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未散とシラスの話~さよならジョン・ドゥ~
登場人物一覧
「畜生……暑いな」
シラスの頬を汗がしたたる。それを手袋でぬぐいとり、彼は重いため息を吐いた。
穴を掘っていた。泥にまみれ穴を掘っていた。夜半にも関わらず暑さは引かず、熱病めいてうなされそうだ。悪夢の予感。熱帯夜の瘴気。それらがまわりまわってシラスをいらだたせていた。突き刺したスコップが大きく弾かれた。石にでも当たったのだろうか、火花が散る。一瞬の儚い光は、隣で様子を見守っている彼女の腕の中の存在を思い起こさせた。彼女――未散は静かに歌いながら、ぐったりした肉の塊を抱えている。もうすこし近づいたなら、それが魂を失った赤ん坊だとわかるだろう。
本来なら赤いはずの肌は青ざめ、黒ずんですらいる。あたりには腐敗臭がたちこめていた。人間種は内臓から腐る。その未熟な器官が汚濁に変わっていくのを感じながら、それでもなお未散は歌うのをやめない。捧げるように。包むように。
風が吹いた。どろりとした熱風は夜をかき混ぜただけに終わった。
「……暑いな」
「ええ、暑い。暑い、ですね」
ひそやかに未散がいらえを返す。この状況下で汗ひとつかいていない彼女を薄気味悪く思いながらも、それは未散が葬儀屋だからだとシラスは結論づける。そう、葬儀屋。これは小さな小さな赤子のための、誰も知らないお葬式。
もともとシラスたちが受けたのは、殺された赤子の母親を探すという依頼だった。母親はすぐに見つかった。同時に誰が赤子の首へ縄をかけたのかも知れた。
犯人である母親の言い分は気が狂っているとしか思えなかった。その内容は母親のそれではなかった。女だ。いや、少女だ。ほっそりとした美しい肢体。しかし肌にはしみが現れ、首筋には皺が走っている。酒で焼けた喉から発せられる、鼻へかかった妙に甲高い声は現実から目を背けたロマンチストのそれだった。
「いや、あの……」
「だからね、聞いてちょうだい。愛されるってとても素晴らしいことなの。この世は愛で満ち溢れているの。私はそれを享受する権利があるの」
シラスの言葉を遮り、女はまくし立てた。
「だって私とても不幸だったのよ。両親からも大事にされなかったし、口減らしでお針子にされて。十やそこらの小娘が、たいしてうまく縫えるわけないじゃない。だけど私は工場長から愛を授かったの。とっても幸せだったわ。だけど生まれたとたん、工場長は去っていった。私の初恋の人……。ひどいわ、ひどいわ。いまでも思い出すと胸が痛むの。ねえ、あなた、幸せってなんだと思う?」
唐突な質問へ未散は沈黙を返した。それで充分だと思ったからだ。あんのじょう女はまたも、かきくどき始めた。いかに自分が不幸であるか。いかに自分がやるせない人生を送ってきたか。その代償として愛を求めて当然なのだと。愛とは赤子を身ごもること。そのために体を合わせること。裸の体に嘘はつけない。女は自分の腹へ赤子が灯ると大切に育てる。それは愛の化身だからだ。けれど、生まれたものは肉の塊にすぎない。あくまで女は、ただ愛されていたいのだから。愛し合うふたりで子どもを育て、何かをなすなどという高度な、そして地道で果てしなく労力のかかる真実には興味が無いのだった。
だから育てる気などさらさらなかった。最初に生んだ子は経済的理由から周りの大人が処理してくれた。次に生んだ子は不良仲間が隠してくれた。その次の子は……。愛を授かる度に、彼女は孤独になっていった。そしてさらなる愛を求めた。赤子を孕む十月十日だけが彼女の心休まる時間となっていった。それはまるで泳ぎ続けなければ死んでしまうサメのようだった。そうして誰からも見捨てられた彼女は、赤子を自ら手にかけた。
「でも」
と、未散が口を挟み、死んだ赤子をさしだす。
「こちらのお子様こそが育まれた愛の結晶なのでは?」
「そんなわけないでしょう!」
女は身を震わせて否定した。
「それはね、用済み! 用済みなの! 泣くしわめくしクソをひねり出すし、最悪! 愛はもっと美しいものなの、そうよ、心の底まで美しくなれる至福。それが愛なのよ。断じてそんな醜いものじゃないの!」
何を言っても無駄だと悟ったシラスは未散の肩を叩き、退散することにした。小さな亡骸を抱えた未散はなにか言いたげだったが、顔を伏せてつぶやいた。
「お大事に。また今度」
そしていまシラスは穴を掘っている。赤子が安らかに眠れるよう骨を折っている。
野犬の餌にならぬよう穴は深く掘らねばならない。すくなくともシラスの背の半分くらいは土をかかねばならなかった。ざっくりとスコップで土を掘り出す度に、汗がしたたって不快だった。それでも産声すら上げることなく逝ってしまった子どものことを思えば、この程度で音を上げてはならぬと言う義務感が芽生えていた。
がさり、とせっかく掘った穴へ土が崩れ落ちてきた。文句も言わずに土をかき分ける。
「すこしお休みになられては如何ですか?」
未散が取り出した水筒へ、遠慮なくシラスは口をつけた。ぬるい水が体へ染み渡っていく。いつのまにか疲弊していたと悟り、シラスはすなおに腰を下ろした。夜風がうざったい。手袋を外し、ハンドタオルで汗を拭く。すこしだけ人心地ついたシラスは未散の腕の中のものを見上げた。
「なあ、『また今度』って言ってたよな。どうしてだ?」
「何故、ですか? あの女性は繰り返すのでしょう。高々、十月十日の幸福を手に入れる為に。葬儀屋のぼくとしましては、ご縁のある方とお見受けしたまで」
「縁なあ……。それじゃ、あれか? あの女がなにかやらかすたびに顔を出してやるってのか?」
「なるやもしれませんし、ならぬやもしれません。先のことは不確定ですから」
シラスは首を傾げた。未散の言う事がいまひとつわからなかったようだ。それにしても、と石を置く。
「女の考えることなんて俺にはこれっぽっちも分からねえな。あんなクソみたいな理由でガキをこさえる奴ばかりだからよぉ……ったく。この赤ん坊もこんな世の中から縁を切れて良かったんじゃねえの?」
未散はなにも答えない。ただかすかに微笑を浮かべている。それはぶっきらぼうな言葉の裏に隠されたシラスの同情心を見抜いているからか。
「あーあ、そいつはこれから何処へ行くのかね」
「人は、亡くなったら。何処に行くか。其れは、其れは。シラスさまにしては随分と児戯めいた、お話だ」
その手で人を殺めたこともあるシラスにしては、感傷的だと言いたいのだろうか。たしかにそういうこともあった。けれどもさすがに、生まれてすぐの赤子を手にかける趣味はない。それに……。
「だってさ、死んだ人間が死んだ時のままだなんて救いがないぜ。だから俺は幽霊とかそういうの嫌いなんだよ」
シラスはごろりと横になった。夏の夜空は水の底のようにゆらめいていて、すぐそこにあるようで、手が届かない。そんな夜空へ手を伸ばしながらシラスは言う。
「俺はどこか遠くに向かって欲しいね。皆そこで同じになるんだ……可笑しいかい?」
「可笑しくなどあるものですか。でもこの仔は幸せですね。人を呪う事すら識らず、死んだのだ。化けて出る心配もありませんよ」
一瞬、きっと一瞬だったのだ。母の腹から出た一瞬、それだけがその子の人生と呼べるすべてだったのだ。何も知らぬまま生まれて、何も覚えぬまま命を落とした。首筋に絡みついたままの細縄を、未散はゆっくりとほどいてやる。
「人の行く末は、神様の元に行くのでしょう、或いは思い出の中に何時でも咲ってくれるのでしょう、けれど、悲しい哉、単なる土の中なので御座います。ぼく達が今掘っている穴の、其の中だ」
生まれたての赤ん坊は、たいしてかわいらしくはない。つぶれたカエルのような顔。腹ばかりがつきでた未熟な体躯。人によっては嫌悪感を覚えるかもしれない。もしかするとあの女性も、未散は思う、期待に満ちて生んだ子があまりに不細工であったから、本能的に拒否したのでしょうか。我が子を愛することができる親ばかりではないのですから。だとしても、未散は腕の中の存在をやわらかく撫でた。ひきつれた皮膚がずるりと剥げた。だとしても、それがこの赤子よりあの人へ心を注ぐ理由になりはしない。あの方はもう自分の足で立てるのですから。その二本の脚でどこへでも行けるのですから。それすらできなかったこの子は、やはり、かわいそうだ。
未散が考えにふけっている間にシラスが作業を開始した。穴はより深くなり、ぽっかりと夜の底に暗闇が生まれていた。
「そろそろ大丈夫だろ」
穴の中へ入ったシラスが未散から冷たい赤子を受け取る。魂を手放した肉体はどうしてこんなに冷えているのだろうか。赤子のひややかさはシラスの背筋をゾッとさせた。自分も死んだらこうなるのだろうか。シラスは不安を拭い去り、地の底へ赤子を置いた。未散の祈りが聴こえてくる。シラスは穴を出た。漆黒の中へぽつりとひとつ、おくるみが置かれているのが見える。
「安らかに眠れ、其の衣を子羊の血で洗いて白くせん。もはや、飢えず、乾かず、夏もなく冬もなく、汝、生命の泉にて涙をぬぐわれん」
祈祷が終わると未散はスコップへ手をかけた。
「待って。最後に、この子に花を」
シラスがあたりを見回す。闇夜に深く隠れて色鮮やかな花々は見つからない。しかしシラスの鋭い視線があえかな輝きを見つける。それは小さな、真っ白な花だった。つかめば潰れてしまいそうな頼りなさ。シラスはそれを詰めるだけ詰んで、墓穴のもとへ急いだ。
「嗚呼、
未散が深い眼差しを、花を散らすシラスの手元へ注ぐ。暗黒の中でまたたくおくるみと白い花は、地上の月と星のようだった。
「さようなら、ジョン・ドゥ。今度は愛される為に、生まれておいでなさい」
土をかけてやる。もう何も苦しいことがないように。