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べねぼれんと
登場人物一覧
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眠れない夜が続いている。
最近では日中の行動にも支障をきたしており、このままではいけないと、わかってはいるのだ。
気にすることはない。何のことはない。今更、夜の暗闇に怯えるような年頃でもない。
目を閉じて、眠りについて、問題はない。朝はいつだってやってきて、きっと快活に笑うことができる。明日は雲ひとつない晴れだと言う。季節柄の熱気にはうんざりするが、元気すぎるほどの陽光は、世界を照らしてくれるだろう。
さあ、何のことはない。眠ればいい。それだけだ。それだけが、本当に出来ない。
ずっとずっと、くだらないことを考えている。くだらないと思いたいことを考えている。
指先を確認する癖がついた。ああ、また同じことを考えている。
目を閉じてしまったら、次に起きた自分は本当に自分なのだろうか。
今この自分は、本当にこれまでの自分なのだろうか。
いずれは限界が来て、目を閉じる。足りていない睡眠。日が昇ればまた、汗を全身にかいて、飛び起きるのだ。
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歩みをひとつ進める度に、靴と土と葉と枝がこすれあって、ざぐりざぐりと心地よい音を響かせる。
目いっぱいに息を吸い込めば、それだけで青々しい空気が体内をめぐり、本当に、場所によって呼吸の味は異なるのだと教えてくれる。
あんなにも燦々と輝き、焼き上げられていると勘違いするほどの熱気は木々によって阻まれ、葉の間から覗くそれらは、今や心地よいものにすら感じられた。
ひとつノビをして全身をほぐす、肩から腕をめいっぱいに引っ張れば、思わず声が出てしまう。それがおかしかったのだろう。隣から軽やかな笑い声が聞こえた。
「……なんだよ」
それがなんだか気恥ずかしくて、思わず悪態をついてしまう。
しかし、それもまたツボに入ったのだろう。彼女はより一層、けらけらと笑い出した。
もうひとつ文句の一つもたれてやりたくなったが、あまりにも彼女があまりにも楽しそうにするものだから、それもまあよいかと、肩をすくめるに留めた。
「ここに来る方は、そうされることが多いですねえ。よほど空気がよいのでしょう。地元住まいの私としては、嬉しくあります」
辿々しい丁寧な言葉。どこか舌足らずな発音。それを発する主は、自分達の数歩前を歩いている。
シラスもアレクシアも、たまたま仕事を受けていないタイミングが重なって、せっかくだからどこか出かけようという話になった。
熱気を紛らわせたくて深緑、アルティオ=エルムに。どうせだから知らない土地に行こうと、適当な村に目星をつけて訪れたのだ。
しかしまあ間の抜けた話で、観光地でないということは、それらしいガイドブックも存在しないのである。避暑地に選んだはいいが、何をしようと若干途方に暮れていたところで、酒場の一人娘がガイドを買って出てくれたというわけだ。
彼女の名前はウィヌイ・ルォルァッケ。なんとも舌を噛みそうな名前だが、初対面の相手にそのようなことができるはずもなく、いつもより口の周りには気をつけたものだった。
見た目の頃は、人間種で言えば十代前半といったところか。そんな少女を見ず知らずの異邦人についていかせて問題はないのかと尋ねたところ、酒場の主人いわく、そう言ってくれるなら信用できる、とのことだった。
なんにせよ、渡りに船であることは間違いない。警戒心の薄さが少々心配でもあったが、それならばと案内を頼んだのである。
かといって、村をぐるりと回れば見るものも何もない。ならば森の少し深くまで足を向けてみようとなったわけだ。
「このあたりは野生の獣もあまり見かけないです。比較的見通しもよく、散歩にもちょうどうわっぷ!」
見通しが良いと、言った側からコケて突っ伏すウィヌイ。これで何度目だろう。森のガイドを買って出た彼女は、年齢以上には大人びてみせようとする口調とは裏腹に、足元が大変お留守であった。
「ねえ、大丈夫?」
助けお越しにかかるアレクシア。
「やや、ありがとうございますです。本当に、ご迷惑を―――」
なんとものどかな光景だ。だが、殺伐とした荒事の疲れを癒やすなら、これくらいに毒気を抜かれるくらいで丁度良いのかも知れない。
そんな事を考えて、思わず肩を竦めようとした、その時だ。
「おい、何をしてる!?」
ウィヌイが口を開き助け起こそうとしているアレクシアの腕に噛みつこうとしていた。少なくとも、シラスにはそう見えた。
見えたが否や、体は自然と飛び出している。何千、何万、何億と稼働させてきた体は、自分の意志にすぐさま応えてくれる。
手刀一閃。とにもかくにも、ウィヌイを振り払おうとした、のだが。
「――――――は?」
力を込めたつもりはなかった。暴力的な行為に見えたとは言え、相手は十代の少女である。ただ軽く、それでも武芸を嗜まない相手にとってはやや過剰に、振り払おうとしたのだ。それだけなのだ。
だというのに、ウィヌイの首は落ちた。
正しく頭部が胴体より乖離し、二度三度、葉と枝のクッションを受けながらも跳ねて、転がった。
呆然と、自分の手を見てしまう。
幻覚ではない、錯覚でもない、だというのに、手応えがありすぎた。確信できる。確信ができてしまう。今自分は、素手で少女の首を切り落としたのだ。
混乱する。あってはならない。そのようなつもりなかった。しかしウィヌイが噛みつこうとしていたのだし。しかし命を取るつもりは。正当防衛。
「―――くんッ」
違う俺じゃない。間違いなく俺がやった。手応えがあった。殺した。殺してない。殺した。嘘だ。殺した。殺した。殺した。
「―――くんッ、シラスくんッ!!」
はっと、そこになって彼女が、アレクシアがずっと自分に呼びかけていることがわかった。
顔を上げるのが怖い。彼女の顔を見るのが怖い。どうしようもなく、自分はアレクシアの前で年端も行かぬ少女を斬殺したのだから。
「違う、アレクシア、違うんだ……」
何が。何が違うものか。違いやしない。自分の胸のうちに、黒いものが生まれた錯覚。闇ではなく、混ざり混ざった汚泥のような。
しかし、彼女のそれは、シラスを批判するものではなかった。
「シラスくんッ、後ろ!!」
彼女の言葉で、意識が自分の内から現実に引き戻される。感じるのは殺意。振り向くよりも先に前へと飛び出すと、自分が一瞬前までいたそこに、首無し死体が着地するところだった。
「――――――いや、え?」
思考が止まる。それは紛れもなく、自分が今首を飛ばしたばかりの死体に相違ない。
「あれぇ? どうして当たらなかったんです?」
死体が声を出した。それはウィヌイの声であり、切り落とした頭部からではなく、断面を見せる首から発せられている。
「死体が、喋ってる?」
アンデッド。そういう例がないわけではない。生命を失うことが活動の停止にはならない存在。シラス自身、見たことがないではなかった。
「いやいや、生きてますよう。ねえ、ひどいです。脱皮するだけじゃないですか」
ずる、ぅり。
首から、その断面から、指が覗いた。それは己の体を力任せに引き裂きながら、その中から現れた。
不定形。口がある、目がある。鼻がある。腕が足がある。しかしそのどれもが正しい位置にはなく、肌色とピンクが入り混じった粘泥のようなものでどろりと渦巻いている。それらはやがて焼き固められたかのように安定していき、やがてはひとつの形を作る。
「ほら、ね? 脱皮ですよ」
そう言って腰に手を当て、裸身を恥ずかしげもなく晒しながら胸を張る少女。だがその姿は、
「成長、してる?」
アレクシアの言うように、成長しているように見えた。十代、後半。それくらいだろうか。
「それよりも、さっき食べそこねたから、お腹が空いています。ねえ、だから、いただきますね?」
迷うことなく、アレクシアの手をとってもと来た道を走り出した。
「ちょっと、シラスくん?」
「逃げるぞ! どう考えたってまっとうな生物じゃねえよ!!」
走る。走る。道は覚えている。引き返すだけだ。
「あ、ちょっと、待ってくださいよう」
そうだ、引き返すだけだ。あの村に、ウィヌイのいた村に。自分の思考に愕然とする。それは安全なのか。しかし、道を知らぬ森の中を闇雲に走るよりは、マシな考えに思えたのだ。
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「どうなってるの!?」
問いかけて、答えが出るものではない。それは自分の腕を引き、前を走るシラスも理解していることだろう。だから彼はその独白に答えないし、声を荒げたりもしない。
しかし、言葉にせずにはいられなかった。さっきまで、本当にさっきまで、ただの女の子だったのだ。ただの女の子に、見えていたのだ。
「あれが、ウィヌイちゃん……?」
後ろを追いかけてくるそれ。ウィヌイの姿は既に、ヒトのそれではなかった。
あれから数度、少女とは思えない脚力で追いつかれる度に撃退を試み、それ毎に彼女は自身曰くの『脱皮』を繰り返していった。
二度目は、まだヒトの形を保っていた。二十代前半。それが裸身を晒しているというのだから、普段なら目を背けているところだが、容赦なくこちらを食おうとする彼女に対し、そのような余裕はなかった。
三度目は、角が生えた。それからは、徐々にヒトの形から離れていった。
そして現在。ウィヌイは既にカマキリのような大鎌を両腕に携え、馬のような蹄を持った足を九つ使い、複眼の集合体となった大きな一つ目をせわしなく動かしながら、自分達の倍はあろう巨体で追いかけてくる。
「ねえ、まだ逃げるんですか? もういいじゃないですか。手遅れですよ。森に入ったんだから。とっくにです。とっくにですよ」
声だけは変わらない。十代全半の、どこか幼さを残したまま背伸びをしている、最初の印象そのままの声。その姿を見なければ、今でも惑わされそうになる。どこか間の抜けた、毒気を抜かれる音調。しかし本能が理解している。経験が理解している。これは自分達に、殺意を抱いている。
「早く一緒になりましょうよ。どうせ同じになるんだからいいじゃないですか。気分がいいですよ。本当に気持ちがいいんです。ねえ、聞いてますか? もしもし、もしもし?」
いや、少し違う。声の調子は同じだが、その言動は少しずつ崩れてきている。
「アレクシア、見えたぞ、村だ!!」
ようやく、村が見えてきた。だがわかっている。そこがゴールではない。脱出の先ではない。だってウィヌイはこの村にいたのだ。村全体が彼女のようであってもおかしくはない。
息が荒い。呼吸が苦しい。いつの間にか、走り出すまでに感じていた爽やかな空気はどこかへと消え去っていた。代わりにあるのは、重苦しい、肌に張り付くような暑さ。分厚く、しかい薄い膜のようにも感じる、湿度を含んだ空気だった。
村に入る。建物の間を縫うように走り、その影に潜り込めば、うまく行ったようで、ウィヌイはこちらを見失ってくれたらしい。
「あれぇ、どこですかあ? あ、お父さん」
「ひっ、なんだこの化け物!?」
様子がおかしいことに気づく。気になって、バレないようにと祈りながら、建物の壁から顔を出して向こうを見ると、ちょうど、ウィヌイが両腕の鎌を使って彼女の父を持ち上げるところだった。
「やめろ、やめろ、やめてくれえええええええ!!」
変わり果てた自分の娘だと、彼にはわからなかったらしい。必死でもがき、逃げようとしている。
「あれ、お父さん。私だよ。ねえ、あ、そっか。一緒じゃないもんね。うん、一緒になろう」
そういって、肩の一部を噛みちぎる。咀嚼。咀嚼。嚥下。吐き気を催す光景に、アレクシアもシラスも硬直するが、より異常を伴ったそれは、その後だった。
「痛い! 痛、いだあああああああああああああああああははははははははははは!!」
痛みにもがいていたウィヌイの父が、そのまま大声で笑い出したのだ。
「気持ちいい。気持ちいいなあこれ。なんだ、うん、脱皮するだけじゃないか」
噛みちぎられた肩から、ウィヌイと同じように、肌色とピンクが入り混じった泥が溢れ、やがて節くれだった多関節のなにかに落ち着いた。
同時に悲鳴が上がる。怪物を発見した村人が騒ぎ始めたのだ。今やヒトをやめた親子は、親しげに語りかけながらも彼らに襲いかかっていく。
「なんだ、なんなんだよ……?」
お互いに、この疑問を何度投げかけただろう。しかし今回もまた、答えてくれるものはいない。目の前の光景をそのままに受け取るしかない。
「……逃げよう。今の内だ」
自分の手をとってその場を後にしようとするシラス。迷いは合ったが、頷くしかない。
もしも村人が、ウィヌイのようではないのだとしたら。ウィヌイに食われたことで同じものになってしまうのだとしたら、助けてあげたい気持ちはある。
だが経験を積んだが故に、情報の不足、戦力の不足、そして村全体がウィヌイのようではないと言い切れない疑心が、その場に留まることを拒否させた。
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どれだけ歩いたろう。どれだけ走ったろう。村を離れて遠く、遠く。ウィヌイは自分達を完全に見失ったのか、それとも興味の対象が移ったのか。あれから追いかけられるということはなかった。
それでも警戒と、慣れない森の中を走り続けることですり減っていく精神。数時間。感覚では数時間。走り、走って。体力も精神も底を尽きかけていた時に、ふっと、纏わりつくような空気が消えるのを感じたのだ。
なけなしのメンタルを総動員して周囲の気配を探る。だがどうやら、本当に撒いたらしいと理解して、どちらともなく、その場に膝をついたのだった。
「ねえ、これからどうする……?」
荒くなった息を落ち着けながら、アレクシアが問いかけてくる。それは質問というより、優先事項の確認のようなものだ。
「とにかく、街まで戻って、報告をしよう。あんなの、放置していいわけないし」
彼女が頷いたのを確認して、立ち上がる。差し出して掴まれた腕を引いてやれば、それを力点として彼女も立ち上がり、膝についた土を払った。
まだ陽は高い。道のわかるところまで戻れたなら、あとはそこまで難解ではないだろう。
木々の間から陽光が刺す。阻まれて心地よくなった日差しに、手をかざして影を作ると、自分の手に少しだけ違和感を感じた。中指の第二関節のあたりだ。
「なんだこれ、ささくれ……?」
「どうしたの? 行くよ、シラスくん」
「え? ああ、うん」
その時は、そんなことなどすぐに忘れてしまった。
けれど。