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裂罅
登場人物一覧
ヴァレンティーノ・ヴィエリと云う男がいた。居た、というのは彼の存在はもはや過去であるからだ。
朝焼けに焦がれ、穏やかな昼下がりを望んだスラムの孤児院へと足早に小夜は向かう。生憎の空模様は塵芥の転がった路地裏にも湿った気配を齎した。セーラー服を纏う白杖の乙女が歩むには余りにも煩雑すぎる光景は、彼女の歩みを止めることはない。寧ろ、急げ急げと急かすようにその背へと風を吹かせた。
辿り着いたのは一角の孤児院だ。新調することも無く解れを作ったエプロンを身に付けていたシスターは「お客様ですか」と軽やかな声音を踊らせる。
雨模様の空の下、泥塗れで不格好な野菜を昼食にするために下拵えを続ける彼女に「お早うございます」と小夜は穏やかに腰を折った。
「ヴィエリ男爵の支援を受けていらした孤児院と聞いてお邪魔したの。……男爵の事は『残念』だったわね」
「ええ。あの方は孤児院にも多大なる支援をして下さっていましたから。お亡くなりになったと聞いて……。
生活はとても苦しくなりましたが、子供達を放置するわけにも行きません。出来うる限りを尽くすだけですよ」
「ありがとうございます」と小夜が差し出した袋を受け取ったシスターは「わあ」と嬉しそうに笑みを零した。草臥れたショッピングバックの中にはいくつかの野菜と、少量の肉。到底足りないだろうが、様子を見る為には必要であると考えた僅かばかりの手土産だ。この様な人間の屑と欲望ばかりを煮詰めた掃き溜めでは他人に気を掛ける余裕も存在していない筈だ。それでも身を切り詰めてシスター達は幼子を護る。聖母のような慈愛を湛えた感動ビデオでも見ているかのような妙な焦燥を感じ取って小夜は白杖をかつりと鳴らした。彼女達を苦しめた張本人であると喉元にナイフを突き立てられても文句を言えやしない状況にひりつく肌が不安を伝える。
「シスター! ポストの前に、『今日』もありました! ……あっ……」
ばつの悪そうな声を出した幼い子供が小夜を見た。見た、といえども彼女には『視る』事の出来る目は存在していない。大凡の気配や空気感が全てを手に取るように感じさせる。薫り立つ花など存在しないが子供にこびり付いた汚れが彼らの貧困を感じさせる。野菜の泥を拭うシスターの手が止まる。ざばざばと大仰に音を立てていたそれが止められたと当時に漏れた苦笑は何だったのだろうか。
「今日も?」
「ええ。今日も。『また』なんです。何時も誰かが置いていってくれるんですけれどね。……誰なのか一向に分からなくて。
何かのサインが記してあれば良いんですが小包は何処にでもあるようなものですし、有り難いのは確かではあるのですが」
立ち上がったシスターが肩をすくめる。何かを示すように小包を差し出してくれるが小夜は視ることが叶わない。すん、と鼻先を鳴らしてから「ああ」と小さく頷いた。
じゃりじゃりとぶつかり合ったのは硬貨だろうか。小包の中身が子供達への支援である事位想像にも安い。それに、こんな薄汚れた場所で嗅ぎ慣れた薫りを感じるわけもない。塵の掃き溜めの中で感じるには余りにも華やかすぎたのだ。あの髪先がふわりと揺れるたびに感じる僅かな香料でも小夜にとっては人を識別するための重要なパースだ。
「……どうかなさいましたか?」
「いいえ。なんだか、素敵な『パトロン』が居るのね。何処の何方だろうかと考えてしまったのよ。私には、分からないでしょうけど」
小夜はふと、まぶしさを感じて顔を上げる。幾人もの子供達が『おつかい』を終えて帰宅してきたのだろうか。リビングフロアには蝋燭の明かりが灯される。賑わいを感じ、野菜を洗う手伝いに出てくる子供達も居るのだろうと小夜はシスターに一礼し、ゆっくりと路地を辿る。
それは帰還というわけではなかった。路地を曲がり、くるりとUターンをする。ダンスでも踊るかのような慣れ親しんだ歩調で向かった先には小包に染み付いていた薫り。爽やかさを感じさせる其れは、この時期に合わせて彼女が新調した香水であっただろうか。薫りも淑女の嗜みだ。まるで自分自身の存在を主張して見つけて欲しいと願う子猫のようにも感じられる。意地の悪い表現だこと。含み笑いをした小夜は「こんにちは」と声を掛けた。
「気になるなら会いに行ってもいいんじゃないかしら」
肩を揺らがせて答える気配がする。妖しくも爽やかに華やぐ薫りをさせたこの場所にはにつかぬ娘は占い師然とした風貌をしている。伸ばした髪から香る気配は先ほどの小包と一緒では無いか。
「何のことでしょう?」
「あら。香水は何時変えたのだったかしら。素敵な薫りね。私、嫌いじゃないわ。あなたによく似合っているものね?」
小夜にそう言われてしまえばしらを切り通せるわけもない。視えないからこそ真実を暴き出すことの出来る闇夜の眼は薄明かりの下でも健在だ。語りかけられた側の女は、その名をヴァイオレットと言った。小夜とは『孤児院の彼ら』のパトロンの命を奪った、詰まる所は共犯者。罪人の一人である。
「……ワタクシにはその資格はありませんから」
陽の中には余りにも似合わぬ影を湛えてヴァイオレットはそう囁いた。曇天の雲間より見えた日の光も何れは隠される。星も無いような暗がりであれば彼女だって動きやすい。願わくば美しい青空など今日は眠りに落ちていて欲しいと願うように小夜は「良ければご一緒にお茶でもいかが?」と手招いた。
裏路地を抜けてから石畳をかつかつと叩く白杖にヴァイオレットはエスコートを行う紳士のように腕を貸す。乙女の白魚の指先が添えられて、一安心で「何処へと向かうのですか」と問いかけた。
「何処が良いかしら?」
「アナタが誘って下さったのでしょう?」
「ええ、ええ。そうだったわ。誘ったからには人気のカフェテリアで遅めの昼食にでもと言うのがルールなのでしょうけれど。今日は少し寂れたお店でどうかしら。
夜に慣れきった私たち同士。其方の方が話しやすいでしょうしね。勿論、あなたのお好みが違うのであれば考え直すのだけれど」
「いいえ」
小夜の指さす方向へとヴァイオレットは歩き出す。今にも泣き出しそうな空を眺めながら辿り着いたのはこざっぱりとしたカフェであった。ランチのメニューはトーストのみが自慢げに鎮座する。珈琲の薫りが漂う店先に雨を逃れるように入り込んだ二人は猫のように店の最奥へと辿り着いた。ボックス席の背丈は高く、自身等を隠す簔のようで。
適当に昼食を注文してから小夜は首をこてりと傾いだ。まるで少女がするようなその仕草にヴァイオレットは「どうかなさいましたか」と問いかける。
店内に流れる落ち着いたクラシックは世の中の不安など、人の心から剥奪するかのような聡明さを湛えている。荘厳すぎるレコードを流す店主の心は知れないが、運ばれてきた珈琲に手持ち無沙汰な儘に注ぎ込んだミルクはいとも容易く黒に白を混ぜ込んだ。
「あなた、『あの時』は怒っていたのね。義憤。そうとしか思えなかったの。勿論、あの行いは道徳を説けば許せるものでは無いわ。
彼は無粋にも私たちこそ悪漢であるかのように振る舞ったわ。ええ、暗殺なんてものの正当性が説きたくて話しかけたわけではないのだけれど。
ねえ、あの時――愉しそうに見えたわ。同時に不愉快そうでもあった。なんとも言えない感覚ね」
小夜の言葉を受け止めてからヴァイオレットははあと息を吐いた。嘆息したわけではない。畏れ入ったとスタンディングオベーションで彼女を湛えたい洞察力である。
「まあ……そう、でしょうね」
「どうしてって聞いても?」
「聞かなければ、納得しないでしょう?」
「ふふ、まあ」
意地が悪いのだと笑えば「あなたこそ」と小夜の声音が踊る。レコードの音など忘れてしまうほどに二人の中に漂った静寂は、静寂の海にでも潜り込むかのような美しさで。
「ワタクシはただの人として産まれ、善く在れと育てられた筈でした。ええ、けれど、仰るとおり、生まれついて人の不幸を渇する性質があったのです」
「誰だって他人の不幸は蜜の味だわ。けど?」
「幼い頃から、酷い目に遭った人々を好奇の視線で追うようになりました。ええ、それが『いけないこと』だと知っていてもです。
あの時ばかりは『悪い子になってしまった』と己を責めたものでしたが……その極地となったのは、幼い頃に誘拐されたのです。ワタクシと、親友が」
男に連れ去られて、目が覚めれば幼子の悲鳴を聞いて悦に浸る異常者ばかりの空間に居た。目の前で呼吸を辞め、言葉を発するのを辞め、ただの我楽多になって行く同年代の子供達。地獄のような空間でヴァイオレットは二種類の感情を抱いていた。
外道を許しておくことは出来ない。ああ、けれど。甘美なる蜜の味。悪が応報を受けて破滅することになった絶望。その目を見たときの愉悦。喉から手が出るほどに欲した――欲してしまった愚かしい己。それが、ヴィエリと名乗る男を前にしたときに己が感じた感覚だったのだ。愛おしい絶望の気配に、もう一度と望む自分の愚かしさ。
トーストに手を付けることのない儘に過ぎ去る時間を感じ取る。ヴァイオレットが窓の外を見遣れば、いつの間にか感じた黄昏が一番星を飾り始める。気付けば曇天の気配は遠ざかる。明日は晴れるのだろうかと小夜が釣られて顔を上げれば冷め切った珈琲のおかわりをマスターが問いかけた。
「ああ、お願いしようかしら。ディナーもトーストだけなんて言わないわよね?」
「勿論です」
何か用意しましょうと席を後にしたマスターの背を追いかけた小夜の横顔を眺めてからヴァイオレットは星をなぞる。美しい、何者にも汚されぬ一等星。
「ワタクシは、この掃き溜めのような『幻想』国が、嫌いです。
弱者や正直者が食い物にされる、理不尽な不幸すらもありふれたこの国が……好きでたまらないのが、大嫌いなんです」
幻想国へとこんな気持ちを抱く自分はなんと愚かしくて、なんと言葉にできようか。不幸の蜜を滴らせたパンケーキ。重さに潰れる下敷きとなった側にはメープルシロップは掛けられない。誰かが搾取し、藻掻くように生きている者達が無数に存在するこの国に。
ヴァイオレットは「こんなことを打ち明ける事になるとは。忘れて下さい」と苦い笑いを浮かべた。屹度、聞かされても困るだろう。彼女にとっては好奇心であったかもしれない。マスターが食事を運んできたら早々に掻き込んでから別れよう。ヴァイオレットが決意をした時、小夜は「そうねえ」と間延びした声を漏らした。
「ヴァイオレットさんはもう少し自由になっていいんじゃないかしら?」
「え、」
余りにも可笑しそうに。子供でも眺めるように微笑むから。ヴァイオレットは小夜をまじまじと見遣った。運ばれてきたマカロニグラタンから感じられる熱さにフォークを適当に突き刺したまま動けずに居たヴァイオレットに小夜はハンカチーフを膝の上へそっと広げる。
「『資格』と言っていたけれど、それを自分で決めるのはとても傲慢だわ。其れを決めていいのはあなたでも、勿論私でもないでしょう?
ええ。何を言っているのという顔をしているのかも知れないわね。けれど、聞いて頂戴。傲慢なままでは女は居られないのですからね。
それが貴女という人間の性であるなら迷うことはないわ。誰かの破滅を望む性質を罪と思うのなら、その苦悩こそが罰なのでしょう」
必要以上に自分を罰する必要があるのだろうか。そう問いかける小夜にヴァイオレットはまじまじと彼女を見遣った。
苦悩し、描いた己の有様に彼女は簡単な答えを見つけたように提案してくれる。まるで慈愛に満ちあふれた聖母が神託を下すかのような論調で穏やかな声音には重苦しい言葉と軽やかな響きを乗せて。
「だから会いたいなら会いに行けばいいのよ、きっと喜んでくれるわ
……それに、もし、その苦悩すら忘れて、罪に呑まれてしまった時には私が
それが小夜。白薊 小夜と呼ばれた娘が誰かを救う為のあり方である、と。剣でしか救えぬ者を救うのが剣を握る白薊 小夜の存在理由であるのだと彼女は告げた。罪であり罰である。
「――ああ、」
罰し過ぎだと軽やかに告げた乙女を見つめてからヴァイオレットは肩を竦める。幾星霜、まだまだ年若い身の上であれど少女にとっては長くも感じられた時間で自らを責め続けたヴァイオレットは「そんなことは初めて言われた」と幼い子供のように漏らす。自身の罪にも似た暗澹たる夜空に飾られた一等星は彼女の言葉のようにきらりと輝いている。
「まるで罪と罰に擬えて諭すなんて告解のようではありませんか」
「そうかしら」
「ええ。そうですよ。カミサマに赦しを乞うことはないと思っていたのに、その様に思ってしまうのですから」
神よ、聞き届け給え――そんな言葉を口にする気はみじんも無い。これからも生きていくならば罪を重ねていくばかり。その罪の在り方を彼女が肯定し、罰を与えると口にしてくれるのならば。なんと奇妙な有様か。
「……ワタクシの友人は皆、優しい方だったのです。『ヴァイオレット・ホロウウォーカー』を許容してくれる方ばかり。
だからこそ、皆が認めてくれたワタクシをワタクシが罰さねばならなかったのです。誰か一人でもこの罪を罪であると覚えておかねばいけない、と」
「優しい友人が多くて、羨ましいわ?」
「ふふ。私の罪が行き過ぎたら――アナタは?」
「ええ、言ったとおりに
包み隠すことなく、言葉の中に込められた罰の有様。ヴァイオレットの言葉を受け止めながら冷めない前に食べましょうと小夜はディナーに手を進める。
遅めのランチに注文したトーストをちぎってはホワイトソースに浸してみやれば、じわりと染みこんだホワイトソースはヴァイオレットの心の隙間にすとんと落ち着いた安堵のようで。背負っていた重苦しい荷物をいとも容易く降ろすことが出来た己にヴァイオレットは食事を続ける小夜をまじまじと見遣る。
「……それは有り難いお話で、是非お願いしたいところです。ワタクシの末路がアナタに討たれるというものであれば……それもまた、良き末路でございましょう」
友人と呼称するには不似合いな。命を預け合う関係性には名前を付けることは出来ない儘にヴァイオレットはゆっくりとディナーを続ける小夜を一瞥する。
窓から差し込んだ星明かりは、声を潜めたふたりごとをも隠すように輝き続けている。天上の神になんて赦しは乞わない。罰されるならば人が良い。
「冷めてしまうわ」
食べましょうと誘った小夜に頷いて。あと少しだけでも、彼女と話してみたい。
自身を裁く『