SS詳細
Hope is a waking dream.
登場人物一覧
王都から少しばかり離れたこじんまりとした一軒家。小さな庭には青々とした葉を茂らす桜の木が一本。
陰鬱とした空気を孕んだのは閉じ続けて居た窓の所為だろうか。ソレとも前住民が溜め込んだ塗料の香りのせいか。
シンプルなモノトーンの家具が並んだ室内でシラスはふうと小さく息を吐いた。ダイニングテーブルの上で背に花を背負っていた猫の置物の水も少なくなってだろうか。
ソファーの上に適当に投げ置いた本やブランケットをそろそろ片付けなくては行けないかも知れない。『勇者』となって以降、背負う者が多くなるほどに多忙を極め家屋の清掃に気を配って無かった事は否めない。可愛らしいランチョンマットもセットして、一先ずは生活感の溢れる室内にしようかとカラフルな食器用スポンジをまじまじと見遣ってから息を吐いた。
――♪
軽やかな来客を告げるベルの音を聞いてシラスは一先ずは洗いかけたコップをシンクに置き去りに蛇口を捻り水の流れを止めた。ドアノブに手を掛けて扉を開けば見慣れた顔がそこには待っている。
「こんにちは」と跳ねる声音は何時もの通り。嬉しそうに目を細めた彼女はバスケットに茶菓子を詰め込んでやってきた。
「やあ、来てくれたんだね」
アレクシアが「最近忙しそうだから、ちゃんと休んでないんじゃないかなって思ってね!」なんて笑うだけで部屋の空気もがらりと変わる。一人きりでは広すぎる室内に、涼やかな夏の風が入り込んだような爽涼さが満ちあふれた。自然に顔が綻べば彼女の花咲くような笑顔に悪戯心が僅かに宿る。
「勇者となったのは喜ばしいことだけれど、体を壊しちゃ元も子もないからね。今日はゆっくりしてもらわないと」
「確かに。それじゃ、お茶にしようぜ。仕事のついでに良いやつ貰ったんだ」
休息も大事だろ、とシラスも悪戯っ子のように笑えばアレクシアは嬉しそうに頷いた。お邪魔しますと礼儀正しく挨拶をする彼女のバスケットをダイニングテーブルまでエスコート。慣れたように洗面台で手を洗った彼女の背中を見送って、棚から取り出した茶葉はシラスでも知っている銘柄だ。
香りが良いのは確かだが、王都で適当な店で一瞥した際にかなりの値が張るものであるのは確認済みだ。良いものには良いサービスが。飲み方や淹れ方の指南書も小さく折りたたまれて入っていた。
「あ! 私が淹れるからシラス君は座っててよ」
小走りで寄ってくる彼女は「良い香りだね」と微笑んだ。湯を沸かすための薬缶の中で熱された水がぐらりぐらりと揺らぐその僅かな時間。
静寂がしんと降りた室内でアレクシアは「バスケットのお土産、気に入ると良いんだけど」と背を向けたままシラスへと声を掛けた。ティーカップもシラスの新居を選んだ際に二人で選んだ可愛らしい少女趣味なものだった。あの日は、アレクシアの家を作ってるみたいだと笑ったものだけれど――どうにも、その印象はまだ此処に居座っている。それが心地良いのだと彼女に言えば笑われてしまうだろうか。
「お、パンだ。幻想の?」
「うん。見かけてね、美味しそうだなって思ったから。お茶と一緒に食べよう」
「オーケー」
何も言わなくても皿とパン切り包丁が差し出された。シラスは一先ずは大人しくソファーにでも座っていようかと、備え付けたテーブルにバスケットと皿を運んでから着席した。身を固くするのも妙な心地でソファーの柔らかな背もたれに体を預けて準備を行うアレクシアを眺める。
「これって、凄く良い奴だよね?」
「うん。仕事で貰った奴でね……」
ソレを貰えるだけのコネクションを積み上げてきたのだと自慢げに鼻を鳴らした。もう汚い仕事ばかりじゃない。表舞台の活躍だけでも『ローレットのシラス』として名が通ってきた。そう思えば、随分と遠いところまで来たような気がしてならない。
ソファーに深くもたれ掛れば体が沈み込んでしまいそうな心地を感じる。アレクシアは「ふふ、嬉しいね」と小さく笑った。
うれしい。そんな言葉に込めた幾つもの意味に彼は気付くだろうか。苦しげに細めることの多かった射干玉の眸に嬉嬉とした色が宿っている。背筋をピンと伸ばして、堂々と名を馳せる彼。シラスが評価されることがアレクシアにとって純粋に嬉しくて堪らなかったのだ。彼はずっと頑張ってきた――地を這い、血反吐を吐いても努力をした。アレクシアにとっては恐ろしく悍ましいと思える行為さえも、躊躇わない。アレクシアにとっての『すごいひと』
「おまたせ」
カップを運んだアレクシアに「ありがと」とか細い返事が返される。よくよく見れば目元に色が落ちている。睫の影ではない、疲労の蒼が滲んだかんばせに無理を感じてアレクシアは何も言わずに彼の隣に腰掛けた。
「……ただ流石の俺も、少しだけ、疲れたね」
「うん」
そうだよね、とパンを切りわけるアレクシアの横顔を見遣る。淡い蒼い瞳が真剣な色でパンを切っている。つんと尖った唇がその真摯さを思わせてシラスはふ、と小さく笑った。
「そうだ、晴れて勇者になった記念に一つ我儘を聞いてもらえる?」
見詰めて居た蒼に柔和さが宿った。此方を見た、とそう認識するだけで体の力が抜ける。パン切り包丁をテーブルに、此方に僅かに身を傾けるアレクシアが大きな眸をぱちりと瞬かせて。
「我儘? どんなこと?」
頑張っているから、何だって。そんな風に微笑んでくれる彼女をちらと見遣ってからシラスはごろりとその体を横たえた。アレクシアの柔らかな膝が後頭部にぬくもりを伝えてくれる。
「ごめん、びっくりした? ……ああ、でも疲れが吹っ飛ぶぜ」
藍色のソファーの背もたれに体を凭れさせたアレクシアが見下ろすようにシラスを覗き込む。「そのくらいなら」と、そう笑った彼女のかんばせに滲んでいた驚愕をシラスはミノガラズに「でも、びっくりしただろ」と小さく笑った。
「ふふ、びっくりしたけど。シラス君、疲れてそうだから」
遠慮無く、なんて胸を張る彼女の言葉に甘えるようにシラスは一度目を閉じた。体から力が抜ける。彼女がストールを手繰り寄せてそっと自身の体に掛けてくれた事に気付く。
「まだまだ忙しそうだよね」
「まあ……アレクシアだってそうだろ?」
「ふふ、じゃあ、お互い様かな?」
時計の針が追いかけっこをして居る。長針と短針が出会って、そして離れて。身動ぎをした彼女に「重たい?」と問えば「全然」と面白そうに笑った感覚さえ、共有されて。穏やかに細められた蒼が空の色のようだとぼんやりと感じてから、シラスはゆっくりと唇を震わせた。
「アレクシア、俺さ。褒めて欲しいんだ」
褒める、と。アレクシアが瞬いた。その眸を、曇らせるかも知れない。それでも、『彼女に間違っていないよ』と認められたかった。
だからこそ。言葉を紡ぐ唇はのろのろと、夢の世界に半分旅立つような重さで声を作る。薄い唇は緊張の色を僅かに履いてから、もう一度、その名を呼んで。
「勇者のことじゃないよ、あんなのただのメダル集め。それよりノクスノヴァの依頼さ……誰も死なせなかったろ?」
「ノクスノヴァか……」
アレクシアの表情に苦さが滲んだ。シラスは矢張りとは感じていた。彼女にとって、あの『仕事』は苦々しい終わりだっただろう。
全てを丸く収める事が出来ない事は最初から解っていた。不幸ばかりが顔を連ねて囁き合って。領民も、領主も、三人の青年達も、出来るならば全員を助けたいとアレクシアは願っていた――けれど、それは『ヒーローであったアレクシア』の話だ。
シラスは、昔の彼ならばどうだろうか。標的の三人を殺して全てを防いで、『はい、終わり』。早々にクエストクリアで何事も無かったようにその場を後にして居ただろう。あの寒々しい雪の日に、肺が凍ってしまいそうなほどの雪景色の街で子供達にそうしたように。
「……キミがくれた言葉をずっと考えてた。頑張ったんだよ?」
「……そうだね、頑張ってくれて、ありがとう」
アレクシアはシラスの前髪をそ、と撫でた。黒い髪が指先から零れて行く。細い、柔らかい髪先を擽って喉奥から溢れ出しそうになった後悔をぐと飲み込んで。
シラスが、そして仲間達が尽力してくれたのは事実だ。『仕事』を熟すだけなら何時も通りに三人の青年を殺せば全てが直ぐに終わった。
そうしなかったのは。――キミがくれた言葉を、ずっと、と。そう言ってくれた彼の言葉が正しいならば。いつかの、あの日の言葉が彼に響いたのだとそう思える。アレクシアにとって、それは嬉しくて堪らない。自分の言葉が正しいだなんて、思っては居なくとも彼が立ち止まって考えてくれるだけでも、嬉しくて。
――でも私、イヤなんだ……
シラス君がこれ以上手を汚すのも、それに慣れていってしまうのも……
このままいけば、いつか手も握ってくれなくなるような、そんな気がして……――
喉元過ぎれば熱さ忘れるなんて、嘘吐きだ。あの夜も、何時かの日も。シラスもアレクシアも、どちらも憶えて居る。
シラスは『何から』変えるのか、立ち止まって振り返っている暇も無いほどの途方もない時の流れで理解も出来ない儘に簡単に言葉を紡ぎたくなかった。
アレクシアを喜ばせるだけの言葉は分かる。それでも、一時凌ぎのメッキは簡単に剥がれてしまうから。繋いで居た手を離さぬように慎重に、考えた。
彼のその姿勢がアレクシアにとっては何よりも嬉しかった。繋いでいた手を離さぬように。少しでも、手を繋いで居られるだけで嬉しくて。
「……あのね、私も頑張るよ」
アレクシアの零した一言にシラスはぱちりと瞬いた。そのかんばせをまじまじと見遣れば、蒼い瞳が丸くなる。
何時もと違って見上げたアレクシアのかんばせに何時もより緊張と真剣な色味が宿っている気がしてシラスは彼女の頬にそっと手を伸ばす。
「アレクシアが凄いのはみんな知ってるよ。頑張ってるのだって。キミは立派だし、『勇者の』俺に教えてくれた程じゃないか。
……でも、どうしてそんなに頑張るの? もうひとつご褒美に聞かせてよ」
勇者の、という部分を少しアピールすればアレクシアはふふ、と噴き出すように笑みを零した。彼女の笑顔が滲んだだけで勇者になった甲斐がある。なんて口が裂けても言えないけれど。
伸ばしたままの手で彼女の頬を撫でた。其の儘、髪先を擽れば、擽ったいと目を細める。そんなアレクシアは「どうしてって」と首を捻った。
「そんなに変わった理由はないよ。みんなを笑顔にしたいから、その笑顔を守りたいから。それだけ」
「それだけ?」
シラスは彼女のその理由が聞きたかった。守ってあげたいと願えども、彼女は真っ先に走って行く。誰かの元に手を伸ばして危険さえも顧みない。
前のめりで鬼気迫って。傷だらけになってでも「君を助けに来たんだ」と笑顔を絶やさない。そんな『誰かの為に頑張れる女の子』
「……うーん」
納得できないよ、と拗ねた様子で呟いたシラスを見下ろしてアレクシアは頬を掻いた。どの様な言葉で彼が納得するのかは分からない。
上手くいかないことが多くても、目指す先が遠くても、少しくらいでへこたれるわけにはいかない。夢のためなんだと、そう告げても彼は不思議そうな顔をするだろう。
屹度――彼は前に進んでしまっているから『何時までもヒーローになりたいアレクシア』を振り返ってはくれないのかもしれない。
そんな不安が少し首を擡げてからアレクシアはふふ、と笑った。
「だってね、私には諦めたくない夢があるんだ。シラス君に負けないくらい、頑張らないと!
それに……それに、どんな人にも、花が咲いたように心の底から笑えるようになってほしいんだ。
かつて苦しんでいた私に『兄さん』がそうしてくれたように。私も誰かにそれを返していきたい」
「兄さん」
「うん、兄さんみたいに。……私も頑張りたいんだ」
少し苦い表情をしたシラスにアレクシアは気付かない儘。少しの意味が擦れ違って――アレクシアは意を決したように、それが決意表明であるかのようにシラスを見下ろして微笑んだ。
「そうしていけば、いつかきっと、世界中の不幸を摘み取れるかもしれないから。
私の好きだった『天使』の御伽噺みたいにね! そのためなら、何だって頑張れる。本当に、それだけだよ」
――いつか、天使になって世界中の不幸を摘み取りたい。
けれど、不幸な誰かを見る事が幸福な人もいる。その人から見れば私は悪役なのかもしれない。
ああ、けれど、それでいいの。私にとっての正解は不幸を摘み取る事なのだから――
彼女の語った御伽噺が『アレクシア』を形作る。シラスの知っている『アレクシア』。皆の知っている『アレクシア』。アレクシアという少女の素。
沢山の要素を混ぜ合わせて出来た君だけれど、そうして指名のように背負い続ける華奢な体が何時の日か重責で折れてしまわぬか心配で。
シラスは拗ねたように唇を尖らせた。
素晴らしい理想に腰掛けて。夢見るように希望を乞うた。そんな――『俺の入る隙の無いキミの夢』
「だってさ、俺もキミの力になりたいんだよ?」
ぼやいたシラスが手を伸ばす。アレクシアの白い頬に手を添えれば次は指先にそっと手を重ねてくれた。温かい。そんなぬくもりを感じてシラスはふ、と笑う。
真面目くさった表情で、支えたいのだと願えども彼女の膝にごろりと転がったままの自分では格好付かなくて。
「この格好じゃ説得力が無いね」
くすくすと。本当に可笑しそうにアレクシアは笑った。途方もない夢を辿り歩いている彼女は、シラスの助けを求めずとも誰かの為に花を咲かせるのだろう。
彼女は変わらない。出会った頃から変わらずに何時だって『アレクシア』は『アレクシア』で。その意味を説明してほしいと求められても、屹度、シラスには答えられない。
アレクシア・アトリー・アバークロンビーという少女は何時だって、変わることはない。
それが少し寂しいような、心配のような、そんな気がしたけれど。シラスは口を開かなかった。
「眠くなったね」
「寝ても、良いよ?」
小さく笑った彼女にシラスはゆっくりと目を伏せた。ぬくもりが傍にある。温かい。あの日、勇者になったシラスへと手を振ってくれたアレクシアの声音を何時だって思い出せる。
「シラス君」
キミの呼ぶ声が、遠ざかる。瞼が重たい。闇がやってくる。微睡みの側に意識がぷかりと浮上がった。添えられた指先をそっと握りしめてから唇に淡く笑みを乗せた。
――キミが天使になれないならそんなものは初めから世界にありはしないんだ。
莫迦らしい、子供じみた、夢に塗れた世界への文句の一つくらい吐かせてくれよ。キミにはとてもじゃないけれど、聞かせられないけれど。