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畢竟依を帰命せよ。
登場人物一覧
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ある人は、楽観にこそ幸福を定義した。
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窓際に立て掛けられた額縁の中には、滅紫色の可愛らしい花が収められている。
所謂、押し花だ。私はこの花がとても気に入っている。
この花には希望と絶望とそして、少しだけの優しさが含まれている。
「“私の最良の日々は過ぎ去った”、か」
紅茶で満たされた茶器を口に運び終え、足を組む。
コルチカムの押し花。
この花を眺める時間が最近の私にとっての重要なひと時だった。
思いがけずにこの贈り物を与えてくれたのは特異運命座標の面々だった。
自分でも意識せず口元に微笑みが浮かび上がる。
「誰かいるかしら」
間髪入れずに何処からともなく従者が現れ、無言でその女の横に立った。
「青い鳥を、捕まえにいきましょう。
私のもとから消えてしまった、幸せの青い鳥をね」
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ある人は、獲得にこそ幸福を定義した。
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木々が生い茂る森の中。
風に揺れる木の葉の音、虫の鳴き声。
暖かな陽は沈み、冷徹な月光に支配された世界で、眼前で燃え盛る焚火が唯一、其処に居るふたりの相貌を照らし出していた。
「未散さんとは、この間の教団潜入の悪趣味な依頼ぶりの同行でしょうか?」
「ええ、そうでございますね。あの時は、服が汚れてしまい、聊か不愉快でございました」
「未散さんらしい感想ですね。
……それにしても、今回の依頼は難儀だ。いや、むしろ打って付けと云うべきでしょうか」
「――幸せを運ぶ青い鳥を連れてきてほしい、でございますか」
一際大きな音を立てて、焚火が爆ぜる。揺らめいた炎は、酷く美しい女と男――散々・未散とハンス・キングスレーの二人の表情を映し出した。
この二人の特異運命座標に与えられた任務は、遡ること十数時間前に始まっていた。
依頼者は匿名。正確には、特異運命座標に対しては匿名。ギルド・ローレットの馴染みの取引先なのか、その素性は未散、ハンスの二人に開示されていなかった。だが、二人はそのことに特段の意味を見出さなかった。青い鳥。そのキーワードが、二人を依頼へと向かわせた動機の一つ。
「しかして、この様にハンスさまと二人きりと云うのは、初めてになりますね」
王は喪に服すかの様に、黒を纏い、頭上に戴くのは小柄な体躯には些か余る様にも見える立派な黒の王冠。
誰かの青い鳥に成り損ねた御魂を連れ歩く背には、羽根がはらはら堕ちるばかり――屹度幾許もせず朽ち、衰微していくだけの偽称の翼。
そんな未散が薄氷のような髪を揺らすと、ハンスの視線と邂逅する。
「そうですね。折角の良い機会だから、未散さんのことを知れたら嬉しいです」
未散とは対照的に、己の身体を包める程に大きく力強い六枚羽の翼。未散は飛べず。ハンスは飛べる。感情を感じさせない未散とは違い、中性的に整った相貌に柔和な笑みを浮かべたハンスは、眼前の翼を失った鳥と、端的に言えば友人になりたかった。
「この依頼、時間はたくさんありそうです。
道すがら、模りましょう。ぼくの、わたしたちの心象を」
そしてそれは、未散も同じ。
だから、それが動機の二つ目だった。
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ある人は、不屈にこそ幸福を定義した。
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翌日になって、廃墟になった村を歩いていた。
家々は崩れ落ちている。
嘗て、この地域にも神が居たのだろう。女神の象がそれを示している。
均衡のとれた乳房、聡明そうな腕、屈強な腰。
嘗て豊穣をしろしめした女神は、しかし、今ではその首を捥がれ、腕を切り落とされ、鼻を削り落とされていた。
ハンスはその偶像を足元に見て、指の一本を拾い上げる。
「この女神は、まるで追憶の暗喩ですね」
未散はハンスの横に立つ。「追憶ですか」と返した。足元には女神の腕が転がっている。
「それは、ぼくたちが何かを想い出そうとする行為。
けれども真実の形は既に不定。
どれだけ美しく。
どれだけ崇高であろうとも」
「それでも、僕たちが手にするのは、崩れた石造の断片でしか有り得ない。
――なんて、皮肉」
ハンスは手にしていた女神の指を優しく地面に置く。その様子を眺めていた未散が美しい唇を揺らす。
「抑々、ぼくたちはどういった存在なのでございましょうか」
「……未散さんは?」
「……ぼくは、誰かの“青い鳥”になりたくて、でもなれなかった
未散の薄氷の様な瞳が、ハンスのそれをじいと覗き込む。
「集合体、ということは、未散さんにはいろんな人格が?」
「はい。然し、すべての記憶は喪失されております。
故に、人格を記憶と定義すれば、ぼくには“集合体と云う個”しか残っておりません。
畢竟それは、孤独でございましょうか」
「孤独――ですか」
ハンスはぽつりと吐き、腕を組む。「ハンスさまは?」と未散が続けた。
「僕は……、僕は、嘗て人々の欲の受け皿となり、彼らの幸福其の物を齎すものとして
けれど、僕の世界はあるときに終末を迎えました。今は屹度、只の”紛い物”に過ぎないのでしょう」
何処か自嘲気味にハンスが言った。未散の長い睫毛が瞬く。
「……そうでございましたか。これは興味深い偶然です。
では此処には、成りきれぬ青い鳥が二羽」
未散の言葉に「そうですね」とハンスが続けた。
「望まれながら、果たしきれなかった青い鳥が」
「望みながら、忘却された青い鳥が」
――此処に、青い鳥は居ない。
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ある人は、信仰にこそ幸福を定義した。
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その翌日も、二人は歩いている。
廃村を抜けて、其処には一つの池がある。
木々に囲まれた池。
周囲に人影は無く。
静謐に覆われたその清水は、覗き込む未散とハンスの顔を反射させた。
「青い鳥は、幸福を運ぶというけれど」
「はい」
「未散さんにとって、幸福って、何ですか」
ハンスの問いかけに、「唐突ですね」と云って、未散は細い人差し指を顎にあてた。
「いや、こんなことをゆっくり機会もそう無いかな……って」
「なるほど。そうですね、それは――。
屹度。満遍なく甘い、パンケェキを頬張る様なもので御座いましょうか」
「……たしかに、それは幸せだ」
ハンスが穏やかに微笑む。
「幸福を何と定義するか。これが畢竟問題でございますが。
それでは、ハンスさまにとっての幸福とは如何でしょう」
「幸福ですか……。
たとえ一擦りの燐寸の様に儚くたって、それでも確かに暖かいもの……なのだと、思います」
ハンスの返答に、未散は小さく頷いた。
「なるほど。斯様な幸福を、ハンスさまは手に入れられそうですか?」
未散の問いかけにほんの数秒動きを止めた後、ハンスは含羞んだ。
「――わかりません」
そのハンスの素直さが、未散には心地よく感ぜられた。
嘗ては願われる側であったハンス。
願われることには慣れていても、願う事には慣れていない。
毀損された女神の像。
あの女神も、今となっては、いったい何を願うというのか。
「何、幸せ等は生に固執する必要は無いのです。
――ぼくは、ぼくを壊して下さるお人を屹度、望んでいるから」
歓喜も、憤怒も、悲哀も。
すべてを内包しているから。
己を破滅させるものを望む。
未散は感情無き玲瓏な相貌のまま、そういった。
堕ちてゆく君は、虚空の中で、静止している。
怪物は、何処に行ったのか?
「達観ですね。……そうですね、僕は唯、今日も、今日の花を摘み続けましょう。
――生憎と
必死に生きて掴み取るぐらいしか方法が思い付かない――という事にしておいて貰えると助かるのですが」
自嘲気味にいったハンスの言葉に、未散は首を横に振った。
「いいえ。今日の花を摘む。それは決して簡単なことではありません。
詰まる所それは、“どんなに絶望的な今日・どんなに享楽的な明日”であったとしても、今日を摘むということでありましょう?」
――此処に、青い鳥は居ない。
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ある人は、理性にこそ幸福を定義した。
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さらにその翌日も、二人は歩いている。
どれだけ歩いただろう。明瞭な記憶は残っていない。
この旅は、幸せの青い鳥を探す旅路だ。
それ以上に、未散とハンスとがその身分を証明しあう旅路だ。
この先に幸せの青い鳥が居るのか、居ないのか、二人は知らない。
それはあまり大きな問題ではない。
我々は青い鳥であったし。
我々は青い鳥ではなかったりもした。
其処には青い鳥がいるし。
其処には青い鳥は居ないかもしれなかった。
だが青い鳥は見つかる。その事だけは、真実だった。
眼前には一面に色とりどりの花が咲き誇る、花畑。
踏みしめるその先、花畑の真ん中には、一人の女が居る。
絹の様な漆黒の長髪をたくわえて。
純白のブラウスに、深紅のマキシスカート。
一脚孤独に置かれた背の長い椅子に腰かけ。
深緑の虹彩で、来客者を見ていた。
「探し物は見つかりましたか」
女の喉が鳴り、迦陵頻伽なる声が未散とハンスの鼓膜を揺らす。
「いえ、まだ」
短く答えた未散の声に従属して風が舞い。
花と花が交じり合う音が交響曲を奏でた。
「此処では、すべてのものが見つかります」
「……すべてのもの?」
「まずはお茶を一杯どうぞ。久方ぶりのご客人ですから」
問うたハンスが瞬きすると、眼前にはシルクで覆われたテーブルと二脚の椅子。
湯気を立たせ蠱惑的な匂いを撒き散らすカップが三つ。
ハンスが無言で未散へと視線を移すと「……いただきましょう」と返す。
二人は突如現れた茶会の用意に、腰を掛ける。
眼前の女はにこりと笑った。
未散が白色の陶磁に手を伸ばし中を覗き込む。
その
「――美味しいですね」
味は満遍なく甘かった。
「お口にあったようで、よかったわ」
未散の感想に、女が微笑む。「でもね」と続けた。
「この場所では、わたしの探し物だけは見つからない。おかしいでしょう?
でも、仕様がないの。もう諦めたわ」
「貴女の探し物とは、なんですか」
ハンスが問う。女は微笑みを浮かべたまま、視線を紅茶の水面からハンスの蒼空の瞳へ移した。
「もう、忘れてしまったわ。
何事にも、有り得ないものなのね。永遠なんて」
女の言葉に、未散は小さく首を傾げる。
「何ひとつ永遠なんてなく、いつかすべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。
ぼくは、そう思いますが」
「“だから”?」
「“だから”、です」
「……素晴らしいわね」
未散の言葉に女は頷き、瞼を閉じた。そして「素晴らしい」と小さく反復した。
「此処は、貴女の庭でしょうか」
「ええ、そうよ。なかなか素敵でしょう?」
女の返答にハンスが周囲を眺め、口を開く。
「――”乙女らは新しき野を行く。花冠を編むため花を摘む。
赤い薔薇は、殉教のしるし。百合と菫は、愛のしるし。”」
そこまで諳んじて、ハンスは苦笑する。
「……それでは、ここで編まれた花冠は、僕に相応しい花は、一体なんでしょうか」
女が右手で頬杖をつき、ハンスをじいと眺めた。
「”あなたの香りは、かくも遠くに及ぶ。
あなたは、天使たちの上に立ち。
あなたは、イブの罪を償う。”
……なんて、罪深いおひと。あなたには、この花を」
そういって女が、ハンスへ花冠を手渡す。
それは蒼い葡萄の様な花。
ムスカリの花冠。
とある世界の、最古の埋葬花。
「この花は、おふたりに捧げしもの。
――ああ、よくお似合いですわ」
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ある人は、抑制にこそ幸福を定義した。
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燐寸で灯された蝋燭の灯。
テーブルにはパンと葡萄酒/紅茶だけの質素な夕餉。
「貴女は、幸せの青い鳥でしょうか」
頭上には地球儀の天蓋。
未散がパンを嚥下し、不意に眼前の女へと問うた。
女は葡萄酒の満たされたグラスを唇から離す。
「どうして?」
「ここは、すべての探し物が見つかる場所。
そしてあなたは、そのあるじ。
ぼくたちが探しているのは、幸せをもたらす青い鳥です。
ですから貴女は、幸せの青い鳥なのかと思った次第でございます」
「しかしそれは、貴女のさがしものではない」
女は手元のクロスで口元を拭い、続ける。
「貴女の青い鳥は、何ですか。
これは、多分、屹度、一度きりの質問です。
何故なら、あなたがたがこの場所を訪れることは、多分、屹度、二度とないことだから」
「――ぼくの、青い鳥」
「ハンスさんも、同様ですよ」
そういって、女は愉しそうにハンスを見遣った。
「食事も済みましたし、場所を変えましょう」
女が指を鳴らすと、周囲の風景が変わる。
月光に照らされた花々から、一面雪に覆われた銀世界へ。
気が付くと、長髪の女は居なくなっていた。
不思議と寒さは感じない。
加えて、彼女の仕儀に敵意も感じなかった。
「不思議なことに巻き込まれましたね」
「ええ、本当に……。しかし、どうしましょう」
未散があたりを見渡しながら云うと、ハンスが苦笑交じりに返した。
「青い鳥を、望みますか」
続けて言ったハンスの言葉には、“どちら”かは明示されていない。
空から雪が降ってくる。
未散は虚空に手を伸ばした。
――こんな雪夜が好きな“ぼく”も、どこかに居たのだろうか。
「ハンスさまは、青い鳥の童話の説くところを、なんとお考えでしょうか」
それは、幸せの青い鳥を探すが、結局は身近なところにあったのだという教訓。
そして、それが結局は手に張らないという教訓。
……本当に?
ハンスが口を開く。
「僕は――」
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数日後、依頼主の女のもとに、一羽の鳩が届けられた。
「これが、幸せの青い鳥なのかしら?」
女の問いに、従者は何も答えない。「下がっていいわ」と女が続けると、従者は姿を消した。
女は鳩のつぶらな瞳を眺める。悪くない。
「あの童話の、教訓は」
女は深々と椅子に腰かける。
眼前にはコルチカムの押し花と、幸せの青い鳥。
――身近な鳥に幸せを見出す、その旅路こそが、必要なのだということ。
女は黒く長い髪を揺らし、右手で頬杖をついた。
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「もしよろしければ、またお暇があるときにでも、アパルトマン・モールドレにお越しくださいませ。
ささやかではございますが、お茶の用意をさせていただきましょう」
「ありがとうございます。
……すてきなお土産も貰いましたしね」
ハンスがポケットから小さな袋を取り出す。
――あの不思議な花畑で、二人は
手元に残ったのは、この美味しい茶葉だけだ。以来の報酬としては、聊か破格である。
「あの紅茶、なかなか美味でございました。ぜひ一緒に賞味いたしましょう」
「はいっ!」
未散の言葉にハンスは破顔する。
――いや、報酬はもう一つある。
そこには、ひとりぼっちの青い鳥がふたり。
止まり木に腰を下ろした青い鳥が、ふたり。
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ある人は、――――。