PandoraPartyProject

ギルドスレッド

造花の館

四月下旬・アーベントロート領公演

ツバメは漸く最後の黄金を宝石を届け終えました。
貧しさに喘ぐ人々は黄金を売って冬を超えることができます。
ツバメは彼らの笑顔を見ていると、雪の注ぐ冬の中であるにもかかわらず、胸が温かいもので満ちてゆく心地よい気持ちになりました。
町はずれの聖女様も、きっと笑ってくださるはずです。

そう、これが最後です。
北方の冬は、もはやツバメでは耐え切れないほどの寒さでした。
これ以上この街にいることはできません。
けれども、最後にあともうひとつだけ。
あの幸せな聖女像に笑ってもらうために。
最後のお別れを言うために。
ツバメは力を振り絞り、いまはもう見すぼらしくなってしまった、幸せな聖女像のところへと飛んでいきます。

……そこにはもう、幸せな聖女の像はありませんでした。
みすぼらしく、美しくもなく、価値もない、まるで乞食と変わらない聖女像は。
街の人々によって取り壊され、溶鉱炉で溶かされていました。
ツバメは自分が何を見ているかわかりませんでした。
心の底から愛していた聖女の姿がないことが信じられませんでした。
まるで最初から聖女がいなかったように振る舞う、街の人々の姿が信じられませんでした。

「ツバメさん…ツバメさん…そこにいるの…?」
どこからか響くか細い聖女の声がします。
それは炉端に転がる聖女様の鉛の心臓から響いていました。
溶鉱炉の熱を受けて赤色を帯びた鉛が、脈打つように響いています。
「ああ、ツバメさん…。そこにいたのね…よかった……。
 わたしね…ようやく自分の役目を終えたの……。」
一体どういうことなのか。ツバメが問いかけるよりも先に、聖女は続けます。
「この街の人たちは、もう十分幸福になれたのよ。
 わたしという『幸せの像』なんて、必要ではなくなってしまうくらいに。
 もう、誰も涙を流さなくていい…誰も悲しまなくていいのよ……
 ……それって…それってなんて素敵なことでしょう…わたしはきっと、そのためにうまれたのね。」
ツバメは何も言いませんでした。
ただ、脈打つ鉛の心臓をじっと見ていました。
「ねえ、ツバメさん…本当に、本当に最後のお願いしていいかしら。」


「わたしの心臓はね…直に寒さに耐えきれず、割れてしまうわ……。
 だからその前にね…ちゃんと、溶鉱炉に入れてほしいの………。
 最期に、わたしの全部を…みんなの役に立つようにしてほしいの……。」


その言葉を受けた瞬間、ツバメはいままで抱いたことのない思いが駆け巡りました。
この世のどんな炎よりも痛ましく、どんな冬よりも暗く、どんな涙よりも深い……ツバメだけの感情でした。
「――ふざけるな!」
そう叫んだツバメは、煮えたぎる心臓を掴むと、空へと羽ばたきました。
心臓の火がツバメの指を焼き焦がす度に、聖女がそれを制止します。
「――ふざけるな!」
美しい歌を奏でる喉笛が枯れはてるほどに叫びます。叫び続けます。
最早誰の声も聞こえていません。
施しによって救われた人々の笑顔も、聖女の声も届きません。
「――ふざけるな!」
打ち付ける吹雪に身を引き裂かれても叫び続けました。
シャイネンナハトの祝福の中にあってもツバメは叫び続けました。
祈るでもなく、願うでもなく、ただ叫び、一羽ばたきでも遠くへと飛び続けました。
誰にも届かなくとも叫び続けました。
ボロボロになった脚で「それでも」と掴み続けた心臓が熱を喪い、冷たい錘でしかなくなっても。

…やがてツバメの体は冬の寒さに耐えきれず、事切れてしまいました。
「ああ…ツバメさん…どうして…どうしてこんなことに…」
聖女は戸惑い、ツバメを心配しますが、返事は帰ってきません。
ツバメは羽ばたきません。軽口も言いません。
口づけのようにその身を啄む愛らしい嘴は、ひび割れたまま動きません。
彼女の知っているツバメは、もうどこにもいないのです。

それから長い沈黙の後、鉛の心臓は音を立ててひび割れてしまいました。

それっきり…ツバメと聖女の心臓は、深い雪の中に埋もれてしまったのです。
最早何者にも顧みられることもなく。



ウェイリー一座より、『幸せの聖女像』 …原題『幸福の王子』
脚本:ダブ・ウェイリー

同時公演
『下水の底のオンディーヌ』
『かわいそうなふたご』

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(公演終了後、人波から数歩遅れてから鮮やかな天幕を後にする。
 ざわつく人垣の頭上に、半ばほどまで傾いた太陽があった。
 悲劇が3本分にしてはなかなか早く済んだ方だろう。)

……で、どうするよ。
感想戦に入るにあたって、場所の希望でもあるか。
吾は腰を落ち着ける場所があればそれでいい。
……この辺(アーベントロート領)はあまり来ることがないから店に関してはよくわからん。

(それからややあって)

酒を出すような店があればいいんだがな。

(鉄帝の舞台を見に行った際に喫茶店でアルコールを探していた様子を思い出したらしい)
酒…なら、近くにパブの一件くらいあるだろ。

(疎らになった人垣の間を先導して歩く。
 時折思い出すように、瞳が余韻の中に沈むこともあったが、特に問題もなく大衆酒場へと辿り着いた。

 ……入った途端に店の者たちから奇異の目を向けられた。
 そんなものはこの体になってからずっと浴びてきたものだ。慣れたものである。
 鬱陶しい視線を避けるように端の席を選んで陣取る。)
……まあ、なんだ。
万人向けの作風ではなかっただろ。嫌いじゃあないんだが。

(途端に難しそうな顔をする。例えるなら気まずさを帯びたような。)
(時々先導者の前に行こうとするような動きをするのは歩幅の差、ではなく、時々歩いているにも関わらず正面から意識を飛ばす気配を感じての動きだ。
何事もなく目的の酒場へと着けば、その動きも収まって大人しく後ろをついていくだけになる。

向けられる視線の質には頓着していない様子で、貴方が選んだ席の近くへと腰かけた)
元となる物語を知っているが、どれも大胆……うむ、大胆ではないが、変更が加えられていたな。
その点は年初めに見た天義での公演と同じだが。
アレが公演する国に合わせての脚色であったのに対して、こちらは脚本家の理想と言うか、「そうあってほしかった」というような意図を感じるな。
どこがどうとは上手くは言えないが。
脚本家が喜劇や大団円を好まないらしくてな。
生半可な救いも認めないあたりに好感を覚えないんでもないんだが…如何せん、他人には勧めづらい類の極めて「個人的」な作品だよな。

真面目に作品を読み解くと……たとえば最後の『幸せの聖女像』。
ツバメは愛嬌があり、親しみやすいよう演じられていた。
一方で聖女は無機的な美しさを持った存在だったが…その心に対して、台詞運びも振る舞い方も無機的だったろうかな。
「そうあってほしかった」の正体を考えるなら、聖女はなにを象徴としていたかを考えるべきか。
聖女ではなく聖女像であるのだ。無機質さは当然の事であろう。
そもそも「幸せの聖女」と題されただけの作品が、一体人の幸せの何を知るのであろうか。
有体に言えば「聖女」ではなく「人を救うための偶像」の役割をこなそうとしているだけに感じられたな。

……象徴。
まぁ、一種神の様な立場ではあるよな。神と呼ぶには都合がよすぎる存在であるのでしっくりくる感じはないが。
神……神……あれを「登場人物」としてみるならそうかもしれないが。

……原作との違いから考えよう。
原作との最大の相違は、「ツバメの死」と「王子の死」……この場合は「聖女の死」だが。
その順番が逆であった点だ。

本来はツバメの死を通して、自らの感情に押しつぶされた王子の心臓が割れる、という構図だが。
こちらでは聖女の死を通じて、爆発した感情の赴くまま叫び続けたツバメが死ぬ、という形になった。
対比としてみるならば、前者は静かで虚しい摂理に打ちのめされる王子と、後者は突然の不条理に振り回されるツバメの話と見て取れる。

なにより聖女自身が淘汰されることを喜んでいるような演出がな。
お前の言う通り「人を救おうとする意思そのもの」であるなら、皮肉でしかないんだが……


(先程から奇妙な目を向けてくる給仕を呼びつけて、エールと魚のフライを持ってくるよう言いつけた。猶更奇妙な目を向けてくる。)
(自身もエールを注文して向き直る。給仕の顔色なんてわかっちゃいないんだろう)

ふむ。
この物語は自己犠牲の精神で成り立っている事は共通項よな。
そして先に死んだ方、原作であればツバメ、劇中あれば聖女は自己犠牲による陶酔感の中で死ぬ、ここまでは演出の差はあれど同じであるように思う。
ツバメも聖女も満足して死のうとしていた、という点においては同じであるからな。

最も食い違うのが聖女が自身の中で自己犠牲を完結できなかった点か。
自分の死を目の当たりにしたツバメの狂乱を目の当たりにして、最後の願いは叶えられず、雪の中でツバメの死と向き合うことになる。

お前の言う、「淘汰されることを喜んでいる」演出にかんしては深く考えていなかったな。
過剰な自己犠牲精神を示す一環か、くらいにしか思っていなかった。
自己淘汰か自己犠牲か…聖女を表現として見るか、人物として見るかの違いだろう。
意見交換する場合においては、この見方の違いはむしろ都合がいいな。

ボクの見方としては、聖女はツバメにとっての「為すべき行為」そのものというのだ。
それが誰かに授けられたものであれ、自分自身に命じたものであれ、ツバメは聖女の言葉に従いそれを為すことに意義と悦びを見出してきた。
…が、成し遂げてみればどうだ。
理想に現実が追い付いたとき、目標は淘汰され陳腐化される。
掲げた崇高さも気高さも相対的に色を喪い、誰にも見向きもされなくなる。
いつしか「為すべき行為」自身が「私を捨てろ」と言い始める。
ツバメの激情はそれらの価値の変遷、時代の変遷に対する行き場のない怒りだ。
結局捨て去ることもできず、古いやり方と理想を抱えて死ぬしかなくなった……そういう自分の決めた宿命を変えることのできなかったツバメの話。

……というのがボクの見方だ。
ふうん。聖女の存在はツバメの理想の隠喩であるという事だな。

吾はもっと単純に幸せの王子の結末に対して、「現実ならこうだ」という意見のように見えたな。
原作ではツバメと王子は天使に拾い上げられて天の国に召し上げられるだろう。
宗教的に見れば善行を他ならぬ神に認められ二人は幸せになったと判断してよいものかと思う。
だが、まぁ、結局は二人とも自分の、あるいは互いの幸せを放棄したままだっただろう。
恣意的な神の手の介入がなければこうなる、という回答が幸福な聖女の様に思えたな。
恋心に振り回されて自死を決めるツバメも、ツバメの都合も考えずに貧者救済に打ち込む聖女も同じくらい傲慢ではないか。
ならば、最後に救いではなく罰が与えられるのも当然の事では。
……と、吾は思ったが。
(「恋心」とは。
 目の前の人物が口にするには、あまりに意外な言葉に思えた。
 いや、その言葉を扱うこと自体は不自然ではない。ないのだが。
 感性が武力至上主義の群雄割拠の世界において、これほどまでに違和感も擦れ違いもない形で扱うものでるのか。そういう意外である。
 意外ではあるがここで指摘しても水を差すだけだろう。話に戻るとする。)
…意外だな。

大衆の為に身を削る一方で、ツバメを利用すること。喜んで利用されてやること。
本心はどうあれ周囲の利益の為にやっていることだが。
それは罰せられなきゃならないほどの傲慢にあたるのか。
周囲の為、と言うのであれば継続できる方法で支援するのが道理であろう。
吾とて、同族の為に役にも立たん生徒会長を続けて居るが、それで死ぬと思ってないからな。
たったひと冬の、自身の財が尽きる程度の支援で満足して死ぬのは身勝手だろう。
分不相応な幸運を促して、どんな結末が起こるのか、きっとその責任を取る事も考えていないのだろうから。

……後は、そう、これはお前と吾の種族の違いからだが。
お前達よりも、多分、我々は色恋に振り回されての失敗譚に厳しい。
故にツバメに対しては色眼鏡をかけて見ている事は否定できぬ。
(そもそも色恋を堪能できるような神経とかそういうのあったのか。とは言うまい。
 なんでと言われても困るが美少女という種族の標本を、目の前のこいつしか知らないのであるから無理がないのだ。
 しかしこいつら、聞けば聞くほどただの蛮族じゃなくて、禁欲生活を強いるタイプの職業蛮族である。

 いやでもどうなのだろう。
 こいつら花に言葉を、些細な所作に意味を当て嵌めるのが好きな風にも思える。
 即ち根本としては文系的思考をもち、考えさせる表現や感情に訴える芸術に対する理解が高いはずなのである。まあその表現内容や意味はさておいて。
 もう少しばかりこいつに対する扱い方を考えるべきだろうか。)
(閑話休題。
 怪訝そうな顔の給仕が持ってきたジョッキ一杯のエールを半分ほど流し込んでから、感想戦に戻る。)

なるほど。道理だ。
誰に頼まれるでもなく、思いつくままにリソースを投げ出す姿勢は、利他ではなく完全な自己満足のそれだな。
思いつく側も、付き合う側も、その結果として身を滅ぼしてしまい……自己犠牲や無私の献身といえば聞こえはいいが、自己陶酔に酔った末の自殺と言っても間違いではない。
後の責任まで取れ、というのはあまりに利口過ぎて厳しいようにも思うが。
しかし……なんだ?
「恋心」か。「信仰」ではなく。
随分そっちに拘っちゃないか。

(魚のフライをほおばる。やたらと衣が厚くて脂っこくて塩気が強かった。)
そうか。
だが、責任を取るか否かは差し置いても最後まで見守るべきだと思うよ。

(エールに手を付けようとして、止めた。
 アルコールで思考力が鈍る前に正確な言葉で貴方の言葉に答えてしまいたかった)

……端的に言うならば、ロマンチシズムでもなんでもなく事実として「美少女という種族は恋すると死ぬ」からだ。

我々は種族的に不老であるが、変則的な不老であり引退――不老を捨て去る事が出来る。
理由は「力の限界を悟った」「闘争に馴染めなかった」等、様々にあるが、一番多いのが「恋をしたから」だ。

(一拍置く。続く言葉を選びかけて、飲み込み、誤魔化す様に片手に持ったままのジョッキを呷った)

本能的なものだろう。
我々は恋すると後先考えずに死にたがる。
故に、幼いころから何度も奔放な恋をしてはならぬと戒められる。
はぁー…そりゃあ……死んだらそのまま泡になって消えそうだな。
人魚姫より血生臭い話に発展するから手に負えんのだ。

……まぁいい話を戻すぞ。
つまりツバメの所業は我々が耳にタコが出来るほど聞かされてきた寓話や訓戒において罰せられる立場を連想させるにふさわしいという事だ。
しかし、それは脚本家の意図とは全く別のものだろう。
その点において吾は物語を正しく理解できているとは言えまい。
元の作品が教訓ではなく、自己犠牲のありようを説いていたこととか。
本当に必要なもののためにはただならぬ対価が必要なこととか。
大事なものは見えない形で存在しているとか。
……聖女像の場合でも、展開から同じことは読めるはずなんだがな。
悦びのままに終わりを迎える結末が、当たり前のように激情を訴えるだけで、それら全てがどうでもよく価値がないものに成り下がってしまうのか………。
はぁ――――ほんとボクもあの脚本はよくわかんね。
後味の悪い作品は嫌いじゃないし、むしろ好きなんだが。
分からんと悔しんだよなぁ。

ツバメのキャラはよかったから、あのキャラで一本書きたかっただけじゃねーのか。(ぐびっぐびっぐびっ)
案外それが正解かもしれんぞ。
お前が言ったではないか「個人的」な作品だと。

(魚のフライを齧って油をエールで流し込む。
 エールは穀物なのでこれはご飯片手にフライを齧っているに等しい)

解釈と言うがな、通説が作者の意図とは全く関係ないことだってあるだろう。
吾は仕事で絵を描いたことがあるが……説明しても結構捻じ曲がるからな。芸術的解釈というやつは。
うっせ。
わかってても腑に落ちねーと居所悪いんだよ。
なにがいいのか説明できないみたいじゃねーかよ。

というか絵ってなに。
個人的に受けた依頼か。
それとも節操がないことに定評がある冒険者の依頼の一環か。

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