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甘き愛をおしえて
登場人物一覧
二つの影がゆっくりと石床を靴音を響かせた。
宵闇を歩く。しんと静まり返った街は、成程足音ですらよく目立つ。
一匹の蠅が、プンとシラスの顔面を横切った。
「へっ……臭っせーの」
シラスは悪態を吐くと、すぐ後ろを歩く少女──礼拝の顔をちらりと見た。
彼女との面識は殆どない。土地勘があるという事で自分が選ばれたという。
ある男の死体を、その男の故郷である街の墓地に埋める──それだけの依頼。
割のいい仕事でついつい引き受けてしまったが、死体の運搬の事までは考慮していなかった。
(まさか、担いでいくことになるとはなあ)
おまけに臭い。やれやれとため息を吐きたくなるが、これも仕事であると割り切ってシラスは歩みを進めていく。
「おい、そこのお前たち。止まれ」
後ろから男の声が掛けられると、シラスは小さく舌打ちした。街の衛兵だ。
衛兵の持つカンテラの炎がゆらりと揺れ、シラスと礼拝の顔を照らす。
青年とも言えぬ、まだどこか幼さを残した少年と、白磁の肌を持つ黒髪の美女。
こんな夜中に出歩くには、首を傾げる組み合わせの二人。
「背負っているものは何だ? 商人というにはどうにも若すぎる。怪しいな。中身を見せてみろ」
衛兵がそう近寄ると、ずいと礼拝が衛兵とシラスの前に割り込んだ。
「もし──そこのお方、お花は如何?」
「は……」
礼拝の目が光る。衛兵は礼拝から視線を外せない。
するりとスカートを捲り上げる礼拝に、生唾を飲み込む衛兵。
「ううっ」
(──さあ、どうぞ先を急いで)
(──了解)
僅かなアイコンタクトの合間に、シラスは夜闇へと消えていく。
──暫く歩き通し、中間の街を抜けたあたりで礼拝はいつもの歩幅でシラスと合流した。
「お待たせしました」
「……随分遅かったじゃん」
「少々強引な方でしたので、時間が掛かってしまいましたわ。さあ、参りましょうか」
どうやって振り切ったのかは聞かなかった。
長い道のりに長い沈黙。シラスは無言に耐えきれずに礼拝の方へ顔を見やる。
「そういえばアンタさあ、こいつとどういう関係だったんだ? まさか無関係って事は無いだろ」
興味は薄い。ただの暇つぶしである。
「私がお花を売っていて、その方は買って下さった。それだけですわ」
「……ったく、そうかよ。でも、何でこんな訳わからない事になってんだ?」
「生前に、そうお願いされましたので」
「あっそ。情けねえなあ。どうせこいつも、ただのロクでなしだろ」
彼女の仕事を否定している訳ではない──生きるために何だってしてきた己が棚に上げて言う事でも無いのは承知している──が、まあそういう偏見は無い訳ではない。
花売りに、死後の自分の処分を任せる。どう考えても普通ではない。
「私にとっては『興味深い』方でしたけれど……そうですね。若い頃は随分と火遊びがお好きでしたようで」
「……読めてきたぜ。色々やらかして逃げるように幻想に来たけれど、それでも最期はお家に帰りたいって所か? 笑うぜ」
しばしの沈黙。
花を買われた。それだけの関係。礼拝と男の間に情は無い。
「死んだ方との間に、守秘義務はございませんわ」
そう切り出すと、礼拝はゆっくりと語っていく。
シラスが背負う、男の死体の話。
どうしようもない男だった。
酒が好きだった、喧嘩が好きだった。女が好きだった。
色んな人間から恨みを買った。大金を盗んで、幻想へと高跳びした。シラスの読みはおおよそ正しかった。
そこである女と出会った。女も花売りだった。男は遊びだったのかもしれない。でも、女は本気になってしまった。
女との間に子を授かったと聞いた瞬間、男は逃げた。今更子供を育てる? この女と? 冗談じゃない。
女がその後、どうなったのかは分からない。
男の日常は帰ってきた。なんら恙なく、変わらない。
酒を飲んで、女と遊んで、たまに働いて、寝る。
そうしていく内、歳を重ねていって、体力が無くなった。酒の毒で手が震えるようになった。
まともに働けなくなって、酒も買えず、女も相手にしてくれなくなった。
──そして、ふらふらと夜道を歩く男の前に、ひとりの青年が立ちはだかった。
「俺はお前の息子だ。お前が逃げたせいで、母さんは病んで死んだ」
黒ずくめの青年はひどく痩せていて、ぎらぎらとした目つきを男に向けた。
「俺は暗殺組織に売られた。地獄のような日々だった。好き勝手遊んで生きてきたお前が、死ぬほど憎い」
ナイフをちらつかせる。だが覚悟していた痛みはやってこない。
「次に会ったら殺す。震えながら待っていろ。お前の絶望する顔が、楽しみだ」
──男はベッドの上で、礼拝にそう話した。
そんな状況下でも、男は礼拝の花を買ったのだ。
いや、こんな時だからこそ、なのかもしれない。
息子の忠告から三日も経っている。もはや猶予は無い。
「何故、逃げないのですか? 殺されるのが、怖くないのですか?」
ベッドの上で、礼拝はそう男の小さな背中に聞いてしまった。
礼拝の理解に及ばぬ行動だ。あまりに不合理的。
もしかしたら、今からなら逃げ切る事だって出来るかもしれないのだ。
男は、振り向きながら小さく笑った。ぎこちない笑みだ。指が震えている。それが酒のせいか、恐怖のせいか。礼拝には分からなかった。
「怖いよ。でも──俺が殺されることで、残された息子に金が入る。彼が満足してくれる」
息子に殺されるなら、それもいいのかもしれないと。
今まで好き勝手に生きてきた罰なのかもしれないと。
もしかしたら──これが『愛』なのかもしれないと。
歳を取ったから、丸くなったのかもしれないと笑う。
こんなどうしようもない俺が、きっと息子に出来る──たった一つの事なのだろう。
「なあ、君……俺が死んだら、故郷の街に還してくれないか」
──せめて最期は知っている場所で眠りたい。最後まで、我儘な男だった。
「アホくせえ……」
シラスは黙って礼拝の話を聞いて、やっと、ただ一言。ため息を吐くように呟いた。
「知る事は救いですわ。死んだ方の安息への一歩」
「はあ!? ロクでなし野郎の茶番と我儘に付き合わされてるだけじゃねえか!」
かっと熱くなる。嫉妬だった。本当に、まるで子供のような。
「シラス様、どうして怒っているのですか?」
「──怒ってねえよ!」
愛も故郷も、そして父も知らずに生きてきた少年が、追い求めても追い求めても、絶対手に入らなかったもの。
どうしてこんな奴が、最後にそんな気持ちを抱けるんだよ。
最後までクズのままで居てくれれば、きっと、きっと──。
悔しさと、むかつきと、嫉妬と。黒い感情を口から吐き出さずにはいられない。
「……私は知りたいのですわ。シラス様の感情を」
月光に照らされた礼拝の青白い顔は、おおよそヒトらしからぬ造形で、ぞっとするほどの美しさを見せた。
礼拝は人ではない。人に愛される為だけに作られた愛玩人形。
愛されないという概念を、そして嫉妬という概念を知らない。だからこそ、礼拝は人間の事をもっとを知りたいと思っていた。
「私は、人が大好きですから」
シラスはそう薄く微笑む人形の顔に、鴉の濡羽のような美しい黒髪に、僅かながら──母親の面影が重ねて見えた。
「……」
俯いてしまったシラス。礼拝が彼の顔を覗き込む。
「また、怒らせてしまいましたか?」
「……いや」
少しだけ、落ち着いた。
ふう──と息を吐くと、礼拝に頭を下げた。
「ごめん。八つ当たりだった」
「まあ。私は気にしていませんわ」
本当に気にしていないのだろう。それよりも好奇心の方が勝っているようにも見える。
「……俺、父親の顔って知らないから。悔しかったんだよ。最期までこいつが、生き汚く逃げ回るクズで居てほしかったんだ」
「……そういうものなのですね?」
興味深そうに、礼拝は目を輝かせた。
「俺の父親にも、母親にも──愛は無かったから。最後の最後で愛を与えられたその息子が……羨ましいとすら、思ったね」
その息子が、不器用な父親の愛に気付く事は二度と無いのだろうけど。
今は笑えるようになった。守りたいと思う人たちも居る。愛というものを、不器用ながらも与えられる人間になれた……と、思う。
だが、今がどれだけ救われていようと。これから先の未来に幸福が約束されていても。
親という存在から愛されなかったという記憶は、きっと最期まで忘れられないのだ。
「ふふ」
沁入:礼拝という肉人形は、ヒトを慰める事が史上の喜びである。
そして人形は、どんな人間も愛せてしまうよう作られているのだから。
ああ、でも。いつか出会えるかしら。そのような揺れる感情に。
あどけない子供の様に。礼拝は少年に視線を投げる。
私も貴方が羨ましいと思いますわ、シラス様──。
やがて二人は男の故郷の街に辿り着く。寝静まった街は静かで、子鼠一匹見当たらない。
しばらく歩くと、共同墓地が見えてきた。
シラスは背負子を下ろし、布をはがす。肉が腐った臭いに顔を顰めるシラスをよそに、礼拝は男の死体に暫し寄り添った。
礼拝はそっと皺が刻まれた手を取る。冷たくて硬い──血の通わない手。
男の顔は、もうグチャグチャでよく分からなかった。
どういう表情で、どういう心境で、彼は自分の息子に殺されたのだろう。それを知りたいとも思わないけれど──。
シラスはざわめいた心を抑えつけて、穴を掘り進める。
そして人ひとり分の穴を作り、すっかり死体を埋めてしまった後。
「さようなら。やさしいひと」
礼拝が小さく言うと、二人は連れ立って元の道を引き返す。
朝焼けが、突き立てられた墓標代わりの木の棒に影を落とした。