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世界のはじまり
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悪い夢だったのだろうと彼女は云った。『気のせい』という言葉は往々にして気休めなのだという事はシラスもアレクシアも分かっている。
しかし――それを『気のせい』ではないとして認知をしてしまった場合、怪異とは存在を認められたことになってしまうのだろうか。伴に時間を過ごす様になって、居住地を定めず転々と移動しながら生活を是としていたシラスはある意味で自由だったのだろうが、『ベッドの上』から抜け出したばかりのアレクシアは冒険者らしい探求心と興味本位でシラスと共に褒められた場所ではない所で寝泊まりするようになっていた。例えば、木の洞であるだとか、取り壊しの決まった儘放置された廃屋であるだとか――それが『いけなかった』のだろうとシラスは考える。
黒い瞳は慣れ親しんだ廃孤児院をぐるりと見回す。煌びやかな王都と荒んだ空気の蔓延するスラムの中間地点。通りを一本隔てれば絢爛なる淑女がフリルとレェスに身を包み笑みを浮かべる美しい街のある、境界線上にひっそりと木々に埋もれるその場所。
錆び付いた門をぎいと音鳴らせば一層、おもひでを煌めかす様に陽の光が差し込んだ。庭木と呼ぶには余りにも不格好である其れは自由奔放な子供の様にぐんぐんと背を伸ばしている。室内にさえ木々を侵食させたその場所をアレクシアは「高級な宿屋」と面白おかしく称していた。
ここだけではない。たくさんの思い出を滲ませた路地裏だって。女性の一人歩きは危険だなんて笑ってもきっと迎えに来る彼女と共に新たな思い出を刻み付けるのだ。
そうした場所で二人で冒険するのだって面白い。けれど、『悪い夢』に彼女を巻き込むのは避けたい――
「どこか、まともな居住地を定めようかと思ったんだ」
そうシラスが曖昧な言葉で濁し乍ら――君を危険に晒したくないだなんて言葉は飲み込んで――言えばアレクシアは手にしていた本を勢いよくソファーへと置いて「え」と声を漏らした。晴れた秋空の如く澄み渡ったその瞳がきらきらと輝きを灯している。
「シラスくんの新しいおうち!?」
「え、あ、そ、そう……。とりあえずこの辺かなっていうのを探しては来たけど」
幻想国内、それも都市部からちょこりと離れただけのこじんまりとした空き家だ。以前は王都に召し抱えられていた画家が過ごしたというその場所は塗料の香りがこびりついている以外は広すぎず狭すぎず調度も整えられていた。
「小さな庭がついていて、一本の桜の木が生えてるらしい――ってことしか事前情報はないけど」
「桜の木? わあ、それってとってもきれいだね! 春はシラス君のお家でお花見ができちゃうんだ!」
いたずらっぽく笑ったアレクシアはシラスくんのおうちに遊びに行けるなんて楽しみだと形良い唇に幸運を弾ませた。ふと、その言葉にシラスは「ああ、違うんだ」と付け加える。
「アレクシアも内装の用意を手伝ってくれない? 俺は知っての通りの生活をしていたし普通の生活って何がいいのか分からないんだ」
「それって……それって、私もお家の家具を考えてもいいってことだよね? 嬉しいっ!」
弾む声音は何処までもハイテンションだ普段の理知的なアレクシアは瞳をきらりと輝かせ、「シラスくん『の』はじめてのお家だもんね!」とやる気を満ち溢れさせた。そう言われると何処か擽ったい。自身の所有物と認識しての家だ。
「勿論。アレクシアの意見を取り入れたいと思ってる。本の事だとか、相談したいことは沢山あるんだ」
そう笑い、辿り着いた小さな一軒家。外観は何処か古くも見えたが小さな庭がセットとなったこじんまりとした家屋だった。屋根を見上げたアレクシアは「カラフルなんだね」と可笑しく笑う。秋色を思わせるような屋根は画家の一寸した遊び心を感じさせる。
出窓が一つ、庭先の桜の木を見る様に設置されていることにシラスは気付き「お花見ならあそこからできそうだぜ」と小さく笑った。
扉を開けばこびりついた塗料の匂いと埃の匂いが交じり合っていた。伽藍洞としたその室内は掃除を行えば十分だろう。細かな部分まで掃除が行き届いていないというのは幻想ではよくある事らしい。
「シラスくん。凄い発見をしたよ!」
意気揚々と家の中を歩き回っていたアレクシアが隣室より顔を覗かせた。こっちこっち、と普段よりも子供染みた仕草で呼ぶ彼女にシラスは「どうした?」と付いていく。
重厚な扉の向こう丁度の良い机と本棚がある程度並んだその場所はもともとは書斎だったのだろうとアレクシアは瞳を輝かせた。
「見て、書斎! ここ、とっても素敵だね? ソファーを置いたりして! シラスくんの『仕事部屋』って感じになりそう!」
「俺に仕事部屋が必要かどうかは定かじゃないけど、ある程度の本が入りそうなら良いな。
本は保管する場所も無かったから読んだ傍から売り払ってたけど、これなら手元に残して置ける」
撫でた棚にも埃は被っているがアレクシアは「はい」と笑顔で雑巾を差し出してくる――なんだかんだで用意周到なのだ。家を買うという話をしてから「先にお買い物をしてくるね」と差し入れを買いに出たアレクシアの持ち込んだ鞄はぱんぱんに膨れ上がっている。魔女が大きなカバンを持って旅するのも中々にオツなものだと考えてはいたが、その中身はどうやらこの家に使用するための用品のようだ。
「雑巾で拭いてからよく見るほんとか資料はこの本棚でいいかもしれないね? あ、でも、これ……沢山収納できるように稼働するんだね? 雑貨を飾ったりしても可愛いかも」
悩まし気にひとつ、ふたつと言葉を漏らしたアレクシアはせっせと掃除をしながら本の管理の方法を確認していく。シラスは以前彼女の家を訪れた時は本の虫干しをしていた時だったかとふと、思いだして『無類の本好き』の思い描く内装にしてもらおうとその部屋を後にした。
一先ずは書斎はアレクシアに任せられる――けれど、とシラスは考え込む。他に何が必要だろうか。
普通の暮らしは子供の頃の思い出だ。靄をかけて、仕舞い込んだ闇色の思い出を飲み込む様に首を振って、家といって思いつくのはアレクシアのツリーハウス位だと唇を尖らせた。
(家って何を置くべきなんだろう……アレクシアの家にあった花瓶だとか、ちょっと洒落たクッションとかを置けばいいんだろうか……)
む、と唇を尖らせるシラスの背後にはいつの間にかアレクシアが立って居る。どうやら書斎の収納に関して一通り考えを纏め、シラスが考えている間に掃除を終えた様子だ。
「シラス君、本の収納の事はバッチリだよ」
「……アレクシアの家の本は溢れ出して居た様に思うけど?」
冗談めかして唇にうっすらと乗せた笑みにアレクシアの丸い瞳がシラスを見上げる。陽の色が透けた髪が頬を撫で、首を傾げた儘「何か分からないなあ」と表情で示して見せたアレクシアは「こういう言葉があるんだけど」とシラスに続けた。
「曰く、『自分の事より他人の事になるとやる気が出る人がいる』」
「それは格言じゃないと思うぜ? まあ、他人の為だってなればやる気が出るのは同意するけど」
――そもそも住まいを定めたのだって、という言葉は飲み込んだ。
アレクシアと家の中を歩き回る。桜の木に面した出窓はキッチンダイニングに設置されているようで、ここにダイニングテーブルを置いてお花見をするのも楽しそうだとアレクシアが広い室内で両手を広げる。
シラスはその様子を眺めながら、出窓に洒落た雑貨を置いてみるのもいいだろうかとシラスがぼんやりと考える。
「ここ、何か置きたいね。折角スペースあるし」
「ああ、俺も丁度そう思ってた。花とか飾ってもよさそう」とシラスが続ければアレクシアが意地悪く笑った。
「たくさん用意したんだ! ほら、これは猫の置物。背中に花を飾れるんだ。
それから、これはフロアランプとかー、食器のスポンジに、スポンジを置ける台、それから……」
一人暮らしは何かと物入りで。カラフルな食器スポンジは動物を模している様だとシラスは覗き込む。可愛らしい少女が住まう家をイメージするかのようなポップな雑貨が部屋に増えていく様子を眺めて彼は「アレクシアの家見たいだ」と小さく呟いた。
「あっ、必要なければ私が持って帰るよ? ついつい、私の趣味のものばっかりになったかも」
幸せそうに――きっと、彼女はあれもこれもと買い物バックに放り込んだのだろう。アレクシアという少女がその儘この家にいるかのように、彼女を思わす雑貨が増えていくことがシラスは何処か不思議な感覚がした。決して不快なわけではない、彼女がこうして楽しんでくれている事が何所か面白くて楽しいのだ。
「それじゃ、必要な家具の買い出しをして……何が居るかな」
「ダイニングテーブル。椅子は最低でも2つかな? あとはシラス君の眠る場所と読書を楽しむソファーもあればいいよね」
「ソファーは今後のローレットでの給金で買おうかな。今すぐってわけでもないだろうし、さ」
ダイニングテーブルの椅子が最低でも二つ。それは彼女もきっとここで過ごす事があるという事だ。
その事実に可笑しくなりながらシラスは必要な家具の買い出しにアレクシアと連れ添って出た。ソファーは二人で本を読むのにちょうどいい大きさを買おうとシラスはぼんやり考える。次の春、あの桜が咲くまでに――
「一先ずは住める」と、シラスは頷いた。
カラフルな雑貨と調和するシンプルなモノトーンアイテムを基調とした部屋からは絵の具の匂いは薄れ、かぐわしい花が飾られる空間となっていた。アレクシアが「これは?」とセレクトした少し少女趣味――かつ、落ち着いた緑は彼女の故郷を思わせた――なカーテンはシンプルな部屋の中ではその存在を目立たせる。
折角だから、と暮れかけた空を眺めたアレクシアはせっせと掃除の完了したキッチンに立つ。ある程度整った室内で夕食を共にしようかと運び込んだばかりのダイニングテーブルの上にランチョンマットを敷きながらシラスはアレクシアを眺めた。
彼女にとっては料理をすることは癖のようなものなのだろう。「つい」と云った調子でこちらを確認するアレクシアにシラスは「楽しみにしてる」と彼女の料理を促す。髪を結い上げ、持ち込んだ可愛らしいエプロンに身を包んだアレクシアの表情に笑みが滲み、早速と簡単な調理を始めたようだ。とん、とん、と規則正しい包丁の音を聞き、シラスはキッチンを覗き込む。食事の支度をする彼女を見て居れば、こうして確りとした設備があるなら自分も料理をしてみるのもいいだろうかとシラスは考える。エプロンを付けて、味見をする自分――想像すれば唇に笑みが浮かんだ。ああ、そんなの、なんておかしい!
「シラスくん?」
「あ、ああ、俺も料理してみようかなって思って」
「シラス君のお料理食べてみたいな。それは次回の楽しみかな?
これで完成なんだけど……シラスくん、これ運んでもらっていい?」
勿論だとシラスは頷いた。随分と張り切って家の準備をしたから遅い食事になってしまったかとアレクシアが購入していた簡易的な夕食は温められて湯気を昇らせている。
軽食として用意されたパスタと出来合いのサラダ。温かな紅茶は食事に合うものなのだと幻想で最近流行しているものだ。
まだまだ新しい食器に何処か緊張した様に盛りつけられたそれは、新たな門出を祝うかのようで――アレクシアなりに『部屋』の一部にする様に盛り付けを頑張ったのだろうかとシラスは小さく笑みを溢す。
「アレクシアも席についてよ。二人揃ったら乾杯にしようぜ?」
「うん! 乾杯の音頭は勿論シラスくんだよ? あ、紅茶で乾杯ってあんまりかな?」
鞄を振り返りごそごそと何かを探しているアレクシアの口元ににぃ、と笑みが乗せられた。ノン・アルコールのそれは幻想のティーパーティーでよく飲まれるものだそうだ。軽やかな炭酸が舌で弾ける楽しさを大人ばかりが独占しては狡いと子供達が拗ねた事から食前酒(そう言ってもノン・アルコールである以上は気分の問題だろう)として取り入れられるようになったそうだ。
「折角だもんね。お祝い事ならワイン――あ、ノン・アルコールだよ?」
「お祝い?」
「そう。シラスくんの素敵なおうちをお祝いするんだ」
くすくすと笑ったアレクシアに「お祝いされるほどかな」と頬を掻いたシラスは小さく咳ばらいを一つ。
「アレクシア、今日は手伝ってくれてありがとう。
おかげで何とか片付いたし生活感もありそうな家になったと思う」
「ふふ、シラスくんが一人だったらどんなお家になったかな?」
「本棚と机しかない殺風景な家になったと思うぜ? 生活なんて路上と大して変わらないだそうし」
冗談めかしてシラスが笑えばアレクシアは「きっとそうだね」と可笑しそうに笑った。グラスを掲げた儘、アレクシアは思いだしたように書物の一説を口遊む。
家とは、新たな世界だ。家主となった自身だけの世界である。
他の誰も介在しない、自分自身の世界を構築するためのひとつの手立てなのである。
真新しい白い世界にキャンバスを彩る様にして飾るのだ。自身の欠片を、自身の思い出を。
「だから、これはシラスくんの世界のはじまりだね?」
「世界――か。それならアレクシアの欠片や思い出もこの家に詰まったかもな。
なんたって、あのカーテンはアレクシアが選んだんだ。あの猫の雑貨だってそうだぜ」
「ふふ、それも面白いと思う!」
だから、新たな世界のはじまりにグラスを打ち鳴らしてしあわせを告げましょうと言う様にシラスはアレクシア、と彼女を呼んだ。
今日という楽しい一日と、新たなせかいに――乾杯。
ここから世界がはじまるのだと出窓を見遣れば、青々とした葉はざわめきに音鳴らして静かに揺れているだけだった。