女にとってもお気に入りなのだろう。
「このお店のオムライスが凄く好きなんだ。家でも作れるかなあってチャレンジするのだけれど中々……」
「オムライスも奥が深そうだしね」
「うん。難しいんだ。シラス君も今度チャレンジしてみる?」
「アレクシアが出来ないのに、俺が出来るかな。君の方がオムライス作りには向いてる気がする」
「あはは、じゃあ一緒に作ってみてどっちが上手か比べようか」
 最初から敗北が見えている気がするとシラスは笑った。アレクシアの笑顔を見れば心の何処かで安心するのだ。それから、同時に僅かな悔しさが浮かぶのだ。
 彼女の記憶が溢れ落ちて行く前に、沢山の思い出を増やして「俺の知っているアレクシアはこんな人だ」と道標になってやりたい。だと、言うのに、彼女は一人で前に進んで行ってしまうような気がしてしまうのだ。
「あ、少し雪が激しくなったかな」
 何気なくアレクシアがぽつりと呟く声がした。シラスは手が止まっていたことに気付き慌ててオムライスを頬張る。そのおいしさに、心がほっと落ち着くと同時に急激に現実に引き戻された。
「急いで帰らなくちゃか」
「うーん、そうだね。シラス君はこれからローレット?」
「うん。深緑の依頼を受けてただけだから。報告書を持ってローレット。それから家かな」
「……じゃあお庭の花選びは後日で良いかな? 今日は此の儘雪になるなら、大変だし」
「そうだね」
 シラスはゆるゆると頷いた。フォークに突き刺さったパプリカの赤さが目に付いたのは先程の傘の色だからか。紅を纏った彼女がどうにも見慣れなくて、瞼の裏から離れない。
 それ程珍しいわけではないだろうに。蒼穹の魔女と名乗った彼女が赤い花の魔力を纏うのは、誘争の赤花テロペア――自身が傷付くことを厭わぬ時だ。
 慈恵の薬花アルタエア・フィナリスよりも鮮やかで、ただ、敵の前にその身を躍り出すときの色。 
(……アレクシアには青色が似合うよ、なんてさ)
 口にすれば彼女は笑うのだろう。いきなりどうしたの、なんて。そんなことばかりを考えてナイーブになったのはと出会ったからなのだろうか。
 様々な事が起きて身の回りが変化すればシラスも、アレクシアも、次第に考えることも口にすること変わってくる。
 はじめて。はじめて互いに声を荒げたとき。誰かを救うか、殺すか。そんなバカらしい話だったかとシラスは思う。
(出来れば忘れて欲しい。けれど、覚えておかなくちゃならないことではあるんだ)
 綺麗な彼女が、人を殺す。殺した相手のことを背負って生きていかなくてはならないと彼女は言って居た。シラスにとって、死とは途方もない終わりではあったけれど、彼女のように心を痛め苦しむようなものではなかったから。
 尊重してやるならば、せめて、共に居る場所で誰かが死んだ事だけは覚えていてやるべきか。彼女が背負う誰かの命を、知らぬ間に取りこぼしてしまうことは屹度望まぬ事だろうから。
「シラス君、今日は難しい顔をして居るね」
「年頃って事にして置いてもらってもいいかな」
「うん。いいよ」
 詮索しないアレクシアにシラスは軽やかな笑みを浮かべた。
 ――それ以上聞くことはなかった。ホットコーヒーにミルクを流し込みながらアレクシアは目を伏せる。
 降る雪が此処までやってきた足跡を覆い隠してしまっただろうか。帰り道は覚えているから問題は無いけれど、これでは誰かが迷ってしまうかも知れない。
 アンテローゼ大聖堂は旅人達を受け入れて、暫しの憩いを提供するのだろう。忙しくなってしまいそうではある。
 それでも、忙しない方が今のアレクシアに都合が良かった。零していく記憶に不安がることもなく、今を生きていけるから。
 雪が全てを隠してしまうのだ。己の不安も、苦しみも、見失ってしまう『本当の私』の事だって。全てが真白の雪で覆い隠して誰にも悟られなければ良い。
 アレクシア・アトリー・アバークロンビーはヒーローだ。だから、強くなければならない、と。
 危うい森の魔女だと、ある人が言った。その言葉だけがずっと体の内側を廻っている。命を擲っても構わないほどに危うく、死を厭わぬ存在。
 その言葉を否定することは出来まい。記憶を幾ら綴り続けようとも、己のことであるとは思えぬようになって終えば行き着く先は暗澹たる場所か。
 次は「アレクシア、君も難しい顔をして居る」と言われる側だった。
「年頃って事にしていて貰ってもいい?」
「勿論」
 同じ言葉を重ねればシラスは可笑しそうに笑うのだ。良い友人だ。大切な人。共に居ることが心地良く、仲良く皆で手を繋いで歩いて行くならば彼は屹度、隣だ。
 そう思えるほどに長い時を過ごしてきた。それでも――幼い時は過ぎ去って、に別れを告げる季節が近付いてくる。
 冬に咲いた花が咲き綻んで、夏を望み枯れて逝くように。アレクシアも、シラスも、大きな局面を前にすれば選択を迫られる。
 いいや、そんな命を掛ける場面でなくったって選択は此れまでに多くあるだろう。それが大人になることで、少年期の終わりなのだ。
 長くを生きていく幻想種の少女の前では、随分と大人びてしまった人間種の『青年』が居る。
 彼の過ごす一時は、アレクシアにとっては瞬きのようなものだったのかもしれないけれど、大切に大切に仕舞い込んで抱いてきた記憶たからものだった。
(もし、私が記憶なんて全て棄てても良いと思うときが来たら、どうしよう。
 もし、シラス君が何もかもを棄てても良いと思うときが来たら、どうなるんだろう?)
 山積みになった問題集を崩すように手を伸ばせば、平易な解法が出てくるわけでもないのだ。難解なパズルがごろりと道ばたに転がっていて、解かなければならないなんて、酷く胡乱なゲームにでも巻込まれたような現実味のなさだ。それでも、それは近付いてくる。足音を立て背中にぴたりと寄り添ってくるのだ。
(その時、)
 アレクシアは目の前でデザートのチーズケーキを口に運ぶシラスを見ていた。ラズベリーをフォークで突き刺す彼は少し難しい顔をした。上手く刺さりやしないそれと小さな諍いが起こっているのだ。
(その時、私は何を選ぶんだろう――?)
 傍に居ることか。それとも、世界か。いや、ちっぽけだと指差されようとも己にとっては大切な宝物を選ぶのかも知れない。
「アレクシア」
「シラス君、スプーンを貸して進ぜよう……なんてね?」
「……有り難う。これは稀代の発見だな。ラズベリーも楽ちんだ」
 見ているな、と言いたげな彼に笑ってからアレクシアはスプーンを差し出した。ラズベリーを掬いあげた彼の罰の悪そうな顔を見ているだけでアレクシアは愉快で堪らないのだ。
「覚えておかなくちゃね。シラス君がラズベリーと戦っていた事」
「アレクシアだって、ラズベリーと格闘する機会が来るかも知れないぜ。難敵だからさ」
「それはそれは……準備はしておかなくっちゃ。念入りに!」
 笑ったアレクシアにシラスも何時も通りに笑みを返す。そう、これが何時も通り。代わり映えのしない毎日だから――変わらないで、なんて言えっこないけれど。
 食事を終え、ランチボックスを受け取って店を出ればちらついていただけの雪は随分と勢いを増していた。徐々に積もりだした雪では足元が埋もれてしまうだろうか。
 此の儘凍り付けば、つるりと滑って折角のランチボックスが残念な出来になってしまう。帰路を急がねばならないかとアレクシアは「シラス君はこのままローレットでしょう?」と問う。
「送って行こうか」
「ううん、雪が激しくなるとシラス君が帰れないよ」
「……それは、困るな」
 報告書を出してないからと呟くシラスにアレクシアは「アンテローゼ大聖堂で旅人の皆とぎゅうぎゅう詰めで過ごすのも楽しいと思うけれどね」と茶化す。
「忙しそうなアレクシアに更に手間を掛けさせると後が恐いな」
「そうかな? シラス君だから大丈夫だってお手伝いを任せちゃうかも知れないけど」
「お手柔らかにして貰わないと。まあ、けど、今日は帰るよ」
「うん」
 にこりと笑ったアレクシアが「あっちにいけば、ファルカウだよ」と指差した。帰り道は雪を纏い、何もかもを隠してしまいそうだ。
「随分と冷えてきたね」
「……寒くない?」
「シラス君こそ」
 笑うアレクシアの頬にシラスは触れた。傘が傾ぐ。お留守になっていた左手がその頬に触れれば「つめたい」と彼女は笑うのだ。
「暖かければよかったけど」
「寧ろ、ひんやりしてた。氷みたいになってたよ」
 アレクシアは「私の手の方が暖かいかもね」と笑った。アレクシアの手にしていた傘を受け取って、シラスは「ん」と頬を差し出す。
 その左手が伸ばされてひやりと触れた。指先は冷たいけれどシラスのものと比べればほんのりとしたぬくもりが感じられる。
「微妙」
「まあ、冬だし。傘ありがとう」
「いいえ」
 暖かい訳がないとアレクシアが揶揄い笑えばシラスは肩を竦めた。触れた指先の冷たさも、それでも仄かな温もりがあったことも、彼女が傍に居てくれる証のようで喜ばしかった。
 そろそろ歩かなくちゃとアレクシアが雪を踏み締める。さく、さく、ぎゅと音を立て歩いて行く彼女の背を追いかけて、途中までは一緒に行くとシラスはその道を辿った。
「私は一人でも大丈夫だよ」
「モンスターが出て来て、ランチボックスが残念なことになったらフランツェルが泣くぜ」
「……あー……」
 想像に易い。アレクシアが困った顔をしたのを見てからシラスは思わず吹き出した。「そんなにフランツェルはトラブルメイカーなんだね」と。
「まあ……色々とね」
「ああ……想像できるけどさ」
「それでも、重要な任務だから、きちんとこなさなくっちゃね」
 お昼ご飯は大事ですとアレクシアは言った。暖かかった陽光は陰って曇天の雲に隠される。差した傘を傾げて歩くアレクシアを支えながら二人で辿った雪道は、先程までの緑に被さる白が景色を変えて仕舞っていた。
 そこに存在するものが真白に消える。それは異様な光景に見えて、冬の到来では当たり前のことなのだろう。ただ、二人共にそれは別ものとして見えていた。
 互いに口を開くことはなく、吐く息の白さだけがその場で二人の存在を示しているかのようだった。
「……着くね」と何気なく彼女は言った。アンテローゼ大聖堂が見えてきたのだ。無言の帰路の終わりは呆気もなく、終着点は直ぐ傍にある。
「うん。此処まで来たら大丈夫だよ」
 アレクシアはにこりと笑った。ありがとうと告げるその声音にシラスは手を伸ばしかけた。傍に居た彼女はゆっくりと歩き出す。 
「アレクシア」
 呼べば彼女は振り返る。彼女らしからぬ紅色の傘を揺らして、どうしたのと何時もの笑みを浮かべるのだ。
「気をつけてね」
「シラス君こそ、気をつけてね。雪が強くなってきたから」
 三つ分のランチボックスが入った袋を揺らしてアレクシアが笑う。シラスはその笑顔を見詰めながら、一歩踏み出そうとして留まった。
 掛ける言葉が見つからなかったのは、自らと別の場所を見ているかのような不可思議な感覚に襲われたからだ。
「シラス君?」
 アレクシアが小首を傾げる。不思議そうな顔をして、まるで何事もないような――出会った頃と余り変わらない姿で。
 シラスは小さく息を呑んでから彼女を見ていた。朗らかに微笑む太陽の花アレクシア。赤い傘が僅かに傾いで、影を落とす。
「……アレクシア」
「どうかした? 寒い?」
 何時もの通りの彼女の笑顔に、シラスは「いいや」と首を振った。
 君の心の柔らかい所。きっと、誰にも触れさせない場所。ただ、傍で咲いてくれるだけで構わないと思って居た太陽の花。
 どうにか手を伸ばしてやりたいと、そう願って仕舞うのは、多分屹度、己も随分と強欲になったのだ。
「またね」
 たったそれだけを絞り出してからゆっくりと歩き出す。君とは別の方向へ。前へ前へ。
 プリムラの花が雪の下で揺れている。美しい紅色に彼女を見た。屹度、何にも恐れる事は無く手を伸ばしてしまう彼女。
 無情なる雪の下でも気高く美しく咲くその姿。我武者羅に足掻く自分と対照的なその人は全てを雪にひた隠して微笑んで見せるのだ。
「それじゃあ、またね」
 掛けられた声は――いつもの通り朗らかで、何時も通りのだった。



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