SS詳細
あうとらいん
登場人物一覧
●
「何時こうなったのかはもう覚えていないけれど、ある時、この世界は死んだんだ」
色のつかない風景。黒い横道で、適当な黒い箱に腰を掛け、誰も居ない黒い大通りを眺めながら、襤褸を纏った怪物の言葉を聞いている。
「何もかもが黒くなった。明るさは失われ、陰鬱が心を染めて、誰も笑わなくなった」
楽しいと思うことがなくなった。嬉しいと感じることがなくなった。生きていることがつまらなくなった。生きていることが辛くなった。だから、誰かが自分で死のうとし始めるまで、そんなに時間はかからなかった。
「だけど誰も死ねなかった。どれだけ飢えても、どれだけ乾いても、どれだけ辛くても、どれだけ傷ついても、首を絞めても、血を流しても、潰れてひしゃげてばらばらになっても、死ねなかった」
誰も死ぬことができなくなった。命は失われなくなった。同時に、病は治らなくなった。傷は塞がらなくなった。憂鬱は明けなくなった。痛みは引かなくなった。苦しみは終わらなくなった。
「狂うことができなくなった。意識を手放すことができなくなった」
重い重い荷物が落ちてきて、それで頭が平たく潰されて、脳みそが原型を留めなくなって、話すことも動くこともできなくなって。それだけのことになっても、死ぬことが出来ない。意識を手放すことが出来ない。痛みが引かない。狂うことが出来ない。
頭が潰れ、脳みそが原型を留めなくなり、話すことができなくなったものとして、そこに残り続ける。
心臓は動いている。脈は打っている。生命活動は続き、神経だけが悲鳴を上げ続ける。
その内、誰もが身を寄せ合うようになった。自分ひとりだけでいることが何よりも恐ろしくなった。たったひとりで終われぬまま何年も何十年も何百年も何千年も苦しみ続けるという未来が恐ろしくてたまらなくなった。
「だから、誰もをひとつにすることにした。ひとつになれば寂しくはない。ひとつになれば恐ろしくはない。ひとつになれば、ひとりじゃあない」
だから――――。
「なら、貴方はどうなるの?」
ハッとした顔で、怪物がこちらを向く。痩せ細り、骨と皮だけの巨人であるかのような怪物。しかし、その頬にはずっと涙の痕があった。
この人はひとりだ。誰も彼もを受け入れる代わりに、たったひとりになった。誰も彼もの最後の恐怖を取り除くためだけに、たったひとりになった。
この人の苦しみを想像することは出来ない。陰鬱の中で狂うことも許されぬまま、夜に眠ることすら許されぬまま、近しい人も遥か遠い人も食べることにしたのだろう。この人も、ひとりであることは恐ろしいはずなのだ。だけどそれを選び、真っ暗な世界でひとり、終わらない苦痛を抱え続けている。
「嗚呼……嗚呼……寂しい。辛い。痛い。恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい」
堰を切ったように漏れる悲鳴。誰にも聞かれることがなかったはずのそれを受けて、思わずその背を撫でてやった。
「嗚呼ッ……嗚呼ッ……」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
それ以外に掛ける言葉が見つからなくて、それを繰り返しながら大きな背を撫で続けた。
「だいじょうぶ、これからは私も――」
●
「昼食はどうしようか?」
山の緑も赤や黄色に変わり始めた頃、薄地の上着では少々の肌寒さを感じつつ、口にしたのはそんな何でも無い言葉だった。
隣に立つアレクシアの反応を待つが、何も帰ってこない。何か考え事をしているような、心ここにあらずといった雰囲気はなく、まるで自分の言葉を言葉だと認識できていないかのようだった。
「……アレクシア?」
「えっ、あっ、な、なぁに、シラスくん?」
最近の彼女は、このような様子を見せることが度々あった。声をかけても反応がない。または話しかけられていると受け取っていない。何時からかと言われれば、はっきりとした心当たりがある。
黒い道。黒い空。黒い場所。わけの分からぬ場所に迷い込み、襤褸をまとった怪物に追いかけ回されたことは今も鮮明に覚えている。
命からがら逃げ出して、ギルドにはそんな不可解な事象に巻きこまれたことをしっかりと報告して、それで終わり。自分はそういう風に割り切っていた。
だがそれからだ。アレクシアの様子がおかしくなったのは。時々、自分の言葉が届いていない。いいや、誰の言葉も理解できていないように見える時がある。正面を向いて話していたのに、会話の流れが急に途切れてしまうのだ。そういう時、まるで彼女は次の言葉を待っているかのように首を傾げてしまう。
そしてその頻度は段々と増えていくばかりだ。
流石に気になって、事象解決の進捗はどうなっているのかとギルドにも尋ねてみたのだが、どうやら思わしくはないようだった。
事件は解決していない。あの怪物は今も生きている。今も人を食らっている。そのことがアレクシアに悪影響を与えているのではないか。シラスはそう考えるようにまでなっていた。
「そろそろ、腹が減っただろ? 昼食、どうしようかって」
「あ、うん。そうだね、じゃあ――」
彼女の返事が不自然に中断される。気になって顔を上げてみると、そこにアレクシアの姿は影も形も見当たらなかった。
「――――――は?」
突然のことに思考がフリーズする。そうしている間にも世界はどんどん色彩を失い、黒く黒くなっていく。昼間であったはずが空さえも黒く染まり、周囲が陰鬱なものに閉ざされた頃、シラスの脳はようやく再稼働し、現状に悪態をついた。
「くそっ、またか!」
この現象は知っている。あの怪物がいる世界に引き込まれたのだ。帰り方は同じ場所に立つこと。つまりここから動かなければ自然と帰ることができるだろう。
しかしそれはできない。アレクシアの姿を見失ったままなのだ。彼女はこの世界のどこかにいるだろう。そう思えば、彼女を置いて自分ひとりが帰ることなど到底出来なかった。
「頼むから、無事で居てくれよ!?」
シラスはどちらに向かえば良いかもわからぬまま、とにかく思いついた方向へと走り出した。
●
怪物が隣りに座っていて、アレクシアはその背を撫で続けていた。
小さな子供のように泣きじゃくっていたものだが、溜め込んでいたものを吐き出して、少しは落ち着いたらしい。
それでこの人が救われたわけではないのだが。抱えた苦しみは終わらない。安らぎは永遠に訪れない。恐ろしさに泣き叫びたいのをずっと我慢して、自分以外の全員の最後の恐怖を取り除こうとした人。
優しい彼が他の皆と同じ様に抱えている恐怖を、ひとりで終わらない苦痛を味わい続けるのではないかという恐怖を、少しでも和らげてあげたいと思ったのはいけないことだろうか。
この場所で、少しでも長く一緒に居てあげたいと思ったことを、彼は怒るだろうか。
膝を抱え、軽く俯いた。自分は恐怖心を抱いていないと言うならば、それは嘘になる。暗い世界。黒い世界。死んだ世界。終われない世界。
ずっと陰鬱を、苦痛を、正常を抱えて生きていかなければならない。それはとても恐ろしい。とてもとても悍ましい。だが今目の前のこの人がそれをひとりで浴び続けるのだと思うと、見捨てるなんて選択肢は取れなかった。
嗚呼だから、きっと自分の為に起こってくれる君。自分の為に懸命になってくれる君。どうか貴方のことを優先して欲しい。見つからぬ自分のことを諦めて、どうか無事、あの世界に帰って欲しい。
指先が震えている。顎に篭めた力を抜けば、震えてしまって奥歯が鳴るだろう。自分で選んだことなのに、心が叫んでいる。この人と共にいるならば、私もいつかはひとりで――。
「怖いよう……」
聞かせてはならない。押し込めていなければならない。それでも消え入るような声が漏れた。その時だ。
「――――!!!」
何者かに抱きかかえられた。いいや、何者かだなんて言い方のあるものか。こんな時に来てくれたのだ。彼以外の誰だと言うのだろう。
「シラスくん!!」
自分を奪い、背に庇い、怪物を睨みつけるシラス。
「――――!!」
何かを叫んでいる。それはきっと自分のことを思う言葉であるのだろう。しかしもう、彼が何を言っているのかまるで聞き取ることが出来ない。
その事実が自分の胸を更に締め付けた。もう遅い。もう遅いのだ。私はこちらの世界に十二分に引き込まれてしまった。彼の言葉がもうどれひとつとして理解できないのだから。
シラスを説得することは不可能だろう。もはや自分の言葉は怪物と同じものになっているはずだ。自分の言葉はもう、シラスに届くことはない。
だから、叫ぶ彼の前に歩み立った。自分の意志を示すように。もうこちら側なのだと教えるように。
「――――?」
きっとそれは自分の名前。親愛の感情を持って紡がれた優しい声。でも今は、衣を裂くようなノイズに聞こえる。
「シラスくん」
彼がぎょっとした顔をする。自分の言葉は彼になんと聞こえたのだろう。もうわからない。だけどそれは、彼がまだ向こうの世界に帰れるということだ。
だから構わないで欲しい。君までこの世界に留まることはない。首を横に振る。彼は何かを叫んでいる。頬を何かが伝う。目尻から溢れてくるものを止められない。
彼が私の手を掴んで引く。それはなんとも弱々しく、それでも懸命な彼の手を振り払おうとした時――背中を押された。
「――――え?」
「アレクシア!!!」
シラスが自分の体を抱えて走り出す。逃げろ逃げろと、元の世界に帰るのだと。
怪物と自分の距離が開いていく。自分の背中を押したのは間違いなくあの人だ。どうして。彼はあんなにもひとりでいることを恐れていたのに。
嗚呼、嗚呼、なんて優しい人。わかってしまった。彼の言葉を聞いたから、理解できてしまった。あの人はまたあの人自身を犠牲にして、自分のことも救おうというのだ。温かい世界があるのなら、帰るべきだと言ってくれたのだ。
叫ぼうとして、彼の名前も知らないことに気がついた。最後にどうしてもそれが知りたくて、大声で尋ねてみたのだが、
「あくうるむしにしましょうぞ」
怪物の言葉は、理解できるものではなくなっていた。
●
どこをどうやって戻ってきたのだろう。
気がつけば辺りは色を取り戻していた。
「戻ってきた……? あ、そうだ! アレクシア!!」
抱えて帰ってきた彼女を下ろし、その肩を掴む。
さっき、アレクシアが何を言っているのかまるでわからなかった。それどころか、まるであの怪物と同じ言葉を喋っているように聞こえたのだ。
「俺の言っていることがわかる?」
怖い。怖い。彼女があの怪物のようになってしまったらと思うと怖い。彼女が自分から遠く離れてしまったらと思うと怖い。だから呆然とした表情の彼女を呼び続けるのだ。どうか、戻ってきてほしいと願いを込めて。
「し、シラスくん。あの、ちょっと痛い」
「あ、あ……ご、ごめん!!」
慌てて彼女の身体を放す。焦りのあまり力を入れすぎてしまったようだ。なんてことを。
しかし会話が成立していることに気づいて後悔の念は吹き飛んでしまった。今彼女は、確かに自分の名前を呼んだ。そのはずだ。
「あ、アレクシア……?」
「シラスくん……あの、私の言葉、伝わってる?」
間違いない。彼女は自分の名前を呼んでいる。彼女はこちらに戻ってこれたのだ。彼女を取り戻すことが出来たのだ。
「うん、うん、伝わってる。わかる。わかるよ!!」
感極まって抱きしめる。今度は力を入れすぎないようにしながら。
「し、シラスくん? あの、ちょっとっ」
照れたような、気恥ずかしいような、そんな声音でアレクシアが言う。だけど一番の恐怖が取り除かれた安堵が胸の内を埋め尽くしていて、しばらくこの抱擁を解く気にはなれなかった。
●
時刻は深夜。虫の音さえも鳴りを潜めた頃。
男は廃屋の塀に背中を預け、地面に座り込んで自分なりの晩餐にありついていた。
誰かの食い差し、食える野草。日雇いの仕事にありつけなかったわけではないが、それで得た金は全て大事に抱えたボトルに変わっている。
その瓶を傾けた。
じゃぶじゃぶと注がれたそれは自分の喉を焼いて、身体を中から温めてくれる。
生きていくのは難しい。どん底にまで落ちてしまえば、這い上がるのは不可能に近い。
だから酒がないと生きていけない。
アルコールが自分の脳を溶かしてくれる。
嫌な現実から目を背けさせ、暗い気持ちを誤魔化してくれる。
しかし今日はどうやら、些か酔い過ぎたようだ。
自分の気持ちを代弁しているかのように、空が真っ黒ではないか。
先程まで見えていた星も何処かに行ってしまった。曇っているわけでもないのに、空はどこまでも暗黒が広がっている。
しかし、街灯も消えているのに意外とよく見えるものだ。ついぞ明かりなんてものに金を払ったことがないので、何時の間にか夜目を得ていたのだろうか。
この特技を生かして何か金を……駄目だ。普段から使っていない、それも酒でぼやけた頭ではどうにも良いアイデアなど出てくる筈がなかった。
朝が来て、酔いが冷めたらシラスでも探してみよう。あいつはこんな自分よりよっぽど頭が回る。あいつなら、こんな特技の使い道を示してくれるかもしれない。
しかし本当に暗いな。暗いというより、これではもう黒い。気のせいか、持たれている壁や地面まで真っ黒に見える。
その時だ。
奥から何かが近づいてきた。
警邏かとも思ったが、こんな時間に来るわけがない。それに、ああいう連中は型にはまった動きをしていて、こんなものを引きずるような音をさせたりはしない。
「あくうるむしにしましょうぞ」
「え、なんだって?」
そいつが何かを言ったようだが、上手く聞き取れなかった。姿はまだ見えないが、いいさ。こんな真夜中にこんな場所で。お仲間に違いない。何か良いツマミでも持っていないだろうか。そうしたら、一口くらいはこの命の水をわけてやってもいい。
「あくうるむしにしましょうぞ」
「ええ、なんだって? ちゃんと言えよ、ったく」
引きずる音が近づいてくる。
それがようやく見えるところまでやってきたので、顔を拝むことが出来た。
本当に、酔いすぎだ。お仲間がこんなにもでかい奴に見えてるっていうんだから。
「よう、なんかツマミ持ってねえか? そしたらよ――」
「やあやあ、ひとつになろう」