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涙の誓い
登場人物一覧
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紡ぎ出されるのは物語。
心躍る冒険譚、心をときめかせる恋物語。引き裂かれるような悲話。
世界には人の数だけ数多の物語が存在する。
人々が指先で爪弾くように奏でるドラマトゥルギアに触れて、
生まれた
海洋でおきた事件は多くの誉れ高き英雄譚を生み出した。
そして――。
その英雄譚からこぼれ落ちたものもまた存在する。
彼らの物語は、ピリオドを告げた。
リンディスは文字録保管者(レコーダー)として、彼らにピリオドを置く。
彼らはリンディスを主役とする物語に登場するバイスタンダーだ。バイスタンダーの退場は物語の上において避けては通れないものだ。
それを、ただ、「そうである」と思えたらどれほど楽だったのだろうか。
失われた物語を悼むことができるのは生きているものだけだ。
あの戦いは激しいものだった。
ともすれば自分の物語にピリオドがうたれていいてもおかしくなどなかった。
彼らと、自分を分けた此岸とは何だったのだろうか?
何度考えてもわからない。
だから、問いかけるのだ。
答えがかえってくることはないのはわかっている。それでも問いかける――。
まるで自分自身の鏡をみるような、そんなあの少女はなぜ、物語を終わらせてしまったのだろうか? と。
彼らが眠るこの場所に。
びゅうと、潮風がリンディスの黒髪を巻き上げる。
かつて、絶望の青と呼ばれていた広大なる海を望む丘の上にはいくつかの墓標が立っている。
指先でなぞった名前の少女はもういない。
その亡骸さえどこにいってしまったのかはわからないけれど――。
彼女は今、ここに眠っている。
その身を呈して、自分たちを必死に守ってくれた彼女はここに眠っている。
結んだ約束を叶えたから。
「もうあの決戦から、随分と経った様に思える。そうは感じないか、クァドラータ」
墓標の前で立ち尽くすリンディスの後ろから涼やかな声がかかる。
英雄『ドゥネーヴ領主代行』ベネディクト=レベンディス=マナガルム(p3p008160)。今回の墓参りの同道者だ。
あの苦しかった戦いは最近おきたことではあるのだが妙に遠い話のように思えてベネディクトは目を細めた。
リンディスは彼に取り巻く「
だからリンディスは彼とともにあることを望んだ。彼もまたそれを拒否することはなかった。
――そして彼もまた、この戦いで己の物語に強く関わるバイスタンダーを失ったばかりだ。
「祈りはもう終わりましたか?」
「ああ――それほどまでに語りかけることがあるわけでもなかったからな。いや、あるのかもしれないが、クァドラータほどの語彙はないのでね」
言って、ベネディクトは遠い目をする。その視線の先には白い墓標。
詳しくは知らないけれど、飄々とした青年だったことは覚えている。
きっと、ともに戦ったその英雄を思っているのだろう。
「――リヴァイアサンの一撃。あの時――多くの人の命が奪われていきました」
詩を読み上げるようなリンディスのことばの続きをベネディクトは待つ。
リンディスにとって「戦争」などそれこそ物語のなかだけの話だと思っていた。
激しいそれは、初めて現実的に彼女が味わった死の気配そのものであった。
その戦いによって多くの人々が失われた。
失われたひとりひとりに物語は存在していた。
あっけなく失われた物語の先は闇の向こうでもう読み返すことすらできない。
彼らに未来という新しいページがあれば、そこには幸せな物語が紡がれていたかもしれない。
誰かを愛し、愛され、そして胤を未来に蒔いて、その胤が芽吹き、また新しい物語に繋がっていくのかもしれない。
しかし物語は断章してしまった。
そこで、無情にもエンドマークが穿たれてしまったのだ。
リンディスは彼らの物語の先が見たかった。
新しいページに広がる物語はきっと心躍るものだったはずなのだ。なのに――。
「あのできごとは、まるで昨日のようにも、それとも、はるか遠い未来のようにも思えますね。
昨日にもどることはできない。未来にふれることはできない。
どちらにしろ、遠く思えます」
リンディスもまた、ベネディクトと同じようなことを思っていた。
「戦友を失う事は決して初めてじゃない。だが──何度味わっても、慣れない物だ」
答え、ベネディクトはリンディスの目の前の冷たい墓標にふれた。
常に凛と前を見据える騎士の瞳が陰る。
冷静沈着で冷酷にすら見える彼がそれほどまでに冷たいわけではない――むしろ情に溢れた人物であることは彼の物語に触れたリンディスにはよくわかる。
かれは感情を表すことが思いの外得意ではないだけなのだ。
「そう……ですね」
鏡写しの彼女がこの世界から失われなければ、彼女と肩をならべ、他愛ないことにほほえみを浮かべていた未来があったのかもしれないと思えば思うほどに彼女はもういないという現実が冷たくのしかかる。
リンディスもまた、指先をのばし墓標に触れる。冷たい温度が自分の心まで冷やしていくように思える。
「花を献じないのか?」
「あ、ええ。そうですね」
ベネディクトに促されリンディスは鏡写しの少女に青い5つ花弁の花を献花する。
あのこが大好きだった美しい花。
リンディスもまた大好きな愛らしい花。
「――」
リンディスの彼女の真の名前を呼ぶ。その名を呼んだとき、彼女が嬉しそうな顔をしたことをいまでもよく覚えている。
魔種としての属性を表しただけの味気ない名前よりもとてもとても素敵な名前。
もっと、もっと呼びたかったその名前。
「酒でも供えようと思ったのだが――「彼」もだが、彼女もまた酌み交わす年齢ではなかったな――
なのに俺は酒を用意した。無意味であるのに――。
……ああ、そうか。きっと俺は彼といつかともに酒を酌み交わす未来を望んでいたのだろうな」
ベネディクトはやっと気づけたと苦笑する。
彼の年下の友人は彼にとって大切な存在であったのだろう。それに気づいたときには彼はもう存在しない。
ベネディクトはそれが残念でしかたないと思う。
「そうですね、私もジュースや紅茶なんかを一緒に飲みたかったです。お茶会を開いて……そして読んだ本のお話をして、他愛ないお話をして、それから」
リンディスは今はもうかなわない願いを漏らす。
風に溶けた願いが届けばいいのにとリンディスは思う。
「私の、世界には――」
リンディスはぽつぽつと語りだす。
この混沌の大地に来る前のせかいのことを。
数々の書物が取り巻く世界。文字録保管者(ビブリオマニア)たちが各々に本を記す世界。
そこに戦いなどは存在しない。
とはいえ書物の中には記録として大きな戦いが存在している。
しかし読むのと感じることは全く違うということをリンディスはこの世界に召喚されてから知ることになる。
もとの世界が恋しくないわけではない。
けれど、知らない多種多様な人々が織りなす物語はリンディスにとっては目新しく刺激的だった。
だからしばらくはこの世界に居続けようとおもった。だけどだけど。
「この世界が嫌になったのか?」
何気ないように尋ねるベネディクトの顔をリンディスは弾かれたように見つめる。まるで見透かされたような気分になる。だから首を左右に振って否定する。
「いいえ、そういうわけではありません」
縦しんばそうであっても還る手段などいまの自分にはない。
この世界で生きていくしかないのだ。だからこそせめて、戦いのとき折れてはならないと自分に言い聞かせてきた。
戦いは怖い。
血も嫌い。痛いのも嫌いだ。
誰かの物語が失われるたび心を痛めてきた。
けれど、それから逃げたくはないと思っている。
「──きっと、これからも戦い続ける限り俺達は何かを得る為に、失い続けるのだろう」
ベネディクトが静かに話し始める。
遠い目で。
きっと彼もまた、ここだけではなく自らの世界でもまた、たくさんのものを失ってきたのだろう。
何かを得て、そして失って。
きっと失ったことのほうが多いのだと、なんとなくだがリンディスは推量する。
「だが、俺たちは立ち止まれない」
この先失うものがどれほど大きいものであるとしても。
進み続ける時間を止めることも、戻ることもできない。
それがたとえ茨の道であっても。
得るものなんて大きいわけもなく、傷つくことだけが約束された、険しい道だったとしても。
それでも彼は折れることなくあるき続けるのだろう。
それはとても、悲しいことのようにリンディスは思えた。
「生き残ったものだけが、志半ばにして失われたものの想いを背負っていける」
静かなベネディクトのその声。
そうだ、生き残ったものは失われたものを風化させないために背負っていかなくてはいけないのだ。
それこそが文字録保管者(レコーダー)であるリンディスのやるべきこと。
物語を記録(レコォド)して未来に残し繋げていく大切な尊い使命だ。
「はい」
リンディスは短く返事する。
「無論それをどう受け取り、進んでいくかは人それぞれだ」
「はい」
つん、とリンディスの鼻の奥が熱くなる。泣いてはいけないと思う気持ちと、今だけは泣いてもいいだろうという気持ちがないまぜにマァブルする。
頬を熱い液体が流れた。だめだ、とリンディスは手の甲で拭う。
だけど。
止めどもなく。
止めどもなく。
涙は溢れてくる。止めることができない。
思えばリンディスはちゃんと鏡写しのあのこのために泣いたのだろうか?
「ううっ」
ちゃんと、彼女の物語のピリオドと向かい合えていたのだろうか?
「うぐっ」
自然に嗚咽が漏れる。
まるで気持ちの堰が切れたように、涙がとまらない。
「うわぁん、あああああ――」
声が溢れてくる。もうこの涙をとめることはできない。
無様な鳴き声が漏れる。
そうだ。もう、失われてしまったのだ。
戻ってくることはない。帰ってくることなんてあるわけがない。
彼女は約束を果たして死んでしまったのだ。
わかっていた。
でもそれは、わかっていたと思っていただけだったのだ。
まるで赤子のようにリンディスは泣きじゃくる。
ベネディクトはその傍らで背を向けなにもいわない。
見ないふりをしてくれているのだ。
無様にもすぎるこの姿をなかったことにしてくれている。
だから泣いてもいいのだと。
その不器用な心遣いがありがたかった。
「あああああっ、うあああん、あああん」
感情が溢れ出す。
涙とともに。
願っていた未来はこない。
きっと口汚く鏡写しのあのこをなじってしまったかもしれない。
どうして
どうして
どうして、私をおいていってしまったの? と。
魔種はこの世界を蝕む存在だ。
一度魔種に堕ちてしまったものがもとに戻るような奇跡はない。
不可逆の変異。
だから倒すしかなかった。
仕方ないことだ。
だがそうやって仕方ないと思うことが。
悔しかった。
悲しかった。
辛かった。
許せなかった。
たくさんの、たくさんの感情が溢れてくる。
きっと八つ当たりだってしただろう。
それでも彼はだまって何もいわなかった。
泣きつかれ、ひっく、ひっくと肩をゆらすリンディスに、ベネディクトからマナガルムの家紋のはいった白いハンカチが渡された。
ベネディクトはそのまま言葉もなく踵を返して去っていく。
これが恋物語であればここでリンディスは背中から抱きしめられたことだろう。そうして二人は恋におちるのだ。
だけれどもそれはない。
少しだけそんなことを思うような余裕ができていることにリンディスはすこしだけ自分がおかしくなる。
英雄と記録者。
じぶんたちはそんな間柄でしかないのに。それ以上でもそれ以下でもない。
そんなことがあるわけないのにそう思ってしまったことがおかしかった。
ハンカチを握りしめる。
だいじょうぶ。
だいじょうぶだと、リンディスはこころの中でつぶやく。ゆっくりと、噛みしめるように。
「だいじょうぶ」
三回目は口にだした。
言葉は震えていたけれど。それでもはっきりと。自分に言い聞かせるために。
私は前に進むことができる。二本の足は健在だ。だから進んでいくことができる。
彼らも、そして彼女も私の物語と共にある。
わすれることなんてできない。
わすれることなんてしない。
ずっと、ずっと。
私の物語にピリオドがうたれるそのときまで抱きしめて、背負っていいきていく。
――それが、彼らの物語を継いだ私達が背負う責務であるのだから。
ひとはこうして、いろいろなものを背負い強くなっていくのだろう。
それは失われなかったものの
いつかその重さに疲れて泣き出してしまうかもしれない。
逃げ出してしまうかもしれない。
それでも、自分は物語を紡ぐことをやめるつもりなどなない。
「――ちゃん」
リンディスは物言わぬ墓標に話しかける。
答えなどもう求めてはいない。
「私は大丈夫です。
これからも物語を紡いでいきます」
鏡のあの子への誓いと約束。
――ねえ、約束だったでしょう?
風に紛れて、あの子の声がきこえたような気がしてリンディスは振り向いて、涙を拭った。