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52Hzの呼び声に
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絶海拳――
その使い手をフェルディン・T・レオンハートはよく知っている。あの美しいオルカの娘が得手とする波濤魔術より旧き海に棲まう者の武術である。
可能な限り水の抵抗を受けぬようにと武器や衣服には厳しい制限が設けられ、無手平服こそが理想とされたその武術をフェルディンは学びたいと朗々と告げた。
彼が立っているのはコン=モスカ島に存在する領主の屋敷である。近海、果ては絶望と呼ばれていた静寂をも望むことの出来る大窓の存在する客間でフェルディンの決意に耳を傾けていたのはコン=モスカの祭司長にして、オルカの娘、クレマァダ=コン=モスカその人だ。
「……絶海拳を?」
クレマァダの眉がぴくりと動いた。戦いともなればフェルディンは重厚な騎士鎧に身を包む。騎士である青年は両手で剣を振るい果敢に戦う剣士ではないか。
「はい」
「必要なかろうに」
「……いえ。貴女に教わりたいのです」
フェルディンとて分かって居た。実際にこの技術を使うときが来るのかは分からない。だからといって、学ぶ事そのものは決して無駄ではないはずだ。
凜と言い放つフェルディンを真っ直ぐに見詰めていたクレマァダは頬杖を付いてから目を伏せった。長い睫が影を落とし、考え込むように指先がテーブルを叩く。
海と共に生き、絶海の守護者である
「口実ではなかろうな? 我の指導は厳しい。それに、お主が『得られるか』も分からぬ技術じゃ」
「それでもです。灯台髄何時の絶海拳の使い手である貴女に是非とも鍛錬を付けていただきたい」
クレマァダは了承した。無論、騎士としてこれまで培ってきた経験があるフェルディンの飲み込み早く。日々、クレマァダの手解きを受けていれば練度は日に日に向上していく。
だが、それはあくまでも体術としてである。波濤に心を寄せ、波濤こそを操る波濤魔術を駆使するまでは及ばない。
絶海拳は波を物理的に捉える――
波濤魔術にも通じる、この"波"という概念を、フェルディンは未だ掴めずに居たのだ。
「随分と様にはなってきた」
その日、クレマァダが告げた言葉にフェルディンははっと顔を上げた。指導することはもう無いとでも言うかのような言葉でる。
クレマァダが教えてくれる絶海拳に通ずる体術は会得できたはずだ。だが、見様見真似の体術を『絶海拳』と呼ぶ事は出来まい。
核心に至れず、苦しい思いをするフェルディンにクレマァダはこれ以上は『只の体術としての教え』でしかないと告げたのだ。
匙を投げられた訳ではない。これまで厳しくも体術として会得できるまで繰り返し教授してくれていたのだ。
「……しかし、これでは只の型でしかないでしょう」
「うむ。まだお主は波を掴めておらん。体術の型でしかないのは確かじゃ――だが、一朝一夕で掴めるものでもなかろう」
真摯にフェルディンを見詰める金色の眸。美しく聡明なるその人の意志の強い瞳に射貫かれてフェルディンは息を呑んだ。
「ですが――」
「焦ることはなかろうに」
良く出来ている、と。言葉にせずとも彼女が認めてくれていることは分かる。
彼女が自信のために考えてくれた訓練メニューも、その間、時間を共有し合えた喜びも確かなものだ。
元はと言えば建前だっただろう――? 多忙であった祭司長の傍に参じていたいと、ただの其れだけだったではないか。もう良いと言われたのだから立派に学びを得られたはずだ。
分かりながらも、フェルディンは歯痒さを隠せずに居た。波濤の魔術を彼女の友人は、かたわれの『贋作』として模倣したと聞いている。あの、凜とした紫苑の髪の乙女が見事に絶海拳さえも会得したそうだ。
「いいえ、確りと会得しておきたいのです。そうで無くては、絶海の祭祀の騎士は務まりません」
「――、……好きにするが良い」
ふいと視線を逸らしたクレマァダの胸中の思いたるや。フェルディンは頬を掻き、困らせてしまっただろうかと彼女の背を眺めているが当のクレマァダはその真白の頬に花が咲くように朱色が差し込んだことを隠す事にのみ精一杯だった。
ただ、ただ、只管に――
「突然失礼致します。おひい様」
「ッッ――な、何じゃ、いきなり!」
優美な姿勢を崩さずに、それでいて急ぎ脚でやって来たのは侍女長メリンガァタ。彼女が告げたのは、オパール・ネラ本島付近に巨大な狂王種が現れたという現場の状況。
領海に姿を現した巨大な鯨は何事かを歌いながら漁師達の船舶を攻撃しているらしい。慌てて迎撃の姿勢を整えた漁船は傾ぎ、今にも転覆の危険があるという。
「仕方有るまいな。フェルディン、討伐に行くぞ」
「承知しました。……直ぐにでも撃破しましょう」
メリンガァタに目配せすれば直ぐにでも出陣の準備を整えてくれる。忙しない準備にはなったが、二人は現場に赴き――その鯨を見た。
美しいそれは歌っている。耳にし、クレマァダの唇が震える。あれは、何時のことだっただろうか。オパール・ネラに姿を見せたあの鯨のことを思い出す。
孤独な響き。その姿と声に重なったのは
――届かぬ声は、本当に竜神へ奉ずるだけのものだったのでしょうか? お母様は本当に病で亡くなられたのでふか?
あの日、父はなんと口にしていたか。シレンツィオを騒がせるその最中にクレマァダは出会っていた。
フェルディンの剣は鯨を受け流す。巨躯たるそれは獣と呼んでも大差は無い。大口を開けば、底なしの渦のように水を吸い込み腹へと落とす。
「ッ、強いな……」
まだ会得仕切らぬ体術であれど、絶海拳は水を司り、波を物理として捉える武術。鯨の放つ攻撃を何とか受け止めることは出来よう。
クレマァダも同じだとフェルディンは視線を送るが、どうにも彼女の動きは鈍い。重石でも付けられているかのような鈍さで鯨の一撃を流す。
「クレマァダさん……?」
響く、鯨の声にクレマァダの唇が「お母様」と動いた。母上、父上と呼ぶには少し背伸びをしすぎたような、まだ少女の儘の祭司長は引き攣った声を漏す。
――不遜ね。どうしてそこまで抗えるのかしら。大義は此方にあるのに。
クレマァダが目にしたその女は幼き日に甘えた母のかんばせであった。だが、纏う気配は違う。その母が目の前の敵に重なって仕方が無いのだ。
リモーネと名乗ったあの女が『お母様』を――
「クレマァダさん――!」
呼ぶフェルディンにクレマァダは息を呑んだ。眼前に広がったのは黒き大渦、あの日見た
不覚を取った、とクレマァダが後退するがそれでも間に合わない。海水を平らげるかのようにオパール=ネラの海域を吸い込まんと大口開いた鯨の口腔にクレマァダの身体が滑り込む。
「クレマァダさん!」
返答はない。畜生と、全てをかなぐり捨てるように青年は呻いた。自分がもっと強ければ彼女が獣の腹の中になど流されていくことはなかったのか。
力の儘に剣を振り下ろす。レプンカムイはコン=モスカの加護を有する。それでも尚、十全ではない使い手の切っ先は狂王種の腹を引き裂くことも出来まい。
巨大すぎる。諦めるか――否!
青年は何度も何度も剣を振り下ろした。力任せに叩きつける。蒼き刀身に閉じ込められた波濤魔術が揺らいでいる。美しいその色彩、まるで
「クレマァダさんッ……!」
焦燥ばかりが胸に過った。救うことが出来ない絶望に、脳裏に過った最悪が青年の剣を鈍らせる。
「ッ、……」
我武者羅なだけでは、何も体現することなど出来なかった。習ったはずの体術も最早ちぐはぐな形になる。不格好すぎるその一撃では狂王種の腹を裂くどころか傷一つ付けられない。
「くそ」
冷静になれと何度も繰り返す。騎士である己はどうやって刃を振り下ろした? その刃に込めるべきは何か。
すう、と息を吐いて、吸って――そうしてから、青年は思い返す。
青年の剣技に宿る力の本質は『感情』――それをエネルギーとして剣に宿らせることでフェルディンの剣はより研ぎ澄まされる。
今まではレオンハートの王子としての責務がその剣を振り下ろさせていた。
何時の日か、国を護るべく帰る為に帰り道を探し、戦い続けてきた。それだけの感情ではまだ足りない。
この身に滾った狂おしき感情は?
そう、違うだろう。フェルディン。
疾うの昔から、自分の心の中には彼女がいて。最早、元の世界への帰還の天秤の上には乗せてなどいないだろう。
――あの方は、真実ひとりきりとなってしまわれました。
まるで独りぼっちの鯨のように、孤独に笑っている彼女。我慢ばかりを強いてきた愛おしいあの人は、今は暗い水底で死を待とうとしているのか。
その様な事を許してなるものか。彼女の姉は、彼女の弱さも連れて行ってしまった。本来の彼女はか弱く、一人では立っていられないような人だっただろう。
萎れた昆布だと人を称し、恐怖と不吉から遠ざけるように自らを盾にする心優しくて、弱いひと。『可愛く』、凜とした美しい一匹の鯨。
彼女の弱さは52ヘルツの歌声のように、誰にも聞こえることなく深海に隠れてしまった。
「……クレマァダさん」
いいや、違う。己がその声を聞き取れば良いのだ。愛おしい、あの人の足枷になって共に生きて行く為に。
肺を満たした酸素を底が付くまで吐出した。僅かな身震いが青年の身を包み込む。握る剣に巡った波濤魔術は、確かな一点に共鳴していた。
――……ディン。
聞こえる。耳を澄ませば、微かに。
――フェル、ディン。
彼女の声だ。潮の流れに乗って
波を、青年は捉える。
波濤魔術や絶海拳の理を以って正しく捉え、操り、撃ち出す事で、より研ぎ澄まされた剣技となったか。
クレマァダは確かに見た。それは『絶海』の一族が、コン=モスカが、会得し体現する波濤の術。
体術ではない。剣技としてフェルディンは見事、それを会得して見せたのだ。
――絶海剣。
彼の波が、狂王種の身を引き裂き、自身の元へと光を射した。
美しく、そして狂おしいほどの波。己の軀を包み込み、強い力で腕を掴んで光の中へと連れ出してくれる。
のたうち回る狂王種に届いた波は、全てを洗い流すように痛烈で、クレマァダの耳には痛々しいほどの響きとなって聞こえていた。
フェルディンはそっとクレマァダを抱き締めた。「ご無事ですか」と囁いて、生きていることを確かめるために、何が何でも構うことなど出来なかった。
心臓が血液を押し出し、呼吸をするように上下する胸。ゆっくりと己の身体を押す指先に生を実感してフェルディンは息をついた。
「……遅かったではないか」
それが強がりである事なんて、疾うに知っている。
触れていたことを咎めるように胸を押した掌にフェルディンは「つい」と肩を竦めた。
触れることさえ戸惑うような、関係だった。どうしようもない程に指先が縺れて、戸惑うばかりであったのに。踏み出せばこんなにも近い。
「……お迎えが遅れました」
「構わぬ。じゃが、波は掴めたのかの?」
問い掛けたクレマァダにフェルディンは緩やかに頷いた。滅海竜の動きを模した象形拳を剣技へと昇華した青年は確かに絶海の主の力をその身に宿したのだろう。
クレマァダが信仰した絶望は静寂の波へと変わった。
しかし、水底で待ち受けているあの孤独な波の気配に抗わねばならない。
クレマァダは共に海を歩むことになる青年を一瞥する。
共に来て欲しいと願えば彼は何時だって己の手を取ってくれるはずだ。
本当は、恐ろしい。
――
けれど、魅入られてしまった者を淘汰するのもまた、