PandoraPartyProject

SS詳細

鈍色の雲から雨が降る

登場人物一覧

天香・遮那(p3n000179)
琥珀薫風
夢見 ルル家(p3p000016)
夢見大名

 見上げれば、薄鈍色の雲が張り付いている。
 陽光は遮られ、昼下がりとは思えなかった。なんとはなしに、窮屈な気がしてくる。
 どんよりとした空からは昨日からしとしとと雨が降り注いだ。
 こうも雨ばかりだと、青く広がる空が無性に恋しくなる。
 しっとりと水分を含んだ襦袢が肌に張り付いて着物が重い。長い黒髪も湿気を含んで何時もより膨れているように思う。こうなってくると身体も何処か気怠く感じるものだ。

 分厚い雲に隠れて太陽は見えないが、昼の三時を過ぎている頃だろう。
 すっと戸が引かれる音がして空模様から其方へ視線を流した。
 見遣れば美しき金糸を揺らし、盆を手にしたルル家と目が合う。
 盆の上に乗っているのは、大陸からの土産だろうか。
 甘い菓子なら嬉しいが……あの形は『マフィン』と呼ばれるものだろう。当たりだ。
 最初に食べた時は驚いたものだ。程よくしっとりとした生地と、牛の乳から作ったバターと呼ばれる油の香りが口腔内に広がった瞬間、思わず顔が綻んでしまった程なのだ。

「遮那くん……切りの良い所でお茶にしませんか?」
「おお、ルル家。私も今日は切り上げようと思っていた所だ。こうも雨が続くと客も来ぬし、書も湿気を含んで滲んでしまうのでな。ところで、その菓子は『マフィン』か?」
 椅子から立ち上がり机の前方に置かれたソファまで歩き、ふと思い立った。
 此処から眺める空よりも、どうせならもっと近くで情景を感じたい。
「今日はもう仕舞だからの、縁側で紫陽花でも見るか」
「そうですね!」
 花開くように笑顔を浮かべたルル家は盆を持ったまま縁側へと歩いた。
 しとしとと降る雨では、客も来ないだろうし、偶には彼女と語らうのも良い機会だから。
 盆を縁側の床に置いたルル家は、踵を返し座布団を取りに部屋の中へ戻ってくる。
 ちまちまと良く動く様は、小動物にも似ていて、時折無性に撫で回したくなるのだ。

 縁側に座りルル家と共に茶を啜る。
 良い香りのする緑茶は口の中でほんのりと甘さを広げた。
 縁側から迫り出した屋根の雨樋に雫が伝う。大凡の雨は雨樋を伝い流れていくが、零れ出た水滴が裏側をゆっくりと流れ次第に大きくなり、ぽたりと砂利の上に落ちた。
 もう一度落ちるのを見たくなり、じっと雨樋の裏に水滴が溜るのを待つ。
 透明の水溜まりが大きくなり我慢の限界を超えた時、呆気なくぽたり、と落ちた。
「遮那くんどうしました?」
「……いや、水滴が落ちてくるなぁと」
 振り返ればルル家が小さく首を傾げている。その向こう、縁側にほど近い場所に小さな池の縁石に蛙が一匹ぴょんと跳ねた。一旦止まって、また跳ねて。降りしきる雨を楽しむように自由に動いていた。
 暢気なものだとしばらくその蛙の動きを追いかける。
 蛙は小池の周りを跳ねたあと、すぐ傍の紫陽花の花の上に飛び乗った。
 薄紅色の紫陽花の上に小さく乗った蛙の緑色はとても鮮やかに見える。
 よくよく観察すれば紫陽花の上に雨が弾け、一所に集まりやがて地面へ落ちた。それが先程の雨樋の雫に似ているなどと思い思考を休息に移す。

 ふと、何かが聞こえてきて視線を上げれば、塀の向こうに子供達の声が響いた。
 どうやら蛙を見つけてつつき回しているらしい。先程の蛙ではない。別の蛙だ。
 子供達は何も蛙を殺したいわけではない。ただ、遊んでいるのだろう。遮那にも覚えがある。
 されど、蛙にとっては迷惑な話だ。蛙は必死にぴょんぴょんと逃げ回っているらしい。
 やいやいと追いかけ回す子供達の声が嫌に耳についた。こんな雨の中、やることも無ければ蛙ぐらいつつき回したくもなる。その気持ちは経験があるからよく分かった。
 されど視線を庭に戻せば、かたやこっちは優雅に小池を泳いでいる蛙が居る。
 なんとも皮肉なものだろうか。塀一枚でこうも運命は違うのかと心の中に靄が広がった。
 その哀れな塀の外の蛙に幼い頃の記憶が重なる。
 姉上と二人暮らしていた時のものだ。
 もし、あの時姉上が義兄上を睨み付けていなければ、拾われて居なければ。自分もあの塀の向こうの蛙だったのかもしれない。頼れる者も無く、ただひもじい思いを抱え死んでいたかもしれない。
 そう考えると、背中に悪寒が駆け抜ける。

 傍のルル家をそっと抱き寄せた。少女の身体は温かく先程までの心象が解れていくようだった。
 あのまま嫌な想像に囚われてしまえば、折角の早上がりが憂色が濃いものとなっていた。
「どうしました? 遮那くん」
「いや、何でも無い……少しだけこのままで良いか?」
 背中の翼でルル家をそっと包み込む。布越しの体温がじんわりと腕に伝わってきた。
 気の置けない相手とこうして触れあうことは安心感に繋がる。
 本来であればこのような弱音とも取れる姿を見せることは許されない。
 天香の当主としての責任は、かように重くのし掛る。誰かを導かんとする背だけを、その強き行いだけを知らしめねばならぬからだ。それが付き従ってくれる者達への報いなのだ。
 けれど、ルル家は側仕えでありながら、天香……ひいてはこの国の英雄であるのだ。
 そんな彼女が親しき者として傍に居てくれる幸福は、言葉にするのさえ難しい。

「遮那くんは温かいですね」
 ふと、ルル家がそんな事を零す。
 視線は庭の紫陽花に向けられていた。青く小さな花が寄り集まり大きな花束にも見える。
「ルル家? 何かあったのか?」
 何時もは元気なルル家の様子が、何処となく物憂げに感じた。
 この湿気である、気怠くなるのも無理は無い。身体が不調であれば心も落ち込んでしまうのは道理。
 此方に振り向こうともしないということは、何かを言わんとしているのだろう。
 さぁさぁと、雨音が強くなった。
 薄鈍色の雲が夕刻に向かうに連れて濃さを増していた。
 夜の闇とは違う、薄暗さはいっそ不気味でもある。纏わり付く湿気が急に温度を奪っていく。

「遮那くん、恋って難しいね」
 ルル家は翡翠の瞳を僅かに伏せた。その胸の内に蟠る何かを言葉にせんとしているのだろう。
「私は遮那くんが好きだけど、遮那くんが好きなのはきっと私だけじゃないよね。そういう優しいところが好きだから、誰か一人を選んで遮那くんが傷つくんなら選ばなくても良いよって思う」
 ――誰が一番好きか。
 お忍びで寄った茶屋でそんな話しを女子たちがしていたのを思い出す。
 聞き耳を立てていた訳では無いが、姦しい声は自然と耳に入ってくるものだ。
 年頃の女子はそういった恋愛の話しを好むのだろう。
 正直な所、考える余裕も無く此処まで前に進んできてしまった。
 戦いが始まり、忠継も義兄上も亡くし、失意も侭ならぬまま当主を継いだ。
 執務に追われている内に、シレンツィオへの遠征が決まり、沢山の経験を得た。
 ひとときの解放は煌めくような楽しさに溢れていたように思う。
 されど、帰国したあと、年の暮れ。灯理を亡くした。
 世界は目まぐるしく変わり、時々それに付いて行けなくなって呆けてしまいそうになることがある。
 お忍びで町に繰り出し、遊び回って、腹が減れば屋敷に帰り、満足のまま眠りにつく。そんな日を過ごしたいと思ってしまうことがあるのだ。

「でも遮那くんが誰かと愛し合ってるのを見るのは……
 今でさえ嫉妬する事があるんだから、そうなったらもっとつらいんだろうなって思っちゃう」
 誰かを選ばなくてもいい。けれど誰かと愛し合うのを見るのはつらい。
 どちらも本当の気持ちなのだとルル家は溜息を吐く。
 人というものは誰かを愛さずには居られないものなのだろう。
 茶屋で恋話をしていた女子も隣に座るルル家も。
 思い悩み苦しんでも尚、人を好きでいてしまうのだ。
 それは文武両道たらんとする精神と両立できるものなのだろうか。
 灼熱のように燃える恋を宿す事が強さとなるのだろうか。考えれば考えるほど思考は散る。
 されど、大事な事が一つだけある。
 隣に座るルル家が苦しんでいるということだ。

「私だけを愛して欲しいっていう気持ちと、みんなを愛して欲しいっていう気持ち。
 どっちも本当でどっちも本当じゃない」
「うむ……」
 思い悩んでいるのだろう。その心に寄り添うには言葉が足りないように思えた。
 どうすればルル家の求む応えが返せるだろうか。
 彼女を蔑ろにするわけには行かない。されど、己の考えも纏まらぬ内に発するのは違う気がした。
 ぽたりと雨樋から雫が砂利の上に落ちる。
 見上げれば、雲の向こうに夕暮れを僅かに映した空は胡桃染色に移っていた。
 そこに立ち上がるのは隣家の湯気だ。もうすぐ夕餉の時間なのだろう。
 此方も部屋から零れる白檀香と木の湿気た匂いの間に米の炊ける匂いが漂う。

「私はただ遮那くんとずっと一緒にいたいだけなのに。
 遮那くんと愛し合って、遮那くんの子供を産んで、二人で一緒に歳を取っていきたい。
 それだけなのに……」
 ルル家の声が雨音の中で耳朶を打つ。
 泣いているかのようなか細い声に、回した腕に力を込めた。
 何と言葉を掛ければ良いのか。謝罪だろうか、共感だろうか。どちらも違う気がする。
「ルル家……」
 名を呼んだ瞬間、彼女はそっと振り返った。
 その翡翠の瞳に涙を溜めて微笑むものだから、ぽたりと雨雫のような涙が零れる。
「――ねえ、遮那くん、恋って難しいね」

 蛙は結局、二匹そろって庭の池へ飛び込んだ。
 その蛙が壁の向こうに居た蛙かは分からないけれど。
 二人もまた、池の中へでもすっかり身を隠してしまいたい気持ちにもなっていた。
 さぁさぁと、鈍色の雲から雨が降る。
 翡翠の瞳から零れる雨が止むまでは腕の中であたためてやらねばと、優しく力を込めた。


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