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お守り香
登場人物一覧
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夢を見る。
柔らかで甘い、芳しい香りが薫って。その香りに気がついたらもう、その香りのことしか考えられない。
香りに導かれるように歩きながら、シキ・ナイトアッシュ(p3p000229)は何の香りだろうかと考える。
(すもも、ザクロ、無花果……どれも違う?)
甘い甘い香りだ。熟れた果実が熟れきって、朽ちる前のもっとも甘い香り。
急速に体は空腹感を覚え、この甘い
匂いに誘われるがままに歯を立て、皮をぷつりと切り裂き歯を埋め、じっくりと噛む。溢れる雫を余さず舐め取って、ごくりと飲み干せばただ恍惚のみがそこにはあった。
ああ、なんて美味しいのだろう。なんてこの果実は――
「ッ」
驚きに息を飲んだ。顎に伝った雫を拭った手が、赤い。
腹を満たして
どうしてとなんでが同時に溢れ、震える手が自身の口に触れ――そこにある牙が指先を切って、理解する。
――ああ、食べちゃったんだ。
「――イヤだッ」
布団を跳ね除け、飛び起きた。ぜえぜえと弾む胸と、涙に滲む視界。そしてその視界が見知らぬものだったから、シキは慌てて布団を掴んでいた手へと視線を落とした。
よかった、手が赤くない。ホッと吐息が溢れる。
(……あれは夢だ)
解っている。ちゃんと解っている。
なのに、何度も夢に見ていた。
(私はサンディくんを――)
食べたいと思っている。
いや、そんなことは思っていない。
思っちゃいけない。
思って良いはずがない。
「どうしよう、サンディくん」
その衝動は日に日に強くなっていく。『いつか』が訪れてしまうかもしれないことがこの上なく恐ろしい。
シキはそんな気持ちを誰かに知られたくは無かった。全部、内緒にしたかった。強がりがどこまで保つかは解らないけれど悟られないように、心配をかけないようにと気をつけて――そうして少しずつ、心も体もすり減らしていく。
「大丈夫。我慢できる。大丈夫だ」
ぎゅうと布団を握りしめた。
ここには居ない彼の手に、甘えるように。
「あ、ごめん。何か言った?」
「無理していないかって。……シキ、本当に大丈夫か?」
さっきからずっとぼんやりしているようだとサンディ・カルタ(p3p000438)に指摘され、シキは僅かに視線を下げた。心配をかけたくないと思っているのに、結局のところ心配させている。
「全然大丈夫だ。心配いらないさ」
何でもないことのように笑って見せる。特にサンディには今の状況を知られたくはない。
――そう思うのは負い目から感じるきまずさからだろう。
シキはサンディへ友愛以上の『特別』を覚えているのに、その彼の前でシキは
「……少しでも何かあったら言ってくれな」
サンディはいつもどおり優しい。
シキは顎を引いて頷こうとした。
「シキ!?」
「……ダメ」
夢の中で何度も嗅いだあの香りがして、シキは慌てて鼻と口とを抑える。
香りは――辿らなくても解る。彼から香っている。
甘くて美味しそうな、血の香り。
「イヤ、だ。見ないで」
今、自分はどんな顔をしているだろうか。
血に飢えて、瞳と牙はいつもどおりではないだろう。
「シキ!」
「……イヤだ。こんなとこ見せたく……」
足から力が抜けたシキの体をサンディが支えてくれる。大丈夫だと声をかけてくれる。側にいるからと言ってくれる。
でも、でも、でも! ふわりと漂う甘い香りの誘惑は、彼が側にいると濃くなるのだ。
「……サンディ、くん」
シキの手が、支えてくれているサンディの腕を掴む。
(――離してって、離れてって言わないといけないのに)
どうしてこの手は縋ってしまうのか。
サンディが側にいると吸血衝動が増して辛いのにシキは
衝動を誘発させるのは彼の甘い血の香りで、けれども心を落ち着けてくれるのは
(――耐えないと)
彼の側にいるために。
●
シキが噛まれた。すぐ側に居たのに守れなかった。
悪夢のようだったが、全て現実だ。
会う度にシキの顔色が悪くなっていることに気がついていた。けれど過剰に案じてはいけない。シキが気にするから。
目の下に濃い隈を作っていてもシキは弱音を吐かない。『いつも通り』であろうとする。だから俺もそうすべきだとサンディも思っていた。落ち着いて、シキに何かあったらすぐに対処できるように。彼女がどうあろうと寄り添おうと決めていた。
「イヤ、だ。見ないで」
シキが苦しそうに言葉をこぼす。あの、強がりのシキが。
(俺に何ができるんだ?)
あの日、あの時、シキを守れなかったのに。
今だって、ぐらりと傾いた体を支えてやることしか出来ない。
守ってあげたい大好きな子が苦しんでいるのに、その苦しみを肩代わりしてあげることも、取り払ってやることも出来ない。
「……サンディ、くん」
気丈なシキの手が震えていて、後悔ばかりが増していく。大丈夫だと言葉を掛けてあげることしかできない無力さを噛み締めた。
物語のようにページをめくって戻れるのなら、あの時己が代わりに噛まれただろう。
彼女がそれを望まないとしても。
サンディ・カルタとして正しくない選択だとしても。
「シキ、これ」
「サンディくん、なんだいこれ?」
「旅先で見つけてさ、シキに合うかなって思ったんだ」
差し出された可愛い箱を受け取ったシキが「開けてみてもいい?」と目で問うてくる。それに頷きを返したサンディは静かに――だが内心は酷くソワソワしながら彼女の挙動を見守った。
(香水を渡すって、緊張するな……)
俺の好きな香りを身に纏ってくれ、と言っているみたいだ。
箱の中身の香水は、先日ラサの香水屋で買い求めたものだ。シキを見ていて気付いた吸血衝動の発作みたいなものはどうやら血の香りに反応しているようだから、彼女が血の香りを感じないように他の香りで紛らわせられたら……と思ったのだ。
「あ、香水だ。お洒落だねぇ」
箱も可愛かったけれど、瓶も可愛い。
「気に入った?」
「そうだね、瓶がサンディくんの色みたいで」
「そう、か……?」
思わぬ言葉に、サンディは瞳を瞬かせた。店主に瓶を選んでもらったから「流石センスがいいな」くらいにしか思っていなかったが、言われてみればサンディの瞳の色だ。慕うお相手にですかとくすくすと尋ねていた店主の作意を感じられる。
「匂いはどう? 嫌じゃないだろうか?」
「試してみる」
シキが蓋を持ち上げると、ふわりと穏やかな香りがサンディの元まで届いた。
「うん、いい匂いだ」
「よかった」
香りの好みは人に依るから、サンディはホッと吐息を吐いた。
本当は『ハンカチやストールにつけて、血の香りに惑いそうになったらその香りを嗅いで』と言いたいけれど、そこまでは言わない。烙印のことを口にすると、きっと彼女は強がるだろうから。
香水の匂いを嗅ぐと周囲の香りが遠ざかるのだろう。久方ぶりの安らいだシキの表情に、サンディもまた自然と柔らかな笑みが灯る。
(――シキが心穏やかに暮らせるように)
それだけをただ、想った。