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あうとさいど
登場人物一覧
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物陰に隠れ、両手で自らの口を抑え、息を潜めている。
ともすれば緊張で乱れる呼吸を、両手の力で懸命に抑え込んでいた。
隣を見れば、同じ様に『これ』に巻き込まれた彼女もまた、自分と同じ姿勢で身を縮こまらせている。
ずずり、ずずり。
大きな何かが足を引きずるような音が聞こえて、より一層身を強張らせてしまう。
ずずり、ずずり。
それは壁の向こうから聞こえてきた。T字路の反対側。自分達は折れ曲がった影に潜んでいる。それは自分達を追い、遅れてやってきたのだ。
分岐路。気まぐれにそれが振り向き、首を回して視線を巡らせるだけで気づかれてしまうだろう。
音を立てぬようにしゃがみ込む。視界に入らぬよう、闇と紛れてくれるよう。
ずずり、ずずりと、それは現れた。
「あくうるむしにしましょうぞ。あくうるむしにしましょうぞ。おいてはかえに、ひともちぞしらざに」
それは襤褸をまとった巨躯であった。自分の身の丈の三倍はあろうかという、それでいて、襤褸から除く腕や首は酷く細い。骨と皮だけで出来ている、枯れ木のような細さをしていた。
「きみにいままつたことなかれ。なかにしずくだらは、ときをもちて、えにもあかと」
何かをずっと呪文のように呟いているが、その意味は全く理解できない。理解できる体をなしていないのか。はたまた思考のそれがまるで別物であるのか。
それが分岐路にさしかかる。まっすぐに進めば何事もないのだが、そうそう相手の目も節穴ではいてくれない。ぴたりと、立ち止まった。
口を押さえる手に余計力がこもる。気づくな。気づくな。そのまま通り過ぎてしまえ。こちらの道には誰も居ない。こちらの道には誰も居ないのだ。
それは枯れ木のような腕をずぅるりと伸ばし、長く伸ばし、アンテナのように、触覚のように自分達を摩り、撫で、つつき、しかし振り向くことはなく、また歩き始めた。
ずずり、ずずり。
心臓の音が痛いほど実感できる。何もされていないだけに、何かされたのではないかという不安だけが残る。
「つづぐらいにぎぎいて、おちを、かおすまれば。ヒイヒイ、ハア」
呟きながら、それは自分達との距離を開けていく。
安堵の思いに胸を撫で下ろそうとした時、どうしてか、これまでまるで意味のわからなかったそれの呟きが、酷く鮮明に聞こえたような気がした。
「オイシソウ」
呼吸が止まるかと思った。
しばらく、息の吐き方を忘れていた。
ぶわりと汗が吹き出し、過呼吸じみた不揃いなものを始めた時には、それの姿はどこにもいなくなっていた。
空を仰ぐ。星のひとつもない、本当に黒だけの空を。
ここは本当に、一体どこであるのか。
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居住地区の大通りを噴水広場から三ブロック進むと、ふたつ並んだアパルトメントの隙間に路地裏へと続く道がある。
大通りをそのまま進むと市場や施設街に繋がるため、普段なら用もなく、ともすれば気づきもしないようなものになっていた。そして、正常ならば気づいてもそちらに足を向けるのは躊躇われるだろう。それが、アレクシアのような女性ともなれば尚更であった。
しかし、彼女の目的こそその奥にある。場所というよりも、そこにいる人物が目当てであるのだが。
細い隙間に踏み入り、心なしか薄暗く感じるそれを行く。途中、鼠が目の前を横切ったが今更驚きもしない。最近では、そんなものにも慣れてしまった。
突き当りを右に曲がる頃には大通りの喧騒もうっすらとしたものになり、ここが隔絶された空間であるのだと実感させられる。
人がひとり通れるか。それくらいに細くなった道が見えた。本当に狭いそれであるが、万が一にも体がつっかえて、通れないなんてことがあれば精神的なダメージは免れない。大丈夫、昨日はケーキを食べていない。油ものも控えている。寧ろギルドの仕事続きでよりシェイプアップされている、筈だ。
小さな覚悟とは裏腹にすんなりと通れたことに拍子抜けと安堵の気持ちを抱きつつ、その先へ。そこを潜ると、ある程度開けた場所に出た。
大通りでは感じられない、微かな刺激臭。自分という異質に視線が集まるのを感じたが、気にせずに目当ての人物を探す。彼は薄汚れた階段に腰を掛け、空を眺めていた。
「シラス君っ」
手を振りながら駆け寄る。どこを見ているのかわからない、そんな目をしていたシラスが自分に目を向けると、その瞳に輝きが灯っていく。
「アレクシア? あれ、待ち合わせの時間、間違えてた?」
「ううん、そんなことないよ。私が早く来すぎたから、いっそ迎えに行こうと思って。えっと……いけなかった?」
「まさか! 嬉しいよ。でもこんなところに女の子がひとりで来るのは危な……くもないか」
女性ひとりで路地裏に。危険なシチュエーションに思われるが、アレクシアの実力を知っているシラスはすぐにそれを否定した。攻撃を主にしないスタイルであったとしても、そこらのゴロツキではギルドの実力者に害を成すことなど不可能だ。
シラスの見せた表情の変化に思わず笑みが溢れてしまう。心配してくれているのだ。気にかけてくれているのだ。それが嬉しくあって、自然と心に温かいものが生まれた。
「――――よぉシラス。彼女かぁ?」
不意に、背後から声がかかる。品が良いとは言えないその口調に警戒心が強まるが、シラスの態度が変わらないところを見るに、悪い相手ではないのだろう。
「うっせえよザウジー。それよりここ数日見なかったじゃないか。どこに行っていたんだよ?」
「おうそれだ。聴いてくれよ。最近、思いの外仕事にありつけてよ。酒もたんまり買えたもんだから、ここいらでしばらく飲み過ごそうなんて思ってたんだ」
「その割に、ここには居なかったじゃないか」
やや呂律の回っていない声。少し酔っているのだろう。赤ら顔の中年男性を想像しながら、アレクシアは振り向いた。そこで、小さな違和感に気づく。
「それがよ。おぃらここに居たんだ。ずっとここで飲んでいたんだ。その筈なんだよ。それが急に空が真っ暗になっちまってよう。誰もいねえし、おっかねえんだ」
ザウジーと呼ばれた魂の輝きが、歪であるのだ。輝きは強く、生命で溢れているはずなのに、酷く見えづらい。磨りガラスの窓越しに人を見るような、そんな感覚だ。
「なんだよそれ、飲み過ぎじゃないの?」
「馬鹿言え。こんな安酒、年中飲んでたって前後不覚になんざならねえよ。それにあくうるむしに、いづもあばらんざ」
「え、なんだって?」
「おいおい、そっちも飲んでるんじゃねえだろうぎざ。ぐるるあにひとふれど、おちいるうだがしらに」
「……ザウジー、何を言って」
ばぐん。
急にそんな音がして、ザウジーが居なくなった。いいや、居なくなったと言うよりは、それに塗り潰されたと言ったほうが正しいか。
それは大きく大きく口を開き、ザウジーを頭から足の爪先に至るまで一口に飲み込んだのだ。
「……なん、だ、こいつ?」
空がいつの間にか暗い。星のひとつもなく、不思議と自分たちの周りだけは見えている。そういう暗黒。
びちびちびちと音がする。ザウジーを飲み込んだそれの腹が不自然な形に膨らんでいた。中で何かが暴れている。あの形は、あの大きさは。
「アレクシア」
自分呼ぶ声がする。しかしその光景から目を離せない。大きな革袋に包まれたような人の形が、もがき苦しんでいる様から目を離せない。
「アレクシア」
段々と動きが鈍くなっていく。あの『腹の中』のザウジーが抵抗を緩めていく。徐々に膨らんだ腹は引っ込み、元のそれに戻っていく。それが満足げに腹を擦ると、こちらに顔を向けた。目を見る。縦向きに並んだ六つの目。不揃いに臼歯が生えた大口をにたぁりと笑みの形に変えた。
「あくうるむしに、しましょうぞ」
「アレクシアッ!!」
シラスの声に、ハッと我に返る。彼は自分の手を引き、こちらを、まっすぐに見ていた。
「逃げるぞッ!!」
そうだ、逃げなければならない。本能がずっと脳で警鐘を鳴らしている。
シラスに引かれるまま走り出した。
「あくうるむしに、しましょうぞ」
嗚呼、追ってくる。
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深くゆっくりと息を吐きだして、ようやっと呼吸を整えてからシラスは彼女の方を振り返った。
「アレクシア、立てるか?」
彼女の息はまだ荒い。実力があるとは言え、元来体が強い方ではないのだ。ああするしか思い浮かばなかったとは言え、走り回らせてしまったことには申し訳ない気持ちになってくる。
「ごめん、大丈夫。大丈夫だけど、もうちょっと、休憩、させて」
途中途中言葉を切りながら、こちらに応えてくれるアレクシア。彼女の隣に再度腰を掛け、息が整うのを待った。
数秒か。数分か。
「空、真っ暗だね」
アレクシアが声をかけてきた。確かに、ここの空は星のひとつもない。闇ではなく、『黒』としか表現できないような空が広がっている。
「そうだね、真っ暗だ。こんなに暗いと、何かかっぱらってもバレな……あー、用心しないとだよな、うん」
ついつい悪癖が顔を覗かせて、慌て言葉の舵を切った。自分のその態度がおかしかったのか、アレクシアは笑ってくれる。もう、大丈夫そうだ。
だから、ここを出る算段を立てなければならない。
「……シラス君。あれの言葉、わかった?」
「いや、全然。聞き取れはするけど、何を言っているのかさっぱり……いや、最後だけわかった。オイシソウ、だ」
アレクシアが俯いた。何か考えがあるのだろうか。
「たぶん、感覚が引っ張られてきてるんだと思う」
「感覚?」
「あのおじさん、ザウジーさんだっけ。途中から言葉が変だったよね」
そうだ。確かにザウジーは途中からおかしな言葉を使っていた。まるで伝わらない。聞き取れはしても意味をなさない言葉だ。
混沌において、伝える意志を持った言葉は自動的に翻訳される。それが異世界の言葉であったとしてもだ。それが為さないというのはどういうことだろう。ここは混沌ではないのだろうか。
「ザウジーさんはこっちに引っ張られすぎちゃったんだ。たぶんあれは、人をこっちに引っ張ってから食べてしまうんだと思う」
「……だったら、早く逃げないと」
「きっと、こっちに居すぎちゃけないんだ。早く逃げないと。ザウジーさんはあの場所にずっと居たと言っていた。きっと、あの場所がこっちに繋がってる」
「だったら、あそこに戻らなきゃ」
「あそこに戻らないといけない。あの場所なら帰れると思う。あの場所とこの空間だけがきっと、言葉が伝わらないんだ。だから、戻って、あの場所から離れたら、大丈夫。大丈夫、だから」
「アレクシア?」
彼女の言い方にどこか不安を感じて、思わず名前を呼んだ。
自分の言葉は聞こえているだろうか。
「……シラス君、お願い。手を引いて走ってくれる? ひとりだと、途中でバテちゃうから」
「ああ、わかった。大丈夫。絶対一緒に、同じところへ帰るんだ」
ずずり。ずずり。また引きずるような音が聞こえてきた。逃げなければならない。立ち止まっている時間はない。シラスは、アレクシアの手を引いて走り始める。
振り返らず、まっすぐに前を向きながら。
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手を引かれながら、アレクシアは俯いてしまう。
シラスには見せられない。見せれば、優しい彼のことだ。きっと不安に感じてしまうことだろう。
後ろからあれが追いかけてくる。ずずりずずりと襤褸を引きずりながら、不気味な声をこちらにかけながら。
「やあやあ、ひとつになろう。この世界は暗い。この世界は寂しい。だから僕の中で暮らそう。ひとつになろう。みんなここに居る。僕の中にある。みんなで笑って暮らせる。世界が明るかった頃に戻っていける。さあ暮らそう。あの頃の様に」
聞こえている。アレクシアには今やあれの声がはっきりと聞こえている。
あれはこの場所にずっと住んでいる何かだ。この暗く寂しい空間で、ひとつになれば幸せであるのだと信じてずっと彷徨っているる何かだ。
こちらに順応してしまっているのがわかる。シラスの様子を見るに、彼はまだ引っ張られていないのだろう。あのザウジーという男性も、部分的にだがシラスと会話できていた。まだ完全には、こちらの世界に順応してはいなかったのだ。
ならばまだ希望はある。あれはきっと、この空間を飛び越えてはこない。干渉できるのは繋がっているあの場所くらいだろう。あちらにさえ戻ることができれば、シラスの安全は確保できる。
「ひとつになることは気持ちがいい。ひとつになることは気分がいい。だからおいで。一緒になろう。こんなにも、ひとつになることは良いのだから」
あれはこの世界とも呼べない空間の中をこれからもずっと彷徨い続けるのだろう。
この空間に来てから、シラスとずっとふたりきりだ。途中の家々にすら、人の気配はまるでなかった。
全部、きっと全部あれが食べてしまったのだろう。あれの言葉を借りるなら、ひとつになってしまったのだろう。
「ううん、『つづをぐらいに、ひともすれば』かな」
「え、なんて?」
シラスがこちらを向いたので、慌てて何でもないのだという顔を取り繕った。
気にする必要はない。ここを出ればもう、使うことのない言葉だ。ザウジーの言葉が途中から聞き取れなかったのも、あの場所がこちらの空間との接点になっていたからだろう。
だから、問題はない。
元の場所に戻りさえすれば、全ては解決する話なのだ。
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あれの追走は思いの外手緩く、あっさりと元の場所に戻ってくることが出来た。
ザウジーが居たのはあのあたりだ。光っているとか、色が違うとか、そういう目立つものは何もないが、このあたりの筈だ。
「どうしたらいいんだろう。ここに立っていれば……おおっ?」
急に空が晴れていく。黒が薄れ、青を取り戻し、周囲に人の気配が帰ってくる。
変化は一瞬だ。あの静まり返った異様な空間は、もう影も形も見当たらなかった。
「あれ、シラスじゃねえか。さっきまでそこにいたか?」
声をかけられる。自分を知っている誰かが居るということに安堵した。
適当に言葉を返してから、思案する。この場所をどうにかして封印したほうが良いだろうか。自分達は逃げ出してきただけで、あれを討伐も、解決もしていない。
ひとまずは誰も立ち入れないようにして、それからギルドに報告すべきだろう。きっと、情報屋がしかるべき術を見つけ出し、解決の糸口としてくれる。
「とりあえず、みんなに話してここから住む場所を変えなきゃな。居心地良かったんだけどなあ、残念だ」
振り返り、手を引いてきた彼女に笑って声をかける。
「ギルドに報告したら、予定通りでかけようぜ。見せたいものがあるんだ」
彼女もまたにっこりと笑い、こちらに言葉を返してくれた。
「あくうるむしにしましょうぞ」