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豊穣梅の湯~小夜の迷い路~
登場人物一覧
●その時、小夜は
ああ、迷ってしまった。
『盲御前』白薊 小夜(p3p006668)は、そう溜息をついた。
梅の湯旅館。そう呼ばれる豊穣の温泉旅館への旅の途中に、ついうっかり仲間たちとはぐれてしまったのだ。
目から光を失った身故に、目の前の風景で判断するわけにはいかない。
白杖を突きながら、小夜はどうしたものかと迷うが……そこに、かなり特徴的な鳥の声が聞こえてくる。
「これは……ファミリアー……?」
この季節、この場所にいるはずのない鳥の声。
それが仲間の放ったファミリアーであることは確実で。
小夜は思わず「ふふっ」と声をあげてしまう。
「心配かけてしまったわ。向こうに着いたら、皆さんに按摩でもかけて恩返ししなきゃ」
まるで仲間に手を引かれているようだ、と小夜は思う。
自分を導くファミリアーの声は、的確に道を示してくれて。
見えはせずとも、周囲の梅の香りは小夜に高揚感を与えてくれる。
この季節、この時期に……こう言ってしまうとなんだが、はぐれなければできなかった小さな冒険だ。
「良い香りね……梅の花咲く山ということだったけど、自然に出来たのかしら?」
少なくとも、山の中は定期的に人の手が入っているのが小夜には分かる。
歩くことに何の支障もない山の中。そんなもの、誰かの手が入っているからに他ならない。
まあ、当然だろう。
梅の花の光景が自慢の温泉旅館。
それを売りとしている人々が、梅の木を大事にしないはずがない。
我が子のように、あるいは親友のように大切に……大切に手を入れている。
だからこそ、梅の花がこんなに香り高いのだろう。
ただ咲いているだけの梅であれば、こんなに素晴らしい香りを漂わせるはずがない。
小夜には、それがよく分かる。
植物は愛情をかけられただけ返すというが、この山の梅は……まさにそんな愛を注がれた梅だった。
「皆さんに話すことが、増えてしまったわ……」
少しだけ嬉しそうに、小夜はストレートの黒髪を揺らしながらそう呟く。
近くで感じなければ分からない、そんな小さな宝物のような土産話。
それをするには、皆に追いつかないといけないが……小夜の鼻は、その香りを見つける。
「これは……湯の香り? それに、イノシシの血の香りも……」
どうやらもうイノシシを狩ったのだろう。離れた場所から移動するような感じがある。
湯の香りも、ファミリアーの導く先も……全て一致している。
そして小夜は何となくだが、自分の方が少しだけ先に梅の湯旅館に辿り着くような、そんな気がしていた。
「ふふ……」
合流したらまずは謝って……それから、何を話そうか。
小夜の足取りは自然と軽くなって。
梅の花の香りが、そんな小夜を優しく…とても優しく包んでいた。
その先には、豊穣梅の湯旅館。
予想通りに、仲間たちよりもほんの少しだけ小夜は先に着いて。
そんな小夜を仲間たちは責めるどころか、怪我はないか、はぐれてごめん……と、そんな風に心配する有様で。
「ええ、大丈夫よ」
小夜も、そう言って笑う。
梅の花がほころぶような、その笑顔を小夜自身が見る事はないが……それが、この山に咲き乱れるどの梅の花よりも魅力的な笑顔である事は、間違いなかっただろう。