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孤月、雪の夜に
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雪が降っていた。
白く、やや大きな雪の結晶が、窓の外を降りていく。
シラスはテーブルの上にある空になった食器から視線を外して、その眼を向かいの少女に向けた。
「ご馳走様!」
「全部食べてくれて嬉しいな」
そう言って、アレクシアが仄かな笑みを浮かべた。
苦手だった野菜も、もうすっかりと食べてしまえるようになった。
もちろん、そんなことを自慢するのは気恥ずかしいけれど、やっぱり、ちょっと誇らしくて。
思わず声にその気持ちが乗ってしまっていた。
「今日のも美味しかった。でも、作らせちゃってごめん」
自分の家なのに、そんな事を思って声を出せば、アレクシアは微笑を崩さずに首を振る。
「私が作りたくて作ったから気にしないで!」
朗らかに笑ってそう言ったアレクシアは、隣に来て、食器を持って洗い場に行く。
その背中、小さなその背を見て、ふと思い出した。
時を止めたように、その容姿にほとんどの変化が無い幻想種の親友との、雪の日のこと。
あの日も――それにその前も。今日と同じように雪だった。
実際、あの手の――一般的に言えば善行とは言い難い仕事に、彼女を関わらせたりなどしない。
成り行きだった。
思えば始まりに至ってはローレットすら介さなかった――いや、介してさえいれば、起きずにすんだかもしれない。
そもそも『綺麗な』彼女がその依頼を受ける理由もなかっただろうと、思う。
だから、これまで目を背けてこれたのだ。
意見や立ち位置の違い、格好つけた言い方になってしまっていうのなら、信条の違いを、人生の違いを。
けれど、一度向き合ってしまったら、向き合わされてしまったら。
まさかこんなにも胸につっかえたようになるなんて思いもしなかった。
ちくちくと、常に棘で突かれているようなむかつきが取れやしない。
あるいは、こうなる気がしたから目を背けてきたのか。
シラスにもよくわからなかった。
(……アレクシアに怒鳴ったことなんてあれが初めてだ)
あの日、雪の下、ついて出るように叫んだ言葉と、受け取った言葉は脳裏に刻みこまれている。
これまで自分のやり方を疑ったことはなかった。
いや、疑いもしなかった。
でも――
(違う。それは本当に俺が何も知らない子供だっただけだ)
護るべきもの――手を差し伸べられることをただ待つことしか許されない人たちのために、命がけで向き合う仲間がいる。
暗闇の中、手探りで、きっと途方もなく遠い先。
それでも投げ出すことなく、ひたすら向かおうと手を伸ばして声を上げる仲間がいる。
それを考えれば。
「俺は間違っているのかも知れないね」
漏れた声は、彼女には届かなかったみたいだ。
ただ、何かを呟いたことに気づいたように、アレクシアが首をかしげていた。
それに首を振って返して、シラスは静かに視線を掌に向けた。
(それでもいい、自分の価値を誰にも無視できない形で証明する。
――何に代えても)
特異座標になって命を拾い直した時にそう誓った。
その誓いだけは、様々に変わる今も、そしてきっと、此れから変わっていく中でも、変えることをしないであろうものだ。
ここまできた。そしてこれからも駆け抜ける道だ。
そんなつもりは毛頭ないが――結果として、その歩みを緩めることになったとしても。
きっといつか、報われる日があるのだと、信じたい。
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冬場の水は冷たい。
当たり前だけれど、食器を洗いながら、アレクシアはそんな事を思っていた。
流水の音が掻き消しているのは、外の喧騒でも手の冷たさでもない。
胸の奥にある、答えの出ない問答への意識。
ちらりと視線を上げれば、シラスはぼんやりと何かを考えているようだった。
思い出されるのは、あの日の事。
あの日も、その前も。こんな雪の日だった。
何のためらいもなく、『そこ』を飛び越え、刃を引くことができた彼を見て、心の中に過った物があった。
こびりつくような香りに、にじませるつもりのない感情が言葉に乗った。
でも。その次は違っていたんだ。
このままだとどこか遠くへ消えてしまいそうな君に手を伸ばさずにはいられなかった。
このままだと手を繋ぐことさえ拒絶しそうな君に、声を上げずにはいられなかった。
ヒーローだからなんかじゃない。
きっと、それもあるだろうけれど。
でもそれなら、自分の気持ちを押し付けるつもりはなかった。
――ただ、友達が、その先にある暗い世界に歩みを進めているのが耐えきれなかった。
最早つなぐことさえできない場所に、出口のない暗い道に彼が行くのを『仕方ない』で済ませられるほど、浅い『友達』であるつもりはない。
だから、声を上げたのだ。
それが結果として彼とやったことのない口論になったのだとしても。
そちらへ行かせない。僅かでも残っている好転する可能性を摘み取ることを、アレクシアは看過できなかった。
そして、シラスは行かなかった。自分が伸ばした手を、少なくともまだ握り返してくれる場所にいた。
雪の降る夜、彼に言った言葉に嘘はない。
いや。むしろ、嘘にはしないつもりだった。
結局、私自身も、大切な友人と本当の意味で向き合っていなかった。
それがあの日だった。だから――絶対に、これからはそうしない。
立場の違い、意見の違い。そんなものは往々にしてあるんだと思う。
だから、初めて声を張って彼と言い合ったことは間違ってないと思っている。
これから進む道が同じであるかは分からない。
――でもそれは、すぐに答えが出ることじゃない。
それに、きっとすぐに答えを出しちゃいけないことだから。
何より――きっと、本当に大切な友人なのであれば、思いの違った時に喧嘩ぐらいするはずだ。
何の問題もない。そう思いたかった。
手を拭いて、食器を片付けながら、アレクシアは何度目になるかもわからない問答を心の中で繰り返す。
ついでにと飲み物でも出そうかなと動き出せば、ぽつりと何か声がしたような気がして視線を向ける。
内容までは聞こえてこなかった。けれど、こちらを向いて複雑そうに笑うシラスを見て、アレクシアは静かに首を傾げ、笑みを返す。
●
「ココア持ってきたよ」
いつもの調子を意識して、アレクシアは笑みを浮かべテーブルの方へ戻ってきた。
「ありがとう」
そういってシラスが受け取ったのを見て、アレクシアは隣に腰を掛けた。
他愛もないことを話す。
新しい本がどうだとか、この前アレクシアが貸してくれた本がよかっただとか。
この前こんなことがあったとか。
本当になんの意図もなく、ただ、ふと思い浮かんだことを二人で話していた。
しんしんと降る雪は音もなく、ただ二人の話す声だけが部屋に響いている。
夜が更けているわけではない。
ただ雪の降る夜に外の喧騒はさほど多いわけではない。
まるで二人だけになってしまったかのような、そんな空気だった。
どれくらいたっただろうか。
不意にアレクシアが立ち上がり、帽子と傘を持って扉の前に立つ。
「よく見たらもう遅くなっちゃってたや。シラス君、またね!」
そう言って、くるりと背を向けたアレクシアの動きが止まる。
「待って……!」
そう言った声は、自分の物だった。
気づけば、身体が人のぬくもりを感じていた。
自分でもわからない。ただ、気づけば、彼女の身体を抱き寄せていた。
こんなこと、やっちゃいけない。
頭でわかってるはずなのに。
「ごめん、もう少し一緒にいてくれる?」
次いで出た言葉は、やっぱり引き留めるためのそれで。
自分でも驚くほど、震えていた。
微かに抱き寄せる腕に力が入ってしまう。あぁ、こうしてみれば、どうにも華奢だ。
「しょうがないなあ、もう少しだけだよ」
そう言って笑ったアレクシアの穏やかな声が、耳に届く。
「ごめん」
零れる言葉をそのままに、手を引いて座りなおす。
心臓の音さえ聞こえてしまいそうな静寂が満ちていた。
「……アレクシアは……いなくならないって言ってくれたよね、どうして?」
何か言わなくては――なんでもいいから。そう思いながら探りあてた末に、気づけばそんな言葉が零れ落ちた。
らしくない。分かっている。
自分でも嫌になる。それでも、わけも分からず心細くて。
気づけば確かめるように声に出た。
「どうしてと言われても……私にとってシラス君が大切な人だからだよ?」
アレクシアは笑みをこぼしながら、シラスに手を伸ばす。
理屈なんて、探せばきっと色々あるだろうけど。
一番根っこにあるのは、きっとそれのはずだ。
「大事な友達と離れたいなんて思う人、いないでしょう?」
向き合うと決めた以上は、猶更だ。
君が手を放そうとするのなら、それを掴んででも向き合う。
その覚悟を決めたから――猶更、彼の持つ澱みの方も手を伸ばしたい。
不安はある。いつか、別の道を選ばざるを得ない時が来るかもしれない。
でもそんなちっぽけなものは――この胸の奥に隠しておこう。
きっとそれがヒーローだから。
「そっか……」
そう言う彼の言葉はどこか揺れている。
そんなはずはないのに、凍えて死んでしまいそうな、か細い声だ。
アレクシアはそっと手を重ねた。
なぜか、酷く小さく感じる彼の手を包み込むようにして重ね、じっとその瞳に目を向ける。
ある意味で、らしくはない。そんな様子の友人を見ながら、アレクシアはどこか気持ちが良かった。
きっと、シラスのこんな姿を見られる友達はそうはいないだろう。
そう思えば、彼は自分よりも年下なのだと、今更なことを再確認する。
「……落ち着いた?」
小さくうなずいたシラスを見つめ、アレクシアは微笑を浮かべ、そっと手を放した。
「ホットミルクでも入れよっか」
再びこくりと頷いた少年をひと先ず座らせる。
ホットミルクを入れたコップを両手に、もう一度シラスの隣へ座る。
ひどく弱った様子を見せる彼を放っておけなくて、アレクシアは一度立ち上がってホットミルクを淹れ、一個のコップをシラスへ手渡す。
そのまま一口、彼が飲んだのを見て、アレクシアもそっと一口、口をつける。
程よく温かいそれは、きっと隣の少年の何かを和らげてくれる気がした。
●
手を握る。きっと放さないように。
ぼんやりと、窓辺から差し込む月明かりと、白とを眺めながら、シラスの意識は徐々に落ちていきつつあった。
なんでもいい。一時でも長く、アレクシアと共にいたい。
ただそれだけで、話題を探し続けていた。
少しずつ、思考がまとまらなくなってくる。
「……眠そうだね」
「そんなことは……ないよ」
アレクシアへ答えるための言葉に力は入らない。
あぁ、こんなつもりじゃなかった。
どうして、こんな姿を見せてるのだろう。そんな気持ちがもたげては消えていく。
ぬぐえぬ不快感は、このままでは見てしまいそうな悪夢へのそれか。
それとも、未だ分からぬこの感覚への恐怖か。
アレクシアの温かさを確かに感じながら、シラスは思う。
やっぱり、君みたいに強くはなれなさそうだよ、と。
代わるように、アレクシアが話しかけてくる。
穏やかな、一種のおとぎ話を聞かせるような声で。
シラスはそれに自然と耳を傾けていた。
ぼんやりと、窓辺を見る。窓の外を雪がおちていく。
降りやむ気配を未だに見せぬ純白が、穏やかに落ちていく。
その先にある銀世界は、きっと美しくて輝いて見えるのだろう。
俺が――そして、彼女がその銀を一緒に見ることができるのかは、まだ分からないけれど。
いつか、それが見られたらいいと、そう思いながら、シラスはアレクシアの話を聞いていた。
ぽん、ぽん、と規則的に優しく叩かれる感覚に揺られながら、やがて、瞼が落ちてくるのを感じた。
うつら、うつらとした意識は、やがて、温かく何か声を聞いたような気がして――。
何かが身体に掛けられたような気がしながら、微かな重みと共に意識を手放した。
アレクシアはシラスへ声をかけ続けていた。
話をするわけではない。まるで疲弊した身体を無理やり突き動かし続けるような少年へ、今はひとまず、休んでいいのだと。
そう語り聞かせるように。
手元から落ちそうになった彼のコップをそっともらい受けて零さないように脇に置いて。
そのまま落ちてきた彼の頭が膝に触れる。
ぼんやりとその視線が窓の外辺りを見つめている。
アレクシアはそれを見ながら語り聞かせた。
やがてそれが穏やかな寝息に代わる頃、そっと立ち上がって、枕を乗せ、ブランケットをかける。
「おやすみ、シラス君」
最後にそう言って笑いかけてから立ち上がり、アレクシアはそっと帽子と傘を持って音をたてないように気を付けて扉の方へ歩いていく。
家を出て、とりあえず鍵をかけて。
鍵(これ)を返すのはいつか別の日にでもと思いながら、傘を広げた。
街灯が仄かに輝き、どこからか夕食の香りがしてくるのを感じながら、一歩踏み出した。
雪を踏みしめ、その下にある道路を感じながら、アレクシアは傘の下から空を見上げた。
穏やかな月はやや欠けている。明月を過ぎた月だ。再び満ちるには遠い。
それはこれからがまだあることを教えてくれるようで。
そして――それだけはあの日とは違うのだと教えてくれた。
「ふふ、綺麗だけど、流石に外は寒いや。早く帰ろう」
ほろり、と頬に落ちてきた雪に触れて、指の先で溶けて水になった結晶を眺めたアレクシアは、もう一歩を踏みしめた。
「明日は何があるかな……」
そう言って、アレクシアは抱いた何かを胸に秘めながら帰路に就いた。
あくまでヒーローらしく。自分の迷いなど包み隠して前を行こう。
そう、心の内で思いながら。