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アネモネの花を貴方に
登場人物一覧
幻想の郊外に今にも崩れ落ちそうな館が辛うじて建っていた。ボロボロの煉瓦、生え放題の草。敷地の広さ以外は誇れるところはなさそうだ。誰も住んでいないように見える、その館には錬金術師達が日夜研鑽を積んでいた。
館の主ラルフ・ザン・ネセサリーは徹夜で自らの研究室に集めた報告書の山に目を血走らせていた。無い。何処にも無い。俺が求めるモノは何処なのだ! 苛立ちを隠せず、机に思いっきり拳を叩きつける。それが何も生まないと知りながらも、そうせずにはいられなかった。
ここ二年間、自分の知りたいことには何一つ辿りつけなかった。ただ国と魔種の情勢に振り回されるだけ。確かに興味深いこともあったが、それは俺が真に求めるものではなかった。
妻に再会したい。それだけだというのに。とても冷静に報告書を整理出来そうな状況ではなかった。少し私室で休憩してこよう。目の間をつまみながら、研究室をそのままにして私室へ向かう。
朝日が差し込んできて、ジル・チタニイットを明るく照らす。ここはジルの研究室兼居室。ベッドと書物、作業台以外は世界各地の珍しい植物が取り揃えられている。いつも通り目を覚まし、顔を洗って、すぐにみっちりと置かれた植物達に水をやっていく。植物達はいつも通り元気な様子で、温室に入れておいたアネモネは明日ぐらいには咲きそうだ。
棚からジルは紅茶の袋を取り出す。それは昨日市場で買えた、とっておき。鼻歌まじりに、お湯を沸騰させる。ポットに茶葉を入れて、沸騰したお湯を注ぎ、じっくりと蒸す。蒸している間、頭を占拠するのは只ラルフのことばかり。行き場のなかったジルにこの研究室を提供してくれた恩人だ。だが、今は片想いの人でもある。彼のことを想って、研究が手につかなくなることもあるくらいには。香り高いダージリンがジルの研究室にふわっと広がる。これなら、味に煩いラルフもきっと気にいるだろう。
ジルはポットに保温用のカバーをかけて、カップとソーサーを2セットもって、心浮かれていた。ラルフにもうすぐ会えるのだ。紅茶をお裾分けというのは口実に過ぎない。ラルフの研究室をノックしようとして部屋が開けっぱなしなのに気がついた。
部屋を覗いてみると、照明は消されていて、書類が乱雑に置かれているようだ。ジルはガッカリした。会えるとばかり思っていたのに、心を寄せているラルフは姿すらない。しかし、部屋は先程まで人がいたような生温かい空気が流れている。
「徹夜だったんっすかね」
誰にいうでもなく、一人ごちて、紅茶だけを置いて帰ろうと、乱雑な机の上から空いているところを探してポットを置こうとした。そこにあったのは何やら不吉な血に染まった報告書だった。繰り返し読んだのであろう、手垢がびっしりついている。重要な報告書なのだろうか。
知的好奇心と、愛するラルフがここまで興味をもって研究してることが何なのかが気になった。背徳感がないといえば嘘だ。だが、それは甘美にジルを誘った。
恐る恐る、読み進めていって、血の気が一気に引いていく。それはラルフの妻に関する報告書だった。報告書には丁寧にその時の状況と考察が淡々と綴られていた。それは深い妻への愛情がなければ書けないようなモノであった。
ジルは背に恐ろしい気配を感じて、びくりとしながら振り返る。
「……きっ! くっ……」
ラルフの貴様と叫ぶ声は、書類を仕舞い忘れた自分の過失を思い出し、消えていく。
「……ここで何をしている、否『何を』見ている?」
「……あ、あの……ごめんなさいっす。……勝手にラルフさんの奥さんの報告書を読んでしまったっす……」
ジルは顔面蒼白になり、何度も何度も頭を下げる。それで事足りるとは思えなかったが、大切な人の報告書を読まれれば不快に違いない。足はカタカタと震えて、立っているのも精一杯だ。
「……本当にラルフさんにとって大事な素敵な方なんすね。素敵な方がおられるってのは良いことだと思うっすよ」
ジルの本音だ。失恋と彼の失望と嫌悪を無自覚に察して涙が溢れて、それに自意識がついていけずに慌て始める。ジルの言葉と態度は全てを物語っていた。
「そうだな、大切な存在だ。悪いが返してもらえないかな?」
ジルは頭を下げて報告書を丁寧に返すと、泣きながら顔を上げて震える声をなんとか絞り出す。
「本当にごめんなさいっす。……僕は未だ、この館にいても、いいっすか?」
その問いに対して、ラルフは凍りついた視線と声で答える。
「……好きにしていい。それが君を望むのならば」
その冷たさに気付きながらもジルは只々お礼をする。その様子を見ていたラルフは自虐的に口を開く。
「そうだな、こんな話を教えてあげよう」
淡々と恐らく過去、自分にあった事を説明する。
「妻がそうなったのは私のせいだ。そしてそう、私のような者は独りで無ければならない。さもなくばあらゆる災厄が隣人を襲う。あらゆる嫌疑が常に降りかかる。その中で自分にとって大切な存在を守れはしない」
ジルはラルフとその妻が味わった苦痛を思うと涙が止まらず、上手く言葉も思いつかず、相槌すら打てない。
ラルフは純朴なジルの態度に少し目を緩めて、振り返る。
「勝手にしていい。だが私は君に応えない。そして何の期待もさせないし、君に私を守らせる事はさせない。居るのは止めないが、別に良い所を見付けたら早く出ていくことだ。君のような善良なる人が俺の為にまた不幸になるのは耐え難い」
ラルフはそう言い残して足早に立ち去る。ジルは最後の台詞に言葉を返したくなるが、あの優しい目は何も必要としていなかった。だから、言葉を押し殺して、深く頭を下げ、立ち去る彼を見送った。
ジルは自室に戻り、枕に顔を押しつけて、声もなく泣き続けた。
——嫌われなくて、良かったと。
——あの方なりに自分に気を遣ってくれたのだと。
——やっぱりラルフの事が好きで、出来る限り近くにいたい、と。
明日からラルフにはいつも通りに接し、あの報告書のことは決して口に出さず心に留めて、ラルフのことを今でも愛していることを隠し続けよう、そう心に誓って。
不思議と彼の妻に対する羨望や嫉妬などは一切浮かぶことはなかった。
また錬金術士の館に朝がやってくる。ジルは心を秘めたことを決して外に出さないよう、いつもよりきつめにさらしを巻く。心の痛みを封印するように。
鏡を見れば、ジルの目の下は腫れていた。けれど、化粧品など持っていない。薬の調合と原理は同じだ。見よう見まねで白粉もどきを作って塗った。
——知られてはいけないのだ。自分の想いは決して決して。
温室にはアネモネがジルの心など知らないとばかりに咲き誇っていた。あんまり綺麗だから、アネモネを花瓶に生けて、ラルフの研究室へと持っていく。
研究室のドアをノックすると、ラルフが応える。
「何かね?」
「……お、おはようございますっす。アネモネが綺麗に咲いたので、これどうぞっす」
ジルが花瓶を机の開いた場所に置く。
「ああ、おはよう。ありがとう。だが、今は研究に集中したいから——」
「——大丈夫っす。すぐ研究室から出て行くっすから……!」
すぐ部屋を出て、扉を閉める。足に力が入らなくなって、その場に座り込んでしまう。涙を堪えても堪えても溢れて止まない。でも、声は必死に堪えて。
——決意だけを強く強く、心に言い聞かせながら。