SS詳細
バター、時々、ブランジュリ・ロイ
登場人物一覧
思えば、其れは一つの始まり――其の序章に過ぎなかったのかもしれない。
出逢いなんて、偶然で、単純で。
それ以上のものを、与えてくれるのだから。
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「「あ、」」
「あ……ごめん、キミの方が先だったよね。俺は構わないから、どうぞ?」
「でも、そんな、申し訳ありません……そ、其の、ええと、だ、大丈夫ですので……」
「そう、かな。そんなにトレーに乗ってるってことは、よっぽどお腹がすいてるんだと思うけど……」
「ほんとうに、ほんとうです、ですから!! 此れは、し、暫くのご飯ですっ!!」
トレーを落としてしまいそうな程に顔を赤くし、困ったように首巻きで顔を覆う銀髪の娘――星穹は、恥ずかしそうにトレーを青年――ヴェルグリーズに見えない位置へ隠す。星穹は森に野宿をしながら暮らしているため、仕事でもない限りは食料を買いだめて置くのだが、初対面の二人に其れを話しておく理由はない。
ない。そう言い切るのは簡単だけれど。
幾多の縁を切り、或いは絶ち生きて来た彼にとって、其の出会いは新鮮そのもの。依頼でもなく、縁を紡げるのだと知ったのは。
只の気まぐれだったかもしれない。『じゃあ、ちょっと待っていてね』なんて口に出したのは。
銀髪の娘は困った様子で頷いた。其の姿を確認すると、ピアノのメロディに急かされるように速足で会計へと向かった。娘ももう買うものは無いようで、予約しておいたのであろうパンを抱えるだけ抱えて、『いつもありがとうございます』と丁寧に礼を述べながら一足先に店の外へと出たようだった。
ブランジュリ・ロイ。
今も両親は健在のようで、嘗ての時よりも置いてこそ居るけれど、一家でパン屋を切り盛りしているのは変わらないらしい。優しいバターの匂いが広がるのだって、変わらない。
懐かしいような、悲しいような。不思議な気持ちを覚えながら、『また来ます』と告げて、俺も店を出た。
「……ロイ。キミが大きくなっていたら。俺よりも、背は高かったかもしれないね」
店を出る。彼女は心配そうな面持ちでパンを抱えていた。
両手一杯にパンを抱えながら立っているが、俺の姿を見るなりぱっと目を開いて駆け寄って。そんな様子が子犬のように思えて笑みをこぼしながら、俺は先程のパンを取り出した。状況が解っていないらしく、彼女は首を傾げるばかり。
「はい、これ……っと」
さくさくのクロワッサンに、レーズンを混ぜたもの。ヴェルグリーズは其れを二つに千切って、袋に入れて、彼女の袋の山の隙間に入れてやった。
「わ、悪いです。其れは貴方が買ったものですから……」
「良いんだ、俺がこうしたいと思ったからやってるだけだし。気にしないで?」
「……っ、じゃあ、せめてお金を!」
「はは、いいよ。パン一個くらい奢らせて? これからもこのお店をよろしくね」
「ちょ、ちょっと!?」
戸惑う彼女を置き去りに……と言うのは人聞きが悪いような気もするけれど、致し方ないことだ。屹度あのまま素直に受け取るなんて、彼女の選択肢には無かっただろうから。両手にパンを抱えているようじゃ財布を取り出すのだって一苦労だろう。ころころと表情を変える姿が可愛らしいひとだった。
面白い出会いもあったものだ。またこんな出会いが、あればいいのだけれど。
●
「「あ、」」
二度目だ。なんて思いながら、星穹は伸びた
「貴方は、」
「嗚呼、この間の、」
「……じゃあ、今度は私の番ですね」
得意げに笑って。今日は以前より控えめに積まれたトレーの上に、その限定デニッシュも乗せて。
手短に会計を済ませたかったけれど、奥様に捕まってしまった。『彼とはどんな仲なの』なんて。借りがあるだけなのだけれど!
食べ物のご恩は山よりも高く海よりも深い。戦場ならば食料のありがたみを知るのは尚更に。飢えるのだってなるべくは避けたいので、太らない程度にパンを買う様にしていた。
私の失われた記憶は取り戻すことは出来ないのだろうか。忍であるとはいえ、仕事は選んでいる心算だ。此の顔に覚えがある人が、屹度此の混沌の何処かに居る筈。そうやって宛てもなく旅暮らしをするのが、私の日常だった。
海洋に辿り着いたときに鼻を擽るバターの香りがした。バター。なんだろう。そんなもの、知らないはずなのに。私は此の近くに住んでいたのだろうか。
気付けば其の店に通うようになっていた。何度か通う内に奥様や旦那様とも何度か話をするようになった。息子さんを亡くしているのだと知ったときは、何とかして彼らの力になりたいと、強く思った。
彼らの息子になることはできない。けれど、元気な顔を見せることは出来る。私は頻繁に店を訪れるようになった。
そうして、彼と出会った。
奥様から聞く限り、彼も此処の常連なのだという。其れに、私と同じ
あんなに優しい人が戦っているのだろうか。
其れは、酷く悲しいことだ。苦しいことだ。
私が、少しでも変わることができたらいいのに。
「……先日のお礼を、と、思いまして」
「嗚呼、あれを? 気にしなくて良かったのに」
「いえ、そういう訳には……とても、嬉しかったので」
「ふふ、そっか。其れは何よりだよ」
半ば押し付けるように突き出した、半分のパンが入った袋。其れを、彼は優しく受け取って。
「ありがとう」
優しく、微笑んだ。
酷く安堵した。
私でも、誰かを笑顔にすることが出来るのだと。
彼は其れっきりになるだろうと言う予感がしていた。
●
星穹の予感は大きく外れた、というのが正しいだろう。
結果として、二人はまるで話合わせたかのようにブランジュリ・ロイでの出会いを重ねていた。
カランカラン、と軽快なベルが来客を告げる、どちらかが先に居て、どちらかが後に来て。其れだけで済めばよかったのだが、扉に手をかけたところで『あ』と声を重ねてしまうことも何度か。思考回路が似ているのだろうか、示し合わせたところで仕方ないというのに、二人の偶然は続いていた。
同じパンに手を伸ばしたとて、今度は俺が、次は私がと、当たり前に半分こして。仲睦まじい兄妹のようだと店主は笑っていた。けれど、嗚呼。星穹はだいじなことに気が付いてしまった。
「あの。私、貴方の名前を、知らないと思うのですが」
「……確かに。何度も顔を合わせているのにね」
困ったように笑うヴェルグリーズと、くすくす笑う星穹。勿論笑いごとではないのだけれど、二人にとっては面白かった。まさか今まで、『キミ』『貴方』で会話を成立させていただなんて!
「私は、せら。星に、蒼穹の穹で、せらと言います。人間種ですが、記憶がありませんので……旅人の方となんら変わりありません」
「俺はヴェルグリーズと言うよ。剣の精霊種、かな。宜しくね」
「ええ、改めて宜しくお願いします、ヴェルグリーズ様」
何故か別れの属性を持つというのは憚られた。
其れは勿論、せっかくの縁が断たれてしまっては悲しいと思ったのだろうけれど。それだけでは、ないのかもしれない。
(この子は屹度優しいだろうから、)
俺の過去を知ったら、屹度悲しむだろうから。
ヴェルグリーズの予感は的を得ていた。其れを知らないが故に、星穹は呑気にあのパン屋へと通うことが出来たのだ。
まさか隣にいる相手が、あの優しいパン屋のご夫婦の息子を奪っただなんて、思いもしないだろうから。
「ヴェルグリーズ様は、どうしてあのパン屋をお知りになられたのでしょうか」
「……昔の知り合いが、あそこを気に入っていたんだ。俺は見るだけだったんだけど、ほら。お店の中って、バターの香りがいっぱいに広がっていて、素敵だよね。綺麗なパンといい匂いが満ちてるって不思議で、食べてみたいなって思って。
勿論趣向品として楽しむだけでもいいんだろうけど、すっかり胃袋を掴まれちゃったんだ」
「ふふ、そうだったんですね。ですから、あんなに限定パンにも目がないのでしょうか」
「それは星穹殿もじゃないかい?」
「さあ、どうでしょう!」
●
そして、物語は廻る。巡る。
幻想郊外。小さな領地。
いくつもの偶然が重なったとしか言いようがない。
耳に挟んだレジスタンスの噂。
彼は。彼女は。
甘いバターの香りに溶かせぬほどの、いくつもの気持ちを滲ませながら。
共に、戦場へと向かった。
おまけSS『Stand by you』
●痛み
「ヴェルグリーズ、さま」
「嗚呼」
「わたし、泣きませんでした」
「うん」
「ですから、」
「嗚呼。大丈夫だよ。もう、泣いていいから」
彼女は泣いた。子供のように。ずっと、ずっと。
悲しみの雨。苦しみの海。其のどれが、彼女の身を包んでいる。
其れら全てと別れられるように。寄り添い続けよう。
彼女の良き友として。