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かつて愛されたかった貴女に
登場人物一覧
ぱしゃり、透明な魚は自分にぶつかるとただの水となり弾けて川へと消えて行った。
どこか凛とした空気と冷ややかな水、川のせせらぎが楽しめるこの場所は避暑地としては申し分ない、彼女――ロゼット=テイのお気に入りの場所であった。
まだ暑い日は多い。もふもふの毛並みは日の光には強いが汗をあまりかけない分、少しだけ不便だ。
内側にマグマが煮えたぎるような感覚は他の種族にはあまり想像できないかもしれない。
こうした不便も長年連れ添って慣れてしまえば、まぁ、悪くはない。
――グスン、うぇっ、ひっく
ピクリ、水に濡れて普段より幾分小さくなったように見える三角の耳が、誰もいないはずの周囲に誰か幼い少女のような声で鳴いているのを感じた。
川の向こう岸。人目もはばからず泣きじゃくり、時折鼻をすすっている少女は同族のように見えた。
ボロをまとい、少女というには肉付きがあまり良くないように見受けられる彼女は嗚咽を繰り返しながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
『私、は、望まれて生まれた子じゃない』
ただ一言、その言葉を聞いただけだったが、ロゼットに同じ境遇の者がいたことをぼんやりと思い出して短く息を吐いた。
それはため息か、それとも驚嘆の類だったか。いずれにしても信じられない状況なのは確かで、向こう岸にいるのも関わらずともすれば手の届きそうな距離にいる少女に手をのばしかけて、かぶりを振った。
少女は泣き続ける。そして語り続ける。
『私は望まれて生まれなかった。山賊にさらわれた娘が、無理矢理孕まされた子』
――そして少女が産まれてすぐに母親は亡くなった。
少女が口を閉ざしてしまったその先のことを、その時に思っていた思いを口の中で転がすように呟いて、外には出さないまま飲み込む。
『私を産まなければ、お母さんは生きていられたのに』
望まれてできた子供であっても、この子は私の子。この子を愛するのは私しかいない。
そんな風に思ってくれたであろう唯一の肉親は、私の命と引き換えにその命を散らしてしまった。
――だから少女は自分を人殺しと蔑む。
『本当は《渡り》になんてなりたくなかった』
砂漠の昼間は灼熱の太陽が降り注ぎ、夜は冬のように冷え込む。そんな荒野を一人でさまようのは地獄のようだった。
飢えと渇きは常に少女を苛み、幾度となく幻覚にうなされた。コップ一杯の水を数日間持たせ、時には食べれるなら虫をも食らった。
――少女は来る日も来る日も心細さに耐え、涙をこらえながら進んだ。
『みんなは栄誉なことだと言ったけど、私はどうしてもそれだけだとは思えなかった』
――それはきっと、私に課せられた使命や、罰の類いなのだと感じていた。
ロゼット族の母を殺してしまった私は周りの者たちに言わせると厳密にはロゼット族とは言えないのだろう。
だからこれは、厄介払いなのだ。『誰もお前を愛さない』という意思表示なのだと思うことにした。
『もう、わからない。私は何をして良くて、何をしちゃダメなのか。自分の夢も、望みも、もう』
――それほどまでに少女の心は擦り切れて、ボロボロになってしまった。
感情というものが自分にはわからないようになってしまったのだと。手を伸ばして、つかめるかもしれない幸せというものが恐怖になってしまったのだと。
感情をさらけ出したまま語る少女の独白に、渡りのロゼットは目を細めてただただ耳を傾けていた。
(あぁ、やっぱりこれは……)
少女が感じてきたことが手に取るようにわかった。少女が見てきたものも、まぶたを閉じればすぐそこに存在するかのようにリアルに思い起こすことができる。
そして少女が何を望んでいたのか。それすらも理解できてしまった。
「他のロゼット族の娘のように、綺麗な服を身にまとって『可愛い』と言われたかった。産まれたことを祝福して欲しかった」
――恋なんてものをしてみたい、なんて儚い幻想を抱いたこともあったか。
訊ねるように少女に言葉を投げかけると、目元を押さえたままコクリと何度も頷いた。
泣きはらした目元が赤く痛々しい。まったく、我ながらどうしようもないほど泣き虫だ。
『なんでわたしだけ、こんなに辛い思いをしなくちゃいけないの? なんでわたしがこんな目に会わなきゃいけなかったの? わたしが何をしたっていうの?』
まるでこちらに非があると責め立てるように矢継ぎ早に問いただされる。
その様子は駄々をこねる子供のようだ。こう言った者を慰め、納得してもらうのはなかなか骨が折れそうだ。
「失ったものは戻らない。トレイに溢れたミルクはカップには戻らないのだよ」
少し考えてみたもののうまい言い回しが思い浮かばず率直に、しかしわかりやすいように答える。
こうやって諭すように語りかけるのはあまり経験がなくて、なんだか不思議で、ほんの少しだけ可笑しく感じた。
渡りのロゼットは続ける。
「そして与えられなかったなら、たとえ運命に抗ったってそれは与えられない」
この世界で暮らす者のほとんどはそうした鎖に縛られて生きている。あるいは、女神の気まぐれとも呼べるかもしれない。
「この者は、……私は、今の私は《私》が嫌だと嘆いたモノでできている。どんなに辛くても、嫌でも、私は私を作り出している因子を手放さない」
――大丈夫、《私》も私も生きていける。
『……ありがとう』
それだけは確信をもって言えると、少女に伝えれば、少女はお世辞にも上手いとは言えない笑顔を向けて、煙のように消えていった。
口下手なこの者の思いは、在りし日の私に伝わっただろうか。
川から上がり、手頃な石に腰を下ろすとふわりと風が吹いて木にくくりつけた洗濯物を揺らした。
木々の隙間から差し込む太陽の光が陽だまりを作り、なんとも心地いい。
(少し横になろうか)
少しこの場で微睡んでいれば、きっと濡れた毛並みもふわふわになっているだろう。
暖かな陽に包まれながら、成長したあの日の少女は目をゆっくりと閉じた。