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ふたりとも、おたがいのことなんてみちゃいないのです。
登場人物一覧
「ねえ、星を見に行こう。とびきり綺麗で、しあわせになれるような、さいわいの星を手に掴みに行こう。いーちゃん」
何気なく彼女はそう言った。人混みの中を歩むときと同じくステップを重ねる様に歩いた彼女は「とってもきれいだよ」と言葉を繰り返す。
「とてもきれいなのね。美しい星というのは見るだけで心が躍るもの。
ええ、ええ、行きましょう。それはいいわね、カタラァナ」
部屋のサイドテーブルの上に馴染んだ書物を置いた後、イーリンはカタラァナに誘われるように夜の海へと向かった。
人気無い浜辺は雲一つない夜を反射するようにガラス瓶が砕け散ったが如くぎらぎらと輝いている。宝飾店のショウウインドウ顔負けの浜辺を踊る様に駆けだした海種の娘は「きれいだ」と在り来たりな言葉を口にした。
「ええ、そうね。そうだわ。とてもきれい。
けれど、これで星を見た事になってしまうんじゃないかしら? 此処から見る星も綺麗だわ。夜の海は静かで、人の声一つありもしなから海の泣き声がざざんと聞こえるだけだもの」
「違うよ。いーちゃん。ほんとうの『星』はここにはないんだ。
見せたい星はもっと別の所にある」
「そうなの?」とイーリンは訊いた。
「そうだよ。だから、いこう。本当に美しい星を見に」
冷水の中に浸していたかのような指先がイーリンの手をぎゅ、と掴む。旅人である彼女に取って深い海の中とは死の象徴だ。人間の生命維持に必要な酸素のない閉じた匣の中、ぐんぐんと進む事に慣れてしまった海種の娘は「ほら」と小さな小舟を指さした。
「それを漕いでどんぶらこどんぶらこと進んでいこう。もっと向こう、遠浅の海じゃないとさいわいの星には届かない」
月と同じ位丸く輝く瞳を細めて海種の娘は指さした。サルバドール・ダリが描く欲動の様な海はざざんと音立てるのみだ。
「行っても?」
「さあ、おいで」
誘う様な指先に誘われて女は小舟に乗り込んだ。静けさの海は女の乗った船を物言わぬ儘運んでいく。
先導する海種の娘は名もなき歌を口遊み自身の理解者に足り得る女を誘うセイレーンの如くくすくすと唇に笑みを乗せただけだ。
端整な顔立ちに不安を乗せる事も無く旅人の女は「どこまでいくのかしら」と訊いた。
「もっと遠く」
「もっと?」
「そう。もっともっと。さいわいの星が沈んでいる場所に行かなくっちゃ、掴めやしないから」
おおよそ穏やかな夏の夜には似合わぬ冷たい響きを孕んだその言葉はカタラァナのエゴを孕んでいたのだろう。
気づかぬ振りをして何も分からぬ顔をしたままイーリンは「そうね」と小さく返す。
イーリンがその言葉に納得しようともせざろうとも、この海の上では海種の娘が一枚上手だ。これ以上何かを続けるのも苦ではあるし、何か言葉を投げかけたところで「まだだよ」という否定の言葉が帰るだけだ。
穏やかな海を見下ろせば海はキャンバスに黒いペンキをべたりと堕としたかのように深い色をしている。只、一つ。針で穴をあけたかのようにぷつぷつと天蓋の星がその輝きの足跡を残すだけだ。
不規則な光が並んだ其れは、けして均等とは言えず、さりとて、汚らしいとは言えない。星というものはどうにも不思議だ。眩ければ眩い程にその命が終焉に近づくというのはどういう気持ちであろうか。今も正に死にかけた何者かのいのちを美しいと言葉にするのも人間というものは浅はかだと言葉にするわけでもなく。
「まだかしら」
「まだだよ。いーちゃん。いーちゃんはさいわいの星ってなんだとおもう?」
「さあ。私はそれを知らないけれど、カタラァナは知っているんでしょう」
彼女はその言葉に一寸困ったような笑みを見せて「海の底に星がある」と告げた。
「海に星が浮かぶほどの雲のない夜に真っ暗な海の中に潜ると見えるさいわいの星」
「それって、本当に星かしら?」
「さあ。分からない。けど海から落ちた流星の仔がきらめきの涙を流して待ってるんだ。
誰かを思い出してみる思い出の灯のように、きらきらと輝いて、誰にも見られないように深く深く沈んでいく」
「それって」とイーリンは云った。
「まるで記憶のようね。記憶の海にどぷりと沈んでいくような。わかるかしら? 深い海は災いがおおいけれど、一等輝く美しい星が眩いさいわいの記憶の様に漂っているの」
言ってから難しい顔をしてイーリンは立ち止まったカタラァナを船の上から見下ろした。
深海の泥の様などっぷりとした色にその体を埋めていたカタラァナは丸い瞳でイーリンを見上げる。
「さあ」と手を伸ばして、彼女は云う。
「この下だよ」
「本当に?」
「本当に。だから、いーちゃん。星を見に行こう」
まるで、今初めて言ったかのような誘い文句でカタラァナはイーリンを誘った。
イーリンはその言葉に曖昧な表情を返して「この下? この下って海だわ?」と首を傾ぐ。
「そうだね。海だよ」
「本当に? 本当にこの下にいくのね?」
「そう。この下にさいわいの星があるんだ」
まるでスプーンを落としたかのようにぽとりと音が鳴った。
それが今まで漕いでいた小舟の櫂であったことに気づいた時、もう戻る道はないのだと彼女は認識したことだろう。
其処からは言ったが早いかカタラァナの手を取った。彼女の繰言を信じたのかは分からない。
ただ、その冴えた指先を掴まずにはいられなかった。まるで冥府へ誘うかのように冷たい指先がしっかりとイーリンを捕らえる。
浮力により星を空へと戻さんとする大いなる海を否定するようにしかと抱き留めてカタラァナは「こっち」と目を伏せる。
そうして海の中へと沈んでいくことが旅人の女にとって危険であることは分かっていた。一歩間違えれば海月の表皮よりも容易く裂けて向こう側へと行くことが分かって居ようとも、この危うい少女の傍を離れることはできなかった。
イーリンにとって、冴えた指先を握る事こそがカタラァナという少女への友情であり『好意』であった。共に在れば幸福だとでも言う様に唇には魚の様に足をグンと延ばす。
星を逃がさぬようにと目を伏せって、カタラァナは「まだ」と繰り返す。
海の底へと誘う事が破滅をも免れぬことを知って居ようとも、その手を放す事が出来ないままにカタラァナは繰り返した。
「まだだよ。まだ、もう少し」
ミミクリーの様に何度も重ねたその言葉。誰を模倣しているのかは分からない。自分の思う自分でも想像したか。
死の淵とは美しいというが完璧にそれを描画した物語は想像しない。何故ならば死を完璧に描くことができる人間は存在しないからだ。
水泡が命の期限のように立ち上っていく様子を気に留める事無くイーリンはそのまま海の奥深くへと向かっていった。
カタラァナの縋る様な指先はその時意味をなさなくなって、次第についていくのは彼女の方になっていく。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何かしら」
酸素と共に言葉がぼこりと上がっていく。遠ざかる闇の色と生の気配を感じながらイーリンは目を瞠る。
苦しむ事も無き美しい女の横顔をちらりと見遣ってからカタラァナはさあと返す。
「僕わからない」とぼんやりと告げたそれにイーリンは「そう」と返した。
「そうね。だれにもわからないわ」
それは相手の事にも自分の事にも通じていた。
深い海の底に沈んでいったところで二人とも互いの事なんざ見てはいない。つまるところ真実を見透かす様な赤い瞳は深海の星を探し、閉じた金の瞳は何も移さぬ儘。
それを人は愉快と呼ぶのだろう。シュルレアリスムを講じた画家たちがキャンバスに描くが如く深海には波が渦巻くばかり。
誰も何も分かりやしない。エゴイズムを内包したまま、それを誰にも言えぬ儘、自身の欲動に従うままに海に沈む。誰もがそれを目から逸らし、誰もがそれを理解できない。
あなたたち、誰も分かっていないじゃないという視線を向けようとも彼女たちはあくまで自身のエゴイズムに従うままに暗澹に落ちていくのだ。
本当のさいわいなんて知らないけれど。
本当の星があるかなんて知らないけれど。
まるで、あるかのように信じ切った子供の顔をして「さいわいとは何なのかしら」と口にした。
気づけば凪いだ風の音さえ聞こえぬ深海は音もなく。誰の気配もない只の二人の場所に居た。
彼女達二人も何も理解はしないまま。響く事ないクラシックを聴く様に唇から漏れた名もなき歌を口遊むのだ。
――誰も彼もが、互いが居ればそれがさいわい。倖あれかし。