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慧と百華の話~本質論~

登場人物一覧

八重 慧(p3p008813)
歪角ノ夜叉
八重 慧の関係者
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 さらさらと雨が降っていた。ここちよい湿り気と冷気。百華はぼんやり頬杖をつく。
 このところ急に暑くなった。ひとときの雨は清涼剤だ。よし、と気合を入れ直して、百華は執務へ取り掛かる。すっかり冷めたお茶をぐびり。書簡へ向き直り美しい字で返信を書いていく。

 壁の時計がぼーんと鳴った。集中していた百華は、顔をあげて時計を見やる。小さく平べったい振り子時計は、今日も正確に三時を知らせていた。 廊下を踏む音が近づいてくる、見知った気配だ。百華は戸口へ向き直り、ほんわかと笑みを浮かべた。
「けーちゃん、開けていいよ」
 ぴたりと気配が扉の前で止まり、やや逡巡したあと、床が拳で軽く打たれる。開けていいと言っているのに、臣下の礼を忘れないところが、どうにも彼らしくて、百華の笑みが深くなる。
「お仕事中失礼しやす、主さん」
 引き戸をなめらかに開け、その人が姿を表す。そういえば敷居へ蝋を引いてくれたのは、彼だったなと思い起こした。
「息抜きがてら、おやつにしませんか?」
「するする」
「酒饅頭ありますよ」
「やったー!」
 立ち上がった百華へあたたかな視線を送り、慧は一式のせたお盆を持ち直した。長い廊下を通り、座敷を抜け、縁側へ座る。山を借景に取り入れた庭へ霧雨が降っている。まるで世界へ一枚銀箔を置いたかのようだ。
「今日は庭仕事おやすみだね、けーちゃん」
「そうっすね。害虫取ったり、掃除したり枝打ったりはしますけど、山の方までは足を伸ばさないですね」
 慧は多聞家の住み込み庭師だ。イレギュラーズとして召喚されてからは方々へ出かけることも増えたが、本分は忘れていない。酒饅頭へぱくついていた百華が、隣へ控える慧を見上げる。
「害虫?」
「この時期ならカタツムリとか」
「ああ、葉をかじっちゃうんだっけ」
「そうっす」
 言われて百華は、立派な紫陽花に気づいた。そういえば昔の庭にはなかった。のびやかな緑の葉を銀のしずくを受けるかのようにひろげ、青紫の花を誇らしげにつけている。
「紫陽花、昔は庭になかったよね」
「……まあ、俺が好きな花っすからね」
 慧が不自然に顔をそむける。照れた時の癖だと、百華は知っていた。ああ、あの日は、百輪の紫陽花が咲いていた……。
 昔日を思い出し、百華は微笑みかける。
「私も好きな花だし、こうやって一緒に眺められて嬉しいよ」
「……っすか」
 ささやくような声音と共に、精悍な男のしかめつらが続く。その頬がりんごみたいに真っ赤だったから、百華はころころと笑いころげた。
「そういえば、けーちゃんがこうして私へ気軽に声をかけてくれるようになるまで、ずいぶんかかったよね。何年くらいだっけ?」
「だって主さんは主さんだし、俺はひろわれの身なんで、そりゃ、覚悟決めるまで時間かかりますよ」
「覚悟決めてたの? やーだー」
 ひとしきり笑った百華は無邪気な顔のまま慧のぶんまで饅頭をつまむ。
「私はずっと、けーちゃんが心を開いてくれるのを、待ってたよ?」
「そうなんすか?」
「うん、あんまり刺激するのも良くないかなって思って待ってた。待ちくたびれて私から話しかけようと考えだした頃、けーちゃんがおまんじゅう持ってきてくれた」
 今日みたいにさ、と百華は盆をつついた。そして、あの時は蓬饅頭だったねと、続けた。
 慧は冷めてきたお茶を温かいものへいれなおし、百華を見つめた。
「……なら、主さんは、俺のことを見守ってくれてたってことですか?」
「うん、そうなるね」
 こともなげに言う彼女に、慧は苦笑する。主さん、あなたへの印象は今も昔も変わらない。あなたは俺の太陽だ。雲間が割れて最初にさしこむ、清められた一条の光だ。
「主さんは俺の……だから」
「ん? いまなんて?」
「なんでもないっす」
 慧はしずかに笑って首を振った。
 あなたがそうだから、いつも俺を明るく照らしてくれるから、俺は俺の道を見失わずに進んでいける。あなたのその笑顔は、まっすぐな眼差しは、天衣無縫でいて、相手をしっかりと見ている接し方は、万物をあまねく照らし出す。あなたの傍らは、俺の帰るべき場所であり、聖域。大切にしたい。いつだって、主さんあなたが、俺を引っ張ってくれる。この心地いい距離感を、まだ壊したくはない。俺はあなたをお支えしたい。この身はひねくれものの紫陽花だけれど、花言葉とは縁を切りたい。俺にできる精一杯を連ねて、花束にしてあなたの部屋へそっと活けたい。いつだって、これからだって、主さん、あなたが、笑って、周りを照らしていけるように……。
 物思いへふけっていた慧のふとももを、百華がつつく。
「けーちゃん」
「なんすか」
「お茶、冷めちゃうよ?」
「あ、いただきます」
「あ、あとね、あとね」
「はい」
「おまんじゅう、もうひとつもらっていい?」
「太りますよ」
「うーん、そうだ、鍛錬しよ! 腹ごなしの運動! それなら文句ないよね?」
 慧はゆるく笑って、「はい」と答えた。


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