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認識論的な悪夢。
登場人物一覧
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君が笑えば、世界は君と共に笑う。
君が泣けば、君は一人きりで泣く。
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百合子の脳裏に過ったのは、俗に「孤独」と呼称されるものの、謂わば残滓であったのかもしれない。
最強を求め、闘争を求め、その先に百合子は何を見出したのだろう。
あるいは、何を見出そうとしていたのだろう。
兎も角、百合子にとって其れは全てであり、唯一であった。
先の事など識ったことではない。
只の本能。
闘いたいから拳を合わせる、それだけのこと。
「それで、どうする」
曖昧な輪郭。
曖昧な存在。
声は男の其れ。しかし、その造形は嵌木細工の様に不確かで、性の有無を判然とさせなかった。
此れは、誰だ。百合子は内心で問う。
「やるのか、やらぬのか」
人影の様な存在は、存在もせぬ口端を歪め、大きく嗤った。かの様に、百合子は感じた。
「らしくもない」
一転、詰まらなさげにそう吐き捨てた影。
「貴殿に、吾の如何様な”らしさ”が解るというのか」
百合子が口を開いた。
「やれば、解る」
「何を」
「全ての虚しさ―――」
影に殺気が宿る。
実に心地よい感情だ。
結局、何を取り繕った所で此処に落ち着く。
何れ我々は、ただ力を示すことでしか分かり合えない。
「―――”我々”?」
構えた百合子が、首を傾げる。
我々とは。
吾と、誰の事か?
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奇怪な影が出没する。
それはいつも通りの噂話の、きっとそんな一部でしかなかった。
イレギュラーズは平時からそんな噂話の斜め上を行く不可思議と対峙していたし、彼らの範疇には到底及ばなかった。
その影が何れ、何人もの屈強な戦士を負かしたとなって、風向きが変わり始めた。
負かす……そんな表現は優しすぎる程、凄惨な殺害現場の数が唯々増えていった。
特徴的なのは、全ての被害者は顔の皮膚が剥がれ、両腕が斬り落とされていたこと。
何れも腕に自信のある戦士だったこと。
やがて噂が呼び水となり、一つの伝承が形成される。
その影は、一切の姿を有さず。
その影は、力を誇示する者を喰い。
その影は、己の願望を映す鏡だと。
影は自ら事件を起こさない。
影は望んだ者の前にのみ現れる。
影は敗れることはなく、
影は只、望んだ者を喰らうのだと。
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百合子は渇いていた。
自分が自分であろうとするが故に。
自分が強さを求めれば求めるほどに。
周囲から人は離れ、闘争そのものが失われていく。
―――百合子がその影の話を耳にしたのは、そんなどうしようも無いほどに強烈な渇求に、その身を焼かれていた時のことだった。
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百合子は視線を影に戻す。
(影というには、曖昧か)
形状は辛うじて人を模している、と解釈できなくもない。
だが影に焦点が合わない。
しかし、本来の影には明確な輪郭がある。
其れゆえに影だからだ。
その意味で、眼前の”敵”は、正確には”影ではない”。
……妙な胸騒ぎを齎す。
そんな違和感に駆られてか、百合子が一歩、先に踏み出した。
一刀一足の間合い。
(成程、向こうも素人ではないという訳か)
噂は決して嘘と同値ではなさそうだ。
百合子の躰はそうして影の射程を殺し。
彼女の右腕が、鋭利な刃物の如く影を貫き―――。
「全ては、同じこと」
「何―――!」
感触は、あった。
しかしそれは、まるでただ衣服が纏わりついただけのような脆弱な感覚。
眼前には影が立つ。
いくらでも拳を繰り出せる。
容易にその体躯を吹き飛ばすことができる。
そう思えるほどに、影は隙だらけだ。
隙だらけなのに、自信が無い。
当てられない。
(笑止―――!)
百合子は内心で自虐的にほくそ笑んだ。
(吾とあろうものが、この程度とは……)
息を吐く。苦しい。
影はただ揺れて、自身と対面しているだけだ。
そこに居るのに、居ない。
拳を突き、蹴りを繰り出し、しかし悉く当たらない。
「莫迦な……」
百合子は眉を顰める。
「何故、人は強くあろうとする?」
鬩ぎあいながら―――一方的に百合子が殴り、影が避けながら。愉快そうに影は尋ねた。
「強くあっても死ねば終わり。
命は有限で、逃れることは叶わず。
生き延びることは、正しさか?
息絶えることは、過ちか?
最も強くあろうとする女よ、私は問う」
影は、在りもしない口を歪めた。
「最強とは、何物か?」
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ただ、手合わせできる者が在ればいい。
その程度に考えていた百合子は、願ってしまった。
あの日々を。
闘争の日々を。
ただ磨き続けた日々を。
孤独を知った日の事を―――。
「良く研がれた刀の様に、玲瓏な感情だな」
そんな声と共に、百合子は出会ってしまった。
影は人型。
声は男とも女とも判別できず。
全身に靄が罹ったような不確実さは、まるで。
蜃気楼とも、煙の様にも取れて、けれど只一つ。
「今宵も、汝に問おう―――」
その眼だけは、鮮血の如く紅く煌めいていた。
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成程、と百合子は得心した。
詰まりはこの影、”絶対に負けぬ”のである、と。
「ほう―――、それが解るかね」
百合子は一言も発していない。
即ち、影は百合子の思考を読んだのか。
酷く感心したような溜息が影から漏れ、一つ頷いた。
「”弱くあることが”、”強くあること”でもある。
ああ、女。お前はただ強く在るのか、それとも……」
「―――戯言を」
風が吹く。
百合子の美しい絹のような髪は、その風に靡き。
そして、その鋭い視線を、唯一実体のある影の瞳に張り巡らす。
「強さに”始まり”も”終わり”もなかろう。
強さは己の外にある。
強さは己の上にある。
強さは道理の外にある。
其れゆえに不可解で。
其れゆえに美しい―――分らぬか、影の分際では」
百合子の躰から力が抜けていく。
だらりと脱力したかのように、ぶら下げられた両腕。
影は、思案するかの如く動きを止める。
百合子はじいとその様子を見つめる。
存外に難敵だ。
勝てるか?
ふと、仲間の顔が浮かぶ。
弱くなったものだ、と自嘲した。
だが、分かる。
これは、自分か。
自分を打ち倒す自分とは、どんなものか。
この影は、意識に呼応して人を食いつぶす、悪夢であろう。
であればして。
今止められるのは、自分しかおるまい。
拳を全て無に帰す。
それは、最強か?
否、断じて違う。
―――ああ、だからこそ、この私は。
「紛い物を、駆逐せねばなるまい―――!」
百合子がゆらりと右腕を上げる。
指先を見る。
花が咲いた。
大きな蓮の花。
それは幻影か。
無心の境地。
自分を打ち倒す自分とは、恐らく最強。
一方踏み込む。
大気が震えた。
腰を回転させる。
貴殿が、吾ならば。
しなる様に突き出された右腕。
それが影に触れたと同時に、満開の花が散る。
百合子の拳から、花が散る。
美しく。
力強い。
それはまるで。
彼女の生き方そのものみたいに……。
―――絶叫。
それは、影から発せられる、聞くに堪えない雄叫びの様に。
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「―――失せたか」
百合子の視線の先には、既に先程の影の姿はない。
(……あの影は)
吾だ。
もう一人の、吾だ。
収束しなかった確率の迷い子。
手ごたえはあった。
が、奴はまだ、生きている。
百合子は自分の両腕を見遣る。
―――持っていかれたか。
カカ、と笑みをこぼした百合子は、さてどうしたものかと首を傾げる。
この事件、実に根が深く。
ぽたり、と血が滴った。
百合子の両腕は、肘から先の皮が全て、剥がれていた。