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剣想の灯り
登場人物一覧
木造の階段を降りる度に昏い空間へ軋む音が響く。
蝋燭の明かりを一つ掲げて静かに階段を進んだ。
柔らかな黒い粒子が足下を撫でる。
遊んで欲しそうに、誘うように。
一歩足を踏み外せば、何処とも知れぬ場所へ落ちてしまう。
それが、燈堂家の地下への階段だった。
燈堂暁月は地下への階段を下りながら廻と此所を通ったことを思い出す。
新月の夜に夜妖憑きの性質が強くなる廻を連れて、この先の座敷牢で戦っていた。
もう随分と昔の事の様に思えてしまう。
暁月が精神崩壊を起こし暴走した裏で、廻が泥の器にされてしまい、今は
今まで傍に居た廻と離れ離れになっている現状は、暁月の心に影を落とす。
何をするにも寂しさが付き纏うのだ。
「はぁ……」
小さなため息は憂いを孕み、それに引き寄せられた夜妖どもが暁月を覆う。
子供の頃から夜妖と共にあった暁月にとって纏わり付かれたぐらいでは心乱されない。
けれど、寂しさは心の柔らかい部分を刮げ落とすのだ。
暁月は其の儘、軋む階段を降りて座敷牢の前まで進む。
「ん、暁月殿……?」
座敷牢の格子の向こう側にはヴェルグリーズの姿があった。
畳の上には何本かの剣が落ちている。
普段のヴェルグリーズも美しく凜としているが、今の彼は蠱惑的に映った。
しっとりと汗ばんだ首筋に雫が伝っている。
ヴェルグリーズは今、『烙印』の影響下にあるのだ。
烙印は吸血鬼による所有物の印。
同種とするべくヴェルグリーズの身体に付けられたものだ。
当然、彼はそのようなものに屈する筈も無い。
普通の人間であれば数日も持たない烙印の苦痛をヴェルグリーズは耐えていた。
「は、っ、ぐ……」
苦しげに喘いだヴェルグリーズが自分の肩を掴む。
彼の背中から剣が突き出し、外へ向かって伸びた。
それはやがて畳の上に落ちて転がる。
暁月は座敷牢の入り口を潜ってヴェルグリーズの元へ歩みを寄せた。
「ん、……どうしたんだい? そんなに、邪気を纏わせて……」
先に口を開いたのはヴェルグリーズだ。
何時もより苦しげな声でヴェルグリーズは暁月に問いかけた。
「ああ、階段を降りて来るときに廻の事を思い出してたから」
「なるほど……もう一年近く、廻殿は煌浄殿から帰って来てない事になるのか」
ふう、と息を吐いたヴェルグリーズは散らばった剣を横に寄せる。
昨年の初夏に廻を煌浄殿へ送り出してからそろそろ一年になる。
そんな廻の事を想って階段を降りて来たのなら、夜妖まみれになっているのも納得がいった。そういった寂しさや心の隙間を夜妖は好むのだから。
座り込んだ暁月はヴェルグリーズの額に手を当てる。
「少し熱があるね。剣を出したばかりだからかな」
「そうだろうね……」
ヴェルグリーズは烙印の影響で
反転に近しい非常に危ない状況だ。
その中でヴェルグリーズの身体からは剣が突き出すようになった。
苦しみだしたヴェルグリーズと突き出した剣に、家族はさぞ驚いただろう。
不安定な状態のまま家族の元に居られないとヴェルグリーズは暁月を頼ったのだ。
燈堂家には強力な結界が張ってある。
それは外からの夜妖を防ぐ意味合いよりも、中の
特に、本邸の地下。座敷牢は繰切の元へたどり着く為の入口であり重要な場所。
燈堂家へ来たばかりの廻も此所で封じられていた。
いつ、暴走するかも分からないヴェルグリーズを預かるには打って付けの場所でもあった。これは煌浄殿でも可能ではあるのだが、従属の契約を交わす事にもなるので燈堂家預かりの方が良いという判断となったのだ。
この所、弱って来ているという廻の傍に今のヴェルグリーズを置くことは、たとえ彼が望まずとも意図せず傷つけてしまう可能性があり、それを暁月が許容することはできなかった。それに、ヴェルグリーズも大勢の人に今の自分の姿を晒すことは良しとしないだろう。
ヴェルグリーズは大人しく暁月の手当を受ける。
額から首筋へ暁月の指先が触れる度に肌がざわついた。
敏感になっているのだろう。
背中へと回った暁月は、先程剣が生まれた傷跡へ持ってきた薬を塗る。
「ぅ……」
「すまない。痛かったかい?」
「ああ、問題無いよ」
ジクジクと痛む傷口は熱を持ち、また生まれそうな予感に疼いた。
ヴェルグリーズは歯を食いしばってその衝動に耐える。
無為に生み出してしまえばヴェルグリーズの体力が持たないからだ。
「ヴェルグリーズ……これを噛んで」
「ン……」
暁月はヴェルグリーズの口に轡を嵌める。
堅すぎず柔らかすぎず、食いしばる歯の圧力を分散するためのもの。
身を屈め丸まったヴェルグリーズは畳の上に額を押しつける。
こめかみを伝った汗が畳に落ちて染みを作った。
「……っ」
漏れそうになる声を口枷を噛む事で耐えるヴェルグリーズ。
その背を暁月が優しく撫でる。
暁月はヴェルグリーズから滲み出る瘴気を肌で感じ取った。
烙印の影響で人ならざる者へと変化しかかっているのだ。
反転の文字が脳裏を掠める。
苦しげに喘ぐヴェルグリーズの、噛みしめた口枷の隙間から涎が伝った。
此の儘では危ないと暁月はヴェルグリーズに声を掛ける。
「大丈夫。大丈夫……」
「――ぁア!!」
暁月の手を振り払うようにヴェルグリーズは畳を転がった。
ふぅ、ふぅと口枷の間から吐息が漏れる。
「まずいな……」
ヴェルグリーズの背や腕から剣尖が突き出していた。
烙印による衝動が彼を苦しめているのだろう。
みちり、と肉が裂ける音が聞こえる。
ヴェルグリーズの身体から生えた剣が翼の如く広がり――敵意が混ざった。
不安定なヴェルグリーズの精神が防衛本能を見せたのだろう。
彼の本意ではない。
されど、烙印に蝕まれているのも事実だ。
身を守る為にヴェルグリーズは暁月に敵意を向けている。
「君もこんな気持ちだったのか……」
暁月はヴェルグリーズを見つめ眉を下げた。
親しい者に向けられる敵意と、それと対峙しなければならない苦しさ。
一年ほど前に暁月自身が
それを救ってくれたのは、ヴェルグリーズたちだった。
「大丈夫。君がどんな姿になっても私が止めてみせる。だから、思う存分暴れて構わない。廻ともここで何度も剣を交えたよ」
暁月は己の刀を顕現させる。
美しい音と共に鞘から抜かれた刀身は、本来の力を取り戻していた。
長らく廻の中にあった其れは暁月の手の中で美しく輝く。
朦朧とした意識の中でヴェルグリーズは暁月の悲しげな顔を見上げた。
確実に烙印によってこの身が蝕まれているのは分かる。
全身を覆う倦怠感と喉の渇きに似た吸血衝動。
目の前に居る暁月の首筋を貪り、滴る血を喰らい尽くしたいという欲求だ。
その衝動を必死に押さえ込む。
口枷を嵌めてくれて良かったとさえ思った。
親友の血を貪るなんて在ってはならない。
それを、拒絶と捉えたのだろう。
背中から生えた剣が暁月に敵意を向けた。
――違う。暁月殿は仲間で、親友で、大切な人なんだ!
自分の中に生まれた剣の意思のような物に、必死にヴェルグリーズは訴える。
訴える程に、ヴェルグリーズとしての意識が蝕まれた。
「……っ、……っ」
口枷を噛みしめ、目の前の暁月を認識し続けることで自我をたぐり寄せる。
「大丈夫。私は丈夫だから」
「――ぅぅッ!」
剣の意思を抑えきれなくなったヴェルグリーズが声を上げた。
背中から生えた剣は天井までうねり、真っ直ぐに暁月の頭上へ迫る。
それを刀の棟で逸らした暁月は、返って来た剣の追撃を避けて左方へ跳躍した。
蛇腹の如く連なった剣は、暁月の急所を的確に穿つ。
容赦の無い斬撃に暁月の瞳が黒から赤へと変わった。
「流石、ヴェルグリーズから生まれた剣だ。流れが美しいね」
ヴェルグリーズの戦い方を初めから熟知している素直な剣筋。
だからこそ、その軌道を読むことは容易い。
ヴェルグリーズ本人が相手であれば、もっと戦いは難しくなる。
「生まれたばかりの赤子は可愛いね」
暁月の挑発に反応するように連なった剣が暁月の喉元へ走った。
真っ直ぐに進んでくる軌道を弾いて暁月は一歩ヴェルグリーズへ近づく。
一歩、一歩。近づいてくる。
そんな暁月に生まれたばかりの剣の意思は恐怖を覚えたのかもしれない。
暁月は優しい。けれど甘くはない。
正しい躾けは必要であると理解している。
此の儘では怒られてしまうと震えた剣の意思は暁月へと一斉に切っ先を向けた。
迫り来る剣尖を全て叩き落として、暁月はヴェルグリーズに手が届くまで近づく。
暁月の刀がヴェルグリーズの首筋に添えられた瞬間。
ヴェルグリーズを護るように胸元から剣が突き出した。
暁月の心臓を貫かんと伸びた剣は着物に触れた所で止まる。
ヴェルグリーズ自身が剣を掴んだのだ。
赤い血が畳の上に滴る。
ぐぐっと手に力を込めたヴェルグリーズは、自ら剣を引き抜いた。
口枷を外したヴェルグリーズは剣を叩き付ける。
「暁月殿を殺すのは、許さないよ」
怒気を孕んだヴェルグリーズの声に剣の殺気が薄れた。
この剣の意思が何であれ、譲れないものがある。
親友を殺すなんて、あり得ない。
ヴェルグリーズの声に完全に剣の敵意は消失した。
「ふふ、収まったみたいだ」
「はぁー……」
良かったとヴェルグリーズはその場に座り込む。
実際の所、何度対峙しても友人との戦いは慣れるものではない。
ヴェルグリーズは刀を仕舞う暁月を見上げ大きなため息を吐いた。
傍にあった剣をヴェルグリーズは拾い上げる。
「暁月殿は俺の親友。味方だ。だから、心配しなくていい」
刀を向けたのも敵対したかったからではない。
ヴェルグリーズから溢れる瘴気の発散のためだ。
微かな意思を残し剣は再び『物』となる。
ヴェルグリーズは黒い剣にコツンと額を押しつけ、そのまま畳の上に寝転がった。
「流石に、身体中痛いね……」
「だろうね。血だらけだ」
「……」
手首に流れていた血をヴェルグリーズは舌で舐め取る。
自身の血を口に含んだ所で、渇きは癒やされない。
「は、」
艶めく吐息がヴェルグリーズの口から漏れた。
口の端から細く血が伝う。
剣の意思を抑え込もうとも、吸血衝動からは逃れられないのだ。
暁月達の元へ伝令役の夜妖がやってくる。
烙印を押した者達との戦い。決着を着けにいく時がきた。
「行かないと……」
「ヴェルグリーズ。無茶しては駄目だよ」
起き上がろうとして重心を傾いだヴェルグリーズは暁月の腕を掴む。
「でも、みんなを護らないと」
「此の儘では壊れてしまう」
主の為に生きて来たヴェルグリーズは、自我というものが薄かった。
自分は主の為の剣である。
だから、そんな自分に意思は必要無いのだと思っていたのだ。
されど今は違う。
自分の意思で護りたい家族が居るのだ。
「俺は、自分を捨てに……行くんじゃ、ない……家族と生きる為に、行くんだ」
――約束をしたから。
この先も共に歩む為に戦いに行く。
ヴェルグリーズは強い眼差しで暁月を見つめる。
「……分かった。私は君の意思を尊重するよ。でも、傷の手当ぐらいさせてくれないか? 今の君が外に出たら皆をびっくりさせてしまうよ」
血だらけの包帯が解けて、剣が突き出しているヴェルグリーズを見れば、いくら歴戦の猛者といえど驚いてしまうだろう。
「はは、確かに」
肩の力を抜いたヴェルグリーズは暁月に向き直った。
暁月はヴェルグリーズの傷口に薬を塗り、その上から包帯を巻く。
「じゃあ、気をつけて行ってくるんだよ」
暁月は燈堂家の正門前でヴェルグリーズの肩を叩いた。
「ああ、必ず勝って。帰ってくるよ……行ってきます」
駆けだした親友を見送り、暁月は空を見上げる。
希望ヶ浜の空は作り物ではある。
それでも暁月達にとっては、これが生まれた場所の空だ。
「ちゃんと帰っておいでよ……」
ヴェルグリーズも廻も、無事に帰って来て欲しいと暁月は指先をぎゅっと握り締める。
爽やかな春の風に乗って桜の花びらがひらひらと舞い上がった。