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無垢なる果実が腐る刻

登場人物一覧

チック・シュテル(p3p000932)
赤翡翠
チック・シュテルの関係者
→ イラスト

 無垢なる純白が揺れている。天の遣いを思わせる淡くも美しい揃いの翼。
 それは、二人の兄弟の物語――

『渡り鳥』。全てを飛行種の者で構成され、魔術の才に富んだ者達を多く輩出する一族である。
 異なる手法で魔術を扱い、誰かの為を信条にその力を揮い続ける。
 ある者は怪我をした少女の足を治す為に杖を振るい、ある者は闇に逃れんとする男の為に刻印に魔力を巡らせて。
 総ては誰かの為に。
 そうした彼らは呼び名の通り、安息の地を求めて各国を渡り歩く。定住の地を見つけるまで、彼らは旅を続けて人が為にその力を揮うのだという。
 自身にとって安息の地が定まれば、その国で生涯を過ごすだろう。
 安息の地に拘らず気紛れに旅をつづける者もいた。
 旅の中、彼らに助けられる者たちも居るという。しかし、その話は年々少なくなっていく。
 旅の商人は「旅は危険が付き物だ。旅の途中で命を落とすものも居れば、誰ぞに手を貸して戦に巻き込まれた者もいるだろう」と彼らの死を悼む。
 ああ、しかし、風の噂では原因は別にあるとそう、告げられている。
 そう、それは―――


「兄さん」
 聡明なるその声音を響かせて、籠いっぱいの熟れた果実を抱えて少年はそう言った。ぼんやりと天蓋を眺めていた少年はその声に「ああ」と静かに息を漏らす。
「収穫……?」
「うん。熟れて美味しそう。今日はアップルパイにしよう?」
 柔らかに微笑んだその笑みに呼ばれた少年――チックは緩やかな笑みを浮かべた。
 渡り鳥の一族の、白翼の兄弟。物心ついた頃より両親の亡き彼らは自身らが『渡り鳥』である事のみを知っていた。
 共に、寄り添いながら過ごすその日々の中で、クルークは兄の姿を見てから安堵したように息を吐いたのだ。
 アップルパイを用意しようね、と微笑んでからキッチンに向かい合う。リズミカルなナイフの音に合わせて歌声が近づいてくる。
「兄さん?」
「……シナモン、取ろうか……?」
「ああ、うん。お願いしようかな」
 美しい声だ、とクルークは思った。魔術と歌紡ぎ、それこそが『渡り鳥』のチックがその身に宿した才であった。
 しかし、彼はたどたどしく話し、茫と世界を俯瞰するように眺めている。
 手にしていた林檎にぐしゃりと指先が食い込めば、チックは「……クルーク?」と首を傾いだ。

 林檎の収穫に向かう時に、自身に向けられたのは奇異の目線だった。そうした視線を受ける謂れなく、聡明で才を期待されているクルークにとってはそれは物珍しい物と感じると同時に『自身に向けられているわけではない』事に気付いたのだ。

 ――ほら、薄鈍色の弟だ。
 ――弟はあれ程までに聡明だと言うのにね。

 囁くようなその声を聞きながらクルークは乱雑に林檎を木々から捥ぎ取った。茫とした彼はの瞳は美しく、まるですべての人を見透かすようではないか。あの楽し気に響く声音がの旋律は只、真っ直ぐに天を穿つ――その素晴らしさを知らぬものが評価してくれるな、と。
 クルークはチックとよく比較された。優しく聡明な弟にどこかピースが欠けた兄。
 クルークにとっては兄を愚弄されることは気には食わなかったが、自身が聡明であると評価されることや才を褒められることに対しては無関心に近かった。兄を蹴落として自身が聡明で才ある明るい未来を望める訳がない。
 彼のその気持ちを見透かしてか、一族の者達は皆、可哀想』とそう言ったのだ。

「クルーク」
 呼びかけに、自身の意識がよそに向いて居た事に気付いてからクルークは首を振る。「大丈夫」と優しく微笑んだ彼の指先を、そっとチックは掬い上げ滴る果汁に舌を這わす。赤い舌がちろりと動けばクルークは「擽ったい」と小さく笑った。
「……美味しい」
「良く熟れてたからね。これを使ったアップルパイ、兄さんはたくさん食べる?」
「うん」
 ゆっくりと離れる指先に名残惜しい気がしてからクルークは水道で手を洗い、拭ってから兄の許へと寄り添った。
「今日は『集会』だよね。アップルパイを食べるのは帰ってからになるかもしれないけど」
「その間に冷ませば、いいから」
「そうだね。それじゃあ、兄さんも作るの手伝ってくれる? 二人で作った方が、きっと美味しい」
 クルークのその言葉にチックはこくりと頷いた。どこか華やいだ雰囲気を醸し出す兄の様子にはきっと自分しか気づかないのだという僅かな優越感を抱きながら兄の手を引いてキッチンへと戻った。


「さて、集まったか」
『渡り鳥』の集会はその国に訪れている者たちが一堂に会して情報交換をするだけの只の顔合わせに過ぎなかった。
 例えば、『誰かの為に』と願った者が居れば、それの手助けをする事もある。それは簡単な近状報告であったのかもしれない。
 その会に出席して、クルークとチックはどこか居心地の悪さを感じていた。クルーク側から見れば兄を悪く揶揄われる事がないようにと気を配り、その気丈に振舞う彼より僅かに感じる心労を気遣う様にチックは彼を追いかける。
 喧騒の中、幻想王国に訪れていた『渡り鳥』が全員集まった所で、一人の青年が『頼まれ事』について告げた。
「実は、幻想のとある貴族から仕事を請けたんだが……どうにも、おかしいんだ」
 そう口にした彼は苦々しく言葉を並び立てていく。クルークが彼に感じた違和感は、幻想貴族から請け負った仕事――そもそも、誰かの為が信条なのだから仕事として請けたのかも不明だ――は完遂されたというにはあまりにもお粗末だったからだ。
「どういうこと?」
「……ああ、幻想貴族の政略結婚を防いでほしいとのことだったんだ。
 伯爵家の令嬢が成金商人の所に輿入れしたくない。だから――先に『魔術』で、令嬢が何者かに攫われてしまう、っていう筋立てで……」
 曰く、伯爵家の令嬢を魔術で攫ったようにカモフラージュ。彼女は悪漢に攫われたが、幼馴染であった騎士位の男が助け出し、そのお礼に彼の許へと嫁ぐというドラマめいた段取りだ。その『令嬢を攫う』という場面で魔術による細工を施してはくれまいかと頼まれて、二つ返事で了承したのだそうだ。それは裏方に徹するだけ、決して危険な仕事ではなく――伯爵家の頼みならば何も可笑しなことも無いのだ。
 令嬢を攫ったは良いが、その後の事については何も知らないのだという。どうにも可笑しいとクルークが口を開きかけたのは『渡り鳥』が集まるその場所に衛兵が飛び込んできたのと同時だった。
「お前たちが『渡り鳥』の一族か!」
 ずらりと並んだ幻想王国の衛兵たちを見ながら幾人もの『渡り鳥』が息を飲む。しっかりと着用された制服を見るに、正規の衛兵である事は確かだ。
「――伯爵より陳述があり、王命を受けて貴様らを捕縛する!」
「我らが何をしたと?」
 確かめるように低く、這うその声音を響かせた『渡り鳥』の男に衛兵はおかしいことを聞くという様に笑った。それを見て、クルークはゆっくりとチックの手を握る。常の様に指先を絡めて、そっと薬指で擽ってくる兄のその仕草に彼も不安を感じているのだとクルークは感じた。
「伯爵家令嬢を誑かし、誘拐を企てたではないか! お前たちは『渡り鳥』――定住も持たぬ者たち!
『伯爵家の令嬢の許へと婿へ入り、かの領地を自身らのものとする』為に、そのような事を一族揃って計画したんだろう?
 この会は、その現状報告か? 残念だったな、誘拐した令嬢は救い出された! ……ああ、けれど、お前らのせいで彼女は名誉に傷がつくと縁談が破談となったそうだが……」
 そこまで聞いたた時に、クルークは利用されたと感じたのだ。そうだ、衛兵の言葉でどういう状況かが分かったではないか。
 伯爵家の令嬢は『傷物』になされたのだという。それも、無辜の民たる『渡り鳥』が利用するために淑女の純潔を散らすという最も惨い方法で。
「そ、そんな事――!」
 口を開きかけた男に縄がかけられる。主犯、そして、共犯として『渡り鳥』の代表格たちが連れられて行く中で、クルークはチックの手を引いた。
「どう、したの……?」
「兄さん。この儘じゃ……!」
 走り、逃げなくてはいけないとクルークが一族の者達の間を掻き、集会を行っていた屋敷より飛び出した。背後より聞こえる衛兵の声と逃げ惑う人々の叫声が耳に痛い。
「クルーク……」
「兄さん、こっち……!」
 木々の間を抜けるように、できる限り姿を隠すように、走る、走る。捕縛された者たちはこのままでは火刑は免れず、『貴族に対する罪』として一族全員で償わねばならなくなる。クルークの感じた危機感を共有したようにチックは頷いた。
 背後より酷く、響く音がする。振り向けば衛兵の誰かが屋敷に火を放ったのだ。そこは長らく誰も済まぬ伽藍洞――だが、此処を集会場所にしようと言ったのは捕縛された男ではなかったか。
(ここがその伯爵領だった……? 嵌められたんだ……!)
 ぱちぱちと音を立てる焔の後ろ、何かの焼ける匂いが酷く鼻先を擽った。嗚咽にも似た声を漏らしてチックの手を引いたクルークが飛び出したのは美しい白花咲き誇る場所であった。
「……ここ……」
 驚いたように息を吐いたチックにクルークは頷く。無我夢中で走り続け、自身らが幻想王国での拠点を定めると決めた花畑だ。美しい白花の開花の時期だったのか。月明りの下で輝かんばかりの光を受けて揺れている。
「兄さん、もう、大丈夫だ――」
 よ、と。言いかけた口を塞ぐように、体が勢いよく横たえられる。僅かな衝撃に呻くのも忘れずに、感じた重みはチックのものか。その腕が背中に回って、頬に唇が触れている。
「兄さん」
 背を、そっと摩った。大丈夫だと幼子にするように。何度も何度もなだめるように指先を滑らせる。翼の付け根のあたりを撫でれば、擽ったいと吐息が降ってくる。
「……兄さん?」
 言葉がない。顔を覗き込もうと体を起こそうとして、肩をぐ、と押さえつけられたことにクルークは気づいた。ゆっくりと首筋のあたりをなぞる唇が登ってくる。クルークはされるがままにチックを眺めていた。
「大丈夫だよ、兄さ――」
 言葉は、また、途切れる。視線が克ちあって、月明りを受けた兄の顔を見て安堵したクルークの微笑は一瞬にして消え失せる。
 顔をやっと見れたと笑いかけようとしたクルークの首筋にはチックの白い指先が食い込んからだ。

 彼にとって、かたわれともいえる弟が何よりも大切だった。
 歪な心は擦り切れるようにそれを露にしていく。仄かな軋みが次第に叫声の様に変貌していくのだ。
 クルークも、クルークも、クルークも。
 頭の中に浮かんだのはその文字列だけだった。

 ――クルークも、傷ついて、巻き込まれる――

 只、その事実だけが脳内をぐるりと巡って、指先が徐々に彼の首へと伸びていく。この儘では謂れなき罪で彼が傷を負ってしまう。あの赤い炎に飲まれて消えてしまうかもしれないと、チックは己の中に荒れた思いを伝えるように、その首を絞めた。ぎりり、と音を立てながら、その声を遮りながら。

 ――にいさん。
 あれ程までに美しく咲いて居た花はもう見えない。視界いっぱいの兄の顔が映り込む。クルークは『大好き』な兄でいっぱいになったその視界に歓喜を覚えた。
 捥がれた翼など気にはならず、頸に食い込む指先によって訪れる苦痛は『否定できない幸福』だった。
「傷つかない様に、傷つけられない、様に」
 繰り返された言葉にそっと指を添える。愛おしく、指を絡め合うようにぎゅうぎゅうと締め付けるそれをなぞった。兄の白い指先に華が絡んでるそれを避けるように指を動かした。
 藻掻いていると判断したのだろうかチックの声は僅かに上ずって、どこか寂しげな響きを孕ませた。
「大丈夫。おれが、ちゃんとまもるから」
 その言葉にうなずくことも返答を齎すこともできない儘にクルークは唇を動かした。震えたそれは決して、声にはならなかったけれど――

「わかってる。兄さんは、僕を守ろうとしてくれたんでしょう?」

 兄の瞳が、揺れた事に弟は気づいた。それは共に在ったからこそ、だ。
 舞い上がった風に煽られて花弁が舞い上がった。兄の頭の向こう側、美しい月が覗く。
 ――ああ、やっぱり『兄さん』には月と花が似合うなあ。
 冷めきったアップルパイの事がぼんやりと浮かんだ。兄と共に食べる時に、此処の花をテーブルに飾ろう。
 食い込む指先が酸素を断つ。いのちを継続させることを拒む様に食い込むそれに熟れた林檎の事だけが頭から離れなかった。
 熟れ切った後、あとは腐っていくだけだ。
 あんなにも、美味しそうに実っていたと言うのに。枝から落ちればあとは土に還るだけか。
 そう思ってから、ぱったりと意識は落ちた。首筋に食い込んだ指先から感じる愛情に転寝するように凭れながら。


『お前を殺した兄が憎くはないか。同じ目に合わせたくはないか』

 それが、誰の声だったのかは分からない。馬鹿な、とクルークは小さく笑った。あの美しい月下の花畑で、兄は『救って呉れよう』としたのではないか。
 ああ、けれど、このままでは彼は一人ぼっちになってしまう。誰にも頼る縁も無く一人きりで泣いてしまうかもしれない。
 そうだ、と思ったときにクルークは夢の中で誰かの手を取った。
 強欲にも、兄の為だと思い込んで。傲慢にも、兄の為だと思い込んで――

「今度は僕が、兄さんを助けてあげなくちゃ」

 目が覚めた時、愛しい兄は居なかった。ただ、咲き誇る美しい花と天蓋飾った月だけがクルークを見下ろしていた。

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