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景星を辿り
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初夏の翠黛が覗いている。青々と茂る草木はその身を寄せ合うように遥か天蓋より望む日輪の姿を隠していた。影落としたその道を歩むリュティス・ベルンシュタインの耳朶を伝ったのはせせらぎでも、草木のささめく声でもない。不快な程に喧しくもこちらを急き立てるような跫であった。
動物のものではないだろう。一、二、三……それが人間であること位、直ぐに察せられた。それも、総て此方へ向けて進んでくる。意志を持ち、リュティスが何処にいるのかを分かっているかのようにだ。先ほどまで心地よく感じられた葉の騒めきは焦燥を含む様に大仰な音を立て始める。――ガザリ、ガザリ。泥と葉を踏み締めるようなその音は縦横無尽に周囲を取り囲み、直ぐに男の笑い声へと変化する。
「今日は『勝ち』だな」と一人の男の告げた声にリュティスは振り返った。金壺眼は値踏みする様にリュティスをじろりと見遣る。冴月を映しこんだ白髪を揺らした少女はゆっくりと唇で音を立てた。
「何か御用でしょうか?」
冷水の如く、場を打ったその声音には嫌悪が滲んでいる。リュティスのその言葉を聞いて男共はげらげらと声を上げて笑い始める。幼い子供が場にそぐわぬ事を言ったかのような、小馬鹿にした笑い声にリュティスは顰め面を見せる。
「御用も何も、お嬢ちゃん。『分かって』んだろ?」
男の声音にリュティスは知らぬ顔をした。何も分かりませんと言う様なかんばせは無垢なる少女を思わせるが、その瞳の色は無を映す。男たちは愉快であるかのように笑いを押し込めた。
(一目瞭然ではありませんか――賊……それも多い)
目視の範囲だけではない。気配だけでも、数は多い。これを窮地と呼ばずに何と呼ぶか。返答を見せぬリュティスを取り囲む様にじわりと男たちが歩を進める。
舌を打った。憎々しいと、現状を恨む様に。
『周辺の状況を理解している』という点で言えば、この状況は窮地と言わなかったのかもしれない。だが、惜しむらくはリュティス・ベルンシュタインという人間が少女であった事だろう。幾ら彼女がスラム出身であろうとも、その身に不似合いな技量を身に着けて居ようとも、多勢に無勢だ。うら若き乙女が奇襲する側であったと言うならば、彼女は人命を奪う事に対して何ら感慨も持たずにその命を刈り取った事だろう。だが、状況は極めてシンプルに言えば劣勢である。彼女は、奇襲する側ではなくされる側であり、もとより存在を目視されての行動だ。上背のある男たちからすれば小さな子猫が暴れている程度に感じられたのかもしれない。
(……成程……?)
男たちもリュティスという少女が『何の抵抗もしない』とは思ってはいない。こうして周囲を男どもに取り囲まれた時、普通の少女という者は泣き叫び、助けを乞うものだ。だが、そうされたところで、男たちに不都合はない、これほどまでの孤の空気が立ち込めた深き森だ。木々の細めく聲は少女の叫声を安易に漏らすことはしない。だが、リュティスは叫ぶことも泣くことも無かった。リュティスは眦を決する。地を踏み締めた刹那に、男たちの動きがあった。足首を掴まんとしたその腕を切り付ける。脚より転がり落ちたパンプスが空虚な音を立てたが彼女は気にする素振りは見せない。
跣の儘、地面を踏み締める。ガリと音を立て石が跣の踵を切り裂いた。だが、気にすることも無く豪奢なエプロンドレスを揺らしてリュティスは飛びあがる。
「ッ――こン女ァッ!」
男が苛立ったように脚を掴まんとし――
時間は幾許か巻き戻る。それは偶然の事であったのかもしれない。所用に置いて山麓の村を訪れていたベネディクト=レベンディス=マナガルムは村民らの相談事を耳にしていた。曰く、近隣の森で盗賊等に寄る物捕りや婦女暴行、そして誘拐が横行しているというのだ。それらの解決にはギルドローレットの力を借りるのも良いだろうとベネディクトはつい最近、自身が『召喚』を経て特異運命座標として所属することとなった幻想王国に拠点を置く冒険者ギルドを村民たちに紹介した。
「ああ、けれどね、兄さん……急ぎで心配事があるんだよ」
「心配事? ……聞いてみても?」
声を潜めた村民の不安げな声音にベネディクトはその碧眼を細める。曰く、ベネディクトがこの村を訪れる幾許か前に、森へと女性が一人で向かっていったと言うのだ。それも、未だ時間は立っていないが盗賊の出ると噂される森に女性の一人歩きとは不用心だ。直ぐに向かわねば拐かされ、その身は遥か遠方へと言うのもジョークにはならない。直ぐ様に白毛の軍馬を駆り、青年は走り出す。目指すは森中、喧騒響くその場所だ。
――「ハァッ!」
斬、と音がする。引きずり倒される形で地面へと叩き付けられていたリュティスが顔を上げ、直ぐ様に迎撃の体制を取る。自身を掴んだ男が何者かによって地へと転がされた事に気付いたからだ。咄嗟に悪漢の握っていたナイフを握り込み、自身の背後にいた男へと一撃を投ずる。リュティスが後方へと視線をやれば、蒼く魔力が揺らめいていた。
僅か差し込む光が男の金の髪を陽の色に見せる。その眼前に差し込まれた蒼の魔力、それは白馬に跨り、この場に翔けた男が放った槍に纏わり着いたものであろうか。戦で折れたかのような
「ッ、後ろ――!」
顔を上げリュティスが叫ぶ。その声に反応した白馬の男――ベネディクトは直ぐ様に魔力をその槍へと集め、至近距離より悪漢の腕へと突き刺した。叫声、そして続くは赤き血潮が落ちる音。ふら、と後方へと一歩下がった悪漢を退けるために魔力が波打った。漣とは決して呼べぬ波濤がぐるりと周囲へと立ち込める。
「済まないが――彼女に手出しをするのはやめて貰おうか。
付近を騒がせているという盗賊だとは聞いたが……女子供へと手を上げる卑劣な行いを俺は許しては置けない」 騎士然としたベネディクトはその掌に蒼き焔の如く魔力を集めた。揺れるその光をリュティスは美しいものを見るかのようにぼんやりと見遣る。白馬を駆り、堂々と現れた物語の騎士――スラムには到底有り得ないその男をまじまじと見ながらリュティスはゆっくりと立ち上がらんとし、痛みを感じてへたり込む。
足裏に深く刻まれた傷がズキリと痛むが、此処で、へたり込めば悪漢にやられるかもしれないという緊張感が未だその身を包み込む。
「このような少女を影より狙うなど、男の風上にも置けない。
そして……俺は女性が目の前で悪漢に襲われている様は見過ごせない。
お前たちが投降し、この場を去ると言うならば命までは奪わない。だが――」
武器を捨てろ、とベネディクトは静かにそう言った。正々堂々、技よりも力で捻じ伏せるが為に。
反発する様にベネディクトへと武骨なナイフを振るいあげた盗賊の男へと、彼は馬より飛び降りて力の儘、槍でそのナイフを弾き飛ばす。その露出した首筋目掛けて槍の穂先をぺたりと張り付けて、ベネディクトは「どうする」と囁いた。
「ッ――ヒ……!」
息を飲む音がする。それは、周囲も同じであったか。動きを見せぬ悪漢共を見回した後、彼は未だ敵愾心を露にするリュティスの細い背をちらりと見遣る。メイド服を身に纏う所から見るに何処かの給仕なのであろうが、美しく危うい人である様な印象を抱かせた。盗賊を前にしても一人、その武器を握り挑むのだから、肝が据わっているという他にはない。
「もう一度、問おうか――お前たちが武器を捨てないのならば、此方も全力で挑ませてもらうのみだ」
彼の足元で蹲っていた悪漢が「ひ」と情けなくも声を漏らす。地を這うように後方へと下がっていく彼らは此処で退かねば命をも、という考えに至ったのだろう。リュティスに構うことも無く、背を見せて走りゆく。その様子を見てから、無理にも立たんとしていたリュティスの緊張の糸がぷつりと切れた。
「……おっと」
倒れかけたその体を受け止めて、ベネディクトは「大丈夫か」と問いかける。そうして支えてみれば随分と線の細い少女であるような気さえした。尤も、その印象はあれ程の悪漢に囲まれても物怖じする事無く戦い続けていた印象から来るのだろうが。
「……ケガをしたのか」
「いえ……」
気にしないで、と首を振ろうとしたリュティスの体を、ひょい、と持ち上げたベネディクトは「靴は?」と問いかける。
「跣の儘、女性を歩かせるわけにも行かないだろう。靴は――履くにしても足裏が切れていて厳しいか」
リュティスを抱えたまま、傍に落ちていた靴を拾い上げたベネディクトが小さくため息を吐く。リュティスはどうしたものかと彼の動き見守った。
「……助けて頂き有難うございました」
其処からベネディクトがとったのは簡単な応急処置であった。ざっくりと裂けた足裏より滴る血潮を抑える様に、と白馬にリュティスを腰かけさせ、その素足にハンカチを巻いたベネディクトは天より降ったその声音に「いいや」と首を振る。嫁入り前の淑女の素足をまじまじと眺める者でもないと、少女の脚にハンカチを巻いた後、「他に怪我は」とだけ問いかけた。
「……いえ、掠り傷だけです」
「だが、君は女性だ。この様な輩の所為で傷が残るのも悔やまれる。
街に向かってしっかりと医者に診てもらう方がいいだろう。この儘、馬で街まで戻ろうと思うが?」
ベネディクトのその言葉に、リュティスは大きな瞳を瞬かせた。先ほどまでの淡々とした紅の瞳には不思議がる様な色味が乗せられている。
「……宜しいのですか?」
「ああ。君が良ければ」
リュティスはゆっくりと頷いた。このような場所で助けて貰っただけでも十分な縁だと言うのに、馬で医者の元まで駆けると言うのだから驚きを禁じ得ない。物怖じする事のない彼女は「どの様な考えの許での行動ですか」と確かめる様にベネディクトを見遣る。先ほどまで悪漢共に囲まれていたのだから、彼女の言葉は尤もだ。ベネディクトは可笑しそうに小さく笑ってから「お節介だ」と揶揄うように言った。
「丁度、俺もローレットへ――幻想の街へ戻る最中だ。君を医者に届けてから、ギルドに戻ったって何も都合は悪くない。
それ所か街は俺の帰路であり、通り道だ。
此処に来たのも、大きなお節介だったが、君を送り届けるのもお節介の一種だ。其の儘お節介を継続させても?」
「お節介、ですか。……ええ。ならば、貴方がよろしければ。何もお返しすることは出来ませんが」
リュティスが頷けば、彼女を支える様に馬へと跨ったベネディクトが「少々揺れるが我慢してくれ」と彼女を気遣った。白馬は任せておけと言わんばかりのその歩を進め始める。決して乗り心地が良いとは言えないが、傷だらけの体の儘歩くよりは十分ましだ。気遣う様に――揺れで痛みが出ぬ様に――ゆっくりとした歩で歩む白馬も主人の意図を汲んでいるのだろう。
「……ギルドローレットに所属なさっているのですか?」
「ああ。特異運命座標として召喚されたんだ。だから、俺はこの世界ではあまり縁がなくてね。
許より戦火の中に身を置いて居た。特段、困ることはないが――より自由に『お節介』をしているだけだ」
「成程。……一つ、不躾なお願いをしても?」
リュティスのその言葉にベネディクトは一寸置いてから「聞こうか」と告げた。
「私はご覧の通り、メイドです。育ての親に躾られ、給仕の類は一流と自負しております。
しかし、主を亡くし、『未来(これから)』に迷っているのもまた、確か――貴方さえよければ、私の主になってはくださいませんか?」
今度はベネディクトが目を丸くする側だ。美しい冴月の白髪に柘榴の瞳の乙女の凛とした雰囲気、そして悪漢を相手にしても怯むことなく戦ったその姿を思い返しベネディクトは小さく笑う。
「そうだな。君の様な従者が俺と共に居てくれるのなら、悪くないのかも知れない」
ベネディクトにとってリュティスの言葉はジョークの一つであった。だからこそ、揶揄うように彼はそう告げる。
ふと、リュティスは眼窩に見下ろせた幻想の街を丘陵より見遣る。「もうすぐだ」と降るベネディクトの声を聞きながら、彼女は首を傾いだ。
主になってほしい――と言うその言葉は、自身でもどうして口から出たのかは変わらない。感情に意味があると言うならば、どのような意図を込めたのか、自身に問いかけたいほどに自然に桜唇が紡いだのだ。どうしても、言いたくなったと言う他にはない。気まぐれであったか。或いは別であったか――その答えを見つけれぬ儘、リュティスはベネディクトに医者へと送り届けられた。
「気を付けて。怪我、跡が残らない事を願っているよ」
「有難うございます。一つ、聞き忘れたことがあったのです。
私はリュティス。リュティス・ベルンシュタインーー貴方のお名前をお聞きしても?」
「ベネディクト=レベンディス=マナガルムだ。今はローレットに所属している。
それでは、リュティス……また、縁があれば」
笑みを浮かべた彼を、まるで主を送るように深々と頭を下げてリュティスは見送った。
次に、顔を上げた時、山の端より滲ん入り日が自身を照らしている事に気付いた。
「ローレット」と呟いたその唇は、不安など紡がない。
日輪の照らしたそのかんばせには、迷いなど、何も滲んではいなかった。