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黒の荒野にただ1人。或いは、綴られない物語…。
登場人物一覧
●前略、貴方へ
鉄帝国ヴィーザル地方。
冷たい雨の降りしきる、夏の午後のことである。
畳敷きの一室に座し、書机に向き合う女が1人。濡れたような黒髪をした彼女の名前は咲花・百合子。
片手には墨に浸した細筆を持ち、目の前の紙へまっすぐ視線を向けている。
けれど、どういうわけか、百合子の筆は進んでいない。
たったの1文字さえも書けないままに刻刻、時間だけが過ぎていく。
どこか憂いを秘めた横顔。
身に纏う凛とした空気。
座る百合子の姿は時に“牡丹”の花にも例えられる。
けれど、今日に限っては百合子の纏う覇気は、普段より幾分かだけ“しおらしい”。
はぁ、と重い溜め息を零す。
頬に落ちたひと房の髪を、白魚のような指先でそっと払う。
「駄目だな」
ポツリ、と。
知らず、意図せず零されたその一言に気付いて、百合子は自嘲するかのように唇を歪めた。
駄目だ、などと口にしたのは一体いつ以来だっただろうか。
壊すばかりの人生だった。
血と肉に塗れ、岩も鉄も砕き割り、それでもなお真白い己の拳を見下ろし、何度目かの溜め息を零した。
ことの起こりは年の初めのころのこと。
物語を書く事に挑戦する……と、約束した日の記憶は今も鮮明だ。
それから数ヵ月。
暇を見ては書斎に籠り、白い紙を目の前に広げ、細筆を手に取って来た。まったく、己の手がこれほどに鈍いとは思わなかった。
殴打であれば、瞬きの間に数十も放って見せるのだが……文字を綴るとなれば急に動かない。
それでも、少し前までは遅々としたペエスでありながらも、物語を綴っていたはずだ。
物語を紡ぐ過程で、急に筆が止まる瞬間というのは誰にでも訪れる。俗にスランプと呼ばれる現象ではあるが、ならば今の百合子の身に降りかかっているのもそれではないか。
なるほど、確かに此れをスランプと言うならきっとそうなのだろう。
1日か、1週間か、ひと月か……それとも1年ほども続くものだろうか。スランプがいつ明けるかなど、当人でさえ知り得ない。
そもそも、スランプを明けて……それから、どうするのか。
まただ。
また、思考が行き詰まる。
明かりの無い暗闇に、道さえも無い黒の荒野にポツンと1人、佇むような感覚にゾクリと背筋に怖気が走る。
紡いだ物語を、誰に見せるというのだろうか。
読んでくれるはずだった、青い髪の魔術師に己は拒絶されたのだ。
そう思えば、胸の奥がじくりと痛んだ。
心臓を握りつぶされるかのような痛みに、ギリと奥歯を噛み締め耐える。
「この心臓を潰してしまえば、働きの悪い脳を頭蓋から取り出せば、少しはすっきりするだろうか」
なんて。
そう呟いて、くすりと笑う。
そんな真似をしてしまえば、いかに百合子と言えど命を失うだろう。それで生きて居られる者など、それこそ件の魔術師ぐらいしかいない。
空が暗い。
時刻は夕と夜の境。結局、1文字も進まないまま今日という日も終わろうとしている。
「いつの間にか雨が止んでいるな。あぁ、気づかなかった」
そう言って、百合子は筆を硯に置いた。
それから襖へ視線を向けると、ふぅと吐息を吐き出して……。
「盗み見とは不届きな輩よ。姿を見せぬか」
静かな、けれど強い怒気と殺気を込めた言葉を放つ。
ピリ、と空気が震えた気がした。
否、事実として百合子の怒気と殺気によって、世界は確かに震撼したのだ。余談となるが、この瞬間に、世界の果ての海で小規模な嵐が1つ生まれたらしい。
ズズ、と襖が横へ滑った。
襖の端にかかっているのは、都合15の指である。
「ほぉ? 珍奇な形をしておるな」
開いた襖の先に居たのは、6本腕に蟲の翅を備えた可憐な少女である。
人ではない。
そして“良い”存在でも無いことは明らか。
けれど、不思議と敵意を感じることは無い。否、それどころか奇怪な少女から向けられているのは、ある種の好意でさえあった。
「はじめまして! 私の名前はドゥファイス!」
鈴のなるような声で、歌うような抑揚をつけて、少女……ドゥファイスは名乗りを上げる。
それから彼女は、トントンと跳ねるみたいな足取りで百合子の前へと近寄ると、書机の向いにストンと腰を下ろす。
「何用だ? 否、何用でも構わぬ。今日は些か機嫌が優れぬのでな……今すぐに去ね」
淡々と百合子は告げる。
ドゥファイスは、にぃと口角をあげて笑った。
百合子の言葉を聞いているのか、いないのか。
「素晴らしい物語を書きたい? 書きたいよね! ねぇ、書かせてあげる! 私が、このドゥファイスが、貴女に文才を贈ってあげるよ!」
嬉々としてドゥファイスはそう告げる。
それから、そっと手を差し出して、こてんと小首を傾げてみせた。
「もちろん無償ではないよ! 契約をしましょう! 貴女の大切な記憶をちょうだい!」
百合子の顔を覗き込み、ドゥファイスは目を見開いた。
視線が交差し、百合子の脳裏に記憶がよぎる。
青い髪の魔術師と、共に過ごし、語り合った記憶であった。
魔術師の姿が、声が、厭世的な言葉が脳裏に反響している。
大切な記憶だ。
けれど、今となっては大切だった分だけ思い出すのも苦い記憶になった。
この記憶を手放せば、きっと楽になれるだろう。
元の何も考えなくてもいい自分に戻れるだろう。
己が望んでいたことでは無いか。己にとって理想的な結末ではないか。
「さぁ、手を取って! 手を取って、そして物語を紡ぎましょう! 蚕の糸から綺麗な布を織るように、キラキラと輝く素敵なお話を紡ぎましょう!」
さぁ、さぁ、と。
早く、早く、とドゥファイスが契約を迫る。
目の前にある小さな彼女の手を取れば、契約はそれで結ばれる。
「…………」
だと言うのに、百合子はその手を取れないでいた。
青い髪の魔術師のことを、セレマのことを忘れたくないと思うのだ。その想いが、百合子に契約を拒ませる。
なぜ?
なぜ?
どうして?
自問自答を繰り返す。
脳の内が、己の問いに埋め尽くされる。
溢れる「なぜ?」の海の底で、ほんの一粒の光を拾った。
それが答えた。
「セレマは、どんな時でも自分の成長を願って導いてくれていた」
舌に、言葉を乗せて吐く。
気づけば、百合子は立っていた。黒の荒野に立った1人で立っていて……。
だから、どうしたというのだ。
当然だ。
「“自分で勝手に幸せになれ”とは、あぁ、当然のことではないか」
そう呟いて、百合子は立った。
疑問を隠すこともせず、ドゥファイスが百合子を見上げる。
うん、と1つ頷いて……。
「何を言っているの?」
ドゥファイスが問うた瞬間、百合子は拳をその顔面へ目掛けて落とす。
「何を言っている? それは吾の言葉である」
書机を蹴り上げ、畳を踏み砕き、獣のような形相で百合子が殴打を繰り返す。
蟲の翅を羽ばたかせ、ドゥファイスが悲鳴をあげた。
何が起こっているのか理解は出来ないが、まずは生き残らねばならない。
「わぁ、なんで! 喉を狙わないで!」
「その喉を噛み潰し、舌を引き抜き、頭蓋を割って脳を庭へ撒いてくれる」
「だから! なんで!」
ドゥファイスの悲鳴が響く。
雨上がりの夜空を見上げ、百合子は思う。
もう1度、セレマと言葉を交わす必要があるのだと。
「しかし、さて……どう逢えばいいか」
道は開けた。
けれど依然、問題は山積みなのである。
果たしてセレマは、今、どこにいるのだろう。