SS詳細
雷鳴はしめやかに
登場人物一覧
●
ある日の鍛練中の出来事であった。しと、しと、雨が降り出して、雷雲が音を立てる。
ヴェルグリーズが剣を構え直した。頬に伝う雨を拭い、目の前に立つ星穹を見据える――筈だった。
先程迄しゃんと、真っ直ぐに背を伸ばしていた星穹は、身を曲げ震える身体を抱き、恐ろしい程に混乱していた。
「星穹殿、体調が優れないのかい……? 今日は終わりにして、休んだ方が、」
ヴェルグリーズが手を差し伸べるよりも、早く。
「――星穹殿!?」
星穹は地面へと倒れた。呼び掛けにも答えない。雨が彼女を濡らす。其の身体を冷やしていく。ヴェルグリーズは星穹を抱き上げて、寝泊まりしていた宿へと駆けた。
●Cerastium
「お母様……」
「大丈夫よ、セラスチューム」
「……傷が、増えています」
「お父様は、きっと疲れているだけなの。心配しないで?」
「でも……」
「……ッ、帰って来た。あなたは、早く部屋へ……!!」
貴族には珍しく、ドメスティック・ヴァイオレンスが横行している家庭だった。理由はわからない。只ある日突然、父が母に暴力を振るい出したのは確かだった。
華奢な身体に幾つもの赤と青が咲いた。母は娘を抱き締めて、父から護るようになった。軈て娘が大きくなると、部屋の奥へと逃がし、父の
何時からか母は遠方の夜の街へ働きに出るようになった。曰く、二人で逃げる時に使うのだと母は言っていた。父と出会う迄は歌を歌っていたのだと、母は語ってくれた。
父の居ない日は母が働きに出る日だった。其処は母の旧友が営む大規模な店なのだという。母の傷の理由を理解してくれる
「セラスチューム。今度はあなたも、行ってみましょうか」
「はい、お母さま」
母譲りの青い瞳が嬉しかった。髪の色は違う。青と銀。母の空のような青が羨ましいと告げたら、『あなたはお父様とお揃いの髪があるのよ』と幸せそうに微笑まれたのを覚えている。今同じように問えば、何と答えられるだろうか。
わからない。
「セラスチューム、です」
「この
「……可愛いでしょう?」
「はい、とても……」
貴族達の
「……君は、誰?」
「……わたし?」
「
母の後輩は小さな少年を連れていた。か、似ている気配はない。
「ロイ……?」
「僕の名前。君は?」
「わたしは、セラスチューム。セラ、って呼ばれることが、多いです」
「僕はロイでいいよ。宜しくね、セラ」
「ロイブラック、あなたには仕事を頼んでありましたよね」
「いっけない、またね、セラ!」
母への暴力は日常的になり、軈てエスカレートしていった。
怯える娘。苛立つ父。傷付く母。止める使用人達は皆クビになった。優しい父の面影は朧気に成っていく。何かを欲しがっているようだった。武器らしい。槍を、鎌を、盾を投げ捨てる父。其の鋭い牙が母を傷付けていく。其れに伴って、夜明け過ぎ、母がアルコールの香りを纏って帰ることも増えた。引き裂かれた肌の痛みが強くて眠れないのだろう。何も出来ずにクローゼットの奥に隠れることしか出来ない自分が憎くて憎くて堪らなかった。
「お母様、身体は、」
「……大丈夫よ、セラ」
母が銀糸を撫でる。其の手にすら青が咲く。何時からか、娘は父を憎むようになった。
硝子が割れ、陶器が割れ、其れと同じように容易く心が壊れていく。母を
歌姫の身体に傷が増えている。心配した母の後輩は、早く逃げるようにと進めた。母は頷いた。
「全て、終わらせてくるわ」
「あの
「でも、手に入らないんだ」
「いつもいつも、別のやつが横取りしやがって」
「俺の方が金をかけてるのに、糞が、糞ったれがよぉ……」
「あなたは、そんなことで、私と、
「うるせえ!!!! お前に、お前に何が
「そうね……何も、
「ねえ、リコリス」
「はい、マツリカさん」
「……セラスチュームをお願いできる?」
「…………っ、だめです、マツリカさんの手で育ててください」
「……………………夜明け迄には、帰るわ」
「約束、ですからね」
「ええ」
「絶対ですからね」
「ええ」
マツリカの青い瞳は、最早光を宿すことはなかった。
「セラスチューム」
「お母様?」
「愛しているわ。『私』の
「セラスチュームは、」
「……さあ、リコリスのところへ行きなさい。お母様は、『時間に遅れる』と言っていたと、告げておいてね」
「……お母様!」
「……お父様が来る。行きなさい!」
お礼というには
「奥様……!」
「……大丈夫よ。この悪夢に
「ですが!!」
「有難う。此処まで、夫を見放さないでくれて。最期迄、私達に寄り添ってくれて。
……
「奥様!!!」
彼の
美味しい晩餐を。それから、
「さあ、食べて」
「おお……有難う」
狂っていた。
その場にいた誰もが。
堕ちていた。
その場にいた誰もが。
満足げに飯を食らう
――
二人きりの
「あなた。あなたが欲しがっていたものを、用意したの」
「!? お前……それは、本当か!!!」
「ええ、これでしょう?」
「え……?」
「私の
「……」
「愛してい『✕』わ」
ずぷり。
取り出された魔剣は、愚かな女の願いを受け入れた。血を啜り肉を貫き、馬鹿な
「そうか……」
男は抵抗をやめた。最期の理性が『そう』させたのかもしれない。
「済まないな、マツリカ……」
「……ブーゲン!!」
ブーゲンビリア。彼の名前。
愛していたひと。愛してくれたひと。
せめて最期は、二人きりで。
「
傷が痛むことはなかった。目を閉じれば、近くに
酷い雷の夜だった。
朝焼けが街を包んでも、母はついぞセラスチュームの元へ帰ってくることはなかった。
●
「……ッ!?」
目を覚ました星穹が最初に見たのは、己の足元で小さく眠るヴェルグリーズの姿。
「……わたし、は、」
倒れたのだろうか。手合わせをしていた後の記憶がない。酷い夢を見たのは、覚えている。
誰かが『私』の名前を呼んでいた。酷く大きく、呼んでいた。何度も何度も呼んでいた。
「セラスチューム……」
「……ッ、『星穹』殿!!」
ヴェルグリーズは目を覚ます。ほっと安心したように目を細めれば、星穹の顔をじっと見つめて。
「……体調は、どう?」
「至って良好ですわ」
「心配するから、俺の前で、もう倒れたりしないで……」
「もう……
「だって、本当のことだからね」
くすくすと笑ったヴェルグリーズは、医者を呼ぶために立ち上がった。傍らに立て掛けた『己』を持って。
――ばたり。
「星穹殿!?」
大きな物音。ヴェルグリーズが振り返った先には、寝台から落ちて頭を抱える星穹の姿。痛みに苦しみ、涙を浮かべているその姿は正気とは到底思えなかった。
「ヴェル、グリー、ズ、さま、」
「星穹殿!? 星穹殿、どうしたんだい、俺の目を見て。しっかりするんだ!」
「……ッ、ああ、嫌ぁ……っ、『お母様』!!」
「お母様……? キミの母上は此処には居ない……星穹殿!!」
「おか、さまっ、ああ――!!!」
星穹の肩を掴み、肩を揺する。が、酷く取り乱した星穹がヴェルグリーズの瞳を見ることはない。ヴェルグリーズの胸のなかを焦りが支配していく。
(これ程星穹殿が精神を揺さぶられているのは、何に対してなんだろう……?)
答えはわからない。
それは二人が築き上げてきた絆故であり。互いに踏み込むことの無かった線引きの奥の話だからだ。
「ああ、ああ……ヴェルグリーズさま、わたし、わたし……」
「星穹殿…………」
腕の中で啜り泣く『少女』は、酷く弱く見えた。普段気丈に盾を振るい、血を拭い、『護ります』と笑う女のそれではなかった。
記憶がないということ。
変化の切っ掛けは確かに『あった』ということ。
泣き疲れて静かに眠る星穹の涙を、ヴェルグリーズは拭うことしか出来ずにいた。
「…………お願いだから、これ以上俺を不安にさせないでくれないか、星穹殿」
返事は、ない。
おまけSS『花言葉』
それにしてもセラスチュームというのは、聞き覚えのある言葉だ。いつかの主の娘であった筈だ。
銀の髪に、青い瞳。くりくりとした愛らしい瞳。可愛らしい笑顔と、引っ込み思案な性格。
あの
星穹殿と良く似ている容姿だ、きっと星穹殿のように健やかに成長していることだろう。