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Death is a friend of ours.
登場人物一覧
それは梅雨の気配を孕んだ午後のことであっただろうか。もうすぐ日の暮れる頃だ。
カフェテリアの店内に流れるジャズは店主が適当にセレクトしたレコードから流れるのだろう。赤々と燃える篝火のような夕日に合わせるには余りにも眠気を誘う。遠くから彼女の姿を見つけたリンディスはビスクドールがショウウインドウに並んでいるようだと感じていた。彼女が人形でないことなど自分とて知っている。だが、他の誰に聞いても美しい異国情緒の美女を精巧なる西洋人形のようだと答えることだろう。
「こんにちは」とヴァイオレットはリンディスの姿を見つけてそう言った。
「待っておりました。お誘い有難うございます。準備は終わりましたか?」
「ええ。生憎の天気ですから……本当に開催されるか心配で見にいってしまいました。遅れてしまい、申し訳ありません」
いいえと彼女は首を振った。向かうのは幻想王国から離れ、聖教国ネメシスの片田舎。馬車に揺られる旅路も良い怠惰で優雅な時間を重ねられる程にイレギュラーズは余暇を持て余しては居ない。少し急ピッチになるけれどと付け加えた彼女の背後でカフェテリアのバックミュージックは突如情動揺るがすオーケストラに変化した。
ヴァイオレットはリンディスのかんばせを見てから小さく笑う。揶揄う気配と共に立ち上がりテーブルに広げた手帖をポーチの中へと仕舞い込む。
「さあ、お手を」
誘う言葉は単調に。彼女は白い指先を差し出しては「行きましょう」と誘う。単調な街並みを眺め見ゆる時と同じように歩を重ねて行くリンディスは「お祭りがあるんです」と言った。
「お祭りですか?」
「ええ、屹度。気に入ると思います。少し遠いところなのですけれど……
私も、貴女も、異なる世界の住民です。この世界に触れてみるのはどうでしょう?
ヴァイオレットさんに占って頂いたお礼です。と、言っても導かれた私が導き手の貴女を誘うなんて可笑しな話かも知れませんけれど」
「いいえ、いいえ。遠くとてイレギュラーズにとっては昼下がりの散歩のようなもの。
屹度素敵な夜になるでしょう。夜闇に溶け行くような光の粒。美しい世界を見に参りましょう」
開け放った窓から湿った空気が流れ込んでくる。遠くに夏を掠めたその夜はアーサー・ダヴの描く木々の並木のように全ての輪郭がくっきりと浮かび上がる。
訪れた白き都から遠く離れたその場所は夜に寄り添う静寂を厭うこと無く側に置く。ヴァイオリンの音色だけが響いた静かな空間。祭りと言うには余りにも穏やかすぎるその場所でヴァイオレットはふと、気付く。導く指先に誘われて辿り着いたのは厳かなる仮面を身に付けた葬列の気配。祭りと言うには余りに陳腐で、余りに高潔で、余りに美しいその場所は魂の行く手を示す陰鬱な気配を醸し出していた。
ドレスコードに指定された黒を纏えばその世界に溶けてしまいそうな程。それでも周囲の人波の中に居る事で恐怖心というものは感じられなかった。彼等も自分たちもこの暗闇が心地よい。そうとしか思えぬような厳かなる気配に混じり込んだのは仄明かり。ランタンが飾られた無数のテントは円を描くように中央のイベント広場を取り囲んでいる。
「祭りの会場、でしょうか」
「ええ。もう少し真ん中まで向かってみましょう」
頷きながらも、何が起こるのか。どのような祭りであるかを知らぬまま。ヴァイオレットは不思議な空間だとさえ感じていた。華やぐ祭りとは程遠い、異質な非日常だらけ。
「ここで何が――」
「見て下さい、ほら。もうすぐ灯ります。あれが灯されれば、世界が分たれるのですよ。
此方と彼方。書物の中で死してゆく無数の命を私達が頁を捲り眺めるのと同じように。世界では様々な思いを抱えて散って行く人が居る。彼等を送る篝火に、火が」
歌い上げるようにリンディスはそう言った。黒いヴェールを風に揺らすヴァイオレットの瞳に世界の終わりが映り込む。全ての終わりを顕わす様に焔が灯されれば鼻先を擽ったのは焦げた香り。灰に霞んだ景色へと並ぶようにランタンに光が灯された。
「この祭りはイズーラ・イールと言うそうです。異界ではヴァルプルギスナハトとも呼ばれる葬列の気配。
喧噪の祭りとは違った魔女達の祈りの日。
「……ああ、なるほど、夜の闇にも、このようなお祭りがあるものなのですね……。死者を送る、まあ、悪くはないのではないでしょうかね。
如何にもと言ったお祭りではありますが、それでも、この国は大義を掲げて断罪を繰り返す。身勝手な正義の象徴であった。まるで身勝手な祈りのようではありませんか」
皮肉を乗せた唇は、朗々と歌い上げられる聖歌には程遠い。己の心に問うことがなくとも、女にとっては他人の不幸は蜜の味。それが自らに染み付いた身勝手で悪辣な性根であると思わずには居られずに。ヴァイオレットは露悪的に振る舞い、他者を遠ざける言葉がさらりと出てくる己に苦い笑いを滲ませて。
「ふふ。ええ、私も思います。どの様な
この世界では様々な思いを抱え散っていった魂をどうにか安寧に導きたいのでしょう。
――ある者は、喪った片割れとの追憶へ、ある者は、誓いを忘れないために、ある者は、どうか安らかに眠れるように願いを込めに」
「なんと身勝手なのでしょうね。生者が死者にそう合って欲しいと望むような、押しつけがましさ。
死者への救済等と都合の良い理由を付けて、救われるのは……今を生きる私達だ。幾ら焔を灯そうとも、それが死者の導きになどなる筈がありませんのに」
やれやれ、言葉など己を着飾るアクセサリーでしかないというのに。悪辣な女を粧ってヴァイオレットは悪魔の傍らでワルツを踊るような心地になった。
リンディスはその言葉を静かに聞いている。世界を見に参りましょうと誘った言葉に嘘はなく、ヴァイオレットの言葉に彼女は不快感を覚えることはない。寧ろ、それが正解なのだ。それでも、生者は縋る所を求めてしまう。
「……けれど、悪くはない」
「ええ。悪くはないのです」
何かに縋らねば人は生きて行けないと泥とは程遠く澄み渡った空を眺めてヴァイオレットは澄んだ笑みを浮かべて見せた。彼女たちが祭りについて議論する意味はない、なくとも議論してはいけない理由はない。ただ、思うがままに言葉を連ね、そうして世界へ触れて行く。異界から訪れるという事はそういうことだ。
「ふふ、屋台も出ているのですよ。流石にお祭り、ですから。
見にいきませんか? 小腹を少しばかり満たすのも悪くないでしょうし」
「ええ、ええ。何かを手に見て回るのも良さそうです。リンディス様はお好きな物はございますか?」
「私はあちらのカップケーキが気になります。ジューンベリーのジャムが練り込まれているらしいですよ。
飲み物も買って行きましょう。ああ、飲み物はヴァイオレットさんが選んで下さい」
「二人で選んだ方が楽しいでしょう」と告げた彼女にヴァイオレットは頷いた。イズーラ・イールの夜には黒いドレスを身に付ける物が多い。普段より黒を身に付ける事の多いヴァイオレットはさほど気にしては居なかったが、傍らを見遣ればリンディスも黒に身を包んでいる。それが死者を送る祭りであるからだと気付いた時に成程と合点がいった物である。
篝火から離れた露店には一つずつランタンが設置されていた。テントを透かして漏れる灯りは美しい。街行く人々も皆、ランタンを手にヴェールで顔を隠して歩いているのが多く目に付いた。適当な露天でヴェールとランタンを購入したリンディスは「お揃いですね」と笑う。「お揃い」と唇に灯した言葉に何処かむず痒さを感じてからヴァイオレットは「似合っておりますよ」と囁いた。
ジューンベリーのジャムを練り込んで作られたカップケーキを一つずつ。店主が自ら育てたジューンベリーの実は甘く弾け酸味を届けてくれる。
ベリースムージーを購入してから光から遠ざかるように、ゆっくりと行く人々の群れから逸れて行く。人の波は川の如く、光へと誘われる虫のようにランタンが流れゆく。
「そういえば、天義では信仰されているらしいですね。死者の魂はランタンに乗って行く、と」
「嘗て、大いなる災いとも称されたベアトリーチェ・ラ・レーテが襲来した際に、その様な話があったと伝え聞きました」
「マーレボルジェの聖遺物ですね」
「ええ、悪の嚢」
人並みに逆らうように進むリンディスは「地獄の中でも最奥の一つ手前にその様な名の付く場所があるとも言われていますよね」と微笑んだ。
何処へ行くのだろうか。あの篝火こそが祭りのメインであったのでは、と。そうは思いながらもヴァイオレットはさほど深く考えずにリンディスに習って人並みに逆らった。思い出話と言うには遠い過去の話で、自身らが知らぬ事ではあるが資料庫を漁れば文献は山を成す。書に触れ心通わすリンディスは見てきたかのようにその物語をなぞる。
マーレボルジェの聖遺物。天義に伝わるそれは冥界へと生者を送り込むことが出来るらしい。片道切符であった冥界から帰ることの出来る信仰の象徴。死者に干渉できる訳もないと一笑される事も多いが、作戦に携わったのは確かなことで。
「この国では死者の魂はランタンに乗せられてレテの川を伝って下っていくのだと信じられているそうです。
故に、ベアトリーチェによる黄泉がえりを防ぐ為に逃れてきた魂をランタンへと仕舞い込む。マーレボルジェの聖遺物で冥界へと下りその仕事をこなしたというのです。
逸れた魂に待ち受けているのは恐ろしい事ばかりでしょうから……天使でさえも経験したことのなさそうな素敵な出来事ですよね」
「ええ、中々に経験することのない素敵なお話ではありませんか。ですが、マーレボルジェとは。まるで悪人のような」
「悪人ですよ、屹度。今を生きる者が冥界に立ち入るなど世の理を乱す大罪ですから。離間者と呼ばれ、体を引き裂かれても文句は言えません」
そうでしょうか、と問い掛けたヴァイオレットに「そうですよ」とリンディスは微笑んだ。遠く篝火の気配を背中に感じながら人の波を抜ければ塗りつぶされた静寂が待っている。時刻を確認してから「そうそう、中心もいいんですが……ヴァイオレットさんは、こちらも好きかなと」と手招いた。
市街から離れるように丘を登る。祭りの喧噪から離れていく事に違和感を感じるが、それでも此度の案内人は彼女だ。暗がりに揺れる光はリンディスの手にしたランタンだけ。それを頼りに進むだけ。人並みでは無数のランタンが篝火へと集まっていくのが分かった。街の人々の手によって運ばれているのだろう。魂を乗せて運ぶと伝えられるランタンが、生者の手に握られ運ばれる。其れ等は川を作り、篝火へと向けて集まり行くのは魂をその焔で昇らすためか。
それでも、其方から離れていくのだ。一体何処へ、と口には出さずとも「ふむ」と首を傾いだヴァイオレットは心が騒ぐ感覚を覚えていた。
遠巻きに見遣った篝火は真っ直ぐに燃え盛り伸びていく。その様が美しくなかったわけではない。あの篝火でさえ、生者の自己満足だと称しながらも美しかった。
素直な言葉を口にする事が出来ず、天邪鬼な言葉ばかりが口を突く。「楽しい!」と友人のように笑い走り回ることが出来ればどれ程に良いだろうか。誘いをくれた彼女をがっかりさせては居ないかと前行くリンディスを見遣れば、予想に反して彼女は振り返り微笑んで居た。
「さあ、ヴァイオレットさん。見て下さい」
花が咲くような微笑みは、幼い子供が悪戯に成功したかのようで。穏やかな気質の彼女らしからぬ急かすような声色に朝焼けのように燃え盛った世界を眼窩に見下ろす丘がヴァイオレットの到着を待っている。進む脚が僅かに縺れたのは戸惑いだ。大人びたかんばせに、幼い少女の感性を乗せることが不慣れである黒衣の娘はリンディスの差し出す掌へと向けて歩を進め――群れをなす光が浮かび上がる。天燈がふわふわと塗り固められた黒を彩り広がって行く。差し色のような、星々を模した其れ等は一つ二つという数ではない。無数としか称せぬような。人工的な夜空。
リンディス=クァドラータという娘がヴァイオレットに見せたいと願った景色。人々の祈りと、光が織り出したイズーラ・イールのメインディッシュ。
「――すごい」
思わず溢れ出た言葉は先程まで味わっていたカップケーキの味も忘れるような。咥内に広がった澄んだ空気が開けた景色をより鮮明に思わせた。
「綺麗、ですよね。願いの光と、導きの灯火。―人の数だけ、煌めいて。
これら全てが誰かの我儘で、誰かにとっての救済で、誰かにとっての祈りなんです。
それが、イズーラ・イール。死の神様を尊ぶ日。神々を信ずるこの国だからこそ人は神様に祈らずにはいられない」
リンディスが囁き手を伸ばす。彼女のバッグから出たのは和紙で作られたランタン。小さな灯りを灯せば丘の上からより速く空を目掛けて飛んで行く。
村の中でも存在感を有していた聖堂のステンドグラスよりも高く、光が昇っていく。それでも遠い光は、手を伸ばせども届くわけがない事を知っている。まるで、死者の魂が空へと引き寄せられるかのような。
そちらへとリンディスのランタンが近寄っていく。二人の見下ろす光の群れに混ざり込もうと風に煽られ進み行くそれは一番星の如く一等光って見えた。
リンディスとて、彼女から無理に感想を聞き出そうとは思わない。彼女の事が知りたい。けれど、それは無理にというわけではない。
其れ其れのペースが存在して居る。ヴァイオレットにはヴァイオレットのリンディスにはリンディスの。互いの歩調が合わされば自然に溢れる言葉があるはずだから。
言葉が出ず儘に、美しいとその瞳が語っている。ランタンの明りで伸びる影は揺れ動くことはなかった。
ただ、見惚れるように天を眺めるヴァイオレットの傍で、リンディスはそれ以上は何も言わない。言葉なんて、今は必要なかったのだから。
ああ、だから――私達の我儘は、光となって死者へと祈りを届けるのだ。
どうか安寧を。どうか空虚なる心を埋め給えと。神様なんてものに祈ることしか出来ない生者なのだから。