シナリオ詳細
<spinning wheel>夕暮れのひかり
オープニング
●
ダークヴァイオレットの薄暗い灯りの中、浮かび上がる巨大な水晶に指先を這わせる青年。
そのピジョンブラッドを思わせる赤瞳は切なく苦しげに揺れていた。
巨大な水晶に額をつけて、青年――イヴァーノ・ウォルターは瞼を閉じる。
「大丈夫。もう、怖くないよ。俺が君を守るから」
寒々しく暗い空間に霧散するイヴァーノの声。
大きな水晶が幾本も刺さった、静謐というには余りにも寂しい場所。
返って来る言葉が無くとも構わない。傷付き苦しむ姿を見るよりは余程良い。
巨大な水晶の中には眠るように目を閉じている女性がいた。
イヴァーノの恋人エリーザ・ベルトリーニだ。
金色の長い髪が美しく、その瞳が開けば愛らしい笑顔を見せてくれるだろうというのが分かる。
されど、今は眠ったまま水晶に囚われていた。
「君だけじゃ無い。君が大切だと思っていた人達も全部。もう苦しまなくて良い」
エリーザが囚われている水晶の隣を見遣れば、彼女によく似た少年と両親が居る。同じように水晶の中に囚われ静かに眠っていた。
その向こうには別のハーモニアの少女も少年も居る。何本もの水晶が暗い空間を覆い尽くしていた。
イヴァーノがエリーザを愛しき眼で見つめる。
「痛くはないだろう?」
水晶の中をよく見れば、女性の胸元は真っ赤に染まっていた。
されど、エリーザは幸せそうな表情を浮かべたまま目を閉じている。
「ふふ、夢を見ているのかな。良かった、幸せそうな夢だ。俺も居るのかい? 嬉しいな」
誰にも聞かれる事の無いイヴァーノの言葉が広い空間に小さく響いた。
●
小鳥の囀る音と爽やかな朝の陽光が、カーテンの隙間から落ちてくる。
ベッドの中で「んー」と伸びをしたアルエットは、今日から新学期なのを思い出した。
スマホの時計を見ればアラームの鳴る五分前。
するりとベッドから降りたアルエットは身支度を調えて、階下のリビングのドアを開ける。
「おはよー」
「おはよう、アルエット。朝ご飯が出来ているよ」
「わぁ! ギルバートお兄ちゃんが作ってくれたの?」
目を輝かせて兄のギルバートへと抱きつくアルエット。
「あ、そっか。今日はパパとママ早出って言ってたもんね。はわ! アルエットの大好きなオムライス? えーん、ギルバートお兄ちゃん大好きー!」
「俺もアルエットが大好きだよ」
朝からころころと愛らしく賑やかなアルエットにギルバートは目を細め共に朝ご飯を食べる。
「さて、そろそろ学校に行かないとね」
「今日からお兄ちゃんと一緒の校舎かぁ。嬉しいの!」
アルエットは今日から高校一年生。兄のギルバートは高校三年になるのだ。
二人で家を出た兄妹は家の前で待って居た少女を見つけ目を瞠る。
「ラビちゃんに、朱雀ちゃん! 迎えに来てくれたの?」
「うん。通り道だから」
こくりと頷いたラビにアルエットは抱きついて「嬉しいー!」と頬にキスを落した。
「ほら、いちゃついてないで、行くぞ。ミトラとキアンも迎えに行かねばならぬのじゃから」
アルエットとラビの制服の襟を掴んだ朱雀は、眠そうな顔をしながら二人を連れて歩いて行く。
学校の下駄箱に靴を入れて上履きに履き替えるギルバート。
教室に入ったギルバートは窓際で校庭を眺めている遮那を見つけた。
「おはよう遮那。早いね」
「おお、ギルバートか。其方も二番手だぞ」
「何を見てたんだい?」
遮那の隣に立ったギルバートは同じように窓辺から校庭を見つめた。
「アンドリューとバルバロッサ先生が朝練してるなって」
「ああ、アンドリューはスポーツ特待生なんだっけ。頑張るなぁ。大変そうだけど」
「案外楽しんでるのではないかの? アンドリューは」
遮那はアンドリューが笑顔でバルバロッサ先生とフォームの調整を行っているのを見遣った。
「お、あっちにはファン先生と、クル先生とキリ先生がいるぞ。何を話しているのだろうな?」
「珍しいね。やっぱ新学期だから色々話し合いとかあるのかもね」
ギルバートと遮那は校庭を歩いて行く三人をぼんやりと眺める。
「おはようー」
教室のドアを開けて入って来るのは暁月と廻だ。
二人は家が隣同士の幼馴染みで、いつも一緒に居るのだ。その後ろには龍成も見える。
「龍成がチャイムギリギリじゃないなんて……雨が降るんじゃない?」
くすりと笑ったギルバートに「何だと!?」と龍成が突っかかった。
「俺だって、始業式の日ぐらいちゃんと来るっつーの!」
「そんな事ゆうて、廻にモーニングコール頼んだんは誰なん?」
「暁月、何で知ってんだよ!?」
龍成は暁月と廻を交互に見遣り。廻は暁月の後ろにすっと隠れ、目元だけを出した。
「ふへへ。……えっと、僕もね、暁月に起こして貰った」
「廻も朝弱いからなぁ。俺が起こしに行くんよ。上半身起こしてるから起きてるかと思うんやけど、これが曲者でな。ほわほわしてて可愛いけど寝とるんやわ」
暁月は後ろに隠れている廻を自分の前にある椅子に座らせて、髪を意味も無く撫でる。
ついでに廻の柔らかく触り心地の良い頬をむにむにと指で遊ぶ暁月。お返しに廻は暁月の学ランの袖を引っ張って袖の中に手を突っ込んで遊ぶ。
「んで、龍成にモーニングコール頼まれたから早めに起こしてって言われる俺の身にもなってみいや? そりゃ可愛い廻の頼みやったら聞くよ? 聞く。やけど、それが龍成起こす為やて言われたら……」
暁月は龍成の頭の頂点を指で押す。ぐいぐいと強めに押す。
「なあ、ここ押したら痔になるらしいで?」
「……んなとこ、押すな!!!!」
龍成の大きな声が教室に響き渡り、ギルバートと遮那は笑みを零した。
チャイムが鳴って、授業が始まる。
テアドールは先生が黒板にチョークで字を書く時の音が好きだ。
軽快に黒板を流れて行く音と、先生の柔らかな声が眠気を誘う。
うつらとした瞬間にペンケースを肘で弾いて、落してしまった。
そこから溢れ出す色鉛筆が絨毯のように道を作る。
流れる24ビットカラーの色彩――16777216本の色鉛筆がコロコロと転がって教室の下へ落ちていく。
廻とテアドールは先生と一緒に教室が並ぶ廊下を歩いていた。
ずっとずっと続く廊下の先は遠く地平線まで伸びているから、テアドールは一番最初の教室を開けてみる。
机がピラミッドのように並べられ、教室の天井はオペラ座のように高くなっていた。
積まれた机の各所では、バスケットボールが跳ね続けている。
「ここは使われていない教室だね」
先生がゆっくりと教室のドアを閉めて、テアドールはこてりと首を傾げる。
次の教室のドアをあけると、「3.141592653589793……」とクラス全員――三十人の廻がブツブツと詠唱していた。
「何でしょう?」
「円周率の全暗記じゃないかな」
先生がゆっくりと教室のドアを閉めた。
理科室のドアを開けると巨大な三角定規が歯車みたいに回って、その反動でピンポン玉が跳ねる。
そのピンポン玉は飛び跳ねてビーカーや顕微鏡などのアスレチックを渡り、人骨模型の眼窩にすっぽりと嵌った。
反動で人骨の顎がぽとりと落ちて、下に置いてあったモップの柄がひっくり返ってバケツが転がり、カエルの水槽に水が注がれる。
水流の中に煌めくビー玉が音楽室のピアノに降り注ぎ、授業が終わるチャイムを奏でた。
ようやく終わったと龍成が机に突っ伏す。
「なあ、放課後どっか遊びに行かねぇ?」
「どこいくん?」
龍成の提案に暁月が首を傾げる。
「あ、あの僕クレープとか、食べたいです」
テアドールがおずおずと手を上げて「いいね」と満場一致で教室から飛び出した。
「美味しいね」
「はい」
廻とテアドールはチョコとラズベリーのクレープを食んで笑みを零す。
「こっちも美味いぜ。食ってみろよ」
龍成が廻の前に差し出したキャラメルバナナを廻とテアドールは一口ずつ食べた。
「ん……美味しいね」
「はい」
問いかけにこくりと頷いたテアドール。
廻の口の端にクリームが付いているのを暁月が指で掬って舐める。
いつも通りのやり取りを廻は気にも止めず「暁月ありがと」とにこにこと微笑んだ。
廻の口元から取ったクリームを味わって暁月がにんまりと龍成に視線を向ける。
「確かにうまいなぁ。俺も一口貰おっかな」
龍成のキャラメルバナナが暁月の口の中へと吸い込まれる。
「あ、ちょ……」
「じゃあ俺も頂こうかな」
ぱくり。
「私も便乗しよう」
ぱくり。
「なら、俺もだな! うむ! イイ!」
がぶり。
ギルバートと遮那が続いて、ついでにやってきたアンドリューも龍成のキャラメルバナナを頬張った。
「いや、もう俺が食べるとこ皮しかねーじゃん!?」
龍成の叫びに噴き出す暁月達。廻とテアドールは龍成に自分達のクレープを分けてやる。
皆で一口ずつ、全員の味を楽しめば、それはそれで満足してしまうのだ。
何気ないやり取りが、幸せで満ち足りている。
楽しくて、嬉しくて。大人になっても、きっとこうやって此処に集まった仲間ではしゃぐのだろうと廻は煌めく未来を思い浮かべて楽しくなった。
●
常春の穏やかな色彩。七色の光と妖精達が舞い踊る妖精郷。
白い石畳の上に大きな門が見える。
その前に佇む『Vanity』ラビ(p3n000027)はイレギュラーズへと手を振った。
「お待ちしてました」
深緑が正体不明の『茨』によって封鎖されたという情報はラサから齎された。
練達へと来襲していたジャバーウォックの足取りを追っていたローレットが行き先として有力視していた深緑の異変。全容が掴めないまま謎の茨による国家の封鎖と、踏み込む者の命を奪わんとする事態に、誰しもが困惑し脅威を感じていた。
そこへ出てこられないはずの妖精郷からの知らせが入ったのだ。
迷宮森林の内部に存在しながら『大迷宮ヘイムダリオン』と呼ばれる道で隔絶されている常春の国アルヴィオンには茨の侵入も無いのだという。
逆説的に深緑側にも出て行けない妖精が何故ラサへ出現したのか。それは『魔種ブルーベル』が国境沿いの出入口を用意してくれたからなのだ。
ブルーベルは妖精達に危害が加わらないように深緑には踏み入るなと忠告をして去って行った。
しかし、折角判明した侵入経路を失う訳にはいかないと、イレギュラーズは妖精女王と取引をする。
妖精達に侵入経路を提供してもらう代わりに、彼女達を危険から守ると。
「それで、今回は『大迷宮ヘイムダリオン』から深緑内部へ向かう任務です」
ラビの言葉にイレギュラーズは首を傾げる。
「妖精郷の門(アーカンシェル)は使えないのか? 前は使えただろう?」
「はい。でも使えません。なぜなら、妖精郷の門で直接ルートを開けば『茨』や邪妖精が妖精郷に入り込む恐れがあるです」
妖精達を危険に晒してしまうリスクが上がるということだ。
「なので、妖精郷の門(アーカンシェル)は使用せず、大迷宮ヘイムダリオンを攻略するです」
妖精達はヘイムダリオンへの門を開けてくれるが、攻略自体はイレギュラーズの仕事というわけだ。
「話しの流れは大体分かった。俺達が攻略するのはどういうのだ?」
ラビはイレギュラーズの言葉にこくりと頷く。
「不思議な場所に行くことになります。おそらく夢の中なのですが。懐かしい感じがして『学生』というものになるみたいです。任務の事も忘れて幸せな気持ちになります」
「任務の事を忘れるって、どういうことだ?」
おそらくそれが敵の能力なのだろう。
夢の中で多幸感に包まれ学生時代を過ごす日々。
「途中で違和感に気付いて抜け出したいと強く願うとこの妖精郷に戻ってきてしまうです」
されど、それでは『攻略』することにはならない。
「攻略するには何かが必要です」
先に調査へと入ったラビには分からなかったもの。
それを探して攻略してほしいのだとラビはイレギュラーズに頭をさげる。
「お願いします。急がないと茨に捉えられた人の命が……」
ラビの頭をぽんと撫でて、イレギュラーズは任せておけと言わんばかりに頷いた。
- <spinning wheel>夕暮れのひかり完了
- GM名もみじ
- 種別EX
- 難易度HARD
- 冒険終了日時2022年04月07日 22時05分
- 参加人数10/10人
- 相談7日
- 参加費150RC
参加者 : 10 人
冒険が終了しました! リプレイ結果をご覧ください。
参加者一覧(10人)
リプレイ
●
常春の地。妖精郷のそよ風が『蒼の楔』レイチェル=ヨハンナ=ベルンシュタイン(p3p000394)の頬を撫でていく。
視線を上げれば大迷宮ヘイムダリオンへ続く白き門がゆっくりと開いていた。
「神様、恨むぜ」
自分が見るであろう夢をヨハンナは知っている。それはいつも願い続けているものだから。
――妹との日常を取り戻すこと。
それがヨハンナの夢。もう叶うはずのない願い。
油断すれば幸せな日々に飲み込まれてしまうだろう。
使命を忘れるなとヨハンナはぐっと拳を握りしめた。
ヨハンナの様子を一瞥した『陽の宝物』星影 昼顔(p3p009259)は眼鏡の奥の瞳を曇らせる。
「今の僕に幸せな世界なんて……」
暗い声色で呟いた言葉。それを自ら否定するように首を振る昼顔。
「でも、此処で止まる方が僕は後悔するんだ」
結果がどうなってしまったとしても、歩み出さなければ始める事さえできないから。
昼顔はヘイムダリオンへの門を潜る。
『揺らぐ青の月』メルナ(p3p002292)は「学生の経験は無いけど」と青き瞳を僅かに伏せた。
「……幸せな夢、かぁ。あはは、そっちの想像は簡単につくだけに、何というか」
メルナは胸に手を当てて小さく息を吐いた。一歩踏み出すにも勇気がいる。
抜け出せるだろうかと迷ってしまう自分を自覚しているから。
「行こう」
メルナは進むのだと口にする。その唇は僅かに震えていたけれど、すぐに門の中へ消えて行った。
「私には学生の経験はない。希望ヶ浜のようなアレの事、よね?」
こてりと首を傾げた『青鋭の刃』エルス・ティーネ(p3p007325)は自分が『学生』の時にどんな姿になるのかを想像する。知識としては練達の希望ヶ浜みたいなものなのだろうか。
「でも、なんとなく分かるわ。私はお城の奥の部屋でいつも1人で勉強していたもの」
エルスの後ろ姿を見送って最後尾の『あいの為に』ライ・リューゲ・マンソンジュ(p3p008702)は微笑みを浮かべる。
「ああ……良い趣味です…良い趣味をした迷宮ですね……本当に。もしかしたら私にも与えられていたかもしれない日々」
嘘で塗り固められていたとしても、それが分からないなら嘘にはならないとライは思ってしまうのだ。
良い夢のまま死んでしまえればどんなに幸せなのだろう。
それが手に入らないものだと気付く事がどんなに残酷なのだろう。
「いっそ騙すなら、最後まで騙し切れば良いものを……」
酷く不愉快だと溜息を吐いて、ライはヘイムダリオンへと続く門へと足を踏みいれた。
●
カーテンの隙間から陽光が差し込む部屋。
「ん…もう朝か…」
大きく伸びをした『全てを断つ剣』ヴェルグリーズ(p3p008566)は「なんだかすごく大事な夢を見ていたような」と首を傾げる。
「といっても夢は夢、か。さて、学校に行かないとね」
身支度を調え、学校のドアをガラリと開けるヴェルグリーズ。
「おはよう」
「おはよー」
いつも通り暁月と廻、龍成へと挨拶をして席についた。
「今日は転校生を紹介する」
先生が一人の少女を連れてやってくる。
「マグタレーナ・マトカ・マハロヴァと申します。転校生です」
ヴェルグリーズは『音撃の射手』マグタレーナ・マトカ・マハロヴァ(p3p009452)を見遣り、何処かであったことがあるような気がすると思い浮かべた。
「この学園には来たばかりで分からない事ばかりなので色々と教えて頂けると嬉しいです」
教室を見渡すマグタレーナの瞳は伏せられている。
「目は不自由ですが耳は良いので生活には不自由しませんのでお気遣い無く。ちょっと音や声を立てればだいたい物の位置とか形とか分かります。凄くないですか?」
マグタレーナの言葉に何処からともなく拍手が沸き起こる。学生である彼らにはマグタレーナが何だか特別な能力を持つ人に見えただろう。
チャイムが鳴って授業が始まる。
『揺れずの聖域』タイム(p3p007854)は黒板の文字を一生懸命ノートに書き写していた。
ふと感じるのは背中の違和感。つんつんとささるのは芯を仕舞ったシャーペンの先だ。
思ったよりもくすぐったい位置に入ったペン先に、タイムは驚いてガタリと机をゆらしてしまう。
連鎖的にペンケースとノートが音を立てて床に落ちる。
「タイムさんー?」
「ごめんなさーい!」
顔を真っ赤にしてペンケースを拾い上げるタイム。後ろを振り返れば、遮那が笑いを堪えていた。
「むー! 遮那君っ」
「そんなに吃驚するとは思わなかったのだ」
椅子に座ってノートへ向き直るタイムの髪を、遮那の指が掬い上げる感触がある。
それは心地よさを伴って眠気を誘うものだ。
楽しいこと、切ないこと。沢山の思い出と平凡だけど掛け替えの無い日常。
あんなことが起らなければ変わることもなかったのに。
タイムはふと、自分の心の中に浮かんだ言葉に首を傾げた。
――あんなこと? ここでは何も起きてないわ。
そうよね遮那君? 今朝だって蛍さんに挨拶したのよ。
くるりと振り返ったタイムは、愛おしそうに髪を撫でる遮那と目が合った。
教室の机、クリーム色のカーテン。学ランを着た遮那。
――ここって、どこなのだろう。
『Neugier』煌・彩嘉(p3p010396)は図書館で本の頁を捲っていた。
「図書館といえばアタシの居場所。この紙とインクの香りに包まれる静寂の空間が好きなんです。ええ。言葉は直ぐ手の取れる位置にある」
一冊、二冊、さて読み終わった本は何冊だっただろうか……?
コンサート会場のような高い図書館の棚に並んだ本は、無限にも思える知識の宝庫だ。
「知識は無限だ、まるで果てを知らない。ハハ、クラスメイトは分かっても友人と呼べるものはいないんですがねェ!」
手を広げた彩嘉は積み上がった本の間から笑みを零す。
「それでも良いんです。この知識と本、そして今まで紡がれた歴史が、アタシの良き友であり人生の先生なんですから」
しかし、と彩嘉は帽子の鍔に手を掛ける。
「困りました。どうやらそいつはアタシの本分じゃァないらしい」
特異点、攻略、進むべき道、断片的に一つずつ思い出す彩嘉。
普段と変わらぬ日々であったからこそ、彩嘉はその違いに気付く事ができた。
「ええ、ええ、その通り。アタシは仕事をきちんとする亜竜です。此処を離れるのが惜しくともね!」
本に塗れていた彩嘉には、ここが夢の世界だと正確に認識することができたのだ。
●
『青鋭の刃』エルス・ティーネ(p3p007325)は放課後の教室で首を傾げる。
「えっと、何をしてたのかしら? そうだ、日誌を……日直だから日誌を書いていたんだ」
セーラー服に身を包んだエルスは日誌に今日の出来事を書き込んでいく。
「待ちくたびれましたよ、お姉様」
聞き慣れた声に視線を上げれば、妹のリリスティーネが教室のドアを開けて入って来た。
「あら、リリスティーネじゃない、どうしたの? 待ちくたびれてここに来ただなんて……貴女は相変わらずね」
「でも今日はお父様が帰ってこられるんです、二人で早く帰りましょう。お父様が居る日はお姉様のご馳走が食べれるので楽しみなのですよ」
「それは、張り切って作らなくちゃね」
言葉にして、エルスは違和感に気付く。どうして妹がこの場所に居るのだろう。どうして親しげに話しているのだろう。不可解で、不自然。どうしたって、エルスはこの違和感を拭えない。
そうだ。これは夢なのだ。リリスティーネが自分の事を『お姉様』だなんて呼ぶはずが無い。
こんな風に親しくあれたのならば、どれだけ良かっただろう。
「ごめんなさいね、やっぱり用事を思い出したわ。私は貴女と共に行動出来ない」
「あら、悲しいこと言わないで下さいお姉サマ……フフ」
くてりと首を傾げたリリスティーネは口の端を上げて姉へと笑いかける。
「リリがせっかく夢の中でだけ姉と呼んでるんですよ。もっと喜んでくれたって良いではありませんか」
玩具如きが、幸せな夢を見れるなんてとリリスティーネはレイピアを取り出しエルスへと向けた。
「きっと『イイ事』がございますように……リリが殺して差し上げます」
エルスはリリスティーネの攻撃を躱し、机を妹へと投げ込んで視線を逸らす。
(何故あの子が出てきたのかはわからないけれど、こんな所でのんびりしてる場合ではない……皆と合流しなくちゃ!)
飛び出した教室のドア。駆けていくエルスの背を見つめリリスティーネは水晶が弾けるように粉々になり消えていった。
「やっと放課後……。今日もお兄ちゃんと一緒に帰ろう」
メルナはヴェルグリーズやマグタレーナ達が遊びに出かけるのを見かけ、楽しそうでいいなと目を細めた。「ねぇ、お兄ちゃん、私達も一緒に行かない?」と兄に問えば、二つ返事で笑顔が向けられる。
夕飯の前に食べるファーストフードというものは抗い難い魅力があるものだ。
それも大好きな兄と一緒にとなると尚更。
日が暮れて、もうそろそろ帰宅の時間が迫る。
「帰るか?」
「……えっと、もう少しだけ二人で一緒に居たいな。お兄ちゃんと一緒ならお母さんも怒らないよ。ねぇ、いいでしょう? お願い!」
困った顔をしたメルナの兄は、それでも「仕方ないなぁ」と少女の頭を撫でた。
「えへへ……」
いつもの日常に少女は笑みを零す。嬉しくて幸せで、この日々がずっと続くといいなと思ってしまう。
兄の顔を見れば、涙が溢れそうになる。
どうしたんだと心配そうに顔を覗き込んでくれる優しい兄。
それが、愛おしく切なく。――苦しい。
どうしても、この場所が自分の生きて行く場所で無いのだと思ってしまう。
メルナはその気持ちを押し殺すように兄の胸へ飛び込んだ。
「放課後はやっぱり、モックに行こう」
教室にヴェルグリーズの声が響く。暁月や廻、龍成達を誘ってファーストフード店へ行こうというのだ。
それを聞きつけたマグタレーナは「私もいいですか?」と手を上げる。
図々しかったかもと内心戸惑うけれど、自分と同じように不安げな表情をしているライにも声を掛けた。
「ライさんでしたか? ご一緒に如何? 大丈夫、わたくしも慣れていないけど楽しいですよきっと」
マグタレーナに声を掛けられたライは驚いて視線を逸らす。
ライには分からないのだ。ここが幸せなのか、学生がどういったものなのか。
漠然とした不安を抱え、迷宮に入ったライはそれを引き継いでしまったのだろう。
穏やかで幸せなこの学生生活に身体が馴染まない。彼女が過ごして来たのは肥溜め(スラム)だから。
綺麗な教室の机も、真っ新のセーラー服も。整えられた花壇の花も全部が違和感で。
この世界に入った時から、そんな不安に苛まれていたから、マグタレーナの言葉に安堵を覚えたのだ。
「じゃあ、折角だから私も行きます」
「ふふ、よかった。同じ学び舎に共に集まり学び合い笑い合い、偶の揉め事さえも良い刺激となる若者たちの楽しい日々。わたくしもとても楽しく幸せです。見聞きするのと体験するのでは大違いですね」
マグタレーナの言葉にライも頷く。きっとこれが幸せのかたちなのだろう。
ライには実感が沸かないけれど、ふわふわと胸が温かくなるような気がするからだ。
隣に座ってポテトを頬張るライを感じ取ったマグタレーナは誘って良かったと安堵する。
マグタレーナはふと自分は学生生活を体験したことがなかったのだろうかと思い至った。
楽しいけれど、何処か他人事のように感じる違和感。
自分はどこから転校してきたのか、前に住んでいた場所はどこなのか。
「どうして見えないのに不自由せず過ごせるのに離れていたのでしょうか……本当は見えるのに」
「マグタレーナ?」
ライが心配そうにマグタレーナを見つめる。彼女と此処では無い何処かで会った事があるようなそんな気がするのだ。
「暁月、廻また明日」
「おー、ヴェルグリーズも気ぃつけて帰るんやで」
「また明日~!」
手を振る廻が電柱にぶつかりそうになるのを、暁月が学ランの襟首を掴んで回避した。
「廻はちょっと目を離すとすぐ打つかる」
「えへへ……でも暁月がいるから大丈夫!」
「だいじょばない。ほら帰るで」
車道側を歩く暁月が、廻の頭を愛おしそうに撫でるのをヴェルグリーズは見送る。
「仲良いなぁ。二人を見てると平和だなって思うよ」
楽しそうに笑い合う暁月と廻に心底安堵を覚えるヴェルグリーズ。
「明日はどんな日になるだろう」
きっと同じように何もない日。何も無いけれど愛しい日が続く。
そう信じていられる日々は掛け替えの無いもので。
●
「もう、ヨハンナ! ネクタイ曲がってる」
「直してくれ」
男物の制服を着た姉のヨハンナと、甲斐甲斐しく世話を焼く妹のレイチェル。
可愛くてふわふわした妹のレイチェルを見ていると、何処かへ消えてしまいそうで不安になる。
「私、教室こっちだから。ヨハンナはちゃんと授業受けるのよ。屋上でお昼寝とか駄目だからね!」
「分かってるよ」
別の教室へと入っていく妹の後ろ姿を見て、思わず彼女の手を掴んでしまうヨハンナ。
「どうしたの?」
「いや……何でも無い」
何故だか、妹と離れる事が不安になってしまった。
ただ、授業を受ける間だけなのに。放課後家に帰れば会えるというのに。
「もう、お昼は一緒に食べられるわよ。さみしがり屋さんなんだからヨハンナは」
笑顔を向けてくるレイチェルの笑顔は天使のようで。
キリリと胸が軋む音が聞こえた。
こんなにも、苦しいのはきっとこの世界が幸せで、もう手に入らないものだからだ。
本当は。
妹のレイチェルはヨハンナの傍らには居ない。
道を違え、ヨハネの元に居るのだろう。
「だから、これは夢だ。俺が望んだ、幸せな夢だ」
「ヨハンナ?」
不思議そうに見上げてくる妹を抱きしめて「ごめんな」と囁いた。
「決別しないといけない。幸せな夢に溺れちゃいけない。辛くても現実と向き合わないと何も変わらない。変えられない。なぁ、そうだろう?」
この夢の中に留まる事を、きっと本物の妹は望んじゃいない。
だから、ヨハンナはレイチェルに踵を返し走り出した。
「竜二氏ー、新曲出来たから歌って欲しいんだけど」
昼顔は友人の竜二へ手を振った。彼は龍成の双子の弟だ。兄とも遊ぶけれど、弟の竜二の方が昼顔には相性が良かったのだろう。曲が出来上がれば二人で歌う日々。色々な場所へ遊びに行った。
「君に曲を贈れるのは、涙が出る程、凄く嬉しいんだ」
「そうなん? 俺、そんなに大切に思われてたンか。感動じゃん」
けらけらと笑顔を見せる竜二とのやりとりが、本当に嬉しくて。
どうしてそう思うのか、分からないけれど。
きっと、もう失ってしまった幸せを見ているのだと理解出来た。
「ねえ、竜二氏。今から変な事言うけどいいかな」
「お前が変なのは元からだから、今更だろ」
「ははっ、そうかもね――ねぇ、満足して逝かないでよ。残された僕の身にもなってよ。君を犠牲にして助けられた僕はどうすれば良い? 今も分からないんだ」
屋上から赤い花が咲き乱れる丘が見える。誰を思わせる赤い色。
「だから……ねぇ。僕を否定して良いからさ、君は長く生きて。沢山、心から笑って幸せになって」
「何だそれ。次の曲の歌詞か? 俺はお前とこうして馬鹿みたいにはしゃいでるのは幸せなんだけどな」
「うん……そう、だね」
突き刺さる幸せの象徴。別れを告げる事がこんなにも苦しい。
どうしたって、竜二は昼顔に痛みを与えるのだろう。それでも。
「僕は竜二氏に会えて良かったよ」
赤い花弁が風にのって飛んでくる。それが、竜二の身体を包み込んで彼の姿を消してしまう。
きっとこれは夢の終わりだ。幸せな夢から覚めたしるし――
「あれ……」
「ん? どうした?」
意識が浮上して視線を上げた『紫香に包まれて』ボディ・ダクレ(p3p008384)は、いつものように龍成の部屋でテーブルに向かい合って座っていた。
薄紫のラグの上に黒いテーブル。教科書とノートが置かれ、シャーペンが転がったのかラグの上に落ちている。
「休憩するか?」
心配そうに頭を撫でた龍成にボディはふんわりとした気持ちになった。
「いえ、大丈夫です。何だかぼうとしてしまって。テストも近いですし頑張らないと」
カリカリと芯が削れていく音。向かい合って真剣に勉強に取り組む龍成とボディ。
さらりと首筋に黒髪が流れた。ボディは首に擽ったさを覚え無意識に髪を耳に掛ける。
どうも先程から首筋が気になって仕方が無い。髪が触れる感触と外気への放熱。
今日に限って何故こんなにも気に掛かるのだろう。
「首痒い? 別に今は取ってもいいんじゃね? 学校じゃ気になるだろうけど」
ボディが首筋を触ると絆創膏が貼られていた。それは取ってしまうのが勿体ないもののような気がしてそっと触れるに留める。けれど、違和感は絆創膏のせいなのだろうか。
何故だか太陽が眩しい気がしてふわりと意識が遠のいたボディ。
いつの間にか龍成の部屋から通学路へと場面は移っていて。
ずっと続く道路を龍成と二人で歩いていた。揃って歩くのが不思議な感覚。でも心地良い。
「ほら、危ねぇぞ」
「あ、わ」
後ろから車が迫っている事に気付かなかったボディは、龍成に手を引かれ彼の胸へ寄りかかる。
「俺の可愛いお姫様は、まだ寝ぼけているみてーだな。目覚めのキスが必要か? ん?」
優しい笑顔がボディへと降り注ぐ。
あたたかな龍成の体温より、自分の方が高くて。普通の人間で。――自分は生きていて。
壁と龍成に挟まれ、トクントクンと鼓動が高鳴った。
首筋に這う龍成の指先がくすぐったく、肌が沸き立つ感覚に頬が染まる。
ゆっくりと近づいてくる龍成の顔。ピント合わなくなるほど、視界が大切な人でいっぱいになった。
●
「そっか……」
タイムはカーテンが揺れて桜の花弁が目の前を通り過ぎるのを見て唐突に思い出した。
ここは夢の中。心地よくて随分と浸かってしまったけれど。
「行かなきゃ」
「タイム? 何処へ行くのだ?」
遮那が突然立ち上がったタイムの手を掴んで首を傾げる。
「えっと、そうね。友達と約束があったのを思い出したの」
「そうか……気を付けて行ってくるのだぞ」
「ええ」
教室を出て行くタイムを遮那は琥珀の瞳で見つめた。
「さ、約束の場所に向かいましょう。桜の木の下」
彩嘉は桜色の花吹雪が舞う木の下にゆっくりと歩いて来る。
「……ああ、皆さん、本分は思いだされましたか?」
帽子を取ってにっこりと笑う彩嘉。
「幸せや幻想を積み重ねる事で形にする事も出来ましょう。ですが、それは一時だけの話ですから」
屋上を見上げれば、タイムが手を振っているのが見えた。
彩嘉は呼ばれるがまま彼女の元へと向かう。
夢とのお別れがやってくる。
「……なんだけど。わたし達をこんな夢に閉じ込めた相手はなんて悪趣味なのかしら!
だって死を選ぶくらいならこのままでいさせて欲しいくらいだもの」
頬を膨らませるタイムに彩嘉はそうですねぇと口の端を上げた。
「教室に戻って放課後カラオケ行こうよって誘って、みんなでばかみたいにはしゃいでそれでそれで――」
タイムの脳裏に過る誘惑。ぎゅっと拳を握りしめる。
「でもそれは駄目。ここで幸せな夢に浸っていたら現実で変わっていく遮那さんを見られない。遮那さんだけじゃない。わたしを取り巻く人達も、この世界の何もかも」
夢の中で寝ているだけでは、その変化に置いていかれてしまう。
――取り残されてしまう。自分だけ。
それが胸を掻きむしる程に苦しい。
「変わっていく事を分かち合いたい。楽しいも嬉しいも苦しいも全部。だからこの幸せな夢にはお別れ」
屋上のフェンスを越えてタイムは校舎の縁に経った。
「仲間の死ぬ所を見たくないなんて理由で先に逝くのを許してね。どうしても、それだけはイヤなの」
置いて行かれることが、怖くて仕方が無い。それは忌避すべきものだ。
タイムは自分の両腕を包み込むようにぎゅっと握る。震える足は一歩を踏み出せずにいた。
「彩嘉さんは怖くないの?」
「アタシは探求家、探し求めるものです。幸せだけに浸かってちゃア目が曇ってしまう! ですからその先に向かいましょう。一度終え、また踏み出す為に」
差し出された彩嘉の手を見て、その眼に憂いなど浮かんで居ない事にタイムは安堵した。
「変な話だけど一緒に死ぬ人がいてくれて助かったわ。ありがと」
「ではレディ、またあちらでお会いしましょう。良い目覚めを」
空へ飛び出す感覚、地面との衝突するときの感触。
それは彩嘉にとって未だ体験した事の無い未知である。知る事が出来る幸福を噛みしめ。
この決別も次の知識へ繋がる、一つの欠片なのだから。
人間として二度経験しえないこと、それが『死』であると彩嘉は目を細める。
「いやァ、流石に自ら選ぶ事になるとは思いませんでしたがねェ!」
知りたい。知りたい。知りたい。この甘美な夢を越えた先の一瞬を!
欲張りな亜竜。得られるものは全て手に入れたい。全て知りたい。
「この夢で得た事、知ったこと、全て無駄には致しません。必ず、この先へ生かす。
実に、"アーカイヴァー"として本望というものですよ!」
桜吹雪にどろりと赤い色が広がった――
桜の花弁が青い空に舞い上がる。
「お兄ちゃん、私やらなくちゃいけないことがあるんだ」
「それは今すぐにかい? もう少し後でも良いんじゃ無いか?」
メルナの手を強く握った兄は困った顔をして妹を見つめる。
「ううん、約束したんだ」
これはただの夢で、別れなきゃいけない。浸かった所で何にもならない。
メルナは兄の手を振り払って、駆け出した。
桜の木の下に集まった仲間達を見つけメルナはほっと胸を撫で下ろす。
兄と別れる事が辛くて本当は浸かっていたかったけれど。仲間がこうして居てくれた事に安堵したのだ。
「……レイチェルさん嫌な役割任せちゃって、ちょっと申し訳ないけど。お願いね」
「ああ、任せておけ。俺は医者だからな」
ここで死に損なえば、この夢の中から出られないかもしれないのだ。
メルナは意を決して調理室から持って来た包丁を胸に宛がう。
――辛くないのか、メルナ。ここで一緒に居られるんだぞ。
何処からともなく兄の声が聞こえて、メルナの手が止まる。
「……うん、辛いよ。幸せな夢……お兄ちゃんのいる夢。そこから逃げ出すなんて。嫌な事ばかりの現実に戻るなんて」
ほろりとメルナの瞳から涙が零れ落ちる。陽光に煌めいた雫が地面に落ちた桜の上に弾けた。
「でも、此処には夢しかない。いつかは終わる、本当の物なんて何もない、虚像に満ちた場所……夢でしかない場所に希望なんてない!」
メルナは青い瞳を上げて包丁を握りしめた。
「だから、こんな場所なんて出ないといけない。まだお兄ちゃんの代わりとして……沢山の人を守らないといけないから!! だから、お兄ちゃん……、ばいばい」
深々と胸に刺さる刃。滴る血に染まるメルナは小さく「少しだけだけど。友達も、いるもの」と囁いて命の灯火を消した。
「大丈夫……」
メルナの死を見届けたエルスは自分を落ち着かせるように息を吐く。
「死のうと思うのはこれで二度目なんだから……迷う必要なんてないのよ」
仲間の命を奪った刃物を手に取り、エルスは自分の首に刃を当てた。
「迷ってるわけではないの……ただ、また死に損なわないか不安で、ね?」
混沌に来るということは、エルスの意識の上では死に損なったことを意味している。
「心配すんな。俺がちゃんと見送ってやるから」
「ありがとうレイチェルさん」
早くしなければリリスティーネが追いかけて来そうな気がするから。
それに、この世界には『あの人』の姿は見当たらなかった。
ならばエルスには此処に留まりたいと思う理由も無い。全ては彼の為。
死に損なったエルスが唯一心を砕いた相手が居る場所へ戻らなければならないのだから。
「じゃあ、先に行ってるわよ。……ね、現実できっと会いましょ、待ってるわね……皆さん!」
刃が胸を裂く瞬間、一抹の未練はあった。
リリスティーネと仲良く話していたあの一瞬はもう訪れないだろうから。
けれど、そのひとときが在った事を、思い出の栞に仕舞い込んだ。
●
マグタレーナは目を開き、桜の木を見上げる。
満開に咲く桜は幻想的でどこか儚い。
「ただ、この感じた幸せを壊したり抜け出すために我々が在るのではないはず。散れども再び花が咲く、正に桜の木の如く願いを込めて」
マグタレーナは視線を桜の木から校舎へと流した。
「学生とは学校とは。わたくしは通った事がありませんでしたが、子供達はよく聞かせてくれました。とても楽しそうに。でも聞くと体験するとでは大違いですね。この幸せの世界の主どんな方なのでしょうね?」
苦しみではなく、幸せな夢の中に閉じ込めてしまう理由は何なのだろうか。
「そしてもう一つ理解しました。わたくしはきっとこの混沌世界が好きになっているのですね」
混沌で出会った人々に。友人達に斯様な幸せをずっと続けて欲しい。
彼女の傍らには友人となったライが寄り添っていた。
「命を絶つには打って付けの場所ですね。綺麗な花のした……さあ、使命に従い命を絶つか、身勝手にこの幸せな世界に溺れ続けるのか」
ライは金色のコインを一つ取り出す。
「そうですね……ここはコイントスで決めましょう。神のお導きに運命を委ねる。これが一番、後腐れないでしょう?」
何故ならライはギャンブラーなのだ。この決め方にだけは後悔なんてした事がない。
「表が出ればこのロザリオに祈りを込め、『平和への祈り』を私のこめかみへ。裏が出れば、ええ、ええ、私は永遠に幸せなまま……」
「ライさん、大丈夫なのですか?」
心配そうに見つめるマグタレーナに視線を送るライ。
「イレギュラーズには、常に依頼の成功に全力を尽くすべし……というハイルールがありましたね?」
ライはギャンブラーであり、そしてイカサマというものが何なのかを心得ている。
「コインで意図的に表を出すなんて……初歩の初歩なんです」
にっこりとマグタレーナに笑ったライは、一歩前にでてくるりと振り返った。
「私は詐欺師です……嘘つきです。これは本当に神に運命を委ねたのだと……イカサマなどしていないのだと自分に言い聞かせ、言いくるめ。自分に嘘を吐く事なんて――それも、初歩の初歩です」
「では、この世界を守るイレギュラーズの使命のため」
マグタレーナとライは弾かれたコインを見上げ、夢の世界と決別した。
ヴェルグリーズは学校中を探し回っていた。
出口が何処かにあるのではないか。そんな希望を胸に旧校舎に足を踏み入れ、ギシギシと鳴る木の床を歩いている。その後ろには暁月と廻、龍成も一緒に居た。
「何なに? 何か探してるん?」
「僕も手伝うよー」
「うわ……っ! 今なんか物音しなかったか!?」
陽気に付いてくる三人を振り返り、幸せに満ちた空間に目を細めるヴェルグリーズ。
この三人が憂い無く、ただ何の意味も無い会話と、笑顔を曝け出している。
最近は辛そうな表情ばかり見かけていたから尚更それが新鮮で。楽しくて。
いつか再び元の世界でその笑顔を見たいから。
燈堂の和リビングで酒を飲み交わし、笑い合いたいから。
今は、この幸せに背を向けるのだ。
「俺、ちょっとこの後、用事があるんだ。だから、行くね」
「そうなん? まあ気ぃつけてな」
「またね」
「じゃあな」
手を振って掛け出していくヴェルグリーズ。ゆるゆると三人は解けて光の中へ消えて行く。
この世界から抜け出すにはきっと死ぬ事が必要なのだとヴェルグリーズは確信する。
「そうなればどう死ぬかだけど……出来れば綺麗な景色を見ながら死にたいかな。となると……桜の木の下で首でも吊ろうかな」
集合場所は目立つだろうから、裏手にある桜の木にしよう。
太い幹に縄を掛けて、命を終わらせる。
「楽しかったよ、ありがとう」
ヴェルグリーズはこの夢の世界で生きていた友人達の顔を思い出す。
「でもこの世界は暖かすぎて俺には勿体ない。だから次へ進む為に」
――今こそ分かれ目、いざさらば。
桜が散るように儚く。命の音色が止んだ。
「ボディ――!」
「誰も居ないと思っていたのですが……」
軍用ナイフを持ったボディの手を止めたのは龍成だ。
後ろから抱きしめるように縋り付くようにボディの手首を掴む龍成。
「やめろ、止めてくれ……」
夢とはいえ、龍成に自分が死ぬ光景を見られたくないと思い、ボディは誰も居ない教室を選んだ。
大型のナイフで心臓を突けば終わる。『ボディ』の身体である死者と同じ死因。
「何故、ここに来たのですか龍成」
正直な所、まだ此処に居たいと思ってしまう。まだ人のようにありたいと。龍成と笑い喧嘩して泣いて愛し合う。そんな幸せに浸っていられるならば、どんなに満ち足りたのだろうか。
けれど、自分は屍機で。『誰か』の死体を使って動いている機械で。
そんな事実すら消えてしまったら、誰がこの死者に顔向けできる。
彼の『生きていた』痕跡すら消し去るのは、決して在ってはならない事だ。
「私は……帰らなければなりません。私の帰りを待つ人がいる。なら、ただいまって言わないと。
それに、もうすぐ『あの人の誕生日』なんです。祝福をしてやらないと」
手首を掴む龍成の手をそっと外すボディ。龍成に向き合い緑の瞳を上げて。
「貴方は龍成ではありませんね? 今、ほんの数秒前までは龍成だったのに、今は違うものになっている気がします」
ボディが『あの人の誕生日』と言った瞬間に中身が違うものへと変化した。
「……ああ、そうだね。俺はイヴァーノ・ウォルター。この夢の世界の創造主だ」
龍成の姿を纏った影が揺らぎ、黒髪赤瞳のハーモニアであろう男が姿を現す。
「それで、君は何故、死のうとしているのかな? 幸せだっただろう?」
「ここは貴方が作った夢ですか?」
頷いたイヴァーノにボディは瞳を伏せて頭を下げた。
「ありがとうございます。一時ですが、ええ、確かに私は嬉しかった。ですが、幸せな夢を見たのなら、今度は現実を進まねばなりません。人は夢だけでは生きていけないものでしょう」
「厳しい事を言うね。でも、不幸になるだけの人生なら幸せな夢を見続けたいとは思わないかい?」
ボディはイヴァーノの問いかけに首を振った。
「私は死者も、生者も、背負った物は投げ出さない。名残惜しいですが、全部を持って進んでいきます」
「そうか……」
慈悲深きイヴァーノの表情が悲しげな色に変わる。
「なぜ貴方はこんな大掛かりで不完全な夢の世界を作ったのですか。なぜ、此処まで停滞した世界を」
「俺が……『怠惰』の魔種だからだよ」
それはボディの求めた答えではなかったけれど、この夢との決別を始める切欠にはなっただろう。
軍用ナイフを縦に構え一直線に胸を裂くボディ。現実の傷と同じように。
ボディ・ダクレ――『ダクレの死体』――としての在り方を刻むように。
もう一度死体へ還る。
「これが、私だ」
夢の中であっても、死の瞬間を龍成に見られなくて良かったと、安堵しながらボディは息絶えた。
ボディの死を確認した昼顔は眉を寄せ歯を食いしばる。
「大丈夫か? 無理しなくていいんだぞ? 俺は慣れてるがお前さんは違うだろ?」
ヨハンナの気遣いに大丈夫だと首を振る昼顔。
「ううん、辛いけど逃げたくない。生きて帰ってると信じてるから。それに、もう僕達で最後だ」
昼顔は教室の遙か上空の天井から垂れ下がるロープに首をかけるため椅子を登った。
「……先に待ってるね、レイチェル氏」
「ああ」
ヨハンナの顔から視線を上げて輪の中を見つめる昼顔。
「此処なら僕は何も失わず、後悔や未練も無いんだろう。そもそも今から死ぬのだって怖い……けど」
母親の事を思い昼顔はロープをぎゅっと握る。
大好きな母の物語は終わっていない。自分が終わらせない。
それを紡ぐのが昼顔の役目なのだと自分を奮い立たせる。
「認めたくないけど同じなんだ。死んだら終わりじゃない。竜二氏の物語の先を僕が紡げば良い。
何も残らなかった訳じゃない。……僕は、まだそれを見つけていなくて。
見つけても、納得するか分からないけど」
陽に怯え心から笑えず、前を向けず自己犠牲の自分に戻るのだとしても。
「それでも、此処に閉じ籠もる前に、その先を、残ったモノを見つけに生きたいから」
昼顔は前を向いて自身を支える椅子を足で蹴った。
「――だから大丈夫。今だけなら、僕は前を向けれる」
死んで、生きて、戻るために。
ボキリと、骨が割れる、音がした。
昼顔の死を確認したヨハンナはこの夢の世界に誰も残っていない事に胸を撫で下ろす。
「すまねぇな。皆を無事に帰してやりたかったんだ」
介錯役――最後まで残る事を選んだのは仲間が無事に夢から離脱してほしいから。
「帰れないリスクを負うのは俺だけで良い……なんて言ったらタイムあたりに怒られちまうか」
されど、譲れないものがヨハンナにはあった。
この夢の世界のレイチェルには自分の死を見せないように嘘の約束をしている。
きっと彼女はいま駅前のカフェで待ちぼうけているだろう。
「……悪いな、駄目な姉貴で」
「本当に、ね」
ヨハンナの声に応えるように、現れた妹の姿。ヨハンナは目を見開き「何故だ」と無意識に零した。
「約束すっぽかすってどういうつもり? 全くもう、本当にヨハンナには私が居なきゃ駄目なんだから」
優しく自分へと微笑み掛けるレイチェルに一歩後退るヨハンナ。
何処までも幸せで、この夢の中に居たいと思ってしまう。その象徴たる妹の姿を見れば尚更。
「やめろ……」
「ヨハンナ? どうしたの?」
ナイフを取り出したヨハンナに驚いて妹は眉を下げる。困惑したように心配そうに。
「俺は幸せな夢を望まない。痛くて苦しくても良い。逃げずに向き合う――」
ヨハンナは手にしたナイフを胸に突き刺す。驚愕の表情でヨハンナへを止めようと掴みかかる妹。
「やめて、ヨハンナ! 死んじゃう! いやよ……死なないで。死んじゃ、やだっ……! ヨハンナ!」
「俺は誰にも縛られん。俺自身の意思で、進む道を選ぶ……! 邪魔すんじゃねぇ!」
ネモフィラの懐中時計が弾け。同時に妹レイチェルの姿も青い花弁となって空へと舞い上がる。
ヨハンナは左胸にナイフを刺したまま、己の赤き焔で自身を燃やした。
「……嗚呼。召還前の最後の記憶も、ヨハネの炎に呑まれた瞬間だったなァ」
――――
――
頬が熱くなっている感触がする。そうヨハンナは混濁した意識の中で思った。
「ヘマはしないって言ってたでしょ!」
バチンバチンと頬を打つ手。温かな掌と痛みにヨハンナは夢から覚める。
「あー、痛ぇ」
「うぅ……良かった。生きてる。皆生きてる……っ!」
ヨハンナの視界に映るのは、涙を流しながら自分の頬を叩くタイムの顔だった――
成否
成功
MVP
状態異常
あとがき
お疲れ様でした。如何だったでしょうか。
MVPは物語の深淵を掴んだ方へ。
ご参加ありがとうございました。
GMコメント
もみじです。大迷宮ヘイムダリオンを攻略しましょう。
●目的
・ヘイムダリオンの攻略
●ロケーション
不思議な夢の中と思われる場所で過ごすことになります。
現代日本を思わせる建物や風景。けれど、どこか不思議な場所。
この場所を知らなくても、何故か懐かしい気持ちになり多幸感に包まれます。
本当に心から幸せで満ち足りています。
ありそうなものがあります。
●出来る事
イレギュラーズは学生になっています。
最初はこの場所に違和感を覚えず、多幸感に包まれています。
友達と笑い合い喧嘩をして仲直りをして。とても幸せな日々が続いていきます。
学校や放課後、友達と遊びに行ったり、家に帰ってマンガを読んだり。
部活や習い事に一生懸命になり、休日は友達や恋人とデートをしたり。
友達の家に遊びに行ってマンガを読んでノートに落書きをしてみたり。
けれど、過ごして行く中で次第に違和感に気付きます。
何だかおかしいと思ってしまうのです。
幸せな日々が繰り返される。このまま浸かっていたいと思うでしょう。
イレギュラーズの使命を思い出します。
この場所から抜け出す(攻略する)には「自殺」するか仲間に「殺して」もらう必要がある事に気付きます。
夢の中の死が現実に影響しないとはかぎりません。
●情報精度
このシナリオの情報精度はEです。
無いよりはマシな情報です。グッドラック。
●Danger!
当シナリオにはパンドラ残量に拠らない死亡判定が有り得ます。
予めご了承の上、参加するようにお願いいたします。
●備考
本シナリオは運営都合上、納品日を延長させて頂く場合が御座います。
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