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あなたの”名前”
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人は生まれた瞬間に『呪』をかけられる。
名前というものがそれだ。
それは、存在固定の『呪』である。
例えば、雪とは、雪と名付けられたがゆえに雪という『呪』に縛られる。
『雪』にどのような性質があるかどうかは、この場合関係ない。雪とは雪という名前を付けられる前から、例えば白く、冷たく、やわらかい。
本質にはかかわりないが、しかし『雪』という『呪』がかかる。例えば、雪とは『白く、冷たく、やわらかい』ということを期待される。それは願いのようでもあり、期待のようでもあり、押し付けのようでもあり、傲慢のようでもある。
雪、という『呪』によるイメージとは、つまり前述したとおりに『白く、冷たく、やわらかい』というものであるが、当然のことながら例外は存在する。が、雪、という名前という『呪』は、その雪と名付けられた存在に、そのような存在を期待されてつけられるものだ。
翻って、名前、とは何か。
例えば、日本人に、愛美、という名前の人物がいたとする。きっと、美しく、人に愛されるように、という『期待』と『願い』をかけられてつけられた名前だろう。
これが、『美しく、人に愛されるように』という『呪』であるといえるのではないだろうか。『呪』という概念に、この場合マイナスのものはないものとする。『まじない』という言葉もあるように、それは本来祈りであるはずなのだ。なれば、この『名前』に付けられる『呪』は、『祝福』であり、『言祝ぎ』であるともいえるのだろう。
無論、これは『とある世界』においての識であり、これがすなわち混沌世界に受け入れられているかはわからない。ただ、人は名前を付けるときに、願いや、なにか想いのようなものを乗せることは確かだろう。それが、『呪』だ。
その延長線上で、考えてみよう。名前とは、呪、である。まじないであり、言祝ぎ、である。なれば、名前には、力、があるのではないだろうか? 名前とは、そのものの本質であり、そのものの存在固定の楔であり、つまりもっとも裸で、最もやわらかい、人間の『芯』を暴くようなものではないのだろうか?
真名、という信仰があって、つまり名前には力があるという信仰である。
例えば、オデット・ソレーユ・クリスタリア。このうちのミドルネームにあたる『ソレーユ』が、彼女の真名、である。彼女の『呪』である。ソレーユ、とは、オデット・ソレーユという少女の、本質と生まれと力を現すものだった。太陽の子。太陽の力をもとに生まれた、存在。
ソレーユという真の名を、オデットは明かすことはない。彼女の世界において、真の名とは力であり、例えば強大な魔術を使う際には、その名を唱えて、名にめられた魔力を開放する必要があり、そして真名が悪意あるものに知られてしまった場合、その名をもって己自信を操られてしまう可能性も秘めていた。真名を明かすとは、つまり「自分の一部を相手に託す」ことと同意であるのだ。
オデットが、どうしてそんなことをふと思い出したのかといえば、十二月も半ばの、鉄帝の雪降る日に、真っ白な草原で、二匹の子犬と、レイチェル=ヨハンナの姿を見たからだった。
名前、というものは特別だ。例えば、目の前で遊ぶ二匹の子犬、オディールとレフィルという氷狼の子のうち、レフィルというのは、ある男の意思や希望を想起しての名前であったのだという。名前というものはその者の本質であるのならば、きっとレフィルの本質はそういう願いにあったのだろう。
レイチェル=ヨハンナが、雪の上で駆け回る二匹の子犬に苦笑しているのが見える。普段はレイチェル、と名乗る彼女が、しかし『ヨハンナ』という真の名前を持っているのだとオデットが知ったのは、本当にまったくの偶然だった。レイチェルの『うっかり』であると言ってしまってもいいだろう。
レイチェル、とは、ヨハンナの妹の名である。本来は、一つであったはずの魂が、転生した際に『分たれ』双子となった。ヨハンナは、死亡したと思われていた妹の名を名乗っていたわけだ。
詳しい事情の解説は省くが、問題は、『彼女に待っているのは、究極的な破滅』であるのだろうということだった。妹の、命。そして自分の命。どちらかを取らなければならないという状況は、今は穏やかな笑みを浮かべるヨハンナが、しかしその心の内で苦しんでいるということを、ソレーユは知っていたのだ。
「あー、寒いのか?」
ヨハンナが訪ねる。
「えっ?」
ソレーユが、思わず声を上げた。
「なんか、ぼーっとしてたからさ。
考え事か、なんかかな。それとも、寒くてぼんやりしてるのかと」
「寒くてぼんやりしてたら」
ソレーユが笑う。
「ちょっと危ないかも。考えことのほう」
「そうか」
そう言って、ヨハンナがソレーユの隣に立った。白銀の原っぱに、真っ白な子犬が走り回っている。
「まぁ、たまにはそうやってぼんやりするのもいい」
ヨハンナが、マントを布いてから、その上に座った。ソレーユに勧めるので、ソレーユはうなづいて座る。
「差し支えなければ」
ヨハンナが、こほん、と咳払いして。
「何の話だったか聞いても?」
「んー、とね。名前のはなし」
「名前?」
ヨハンナが小首をかしげた。
「そう。例えば、ヨハンナ、って、あなたの名前」
「そうだな」
ふと、遠くを見た。
「それが、俺の、名前だな」
「うん。
名前には、意味があるの。あなたが『レイチェル』と名乗っていたことに、意味があったように。
ヨハンナ、という名前にも、きっと意味や力があるの」
これは、私の世界のはなしだけれど、と、ソレーユは言った。
「名前は、生まれや、力を、意味するの。
相手に、本当の名前を押しているっていうことは、自分の本質をさらけ出して、自分の一部を預けること。
それは、裸になることより、誰かを愛することより、ずっと『自分を預ける』っていうことになる」
オデット・ソレーユという名前で言うならば、つまりオデット、とは衣服であり、ソレーユ、というものが裸のソレーユ自身、ということになる。あるいは、オデット、というイメージか。いずれにしてもオデットと名乗ることによって、ソレーユ、という名は隠され、その真実性はヴェールに覆い隠されることとなる。
「聞いてほしいの。私の、名前」
遠くで、わん、とオディールが鳴いた。主の決意を、感じ取ったかのように。
「それは」
少しだけ、ヨハンナが驚いた顔をした。
「俺でいいのか?」
「うん」
ソレーユは笑う。
「『ヨハンナ』だから、預けられるのかな、って。
名前の……そのものに込められたものの重さを、ちゃんと知っているあなたなら、きっと」
信じられる、と、ソレーユは言った。
オデット・ソレーユではない。
ソレーユとして、裸の言葉で、裸の信頼で、ヨハンナに伝えたつもりだった。
今日は、ここまでずっと、オデット・ソレーユとして語ってはいなかった。
ソレーユ、として。真の名の自分自身として、その心を、真意を伝えていたつもりだった。
「ン……」
ヨハンナが、うなづいた。
「わかった。無下にはしない。約束する」
そう、うなづいた。
「ヨハンナ=ベルンシュタインとして」
と、そういった。
自分自身も、本当に、今ここにいる自分として、その思いにこたえると、その名の重さを理解し、この胸の内乗せると、そう、約束する。
そのための、言葉だった。
「うん」
そう、ソレーユはうなづいた。
「私はソレーユ。
オデット・ソレーユ・クリスタリア。
ソレーユが、真名。
太陽の子。太陽の力をもとに生まれた妖精」
それは、あくまでソレーユの世界での話だ。力がある、といっても、混沌世界においてそれが担保されるわけではない。ソレーユという名を知ったところで、それを媒介にソレーユを操ったりなどはできない。
それでも、そうだとしても、その名を告げることに、どれほどの勇気と信頼が必要だっただろうか。それがわからないヨハンナではなかった。そして、だからだろうか。その『ソレーユ』という名を知ったときに、なにかあたたかいものが、二人の真ん中に広がるような気がした。それがきっと、太陽の、お日様の温かさなのだと思ったときに、真っ白な雪の上に、暖かな光がともったような気がした。心の温かさなのだろう、と思う。ソレーユ、という名前に乗せられた、呪。願い。言祝ぎ。そういう、暖かなものが、今、たとえ錯覚だったとしても、この時の二人に心あたたかく灯されていたし、その言葉と、名前と、行為の重さを、二人にしっかりと伝えているようだった。
「確かに」
ヨハンナがうなづいた。
「受け取った。ソレーユ」
そう言って、笑った。
その名前に込められた『想い』を、しっかりと受け止めようと思った。そして、それをさらけ出した『ソレーユ』といい裸の少女のことを、その献身を、自分は受け入れなければならないと思った。
「あなたは」
ソレーユが言う。
「きっと……これから、重い決断をすると思うけれど」
そう言って、微笑んだ。
「忘れないで。あなたの心の中に、
それがきっと、あなたが迷ったときに、道を示してくれるはずだから」
それが、ソレーユがかけた、『呪』であったのだろう、願い、なのだろう。願わくば、我が真の名よ。太陽よ、彼女を照らす光たれ。
「……また、重いもんを背負っちまった気がするなァ」
そう言って、ヨハンナが立ち上がった。そうすると、レフィルが走り寄ってきて、べしっ、とヨハンナに体当たりした。
「なんだよ、遊んでほしいのか」
当然だ、という風に、レフィルがひゃん、と鳴いた。合わせるように、わん、とオディールが鳴いた。
「じゃあ、もう少しだけ、遊んでいこ」
ソレーユがそういうのへ、ヨハンナはうなづいた。
心の内の太陽は、その願いを受けて、その熱を冷ますことはないのだと、そう思った。