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『我が心、我だけのもの』
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『白き墓標に紅いゼラニウム。墓標の前で跪く女性は黙して語らず、ただ祈りを捧げる。言葉はいらない。その思いは全て、花に託した』
お師匠が記した詩篇の一部。今、私は静かにその詩篇の舞台に立っている。
参る人もいなくなった墓標は荒廃した風景の中でただ静かに朽ちるのを待っているように見える。墓参に訪れる人の気配もない。手入れされた気配すらない。無理もない。この場所が近くにあった修道院ごと放置されたのは数十年も前なのだから。
まるで、放置された時間の長さが重さになってそのままこの墓を押し潰そうとしているように見えた。
お師匠はこの場所で一体何を思い、何を感じたのだろうか。
墓石の傍にあった大岩に腰掛けつつ、そんな懸想に耽る。お師匠に直接会って話ができればいいのだけれど、最近は連絡もない。
「……あれ?」
そんな出奔同然の師匠のことに思いを巡らせつつふと目をやった先には別の岩があった。それ自体は別に何の変哲もないが、そこには文字が彫られているように見える。
近づいてみると、そこにあるのはたった一文程度の短い文字列。だがそれは、
「これお師匠の字だ……!」
癖の強い文字は、私の家にある直筆の原稿と同じだ。
「またお師匠変な所に字を書いてる……」
お師匠は天才だが、その反面奇行も目立つ。旅の最中に思いついたことをその場で書き留めてしまうのもそんな奇行の一つ。過去にそれが原因で酷い目にあったにも関わらず、悪癖は抜けていないらしい。
「え~っと……」
『先人に縛られるな。我が心は我だけのもの』
文字はそう書いてあった。その言葉に引っかかるものがある。古い扉を力任せにこじ開けるような感覚。
そうだ、私はこの言葉をお師匠から聞いたことがある。あれは確か――。
確か私がまだお師匠の元に弟子入りしてすぐの頃。
お師匠は珍しく書斎に長く滞在していて、世界のどこかで見知らぬ誰かから伝聞した物語を芸術に昇華するべく苦戦していた。書斎の燭台は昼夜問わず煌々と明かりを放っていて、紙片の山や読み散らかした膨大な書物に光を落とし、影を伸ばす。
天才には天才にしかわからない苦悩と悩みを抱えている。煩悶し、時に嵐のように荒れ狂い、頭を抱えて呻く師匠の姿を私は唯一の弟子として身の回りの世話をしながら具に眺めていた。
お師匠が質の悪いスランプに嵌っているのは気付いていた。邪魔はしたくなかった――仮に邪魔しても怒らなかっただろうけど――ので積極的に話しかけたりすることはなく、家庭内別居のような状態で過ごしていた、ある日。
書斎のドアが少しだけ開いていて、中から燭台の淡い光が漏れていた。興味本位で覗いてみると、竜巻が通った後かと言いたくなる程度に物が散乱した部屋がそこにあった。
「あ~あ……。お師匠ったら」
お師匠は天才だが生活能力は皆無で、当時私が全ての家事を執り行っていた。当然部屋の掃除も私の仕事で、今回も例外ではなかった。
最も散乱していたのはやはり書き物机の周りで、足の踏み場はおろか深紅の絨毯さえ紙片に覆われて見えない有様。よくもこんなに汚くできるなあと思いつつ、くしゃくしゃになったそれらを捨てようとしたところで、一枚のメモが目に留まった。
『先人に縛られるな。我が心は我だけのもの』
その真意はわからなかったが、わざわざ書き物机の一番目に付くところに貼りだした一文のメモは何かとても大事なもののような気がした。
——ああ、そうだ思い出した。
記憶の奥底に封印された物語は、ふとした衝撃で目を覚ます。時を経て至る新たな発見を添えて。
きっとお師匠は、今の私と同じように誰かの影に囚われていたのだ。そこから逃げようとして足掻き、苦しみ、そして一つの回答としてあの言葉を目に付くところに残したのだろう。
「……そっか。別にお師匠がどう思ったなんて関係ないよねっ!」
そう、自分が感じたものをそのまま詩にしていけばいい。お師匠は確かに偉大だが、その偉大さをただ真似ただけではお師匠と瓜二つの人形に過ぎない。
「…………」
そんなことに気付いて改めて今の景色に目をやる。白い墓標に荒野。寂寞という言葉が相応しい場所。だがこの場所も、かつては修道院があり、人の往来があり、賑やかだったと聞く。
そう思うと、手にしていたリュートが自然と旋律を紡ぐ。歌詞も自然に口を突いて出る。
歌うのが、止まらない。
寂寥感漂う荒野に、似つかわしくない陽気な歌が流れる。
その景色を、そして岩に腰掛け歌う少女を、一人の老人が遠巻きに眺めている。
フードを深く被っており表情は見えないが、豊かな顎髭だけが確認できる。ローブを着たその姿は世捨て人のようにも熟練の旅人のようにも見える。
「ほっほっ……。いい詩じゃのう」
老人はそう一言呟いて、持っていた花束をその場に置いて去っていった。
紅いゼラニウムの花束が、白銀の精霊種の少女を静かに見つめている。