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月も知らない物語
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木の幹を駆け巡るリスたちも、いよいよ見かけなくなってきた時期だ。気まぐれな最近の空模様は、朝からずっと澄んだまま。だからだろうか。木々が抱える古い傷口から浸み出た樹液も、月明かりできらきらと輝いている。
そんな月光の主たる月と、光の綾を織る星たちは、底光りのする紺の大空に横たわりながら、一軒のツリーハウスを見下ろしていた。窓の外はすっかり闇が制しているのに、かれらの輝きが眼に飛び込んでくる。耳を澄ませば、木の根が水を吸う音も、風が渡る音も虫の歌声に紛れて聞こえてくるようで。だから未散は夜着に着替えて以降、何度目かになる此処でのひとときを窓からぼうと眺めていた。
「お待たせー、準備はばっちりだよ」
弾む声に気付いて室内へ意識を戻すと、ティーセットを持ったアレクシアがぱたぱたと歩み寄ってくる。
あれっ、とアレクシアの声がそこで弾んだ。
「この前と違う!」
未散のパジャマ姿を眼差しで辿ったアレクシアは、眸にまで心の光を宿す。
彼女の反応に、未散は今の今まで忘れていた前日までの自分の様相を想起する。お泊りするギリギリまで、未散がずっと決められずに迷っていたもの――それがパジャマだったから。
「オーバーサイズで可愛い……シルエットも綺麗だし、すごく似合ってる」
素直な言葉を傾けてもらい、未散自身も心なしか口許が緩む。
「たいへん嬉しゅう御座います。アレクシアさまも、素敵なお召し物ですね」
どちらもシンプルで、素材の触り心地もやさしい寝間着だ。
お泊り会の雰囲気を更に高める服装は、両者の頬をほんのり綻ばせて。
「……それにしても、良い香りが漂って参りましたね」
そばに置かれたティーポットからは、レモンの爽やかさが湯気に乗り、部屋の高みまで昇っていく。
「入れている時からいい香りがしたんだ、ずっと味わっていたいぐらい」
アレクシアが頬をもたげて感想を述べる。
手土産を持参した当の未散は、よかったです、と目許を微かに緩めた。
「数々の果物とも調和する茶葉を、このたび厳選しましたので」
花に紅茶に。そうした心地好い香りを探すのは未散にとって日常だ。しかも今回自分たちを満たすのは、紅茶ばかりではない。アレクシアが用意したフルーツやスイーツの瑞々しさも、秋夜で目映いばかりにはしゃいでいる。
それに此処は、木肌の艶からも森の香が漂う家だ。建材となった樹木たちは、
互いの手におさまるティーカップ。揺らめく湯面へ映り込んだ、自分の顔。
いただきますと二人で告げ、まだまだ熱い紅茶へ口づければ。レモンと紅茶の香気に、鼻も喉も満たされていく。
「……おいしい」
ほぼ吐息だけでアレクシアが呟いた。カップを見下ろす彼女の瞳で、きらきらと光が波打つ。
やがてハッとして、アレクシアはずらりと並べたスイーツたちを勧め始める。
「たくさん用意したから、召し上がれ」
友の言に甘えて未散が最初に手にしたのは、柘榴シロップで出来たゼリーの海を泳ぐ、果物たちのいる器。アレクシアも同じくゼリーを口へ入れた。するとぷるぷる笑うフルーツゼリーの冷たさは、紅茶との温度差もあってより滑らかに、するんと喉を通っていく。
熱で濡れた喉を静めた後、互いに手を伸ばしたのは、大人びた装いの葡萄が胡桃と一緒に眠るフルーツケーキ。お隣りからは、丁寧に裏ごしして作られたマロンクリームの落ち着いた色合いが、未散の視界に飛び込んできた。
「これは期間限定、秋の味覚たっぷりのケーキだよ。で、こっちは特製マロンタルト」
内緒話に近い囁き方で話しながら、アレクシアが皿へ取り分けていく。
おかげであっという間に二人の眼の端から端まで、賑やかな色彩が溢れだした。
未散はふと、フルーツが盛ってある籠とスイーツとを交互に見比べ、眼を少し見開く。
「あちらの皆さまが……このような姿へと変貌を遂げたので御座いますね」
「うん、びっくりした?」
アレクシアが顔を覗き込めば、未散はこくりと頷きで返す。多くの食材があらゆる料理へ変わるのを、未散も分かっていたが。改めてありのままの果物と、ケーキにタルトにパンナコッタなどバラエティ豊かにドレスアップしたかれらを眺めると、感心が濃くなるばかり。
華麗なる変身を遂げた果物たちが寝転ぶ籠を、アレクシアが引き寄せる。
「甘いものもフルーツも、たっぷり楽しもうね」
そう言う彼女の傍らには、数冊の本が積んであった――これが、二人で決めた秋の夜長の過ごし方。
ランプの中で琥珀色の光が遊びたがっている。
けれど二人は揺れ落ちる燈りをよそに、持ち寄った書物を指先で撫でていった。
『月も知らない物語』
窓硝子に霜華が薄く現れ、まるで秋夜を楽しむ二人の気を惹くかのように、コンコンとノックした。きっと窓外を見やれば、暗で包まれた森は霜で着飾り、二人を手招くことだろう。しかしアレクシアと未散の興味は、ツリーハウスの内側でのみ温まっていく。
たくさんのスイーツや果物、それといくらかの本をお供に。
「探偵の七ツ道具、有能な秘書や相棒。こうした謎めいた響きに、焦がれてしまうのです」
古書のくすんだ文字を指先で追いつつ、未散が呟く。
「わかるなぁ、いかにも秘密って感じだと、いつ明かされるのかドキドキもするし」
アレクシアにも思い当たる節があるらしく、先ほどから首肯がやまない。
彼女の相槌や言葉は、語らう未散の耳に心地好い。
だからか「ええ、ええ、左様でございます」と未散の声も微かな上擦りを得ていった。
「それと演劇めいた口振りで綴られたミステリは、幕が下りるそのときまで時間を忘れる一方で」
実際に劇場で観ている訳でもないのに、本に凝縮された一幕を辿る間、未散の意識は『その世界』に囚われる。籠の鳥みたいな囚われ方とは違う。知らぬ町、知らぬ人物が遭遇した
「探偵として活躍する存在も、パイプや帽子を損なうと、没個性感が否めなかったりもしまして」
「ふふ、うん、格好って大事だよね」
「はい。野次馬に間違われ門前払いされる
今は気の代わりに小さな呼気を抜いて、未散が紅茶を口へ運ぶ。普段であれば陽射しに透かし、月明かりで梳している未散の髪も、今夜ばかりはヘアターバンで纏めているからか、レモンティーで潤う唇の邪魔をしない。
語りの狭間、一息いれた未散を見やってから、アレクシアは彼女が持ち寄ったうちの一冊へ目線を落とす。
「こっちは詩集なんだね。装丁はシンプルだけど、分厚い」
「風情や心境を結わえた詩の集いですから。とても美しく感じられて、ぼくは好きです」
口吟のように答えるや、あ、と未散が声を零した。
「……そういえば、アレクシアさまにお見せしたかった本が……」
「えっ、私に?」
ごそごそと荷物から未散が取り出したのは、真新しい袋に包まれた図鑑。
魔装具の図鑑だと付け加えて、それから冷えきってしまった図鑑を紐解く。
「でも、この本、変なんです」
端緒を開くかのような一言を添えて、未散が図鑑の裏表紙や、本来であればサインなどが入る箇所を見せる。
変、という響きにきょとりとしていたアレクシアへ、続けたのは。
「……作者。作者の名前が何処にも無いのですもの」
図鑑が好きだと、アレクシアは話してくれた。
世界各地の植物や動物の情報が詰め込まれた図鑑は、ページをめくる度にアレクシアへ好奇と興奮をもたらしてくれるものだ。あの野山には、どんな植物が自生していて。あの草原ではどんな動物たちが暮らしているのか。色やかたち、音に匂いまで、すべてが土地によって異なる。地元の森の樹姿や小路では得られない佳景が各地にあると思うと、胸が弾むから。
だから図鑑は、彼女の胸中へ火を燈すものでもあるのに。未散が見せた魔装具の図鑑は、作者不明という謎を残したまま、アレクシアの手へ渡る。触れて、開いて、文字を読んでいくうち、アレクシアの面差しが纏うのは――沈黙。
読み耽るにはまだ夜も浅い。小首を傾いでいた未散は、何気なく視界に入った本の山へ意識を移す。
「此方は……物語の山、でしょうか?」
「あっ、うん。未散君にオススメしたい冒険譚を、厳選なる審査で選んだよ」
図鑑に吸い寄せられていたアレクシアの眼差しも、未散が興味を抱いた本たちへ戻っていく。
「顎ヒゲ隊長のドタバタ珍道中シリーズとか、ミックとピピの双子の大冒険とか……」
ちっぽけな世界に居た在りし日の自分では、辿り着けなかった世界。アレクシアが選び抜いた本には、それがある。何かを望んだ人々が、あらゆる苦難を乗り越え、幸せを掴む冒険活劇をアレクシアは未散の前へ広げた。
そして目の届く限りに在った本の中から、アレクシアがこの日のために選んだ一冊もここにある。
「これ、悲しいお伽話、なんだけど……」
すっかり褪せて痩せた頁をめくりだした途端、指先が冷えるのを感じた。けれど、じいと見据える未散に温度が伝わらぬよう、アレクシアは唇を震わせていく。
「私のお気に入り。『天使』になりたい英雄のお話なんだ」
「……天使、で御座いますか」
応じた未散の声音は、今にもかき消えそうなぐらいあえかだ――なんとなく、なんとなく未散は、アレクシアが点灯させた話しの種の色を、肌で感じとる。雪の如く溶けてしまいそうな、花弁の如く散ってしまいそうな、そんな色合いを。
英雄は戦い続けた。
たったひとつ、たったひとり、あるいは僅かな何かを犠牲にして、多くを救った。
英雄は願い続けた。
いつか、天使になって世界中の不幸を摘み取りたい――。
「どうしてかな。心に残って離れないんだ」
アレクシアが、囚われた一文を指の腹と吐息でなぞる。
かの英雄へと降り注ぐ月は清かで、明らかで。森の影で蹲るような存在からは、縁遠い。
――親しみを甘酸っぱく溶かしたレモンティーから、名残惜しむような湯気が昇る。
まだ紅茶は温かいのに、アレクシアはぶるりと身震いして、パーカーを羽織った。
そして言葉が止まったアレクシアへ、未散は続きをせがまない。ただただ、天使、英雄という短い一語を反芻して。
――
文字のかたちは違えど、呪文めいた音から未散は顔も意識も逸らせなくなった。ゆっくり、ゆっくりと嚥下した理由は未散にもはっきりと掴めていない。だが『其の言葉』が、とても大事なもののような気がして。玻璃みたいな、壊れやすい響きに思えて。
「宜しければ、読ませてくれますか、其の本を」
漸く、そう願った。
俯きがちだったアレクシアの睫毛がぱちりと揺れ、徐に未散を見つめだす。
「ぼくはもう幼き子ではないから。同じ目線で見れるかは判りません。それでも……」
未散は微笑でも情けでもなく、共鳴への灯火を言葉で象る。
「識りとう御座います」
削ぎ落とさず、朽ちさせずに、未散が紡いだ。面差しは昼間と変わりなく、棚に飾られた人形のようでも。それでも彼女の顔を照らすランプが織り成す揺らめきは、未散が懸命に繕うとしたカタチを、オトを、惜しみなく撫でていて。
たっぷりの時間を置いて、やがてアレクシアが喉を開いた。
「私も、未散君に知ってほしいな」
期待へ色付けして微笑み、彼女はくたびれた本を友へ差し出す。
「だから本、貸してあげる。いつかまた、感想を聞かせてね」
「……はい。いつか必ず。ぼくのことばで」
二人の声は、内緒話に近い大きさで結ばれた。
けれど今夜ここで交わした