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ひととき、ひととせ
登場人物一覧
犬用ベッドは黒狼隊の面々があれやこれやとセレクトして数種類にもわたる。ふかふかとしたクッションに、練達で流行する『どんぶり』型。普通の『お布団』――ユーモアを込めて、ポメ太郎にプレゼントされたベッドから適当な気分で寝床を選ぶのが彼のある種のルーティンであった。
室内室外と区別して飼われている訳ではない彼は明かりを消した『ご主人様』の執務室の片隅にお昼寝スペースを有している。遊び疲れて昨夜からそこで眠りこけていたポメ太郎に降り注いだのは眩しい朝日であった。カーテンが誰かの手によって開かれたのか、驚いたポメ太郎が手足を縮めてころりと横になる。
あ、やっぱり――
彼が見上げた先には長いシルバーグレイに赤いリボンを編み込んだご主人様のメイド、詰まりは『リュティス』さんなのだった。
「お早うございます。お寝坊さんですね」
冷ややかでありながら、その声音に敵意が無いことは分りきっている。尾をぶんぶんと揺らがせてからポメ太郎は「はい!」と答えた。
答えた、というのはあくまでも彼の側だけの言である。リュティスには「わん」と鳴き声が聞こえただろう。彼女はぱちりと紅玉髄の瞳を瞬かせている。
「お早う、リュティス」
「お早うございます。本日のご予定は如何でしょうか」
執務室の扉を開いて、顔を出したベネディクトにリュティスは常と変わらぬ様子で頭を伏せた。従者として教育を受け育った彼女にとって誰かに傅くのは日常の一つ。其れを無くした方が彼女にとっては困惑の未来が影を落とすこととなる。冷えた、それでいて常とあまり変わらぬ声音にベネディクトは微笑んだ。
相変わらずの様子ではあるが、彼女に嫌われての態度で無いことだけは良く分かる。静かに目を伏せた彼女が準備しておいてくれている珈琲の香りにほうと息を吐き出してから、ベネディクトは椅子へと腰掛けた。
「今日は実は依頼を受けて居てな……一日留守にすることになっているんだ。
騎士となったからには尽力しておくべきだろう。それで……リュティスは、どうする?」
一日中も留守にすることは珍しくはないが別行動となれば彼女に何らかの仕事を与えて方が良いだろうか。そんな距離感を図るような彼の言葉にリュティスはぱちりと瞬いた。
ベネディクトとリュティスの関係性はふんわりとした泡沫よりも尚も、曖昧なものだった。まるでしゃぼん玉を指先で突いてみるような、慎重な仕草でベネディクトが彼女へと傾けたのは恋情という意味合いの関係性。リュティスにとっては何も分らぬのだろう。困らせては居ないだろうかと伺うベネディクトにもリュティスは悟られぬように無を貫き通す。
いや、問われたことに少し困惑しただろうか。僅かな仕草で彼女の心情が見て取れた。「何か、やることはあるだろうか」と再度問いかければ、屋敷の世話についてなのかと合点が言ったように彼女は「ポメ太郎」と呼びかける。
ううんと伸びをしてからポメ太郎は尾を揺らした。まるで『なんですか!?』と言いたげな様子で駆け寄ってくる小さな毛玉――そう、思えてしまったのは黒狼隊に可愛がられているからだろうか。体重を管理しないとまるまると太って来て脚も心なしか短く見える――をじいと眺めてからリュティスはベネディクトへと向き直った。
「ポメ太郎のブラッシングと、散歩をしようかと思います。ご主人様が外出なさるのでしたら、ポメ太郎と買い出しを行うのも良いでしょうし。
……最近、また体重が増加して歩くと直ぐに休憩を求めます。緩い運動ではありますがダイエットを兼ねるのも良いかと」
淡々とした提案を行うリュティスにベネディクトは頷いた。彼女が愛犬の世話をしてくれるのは有り難い。食事の管理なども徹底しているようだが……彼女の言うとおり、仲間達は可愛らしい愛犬へとお土産を齎してくれる。それ故にか、まんまるとふくよかな肢体に大変身を遂げていたのだ。
「ああ。ならポメ太郎を任せようか。ポメ太郎、リュティスを余り困らせないように」
わん、とポメ太郎は元気よく返事をした。きっと、小さなポメラニアンは「はい! 分りました!」と礼儀正しく答えたつもりなのだろう。
出立の準備を整えるベネディクトを見送りながらポメ太郎はダイエットメニューと化した少し味気ないドックフードをぽりぽりと囓っていた。普段、皆が分けてくれるお土産の方が美味しい。当たり前ではあるけれど、犬と人の格差を感じて仕方が無いほどだ。
気付けば皿の中身は空になり、ポメ太郎は酷く落ち込んだ。大好物のきゅうりも食感が好ましくてずっと食べていたい。けれど、許容量が決まっているとリュティスに制限されていた。まるで深く沈み込むような心地に形ながら俯いたポメ太郎は近づく足跡に顔を上げる。僅かな期待、それは誰かが『こっそり』と食事を追加してくれるような――その気持ちを打ち砕いたのは冴えた瞳でひやりと見下ろしてくるリュティスの視線であった。
「……さて、ブラッシングをしましょうか」
いいえ、まだご飯なのです。言いたげに首を振ったポメ太郎の体を抱き上げる。リュティスは華奢な体つきをしているが戦士としても鍛えていることもあってずっしりもっちりとしたポメ太郎を抱え上げても難なく歩き出せた。これが魔道士の少女などならば抱え歩く事を苦としただろう。執務室から連れ去られるように向かったのはリュティスが作業部屋として利用している一室であった。掃除用具や武器などが整頓されており、メイドとして主人の身の回りを整頓するためにもよく利用されている場所だ。屋敷の中では一番散らかっている場所としてポメ太郎は認識している。
「くうん」
何をするんですか? そう言いたげなポメ太郎を見下ろしてからリュティスは小さめのバスケットを手に取った。ポメ太郎のお世話セットはその中に纏まっている。毛刈りばさみやブラッシング用のブラシが数種類。爪切りに……。そうして纏めたのはメンバーの誰かが彼の世話をする可能性を考慮してのことだ。
「最近、毛並みが少し悪いのですが……やはり、シャンプーからでしょうか」
まじまじと見下ろすリュティスがポメ太郎を備え付けの流し場の中へとちょんと収め――嘆息した。室内に備え付けられた水道程度ではポメ太郎は収まらない。我が儘な贅肉をたっぷりと蓄えて、ふんわりと広がった毛並みは綿菓子を思わせるほど。齧り付けば想像以上の甘味を味わえそうなそれを再度抱え上げてリュティスは浴室へと向かった。
普段のメイド服では濡れてしまう。簡素な作業用の衣服を身に纏い、シャワーをポメ太郎に掛ければしんなりと毛が水分を含む。リュティスは表情を変えず尻の方から湯を掛けて、ポメ太郎の毛を撫で付ける。顔の辺りは濡らさぬようにと考慮をして。気遣うような手つきにポメ太郎は天にも昇るような心地だった。微睡みが近くなる。此の儘瞼を降ろしてしまえば最高級の極楽に浸っていられるような……そうは行かぬと犬用のシャンプーで毛がふんわりと泡だって行く。リュティスは彼の体に泡を盛り付けてデコレーションをすることはない。ポメ太郎はチョットした遊び心を込めてくれても良いと期待を持ってリュティスの紅玉髄の瞳を覗き込むが――心は通じ合わず湯が頭から掛けられたのだった。
泡を流して、心地よいシャワーを浴びながらポメ太郎はうずうずと身を揺らがせた。リュティスもその気配を察知したのだろう。シャワーを止めてタオルを咄嗟に手に取った。
まるで、戦場で暗器を構えるような仕草で構えたタオルに『ぷるぷる』と身を揺らがせるポメ太郎の水分全てがぶつかってくる。此れが戦場で降り注ぐ無数の弾丸であったならば致命傷を負っていた。そんな事をぼんやりと考えたのは主人の安否を心配しての事だっただろうか。
「ポメ太郎」
リュティスはそんなお茶目を意識の外へと放り除けてから冷ややかな視線で彼を見下ろした。氷点下と表現するほかにはない。明らかに怒りを込められたそのかんばせは躾のなっていない犬の本能を叱りつけるかのようである。『ぷるぷる』はNGなのだとリュティスには言いつけられていた事を思い出してからポメ太郎は誤魔化すように「くうん」と鳴いた。
毛を乾かして貰ってからブラッシングをし、首輪を嵌められた。リードを着けたのは買い出しに同行するためなのだろう。リュティスもポメ太郎に其れ等が必要であるとは考えていないが『ご主人様の愛犬』に何かあっては困る。
「さて、行きましょうか」
「わん!」
何処へ行きますかと尾を振り回したポメ太郎と出たドゥネーブの市中は喧噪に溢れている。活気づいたのは自身等が此処で過ごしてからだと思えばどこか誇らしく。
リュティスはメモに書いた食品を買い求める。季節のフルーツに夕飯の準備、それにハーブティーや茶菓子。一通り、必需品を買い回ることが今日の目的だ。
ついでにポメ太郎のウォーキングになれば良いといち、に。いち、に。脚を動かしている小さな毛玉を見下ろして微笑んだ。泥に汚れればまたシャンプーすれば良い。毛並みがごわついたまま市中に出して領主の飼い犬がこの程度と思われた方が気に食わないと背筋を伸すリュティスのそばでポメ太郎が立ち止まった。
「ポメ太郎、どうしまし……」
視線を追いかければ串焼きの露店が出ている。あの店は夜間はバーとして営業していたか。リュティスはまじまじと見遣った。どこの香辛料を使用しているか――ラサだろうか、それとも海洋か。肉の焼ける匂いに、油の滴る様子にポメ太郎は釘付けになって尾を振り回している。千切れんばかりに振り回された尾の動きを眺めてリュティスは嘆息した。
「ポメ太郎」
「……」
「ポメ太郎」
何度名前を呼んでも微動だにしない。この意志の強さは誰に似たのか。この食い意地も。そう頭を抱えそうになるがリードをくい、と引っ張る度に「いやです」と踏ん張る様子は愉快そのもの。石像にでもなったような、ぴったりと脚を止めた小さな犬にリュティスは「他のおやつを買いに行きましょう。貴方の食事も必要ですね」とあさってを見遣った。
(まさか、まさか、ご飯を買うんですか!? ぼく、ささみフレークが良いです!)」
そう言いたげにぴょこぴょこと跳ね上がったポメ太郎にリュティスは今のうちなのだとリードを引っ張った。串焼きの事を記憶の海に放流したが早いか、足早に向かったのはペットショップであった。行きつけ、と言うほどに来ているわけではないが領主の犬となれば知られている。勿論、メイド服で歩き回る従者のことだって彼らは『領主様のお仲間』として確り把握しているのだ。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
端的な会話を交わせば、店主は子供のように微笑んだ。柔和なその笑顔に、落ち着いた店内はリュティスにとっても心地よく商品を見ることに適した場所だった。
陳列棚に並んでいたドックフードの中でもダイエットフードを選び取り、不満げな顔をしたポメ太郎を見下ろしてからリュティスは「一つだけですよ」と肩を竦める。
少し位おやつを買っておいても良い。問題は、買い置きしていれば誰かが与えてしまうことだ。ポメ太郎の食事管理と健康管理こそ必要なことなのだと心に決めるリュティスを前にして、ポメ太郎はこらえるような表情を作った。彼女は決して自身に童話の冷たく継母のように当たっているのではない。全てが愛情なのだと察知しているからこそ、彼女が買うべきではないと考えたものをねだるのは忍びない。
――いいんです。リュティスさんがぼくのことを考えてくれているのは分って……分るんですけど、でも、ちょっと……ちょっとだけ?
――あのおやつとか、美味しそうですよね。でも、リュティスさんは屹度、健康に悪いって言いますよね……。
そんな『犬心』を察知できるほどにリュティスは動物に長けては居ない。一体如何したのだと言いたげに見下ろす彼女にポメ太郎ははっと気付いたように前足を上げた。
――玩具にしましょう!
それはなんとなく伝わった。餌の並んだ棚から後ろ髪を引かれながら、もう振り向いたらいけないと自身を律しながら、ポメ太郎は玩具の並んだ棚へと向かった。
ボールやぬいぐるみが陳列されている。噛めばりん、と鈴が鳴る可愛らしいものやコスチュームもふんだんに揃っている。
棚をまじまじと眺めているポメ太郎にリュティスはボールに興味を持ったのだろうかと首を捻った。それはそれで喜ばしい。運動は必須項目なのだから。
首を捻っている彼女にポメ太郎は「これにしましょう!」と吠える。どうやらボールでは無くて、ぬいぐるみ。其処に存在したのはふんわりとしたチャウチャウだ。
「……ぬいぐるみ、ですか?」
「わん!」
――これは先輩に似ています!
尾をぶんぶんと振っているポメ太郎を見ればリュティスも其れは理解できた。どうやら、彼の友人のチャウチャウにそっくりなのだ。ふんわりと広がった毛にチャウチャウの個性的な顔立ち。可愛らしいぬいぐるみを欲するポメ太郎に必要かどうかの『計算』を繰り返すリュティスは肩を竦めた。リュティスは「無駄な出費」と言いかけて、口を噤んだ。偶には甘やかしてあげるのもいいかもしれない。
「……それでは、これを」
仕方ないのだ。ポメ太郎が見上げていたぬいぐるみは彼の友人に似ているのだから。ブラウンのふわふわとした毛並みのチャウチャウらしきぬいぐるみをバスケットへと詰めてから「帰りましょうか」と声を掛ければポメ太郎は嬉しそうに「わん!」と鳴いたのだった。
――夜半の月が嗤っている。ぴんと背筋を伸してリュティスは物音に気づき一礼した。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「……ただいま。遅くまで待っていてくれたのか」
頬に付いた泥を拭おうとするベネディクトへとタオルが差し出される。無言の儘に装備の受け取りが行われ、骨が折れたとベネディクトはソファーへと腰掛けた。
背筋を伸し、服に皺一つ作らない従者は装備品の手入れをするために別室へと運んできたのだろう。開いたはずのその手にはハーブティーが用意されている。
「如何でしょうか。お疲れを癒やせますように」
「……ああ、ありがとう。リュティスは今日、一日どうだった?」
問いかけたベネディクトにリュティスは部屋の隅で丸くなって眠っているポメ太郎を一瞥した。可愛らしい首輪を付けて、ふわふわとした茶色いチャウチャウのぬいぐるみを抱えた彼は夢の中だ。
「ええ、充実しておりましたよ」
そう――僅かに、それでも嬉しそうだと感じたのは気のせいだろうか――微笑んだリュティスにベネディクトは「ポメ太郎も幸せそうだな」と声を出さずに笑ったのだった。