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幻想ぶらり旅~大海の汀で
登場人物一覧
王都メフ・メフィートの往来では、陽に焼けた蒼葉と花弁が待ち焦がれた水を浴び、潤っていた。日課の水やりをこなす店主が撒いた水だ。夜の間に冷やされた石畳も、陽が昇ればあっという間に白み、だからこそ草花からの分け前を美味しそうに飲み干す。
二人の少女が佇む石造りの橋もまた、今日も今日とて変わりなく、そんな王都が織り成す絶類の美のひとつとして架かっていた。熱された欄干へ手をかけていた小夜が、一日のはじまりを想いつつ口を開く。
「ねえジェック。また一緒に海まで行ってみない?」
雨でじめつく昔日にジェックから差し出されたものを、此度は小夜から燈す。
「海まで……?」
ジェックは共に歩いた幻想の旅路を蘇らせて、青褪めた空を仰いだ。
そう、あのときは。
同じように橋に並び立ち、自分から誘ったときはまだ、ここにあった。
遠ざかりつつある過去を思い出し、ジェックは自らの頬を指先で撫でる。今はもうない。遮っていた硬さも質感も。ならきっと、以前とは違って見えるはずだと眸を細める。ガスマスクを通して見ていた絶佳、におい、味わい。すべてが新鮮なのか、それとも懐かしさを覚えるのか。
「そうだね………うん、いいよ」
「よかった、それじゃ早速準備と……お買い物ね」
小夜の声が弾む頃になれば、早朝に開くパン屋の音が聞こえてきた。
だからふたりは、人も疎らな大通りへ溶け込んでいく。
蕩けた朝の陽射しが地上に散り敷いていく中を、今日も一緒に。
──大海の汀で──
「そういえば、今もいるのかしら。あのときのお花は」
ふと小夜が思い出したのは、湿る緑のにおいが連れてきた花のこと。小夜の嗅覚が捉えた蒼と緑の狭間をゆくその香りは、川辺に咲く花のものだった。
どちらからともなく水音へと近づけば、そこではもちろん同じ川が伸びていて。
「どう? 今もちゃんと咲いてるの?」
尋ねる小夜に、ジェックは過日紡いだものと変わりない情報を口にする。ただ、ひとつだけ違うのは。
「……前に見たときより、ずっと赤く感じる。色が、明るくなった……?」
小首を傾げるジェックの前で、穂状の花たちはさやさやとお喋りに夢中だ。
空へ向かって伸びる花は、本日も見事な赤を川のそばで咲かせていた。だが陽の下だと目がちかちかしそうな鮮紅色に思えて、ジェックがいつもより多めに瞬く。そこで気づいた。
彩り鮮やかに感じるのは、ガスマスクが外れたからだろうかと。
はっとしたジェックの様相を気配で察し、小夜は口端へ笑みを湛えたまま黙す。
「小夜、辿ってみようよ、この花たち」
いつぞや小夜が紡いだ音を、ジェックが口にした。
じっとしていられないらしい波長を彼女の言い方から感じた小夜は、すぐに頷く。
「ええ、もちろん。今度はどこに出るかしらね」
前にも訪れた所か、新しい世界か。どちらへ出ても楽しい旅路になるのは間違いない。そう小夜も確信しているからこそ、想像はふくらむ一方だ。大地をつつく杖の先も、自然と歌い出す。彼女の奏でる歌に反応してか、花たちの囁きまでもが歌へと変わりだす。聞き慣れた靴音さえもこの世界を奏でているようで、小夜は頬に熱を覚えた。
そうして溢れる音の世界を歩み、二人は街道から少し離れたところ――丘に囲まれた小さな村を訪れる。
先日通った場所からは外れるが、街道が近いこともあり、村は賑わっていた。
暫しの休憩をと、二人は立ち寄る店を選び始める。四辺から届く生活音や朗笑、旅する者たちを招く呼びかけ。種々の音が重なる中、人を避けて進んでいた小夜とジェックの身はいつしか離れ、互いが目視できぬ距離を生んでしまう。店から漏れる食欲をそそる香りに気を取られていたのもあってか、気付いたときには小夜の傍にジェックの姿がなく。
小夜が二度ほど名を呼んでみるも、応じる声はない。完全にはぐれたと実感しつつ、彼女は前進する。近くで客引きをしていた女性へ、声をかけるために。
「私と似た格好の子、見なかったかしら?」
小夜がセーラー服の裾をつまんで尋ねる。万が一に備え着ていた黒のセーラー服だ。迷子になったときも、服装が似通っていれば人々に聞いて廻りやすい。ああそれなら、と女性は振り向いた。賑わう道の向こう、切り通しの道がぽっかり口をあけていて、そこを通っていたらしい。
女性へ感謝を告げ、小夜はすぐさま足を運ぶ。道を挟む壁となっている崖へ触れてみると、ひんやり冷たい。
丘に囲まれた村ならではの地形を味わいつつ、小夜はジェックを探す。
そこで不意に聞こえた、駆け寄る足音。間違うはずもなくジェックのもので、小夜が薄く微笑む。
「ごめん小夜、歩いてたら、知らないとこ……出てて」
「大丈夫よジェック。私も楽しみながら歩いてたもの。それより……」
すん、と小夜が鼻を鳴らす。
「水浴びでもしたの?」
濃い水のにおいに小夜が尋ねると、ジェックの肩が跳ねた。
「浴びては……なくて……顔を洗ったというか」
「あら。顔を?」
驚きを含んで聞き返した小夜に、戸惑いの色がジェックの目許を飾る。
彼女によると、切り通しの向こうにも川が続いていて、先刻通った川より流れが緩やかだったため、覗き込んでいたという。
「水の流れって、直に見るとこんななんだ、って」
裸眼で目の当たりにした水のまろやかな動きと、きらきら鏤められる光の繊細さに見入っていたそうだ。そうしてしゃがみ込んでいたら、川蟹を発見したらしい。石のように凝然とした蟹の色もまた、マスクを通して見たときより鮮やかで――何気なく顔を近づけた。
そのとき、泳いでいた鴨が、ジェックに向かって首を伸ばして鳴いたものだから。
「大変だった……」
ジェックが呟く。何が大変だったのかと、小夜も問う前に察した。
彼女はバランスを崩し、顔を川面へ突っ込んでしまったのだ。驚いた鴨は泳いでいってしまうし、眼前にいた川蟹は隠れてしまうしで、散々だったようだ。
しとどに濡れたジェックの顔と髪が水の香の元だったと知り、小夜は拭くのを手伝う。衣服は少し濡れただけだが、小夜が彼女の髪を束にして拭いてみると、淡い白を漂わせる髪は少し重たい。
「あの鴨、アタシの顔見て驚いた……みたいなタイミング、だったんだよね」
心の縁に引っ掛かっていたものを、ジェックが言葉に換えた。
「ねえ小夜、どう? アタシの顔の形、分かる?」
かたち。言われるがまま導かれるように小夜は手を伸ばす。
はじめに指の腹が撫でたのは、頬だ。指先に軽く力を入れるだけで、むに、と頬へ沈んでいく。そこで思い出したかのように、小夜が自らの頬も押してみる。肉付きがやはり違う。肌膚の滑らかさも。
「ずっとマスクだったから、かしら? お肌はちょっと荒れ気味ね」
手を頬骨から上げていくと、こめかみの辺りで動きが伝わってきた。ジェックが瞬きした証拠だ。だからつられるように小夜の手は、静かに伏せられた瞼へ引き寄せられる。そうっと小夜の手で覆うだけでも、伏せられたジェックの眸が大きいとわかる。不意に、手の平のちょうど真ん中を過ぎていく睫毛がくすぐったくて、小夜は微かに笑う。
やがて緩やかな坂を上った一指が到達するのは、鼻の頂。細く小さな鼻のあまりの愛らしさに、意識せず小夜の閉ざした眦もより和らぐ。どこまで滑らせていっても、指がマスクの堅さに触れることはない。かたちのひとつひとつを確かめていき、吸いつく肌を掌で
「大きな目に長い睫毛……これが、ジェックの顔、なのね」
知らなかった。長いこと友人でありながら、彼女の面差しを。
「……こんな顔を、してたのね」
知らなかった。長いこと一緒にいながら、彼女の顔の温度を。
込み上げてくる歓心ばかりが、小夜を置いて先走る。今まであった筈のものが、ここにはもう無いのだと理解しながらも、それが心身に染み渡るまで時間を要していた。だから小夜は、はじめて触れた友の顔へ――笑いかけた。
二人が次に訪れたのは、以前の旅で世話になった女主人の宿だ。
あのときと変わらぬ笑顔で出迎えた女主人は、嬉々として二人へ海鮮料理を振る舞う。
香ばしさ漂う焼き魚の皮を押し開いてみると、パリパリした感触の下からふっくらした身が顔を覗かせる。拾い上げてみると、まるで茹でたかのような柔らかさだ。恐る恐るジェックが口へ運び入れた。しかし予想外の熱さに見舞われ、はふはふと呼気と熱を外へ逃がしつつ噛めば、素朴な塩味が滲みでていく。
おいしい、とジェックは呟いた。
「焼き魚って……こういう味、なんだね」
驚喜に満たされたジェックの雰囲気を感じ取りながら、小夜も魚を味わう。
彼女たちの前には、他にも多くの料理が所狭しと並んでいる。
バターでソテーされた白身魚を頬張れば、まろやかな風味で舌が艶めいた。油で揚げた魚は表面こそカリカリとしているが、噛めば噛むほど旨味が溢れてくる。引き締まった煮貝を切り分けて口へ放り込むと、濃い味つけとコリコリとした触感が癖になるようで、二人不思議そうに食べ進めていく。そして貝が入ったスープは、今夜も出番を待っていた。二人揃って啜ったものだから、おかしくて笑いが零れる。そして。
「どれも……おいしいね」
「ええ、おいしいわね」
喉奥から腹へと流れていく温かさに、安心したかのような息を吐く。
こうして海に近づいた証でたっぷり英気を養い、ふたりは宿で静かな夜を過ごした。
ジェックは息を弾ませ、未知の香りを吸い寄せる。
知らない香りなのに、何故かいのちの香りのように感じて、自分を呼ぶ潮風を辿る。
そうして辿りついた浜に立てば、空の端れ、海の彼方で金色が滲む。朝焼けの名残がまだあるらしく、ちらつく金の光が、まるで自分たちを手招くようにたなびいているとジェックは感じる。マスク越しでは和らいで映っていた煌めきが、今はなんだか眩しい。
遠い光を感ずるジェックに代わり、小夜は足で踏む感覚を散策の供とした。波打際で泡立つ音が、心地好く耳朶を打つ。冷え冷えとした潮風の肌触りさえ、小夜には気持ち良い。
ふとジェックが立ち止まる。打ち寄せる小波とそよぐ風の音を除けば、静かなところで――何とは無しにジェックはそわそわした。見渡していた彼女の意識は、やがて足元へ下っていく。靴を脱ぎ捨てた彼女の足を包み込むのは、寄せては弾けた波のあぶく。それが楽しげに転がる度に、白い砂たちが踊った。
ジェックは静寂の中、いつまでも足の指間を通り抜ける海の欠片を眺めていた。棒立ちになった彼女の気配を察しても、小夜は声をかけない。恐らくジェックはジェックの速さで今、物事を飲み込み、馳せているはずと感じ取れたから。
――海洋での決戦は、ジェックに並々ならぬ想いを抱かせた。
友が、人が、飲み込まれていく。どんな船だろうと、海は難なく平らげてしまうのだと痛感した日を想起する。見ていることしかできなかった。だからか、船の上ではないというのに、ここに立つのも怖い気がした。だが、沸き上がる別の心もある。悔しさは確かに拳を握らせた。けれど凪いだ海の美しさも、初めて嗅ぐ潮の匂いも、間違いなく身体の芯まで穏やかに染みいっていくのだ。
「……海の匂いは好きかしら?」
漸く唇を震わせた小夜に問われ、一寸ジェックの目線が彷徨う。
「どうかな……」
もう一度すんと鳴らした鼻先に、やはり同じにおいがつく。
どこへ行っても、きっと海のにおいは変わらない。そうジェックには思えた。あのときの海上でもし嗅げていたら、潮だけではない匂いも多く雑ざっていただろうが、今となってはもう知る由もなく。それに海はあるがまま横たわるだけだ。多くの生命を育み、奪い、ただずっとそこに。
「でも、嫌いになれそうにないや」
そう答えたジェックの言葉も、蒼海の滸も、波音が洗っていく。
夢へ引き込まれていくときと同じ優しさで、何度も、何度も。