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Mine, thine, Grau Krone
登場人物一覧
●
――どうせ傷になってしまうなら、消えない瑕になりたいって思った。
●彼女は瑕になりたくて
其れはいつも通りのグラオ・クローネ。
サンディ君にチョコレートを渡しに行くのは、これで数回目になる。
本命だよって言えなくて、曖昧にぼかしていつも渡していたチョコレート。だってサンディ君は、私より長く生きるから。幸運が沢山重なって一緒にいられたとしても、何がどうなったって、私は先に居なくなってしまう。
きっとサンディ君は優しいから、其れを悲しいと思うんだろう。悲しい顔をさせたくなくて、彼の傷になりたくなくて、私はずっとだんまりを続けてきた。
「お邪魔します」
「ああ! お茶淹れるからさ、適当に座っててくれよ」
サンディ君はいつも通り明るく言って、キッチンへと向かう。
いつも通りの風景。テーブルの上は色んな資料でごちゃごちゃに――なっている、筈だった。いつもなら。
いつもなら私は其れをさりげなく整頓して、そうしてお茶を置くスペースを作る筈だったんだ。
だけど。
いつもと違って片付けられたテーブルの上。
其処には一つ、ぽつりと綺麗に飾られた箱が置かれていた。
ほら、よく小説でいうじゃないか。頭を殴られたような気分だって。
そんなのとは違う、そもそも頭が活動をやめてしまったかのようだった。真っ暗で真っ黒な気持ちが私の心を一瞬で支配した。何も考えられなくなって、視線が其の箱から剥がせなかった。
誰から貰ったものなの?
其の人は大事な人なの?
サンディ君には、もう、“例えいつかの日が訪れるとしても一緒に居たい人”がいるの?
今思えば勘違いも過ぎていると思うけれど、其の時の私はそんな考えに囚われて、持って来たチョコの箱を強く握り締めていた。
「――シキ?」
お茶を淹れてくれたサンディ君が、固まっている私を不思議に思ったのだろう。名前を呼んでくれる。
其の呼び方には何の後ろめたさもない。つまり、この机の上のチョコレートにも、何の後ろめたさもないんだ。
「……あ、ああ、其れか? あー……」
寧ろお茶をテーブルに置いたサンディ君は照れたような顔をして、「其れはな、」と話そうとするから。
「――やめて!!」
私は何も聞きたくなくて、サンディ君の身体を押していた。
●彼は覚悟を決めていて
「……っ、ぶねえ……!!」
正直心臓が止まるかと思った。
シキが突然抱き着くように俺の身体を押して、俺達はリビングの床に倒れ込む。シキは俺を見下ろして、泣きそうな顔をしていた。
俺は知っている。そうさせている理由も知っている。だけど泣かないでほしかった。泣かせない為にこのチョコを“用意”したんだ、俺は。
――シキが俺の“特別”なんだって気付いたのはいつだっただろう。
多分其れより先に『俺がシキの“特別”』なんだって事に気付いていたんだと思う。
でも俺は人より成長が遅い。『およめさんにして』と言ってくれた女の子が大人になって、本当の“運命の相手”を見付けて嫁いだのをそっと見届けた事だってある。
だから、例え一緒に居たいと誰かに願っても、俺は必ず“置いて行かれる側”になる。……だから俺はいつだって、距離を置いていた。
離れようと思えばいつでも離れられるくらいの気安い関係。
其れは其れで心地よかったし、友達がいたって事実には変わりがないから、俺は其の環境に甘えていたんだ。
でも、シキは違った。
いつも通りの距離の筈なのに、どうしてか遠いと感じていた。距離を巧く調節できなくて、自分でもどうしてか判らなくて、シキをよく観察してみると――なんてことはない、俺はシキの“特別”だったんだ。
そして、俺にとっても。シキは“特別”だった。特別に、なってしまった。離れ難い、一緒に居たい。俺はシキが他の誰かと幸せになるのを見届けるんじゃなくて、もし彼女が先に逝ってしまっても、シキとの思い出を抱いて生きていきたい。
そう思ってしまった。
だから今年、俺は伝えるつもりでいたんだ。君は俺の特別で、ずっと一緒にいたいって。伝えなきゃ絶対後悔すると思って、慣れないチョコレートを作ってみたりなんかして。
「――サンディ君」
なのに、どうしてシキはこんな顔をしているんだろう。
悲しくて悲しくてたまらない顔をしている。俺が一番させたくなかった顔をしている。美しい瞳から一つ、ころりと雫が落ちた。俺はしまったと思いながらも、其れを美しいと思ってしまったんだ。
●彼女は凶器を振り翳し
感情がぐちゃぐちゃで、巧く言葉にならないまま――私はサンディ君の向かいに座ると、持っていた自分のチョコレートの包みを破いた。
「え、あ!? シキ!?」
「サンディ君。私、今からサンディ君に酷い事言う」
酷いのは果たしてどっちだろう。
誰からか知らないけれど、チョコレートを受け取ったサンディ君だって、酷い。誰かは判らないけれど、サンディ君にチョコレートを渡した誰かだって、酷い。
でも、一番酷いのは。
「……私、ずっと我慢してきた。サンディ君が人より長く生きるから、距離を取ってるの、知ってた」
――でも。
もう限界なんだ、サンディ君。この想いを一人で抱え続けるのには、疲れてしまったの。
だから、この言葉のナイフで君の心臓にそっと甘い傷を付ける。
「私をずっと覚えていて」
ぐしゃぐしゃの包みは適当にポイ。
中身のチョコレートを一粒摘まんで、君の唇に押し付けた。
甘くて痛い、君へのグラオ・クローネの贈り物。
「傷で良い。私は君の瑕になりたい。ずっと消えない瑕になるから、私の事忘れないで、サンディ君」
ころり。
熱い涙がまた一粒、私の瞳から零れ落ちる。
サンディ君は反射だろうか、チョコレートをぱくりと食べて。そのまま何かを考えるように、沈黙が落ちる。
何と返って来るだろう。ごめん、だろうか。多分そうかも。或いは優しいサンディ君だから、最初はチョコを褒めて、そうして丸め込むように何もなかった事にしてしまうかもしれない。
「……あのな、シキ」
暫しの沈黙のあと、サンディ君は口を開いて。
「あのチョコレートは、俺が、シキに、作ったものなんだ」
――。
――は?
●そして真相は呆気ない
「……ええと、つまり」
私は片手で己の額を押さえた。
ちょっと認めたくなかった。この勘違いだけは、絶対にするべきではなかったのではないか?
「あのチョコレートは、貰ったものじゃなくて……サンディ君が作ってくれて、私にくれる予定だったもの?」
「そう。……や、まあ、うん。勘違いさせるような場所に置いておいた俺も悪かったけどさ」
サンディ君は優しく、其れこそ子猫を相手にするかのような声色で私に言う。何だか居心地が悪くて、私はむずむずと身を捩る。
「シキ」
「……」
「シーキ」
「……何」
「シキはもう、俺の瑕だよ」
サンディ君の存外に大きな手が、私の頬にある涙の痕を拭う。優しくて、あったかい。きっと幾人もの人がこの手に救われたりしてきたんだろう。
「俺は決めたんだ。シキは俺の特別で、他の奴とは違う。……もしかしたら、シキが“運命の相手”を見付けちまうかもしれない、其の前に、」
「そんなこと」
ない、って言いかけた私の唇を、頬をなぞったサンディ君の親指が触れて抑える。
「――シキがどっか行っちまう前に、このサンディ様が攫っちまおうって。……いつでも離れられる関係じゃなくなるのは、正直怖いんだよ。今までそんな事、した事なかったから。でも、怖いって尻込みしてる場合じゃないだろ。其の間にも時間は過ぎていくんだ。だから……なあ、シキ」
俺にもっと瑕をつけてくれよ。
俺は受け止めて、笑ってみせるからさ。
君がそう言って笑うから。
私はどういう顔をしたらいいのか判らなくて、……なんだか言いくるめられたみたいな気持ちになって、悔しくて、チョコレートをもう一粒手に取った。
「じゃあ、瑕にして。死ぬまでずっと覚えてて。――改めて言うよ、サンディ君」
このチョコ、本気のやつだから。
ずっとずっと前から。
私はそう告げて、君の口にチョコレートをまた一つ、押し込んだ。
サンディ君。ねえ、私の恋心でずたずたになって笑ってよ。