SS詳細
代償の音
登場人物一覧
●
息が、上がりそうなのを、宥めすかし。
脚が、止まりそうなのを、前へ進めて。
大丈夫。まだいける。心配ない。
いたくない。いたくない。いたくない。
自分に暗示をかける。
自分の心を誤魔化す。
ほら、あともう少しだから。頑張ってよ。
それまでは、頬の筋肉をあげて。口角をあげて。わらって。
どうして、暗示などかけているのか。
どうして、誤魔化してなどいるのか。
鍵を出して、手を伸ばして、ドアノブを開けて。
これを閉めたなら、今日の"私"は店じまいさ。だから、もう少し、お願い。
――パタン。
●
「それじゃあ、またね!」
シキ・ナイトアッシュ(p3p000229)はひらりと軽く手を振って友と分かれ、帰路についた。今日も軽めの依頼を難なくこなして、ほんのちょっぴり温かくなった懐は、多少の外食だって出来る程度にはある。ああでも、美味しそうな惣菜を買っても良いかもしれない。
今日の夜ご飯は何を食べようか、なんて考えながらすんと鼻を利かせたなら。ちょうどお夕飯時の帰り道は、誘惑的な匂いがいっぱいだ。
これは魚を焼く匂い。
これはシチューかなあ。
これは香辛料? それならお肉を焼いているのかも!
肌寒くなった空気の中、足取り軽く。一呼吸の度に変わる匂いに面白おかしいと言わんばかり、くすくすと笑って。惣菜店に寄ったなら吟味しつつも急ぐように決める。
「うぅ、さむいさむい! そろそろ暖かくしないといけないね」
ひゅうと吹いた冷たい風が足や首、頬を撫でていく。早くしないと氷漬けにでもなってしまいそう。
買った惣菜を手にシキが家まで辿り着けば――ほらやっぱり。悴んだ指先では思うように鍵も拾えない。ポケットの中で手を開いて握って、血行を良くした後に改めて鍵を取り出す。
家主が帰ってくるまで動くことのなかった空気はひんやりとしていて。ふるりと震えたシキは灯りをともすと玄関扉を閉める。
――パタン。
表情を掻き消したシキ。買ってきた惣菜をテーブルに置き、ベッドへ倒れ込むように寝転がると、仰向けになる。ともしたばかりの灯りが眩しくて、目元を腕で覆って。そして細く、けれど深く、息を吐き出した。
キ、キ、キ。よくよく耳を澄ませたなら、僅かに、微かに――それこそ静寂の中で耳を澄ませてやっと、聞こえるか聞こえないかという程度で――高めの音が響いている。発信源は、シキだ。
いつからだったっけ。いつの間にか。気のせいだと思っていた、のに。
貴石病という、貴石の民のみが罹る病がある。
それは感染病ではなく、貴石の民であったなら誰でも罹患する可能性がある、死の宣告。
どうしようもなく、進行を止めることも難しいのは、戦闘民族であるが故なのだろうが。
「――……」
目元を覆っていたら、眠ってしまっていたらしい。ゆっくりと横になり、腕を目元から離すと灯りの光が目に沁みる。テーブルに置かれた惣菜は、すっかり冷めてしまっただろう。
立ち上がった彼女はそのテーブルを素通りして、クローゼットの前へ。食欲はなかった。着替えることも億劫でそのままだったから、せめて楽な格好へ着替えたい。
いつもの部屋着を手に取って、緩慢な動作で服を脱ぐ。そして徐に肌着を持ち上げれば――アクアマリンが煌めいた。
脇腹を覆うような宝石の塊は、覆っているわけではなく。また装飾ですらなく。
キ、キ、キ。アクアマリンから音がする。それが侵食して、皮膚を硬質化させていく音。
(……キミも、痛いのかな)
思い浮かぶのは、ガーネットの彼。大切で仕方ない弟。シキが、その手に握った処刑剣で殺したはずの同族。
どうして生きているのかはわからなかったが、生きていることはシキにとって喜ばしいことだった。貴石病に彼が罹っているのだと気づいても、それは変わらない。
彼は今どこにいるのだろう。知っていたら、この胸の内を吐露できるだろうか。否、吐露できるとしたら彼だけなのだ。
(――怖い)
戦いの最中でもないのに、生まれて初めて死ぬことを恐れている。処刑人であった時は、むしろ早くこの時が来て欲しいとさえ思っていたはずなのに。
この世界に来て、様々な人との出会いがあった。大切なものを見つけた。振るう得物は処すためだけのそれから、守るための力へ変わり。……昔に戻ることなど出来るわけもないのだ。
自分の体を抱きしめれば、震えていて。けれど今、シキに縋れるよすがはない。縋れるわけがない。言えるわけがない。悲しませたくなんて、ない。
バレないように、笑顔であれと暗示をかける。
まだずっと皆と一緒にいるのだと、恐れる心を誤魔化している。
――いつまで?
心の中で
だから。
(ずっとだ。私が耐えられるまで、ずっと、誤魔化し続けるんだ)
言い聞かせるように、こたえをかえす。
部屋着に着替えて、薄ぼんやりと明るいカーテンを少しばかり開けたなら。空に浮かんだ月が窓越しにシキを照らしている。先程はだいぶ眠っていたようで、じきに夜が開けそうだった。
地平線の縁が淡い色に。紫色に。やがて曙の赤に。
(……ザクロみたいだ)
どこかへ消えてしまった弟の色合いを思い出して、シキは目を細める。彼はどこにいるのだろう。ちゃんと眠れているだろうか。ご飯は。危ないことをしていないだろうか。十分に強いことは知っているはずなのに、それでも心配してしまうのは弟だからだろう。
それに――彼の方が、より病は進行している筈。このままの生活では、確実にシキより早く命を落とす。命を危険に晒す分だけ、命をかける分だけ、貴石の民は寿命を縮めていくのだから。
「……ザクロ。死ぬのは、怖くない?」
応えは返ってこない。わかりきったことを知りながら、それでも呟かずにはいられない。
私は怖くなかった筈だった。でもね、ザクロ。今は怖い。怖くて仕方がない。一緒にいたら、こんな弱音も吐けたかもしれないのにね。
弟の手は取れない。それでも一緒にいることを考えてしまうなんて、あまりにも都合が良いとシキは力無く笑う。そしてカーテンを閉めると、再びベッドに寝転がった。
今度こそちゃんと寝よう。少しでも気力を回復させなくては。だから多少の寝坊くらいは許してほしい。
目が覚めて、あの扉を出たならば――また"いつものシキ・ナイトアッシュ"でいなくてはいけないから。