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涅色の暮靄
登場人物一覧
鬱陶しい程に立ちこめた暗雲は雨の気配を運んでくる。窓硝子を叩いた雫はてんでバラバラのリズム感で意識を掻き混ぜる。執務机の上に並べた処理済みの書類を無くさぬ様に箱の中に一度仕舞い込んでから場を動かすことを徹底していたリュティスは「ご主人様、珈琲は如何でしょう」と問い掛けた。
「嗚呼、有難う。休憩にしようか……リュティスも一緒にティータイムはどうだ?」
「有難うございます。それならば、今日は紅茶をお出ししてもよろしいでしょうか?
ご主人様に是非にと、彼女が購入してきた茶葉は特有の芳香を放つ。蒸す時間は幾分か、その間に流れる沈黙は二人にとっては決して苦では無い程度のもので。静寂を掻き乱した雨のノイズに視線を送ったベネディクトは執務室の客用のソファーに腰掛けてリュティスの給仕を待っている。暫く雨は止まないだろうか――そう思考が彼方へと散歩しだした辺りで「ご主人様、ご準備が整いました」と聞き慣れた声が聞こえた。
澄んだ黄がかったオレンジ色をティーカップの中で揺らしている。かちゃり、と音を立てた茶器と、傍には茶菓子が並んでいる。失礼致しますとスカートを持ち上げて彼女がソファーに腰掛けたのを確認してからベネディクトは柔らかに微笑んだ。
「もしも、リュティスが良いのならば少し昔話でもしようか。聞いてくれるだろうか?」
「昔話、ですか? ええ、ご主人様がお話しなさるというならば喜んでお聞き致します」
紅玉の眸の真摯なその彩にベネディクトは頷いた。それはベネディクト=レベンディス=マナガルムと言う男が混沌世界に召喚される前の話だ。
「俺は
――ベネディクトには親友が二人、それと恩師と呼ぶべき女性が一人居た。
レイル=ヴァン=ヘインズルーン、ローランド=グレイン=ダーンスレイヴ。
ベネディクトはレイルとローランドと共に同じ士官学校へ通っていた。士官学校で教鞭を執っていたのが恩師と呼ぶべきルナ=ラーズクリフである。
その通り名の通り紅色の髪を持った優しげな青年であった。その優しさの傍にベネディクトは常にあったように思う。
セレネヴァーユの武門の名門であるダーンスレイヴの嫡男であるローランド。
艶やかな深海の色の髪は束ねられ、怜悧な眸は常にダーンスレイヴの為にと研ぎ澄まされていた。彼のその強さはある種の憧憬を抱くほどだ。
彼等はベネディクトにとっては共に青春時代を過ごした存在であり、そして、高め合うべき唯一無二の存在であった。
士官学校の恩師であるルナ、紫苑の髪に柔らかな笑みを浮かべたその人は師であるだけえでゃない。ベネディクトにとっての憧れで、初恋の人だった――それが、幸福な想い出であるかのように、愛おしげになぞる。ベネディクトのその表情を見詰めていたリュティスは目を細め彼の浮かべたさいわいを感じ取るように紅茶を喉へと流し込んだ。
「それで」と唇が震えた後にベネディクトの視線は窓へと向いた。強まる雨脚に窓硝子を叩いた雨音は耳朶を伝う奇妙なノイズとして伝わってくる。午後の和やかなティータイムを乱すその雨はベネディクトにとって
「……まあ、その後に俺の国では戦争が起ったんだ。酷い物だったさ。
親友の一人――レイルは戦死して、もう一人、ローランドは敵国の兵として俺と刃を交えて生死不明になった。
仕方ないことだが、ローランドの生家であるダーンスレイヴは敵国……ヤウダザリオ帝国が送り込んできたスパイが始祖だったらしい。家門を大切にするあいつがその選択をしたことを俺は責めることは出来ない」
戦争など、そう言うものだとでも言うように。リュティスはティーカップで揺らいだ紅茶を眺めながら「はい」と頷いた。リュティスという娘には戦争の経験は無く
彼女のその優しさを感じ取るようにベネディクトは言葉を続ける。言い淀んでは居られないと。彼は意を決したように言葉を重ねる。
「そして、戦場に出ている間に母は病に倒れていた……。母は俺が居ない間に亡くなってしまっていたんだ」
たった一人で。愛情を、慈しみを。其れ等全てを与えてくれた人との別離。母という特別な存在を失った苦しみを苦々しく吐き出すようにベネディクトは呻いた。テーブルの上で此方を覗き返すが如きティーカップの中身を喉を潤すように流し込めば独特の苦みが喉を通り抜けてゆく。
リュティス・ベルンシュタインは――否、ただのリュティスは孤児である。ベルンシュタインの養子となったのは運が良かっただけだ。病に倒れる者、飢えに倒れる者は幾人も見てきた。彼女にはベネディクトの苦しみ全てを抱き締める事はできない。理解という枠から外れた感情が零れ落ちていく気がして、酷く悔しいのだ。
「お代りを」
「有難う。……続きを話すよ。聞いてくれるか?」
「ええ」
ゆっくりと立ち上がり、カップへと注ぎ込んだ紅茶から香しさが立ち上る。柔らかな湯気が心を落ち着かせる気がしてベネディクトは自身の従者の優しさに笑みを零した。
「……恩師は――先生は敵国ヤウダザリオ帝国の人間だった。故に、俺が、彼女を討ち取った」
「……ご主人様」
大丈夫ですか、と。心配するその声音は常の通りではありながらも優しさを感じさせた。ああ、今の自分はリュティスがそうも表情を歪めるほどに酷い顔をしているのだ。ベネディクトとて其れを理解していた。淡い初恋は決して甘やかなものではない。思い出すのも苦しいほどの別離が存在して居たことを知っていた。
「その後、俺は混沌世界へと召喚された。戦争がどうなったか、その後の国がどうなったかは俺は知ることも出来ない」
唇を噛み、全ての結末を知ることの出来ない男は酷く悲しいその想いをかんばせに湛えた儘、唇を噛み締めていた。
出会ったときは全てが幸福に満ちていたはずだった。それら全てを崩したのが戦争であったというのならば、リュティスはその様な人災がどうして起きてしまったのだと疑問にさえ思えてしまう。だが、それも人間が人間らしく営みを続けるためには必要な事であると宣言されたならばリュティスは其れに納得し、肯く事しかできないのだ。
あくまで、リュティスは否定する言葉を持たなかった。ベネディクトの語る言葉に耳を澄ませ、ベネディクトの意見を肯定し続ける。少しでも彼の感情を受け止めて理解できるようにと願うようにリュティスはベネディクトの声に耳を傾けた。
「ご主人様」
「……いきなりすまない。此の雨が、どうにも『あの日』に似ているような気がして――」
あの、別離の日。全てが狂ったように感じたその刻。歯車はいつだって在るように動いていて、噛み合わせが悪いと感じたのは自身らの勝手であったのかも知れない。ベネディクトとて『仕方が無いこと』だと告げた。
「この話をするのはリュティスへするのが初めてだ。誰かに話す気も無い。
……今後も話す必要が無ければ、墓まで持ち込むつもりだ。いきなり、済まないな」
「いいえ。ご主人様がお話して下さったことを私は嬉しく感じております。
……私は貴方の従者です。貴方様が話したい事を、惑いも悲しみも全て、それを聞き受け止めるのが私の在り方です」
その命は貴方の為だと。そう告げるかのような熱烈な告白にベネディクトは「分かった」と小さく笑みを浮かべた。此程までに尽くしてくれる従者がいることを幸いに感じていようかと、ベネディクトは「それでも、折角のティータイムを台無しにしたな?」とリュティスへと揶揄い笑う。
「いいえ。ご主人様の話が聞けて私は嬉しかったです」
「……なら、良かったよ」
紅茶もすっかり冷めてしまっただろうか。リュティスは淹れ直しましょうかと問い掛けるが――その、和やかさを切り裂いたのは外からの音である。
ノックの音がする。「入れ」と静かに告げたベネディクトの元へと最初に歩み寄ってきたのは彼の使い魔である小さな子犬。背後には伝令を受けて遣ってきたローレットの情報屋が立っていた。
「ポメ太郎が何かを咥えていますね」
「リュティス、それを此方に。ローレットからの呼び出しのようだ」
はい、と中身を確認することなく差し出したリュティスはベネディクトの横顔を覗き見て表情は変えぬままに「あ」と小さく呟いた。その顔を見れば分かる。先程までの――あの雨に面影を重ねていたときと同じ、苦しさ。
「ローレットから、ですか?」
「……ああ。どうやら、『先程』の話の続きがやってきたようだ」
「それは、ホルスの子供たちという、ラサの――」
リュティスはベネディクトに続き立ち上がろうとする。ぴたりとその動きを止めたベネディクトは「リュティス、急ぎの仕事は全て処理できたと思うが」と口を開く。突然のことに驚いたようにリュティスは瞬き「はい」と返した。予想では此れから始まる依頼に関する事柄を問い掛けられると思っていた。装備品の打ち合わせや、作戦や統率。それらを共に考えるのも随分と慣れてきた筈だ。
「後は帰り着いたら作業を行うことにしようか。何か急ぎの者があればリュティスが確認できるなら頼みたい」
「畏まりました」
「他に今見落としはないだろうか」
「はい。本日の分や急ぎの物は全て確認が済んでおります。……ご主人様」
リュティスはそろそろと口を開いた。僅かに声が震える気配がしたが息を飲み抑えるように音を為す。奮えたその音色が悟られぬ様に――いつも通りの従者の顔をして語りかけなくてはならないとでも言うように。
「私もご一緒致しましょうか」
「いや……大丈夫だ、必要であれば使いを出すよ。俺が留守の間、屋敷の管理をお願いしたい」
「畏まりました」
着いていくのが当たり前に感じていた。彼の傍に立ち、彼の心をも支えるのが従者であると認識していたのに。それでも、彼が大丈夫だと口にしたのならば
準備を整えると、磨いておいた槍を、そして自身の装備を調えるベネディクトの出立を手伝いながらリュティスは常よりも表情が硬くなっていくことを感じる。
あの話の続き――ポメ太郎が咥えていた紙と、彼の言葉から推測される敵は『ホルスの子供たち』。それも、ベネディクトを呼び出すというならば相手は――……。
心の中に浮かび上がったのは心配という文字だった。それを口にすることも不敬ではなかろうかとリュティスは口を噤んだままだ。平静を保ち、彼の出立を見送ってから屋敷を管理し続けて彼の帰りを待つのが従者の在り方なのだから。
「ご準備は整いましたか?」
「……ああ。それじゃあ、リュティス、行ってくる」
「はい。雨脚も強くなってきました。道中、お気を付けて」
ゆっっくりと閉じられた扉を眺める。「畏まりました」と先程口にした言葉は主にとってどう聞こえただろうか――普段通りの聞き分けの良い従者として、言葉を続けることが出来ただろうか。
――この話をするのはリュティスへするのが初めてだ。誰かに話す気も無い。
……今後も話す必要が無ければ、墓まで持ち込むつもりだ。いきなり、済まないな。
主人が心を砕き、この
主の心を支え共に在る事を誓った自身が共に並び立てないことに僅かな悔しさが胸を過る。彼の苦しみの傍に立って、彼の苦しみを拭うように戦う事ができたならば。其れはどれ程に幸福なことであっただろうか。
それでも彼は言った。『大丈夫だ』『何かあれば連絡する』と。大それた事など何でも無いとでも言うように。何時ものようにあの澄み渡った蒼き眸に余裕の笑みを浮かべて、行ってくると此方に背を向けて。
帰る場所を護っていて欲しい――その言葉は重たい。待っている方にも枷をするのだ。待ち続ける時間がどれ程までに苦しいかを彼は知っているだろう。誰かを待たせ、そして悪戯に流れる刻がどれ程までに重たいのかを知っているだろう。戦に出て、帰り着いたその場所には待っては居なかった母君。その死が彼にどれ程の苦を与えたのかは計り知れない。それでも、自分に待っていてくれと願ったのは。
ああ、分からないことばかりだ。他者の感情とはどうにも理解に遠い。自身が理解できる物も多くは存在するが、その中でも『経験にない事柄』というのはどうにも乏しく想像上の出来事でしかないのだ。親しい人を眼前で亡くすこと、討ち取ること、友情の罅に恋心との別離。全てを捨てるかのように姿を消すこととなった強制力の世界。
それでも、乏しいを束ねて作り上げた心と言う名のブーケは枯れる訳もない。自身が其れを望んでいるうちは鮮やかな色彩で咲き誇っていてくれる筈だからだ。
心配です。着いていきたかった。私も。そんな我儘にも似た涅色の感情を仕舞い込むようにリュティスは空になったティーカップを片付け続ける。気付けば、人の気配など遠ざかってしまった執務室には自分以外誰も存在しないかの様で。
「……お帰りをお待ちしております」
誰に言うでもなく呟いて、主の居なくなった執務机をそうと指先で撫でた。