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星月夜も要らぬほど
登場人物一覧
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彼の様子がおかしいと気付いたのは、きっと毎日を共にしているから。
そうでなければ。仮にもしも今起こっている惨状が一年前だったのなら。気付けていたかなんて怪しい。今でこそ相棒だと知れているのに、今はこの絆が重く感じた。
それほどに彼のいる日々が当たり前になっている。それが恐ろしくもあり、嬉しくもある。当たり前になるというのは恐ろしいものだ。
「ヴェル、グリーズ、」
「大丈夫、大丈夫……おはよう、星穹」
「はい、おはようございます」
子供たちが眠った後。それが決まってヴェルグリーズの起きる時間になっていた。
太陽を拒み、瞳を爛々と輝かせるその姿はまさに怪物、吸血鬼そのもの。あの時無理やりにでも血を吸わせていなかったのならどうなっていたのだろう。あの時彼が教えてくれなかったのなら、私は。
焦燥を押し殺して平静を装い、普段通りに。そうあることでしか不安をぬぐい切れない己の弱さが憎い。
けれどその焦燥はヴェルグリーズとて例外ではない。愛おしいひとが。守りたいひとがこんなにも近くにいるのに、遠い『女王』を、月を乞い、焦がれ、胸を締め付けられるような痛みに苛まれている。
飢えとて例外ではなく、日に日に強くなるそれを押し殺したかったのに、無理やりにでもうなじを、その華奢な指を食まされてようやく渇きが収まったかのように感じていた。
失うことを極端に恐れ、きらりと輝く水晶質な己の肌を躊躇いがちに触れ、毎日目覚める度にぽろぽろと涙を零す星穹の姿と言ったら。
きっと母親を頑張ってくれているのだろう。彼女がいなかったときに父親を頑張った俺のように。けれどその負担は一人分ではなくて二人分。きっと思う通りにいかなくて不安なことのほうが多いだろうに、それを支えられない自分が憎い。
(それに、)
こうやって彼女を不安に思う気持ちは確かに胸の中にあるのに、ふとした拍子に空を、月を眺めている自分がいるのだ。それが、嫌だ。
「ごめんなさい、毎日……」
「ううん。俺が不安にさせてるのは解ってるし、それに」
「それに?」
「もう涙を流しても、キミが記憶を失わないのが、うれしいんだ」
「……もう」
ふにゃ、と。力が抜けたように微笑む彼女はどこか弱々しくて。それなのに頼もしく感じてしまうのはきっと、自分が弱いからだ。
自然と唇を重ねる。甘い。きっとかつての主達が閨でキスを繰り返していたのは、この心の渇きを満たし、どれだけ大切に思っているかを刻むためなのだろうと、最近になって解り始めた。
「食欲はありますか? ……っ、あ」
「星穹?!」
連日の疲れだろう。それから、貧血も。
華奢な身体がくらりと歪む。抱き留めた彼女の顔は白くて、それなのにヴェルグリーズばかりを気にしていて。ふとした拍子に折れてしまいそうだ、なんて遠くでぼんやりと考えた。
「ごめんなさい。食事は、しっかり取っているのですけど」
「うん。キミはちゃんと眠れている?」
「……」
「俺のことはいいから。星穹が悲しそうにしていると、空も心結も悲しむよ」
「そう、ですね」
「最近は調子がいいんだ。しばらくは血を貰わなくても大丈夫かもしれないし、だから、」
だから、俺のことは気にしないで。そう続けるつもりだった。
鼻を擽る甘い香り。血だ。
「……星穹?」
「調子がいい、なんて嘘ですよね。毎日憔悴していて、起きてくれるかも不安で。姿だってこんなにも変わってしまって」
それなのに。どうして頼ってくれないの。
白い項の瘡蓋を剥いだのだろう、細い首からわずかに血が滴り落ちる。
「今私が倒れてしまうことよりも、貴方が、ヴェルグリーズがいなくなってしまうことのほうがよっぽど、私には怖いのに」
「うん」
「私が弱いのもわかっています。だけど、だけど貴方まで居なくなってしまったら、私、どうしたらいいの」
「うん」
「ヴェルグリーズ」
「……大丈夫。星穹は上手くやってるよ。俺がいなくても。だから大丈夫。いつもありがとう」
「うん」
「だから、泣かないで。俺はキミの泣き顔に弱いんだよ、知ってるだろう? どうしたら泣き止んでくれる?」
頬を撫でて。それから眦に親指で触れて。最後に強く抱き締める。二人だけの秘密の行為。泣いてもいいのだと甘やかすのに、それなのに涙を見るのは胸が痛い。俺の前でしか泣けないのはどうしたって可愛いのだけれど。俺のせいで泣かせているのだともなれば話は違うから。
「血を、吸ってください」
「うん、解った」
項にすればよかったのに、それなのに唇を重ねてしまったのはきっと、互いの熱に飢えていたから。きっとどこかで寂しいのだと感じていたから。
唇を奪い舌を食む。鋭利な歯が舌を傷付ければ、口内に広がっている鉄錆、ヘモグロビン、それから僅かにちりつく痛み。けれど嗚呼、傷痕を抉るように蠢く舌先が、絡み合う唾液が、貪る癖に後悔の色を映す瞳が愛おしくて。
噛みつくような口付けは劣情を孕んだ恋のようで、けれど肉欲もなければただキミが欲しいという甘ったるい睦言だけを耳朶に残して。
せめて折れぬようにと力を加えていないことは解るのに、貴方に抱かれたこの躯は骨が軋む程に抱き締められたい。
せめて傷付けぬようにと遠ざけようとしていたことも解っていたのにそれでも尚深く口付ける。貴方が私に染まればいいと何処かで願っているから。
「美味しいですか?」
「うーん……まだわからないかな」
「なら、もう少し味見してもらいませんと」
どこか恥ずかしかったはずなのに、キミを知れば知るほどに恥じらいも躊躇いも消えていく。
甘美なる猛毒。甘くて、熱くて。キミは有害だったのだろうか、なんてありえないとは解っているけれど、そう思わずにはいられないほどに、キミなしのこれからを思うことが出来ない。
もう二度とぬくもりを宿すことはないだろう星穹の腕が。その義手がヴェルグリーズの手と絡みつく。左手の薬指に煌めいた指輪は約束の証。たとえ死が二人を分かつとも。キミが想い続けてくれる限り、俺の想いはキミと共に――永久に。
けれど。今この瞬間だけは、月も星も、空も心結も、女王も博士も、誰も彼も、二人を裂くことはできまい。剣と鞘は交わりひとつである状態こそが正しくて、剣と盾であるならば、互いを侵すものから互いを守り続けることが正しいのだから。
ただのおとことおんなであること。恋を知らぬまま愛へと転じてしまったけれど、きっとこの唇が紡ぐ「あいしてる」は間違いなどではなくて。
だから熱病に魘されたように、あるいは譫言のように。何度も、何度でも、あいしてると語りかける。
そこにあるのは、剣でも精霊でもなくて、盾でも鞘でもひとでもない。ただの、ヴェルグリーズというおとこと、星穹というおんなの、ひとつの在り方が。愛し方があるだけなのだから。
月を見てしまうのなら見られないように。
涙を流してしまうのなら流せないように。
唇を重ねて。何度も。何度でも。深く、深く。貴方が眠る朝日が昇るまで。キミが眠れる夜が来るまで。ずっと。ずっと。
おまけSS『キスで満たして』
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「おなかはいっぱいになりましたか?」
「うん、ありがとう。ごめんね、無理をさせてしまって」
わずかにろれつが回らない舌で星穹は語りかける。
銀の糸を伸ばした唇を拭ったヴェルグリーズは困ったように笑った。
「いいえ、いいのです。他のひとと同じことをしていたら妬けてしまいますから」
「ふふ、そっか。最近は二人はどう?」
「貴方に会えなくて寂しがっていますよ。たまに隣で昼寝をしているくらいには」
「気付かなかったなあ……」
「それから、レバーを不思議がっています。私が貧血になってしまうので作っているのですけど、まだ好き嫌いがないみたいで」
「そうなんだ。レバーは触感が面白いから、苦手にならないのは偉いね」
「会いたがっていますよ」
「え?」
「貴方に。会いたがっています」
「……そっか」
「ご飯だって一緒にしたいと言っています。最近は食べ盛りみたいで」
「でも、キスしたり項を噛んでるところを見られるのはまだ刺激が強いかなあ……」
「……これは杞憂だといいのですが。2人は私たちについた分霊であるわけで。もしこの光景を見ることができるのなら……?」
「う、うーん……教育には悪いけど、でもそうだったらもう今更な気もしちゃうね」
「というと?」
「隠れてキスしなくてもよくなるし、メリットもあるんじゃないかな」
「……はぁ、貴方というひとは!」