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あなたを愛す
登場人物一覧
ねえ、アイラ。
どうして君は、いつも、いつも。
――僕の手の届かないところで、傷ついて来るの?
『ただいま』
ふわりと舞う蝶はが想いを、言葉を伝えに来る。肩に留まったそれを見てラピス・ディアグレイス(p3p007373)はひとつ目を瞬かせた。
(どうして、蝶?)
これは愛する少女のギフト。魔力の蝶。想いを伝えられるそれは、けれど口に出せば十分なはずで。
嫌な予感がした。ラピスはそっと振り返り、妻――アイラ・ディアグレイス(p3p006523)の名を呼ぶ。けれどその返事はやはり言葉ではなく、蝶で。
『ごめんね』
『けが、しちゃって』
姿を見せたアイラが困ったように微笑む。その首には痛々しく包帯が巻かれていた。よくよく見れば肩も庇っているような気がする。
「アイラ……! 声が出ないの? どうしてこんな、」
『ぼくは、』
『めのまえのものを、みすてられなかったの』
ごめんね、という再びの言葉はない。けれどもやっぱり困ったような表情がその言葉を物語っている。
どうして。どうして? ねえ、アイラ。
悲しみか、怒りか、落胆か。あるいはすべてかもしれない。ぐるぐるとラピスの中でとぐろを巻いて、彼は弾かれたように飛び出す。
『ラピス!』
彼女の蝶が言葉を届けようとして、けれど追いつけずに距離が開いていく。離れていく。蝶に続いて追いかけていたアイラもだんだんとその足を止めてしまい、蝶はどうするのかと言うようにアイラの周囲を漂った。彼女はそれを手の内に留まらせて――届かぬように、握りつぶした。
ねえ、ラピス。
声が出せなくても、話せるんだよ。蝶が届けてくれるから。
けれど、もしも君がそれを拒むのなら――。
その後、数日間ラピスは家に帰ってこなかった。返して言えば、数日後にようやくラピスは帰ってきた。アイラが1人きりで待つ、家へ。
傷口から悪いものが入らないようにと包帯で巻いていた首は、表面が塞がったことを受けてすっかりその傷を露わにしていた。大きく首を捻らなければ良い。安静にしていれば痛みもなく、そして少なくともアイラにとっては『醜い傷』でもないから。
けれど、ラピスはそれを見てくしゃりと顔を歪めた。アイラはどうして彼がそんな顔をするのか掴み切れなくて、窺うように頬へと手を伸ばす。
「アイラ」
『どうしたの』
「アイラ、お願い」
治させて、と小さく告げられる。氷のようなダイクロイックアイ瞳が大きく見開かれた。
「それも、それも……見ていると、苦しくなるんだ」
彼の手が優しく、恐る恐ると首に触れ。視線は肩へ向けられて、両手がアイラの腕へ添えられる。どれもこれも彼がいない――守れない場所でアイラが受けた傷、その痕。それに触れる彼の手は、いや体は震えていた。
「だって、まるで、僕が君を護れないみたいで。これからも護れない気がして。そんなの、嫌だ」
(ラピス……)
その背へ腕を回し、アイラは優しく撫でる。ああ、愛しい人。優しい人。この人はアイラが自らの体を傷つけるたびに自らも傷ついてしまうのか。
ラピスラズリは決して強度のある宝石ではないと言う。このままだと――いつか。彼は、彼の心臓ごと壊れてしまうのかもしれない。それほどの痛みを与えてしまっているのだと、アイラは気が付いた。
だから――この痛みを、取り除こう。
「まずは、切り傷を」
ラピスの手に乗っている粉末は彼の『心臓の欠片』だったもの。ラピスラズリの心臓から採取した欠片を更に細かく砕いたもの。それをラピスはアイラの傷へかけ、魔力を込める。
(これは、静寂の青……ううん、絶望の青での、傷)
ラピスラズリに癒される自らの傷痕を見ながら、アイラは思いを馳せる。あれはまだ絶望の青を攻略する途中。忘れようもないメアとの戦い、薙ぎ払わんとしたメアの攻撃をこの細腕で耐えた事が思い出される。
痛くないわけがない。痛かった。けれども、あの時コフィン・ゲージにもっと注意していれば、廃滅病患者に気を付けていれば、ブルーノは――。
「次は……そのまま打撲痕を治してしまおうか」
ラピスの魔力がその上に重なるような打撲痕へと向けられる。これは妖精郷での傷だ。アイラの魔法を『すき』と言ってくれた"彼女"のアルベド。追いかけた先にいたキトリニタス。その初撃はアルベドなど比ではないくらいに重たかった。あの時、別れ際にアルベドから"彼女"へと渡されていた紫のアネモネが頭に残っている。
「……ここは、この間の」
触れられた肩にアイラは視線を落とし、小さく頷く。これは――仲間(子供)を助けようとした一矢だ。誰もが必死だった。
生きたかったから。死にたくなかったから。生かしたかったから。殺したくなかったから。
イレギュラーズにかけてくれた者もいた。1度きりだと協力した者もいた。奪われまいと攻撃した者もいた。その先にあった想いは、きっと皆同じだったのだ。
――痛くない。痛くない。痛くない。
ずっとそう念じていた。嘘、痛かった。けれど蹲るなんてできなかったから、そう言い聞かせて。
「アイラ。これで、最後だよね?」
『うん。さいご』
ラピスの指がそうっと首元に触れて、アイラは頷く。あの時、領主に言われた言葉をふと思い出した。
――それを治さない理由など、『自身が口にした在り方を嘘にしたくないから』程度でしかありませんよ。
大切なものを手放したとしても、それによって多くを救えなかったとしても、目の前の小さなものしか手を伸ばせないとしても。それでもそうするのかという問いかけにアイラはYesを返した。
(嘘には、しない)
だって、僕の手は大きくないから。
ちっぽけなものしか、掴めないから。
だったら、それでも、手を伸ばしたくて。
救いたかったんだ。
「アイラ? ……痛い?」
ラピスが覗き込んでくる。滲む視界に、アイラは涙を零しているのだと自覚してゆるりと首を振った。
『いたくないよ』
これらの傷は、アイラの成長と共についてきたけれど。
これらの傷は、アイラの決意と共についてきたけれど。
『だって、』
君が苦しんでしまうから。
君が悲しんでしまうから。
『ラピスがなおしてくれるんだもの』
他でもない彼が治してくれるなら痛いわけもなく。そしてきっと綺麗にしてくれることだろう。
けれど例え見える『傷』ではなくなってしまっても、アイラの中に『痕』として残り続ける。メアやブルーノのことを忘れてしまう訳もなく、"彼女"のアルベドのことを思い出さないわけもなく、領主の言葉もスラムでのことも鮮明に焼き付いている。だから――大丈夫。
「……アイラ、愛してる。愛しているんだ。いつまでも……変わらないよ」
「――ボク、も」
最初は囁くようだった。ラピスがはっと目を見張って、アイラを覗き込むからもう一度口を開く。久しぶりに発する声は喉の筋力が落ちてしまったか、随分震えるけれど。それでも自分の声で、伝えたい。
「ボクも、ね。ラピスの、こと。あいして、ます、よ?」
ふわりと笑って。彼もくしゃりと笑って。
2人は小さく笑い合いながら、こつんと額同士をくっつけ合った。