幕間
雲間にて
雲間にて
関連キャラクター:チック・シュテル
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- 花信風のしらせ、幕間
- ●報告後、帰路
「それじゃあチック、今日はお疲れ様」
刑部省に少女の身柄を引き渡した僕がゆっくり休んでねと告げれば、チックも「雨泽も」と言ってくれた。
「……雨泽? どう、したの……?」
くすぐったい気持ちが溢れたのだろう。小さく笑ってしまった僕に、君は不思議そうに首を傾げた。
「いや、だってね。君ってば」
路地でのやり取りを思い出すと、僕の胸には愉快な気持ちがもっと溢れてくる。
僕をかばうように前に出た、君の姿。
正直、あれには少し驚いた。
報告書でチックの働きは知っていたけれど、君のことは大人しい子だと僕は思っていたから。
「王子様みたいで格好良かったよね」
僕はお姫様だなんて柄じゃないから口笛を吹きそうになったけれど、空気を読んで飲み込んだんだよね。
「おれに、付き合ってもらってる……のに。雨泽に危ない目、合わせられない……合わせたくない、から」
「うん、うん。そっかぁ。それじゃぁ、危ない時はよろしくね」
なんて笑えば、君は生真面目そうな顔でしっかりと頷いていた。
でもね、チック。
――それは、俺もなんだよ。 - 執筆:壱花
- いとし花むすび、幕間
- ●藤の日のお土産
兎がちょんと座った形の『兎鈴』は、根付に出来るよう紐がついている。
その紐を摘んで腕を伸ばして揺らせば、視界に広がる藤棚の上を小さな兎がちょこちょこと歩いているようで可愛らしい。
「……あ」
「どうしたの、チック」
「ん……もうひとつ。買おう、かな……」
「もうひとつ?」
どうするの、と問う視線を向ける雨泽に、チックは淡雪のように柔らかに微笑んだ。
愛らしい兎の形の鈴は、きっと年端もゆかぬ少女が喜ぶことだろう。
姉を亡くしたことを刑部省で知ったであろう少女の、少しでも心の支えとなることを願って――。
「ふぅん。それじゃあ僕はお守りでも買おうかな」
「お守りも……可愛い、ね」
「お守りってね、念や思いを吸収するんだよ」
そう言って社務所に再度向かうチックについてきた雨泽は『藤守り』を買い求めて。
手にしたばかりのお守りには、神様の加護がある。藤花刺繍が揺れる愛らしいお守りをを両手で包んでから、雨泽はチックへと差し出した。
「はい、あげる。君、結構無茶をするみたいだから」
これで加護も二倍だよ、と。 - 執筆:壱花
- 蜜月は夜明けまで、幕間
- ●つきあかりの
シレンツィオ・リゾートを訪れた数日後、ギルド・ローレットに寄った時に偶然雨泽と出会った。
チックの翼が視界に入ったのだろう。人々の間をするりと猫のようにすり抜けた雨泽はやあといつも通りに笑って、チックへと封筒を差し出した。
「これ、は……?」
「こないだの写真だよ」
早速確認してみれば、白百合のブーケを手にしたチックがパンツスタイルのドレス姿でステンドグラスの前に立っている。チックの立つ場所にはちょうど月光が差し込み、まるでスポットライトのようだ。写真は二枚。ひとつは全身、もうひとつはバストアップで瞳を伏せているところ――丁度撮った時に瞬きをしていたのだろう。けれどそれは、祈るようでもあった。
「あまり上手に撮れなくてごめんね?」
カメラマンが夜には居なくなるのは、彼自身の生活もあるが、撮影をするには光源が足りないからだ。それでも夜に撮るのならば沢山の蝋燭に火を灯すけれど、その日の光源は月明かりのみ。薄暗さのなかにぼやけてしまっている。
「大丈夫、……ありがとう」
大切にするねと胸に両手で封筒を押し当てて微笑めば、雨泽が安堵したように吐息を零すのが解った。
「おかえりなさい!」
「おにいちゃん、なにかいいことあったの?」
家に帰れば、小さなこどもたちが足元にわらわらと集まってくる。
「ただいま、みんな……ちょっと、ね」
こどもたちはみんないい子で、帰ってきたばかりのチックをあれやこれやと手伝ってくれる。荷物はこっち、おにいちゃんはそっち。気付けばソファに座らされていて、いいことのお話聞かせてとチックの周りにレムレースたちが集まった。
「撮ってもらう、したんだ」
封筒から写真を取り出せば、わあ! と歓声を上げてこどもたちが覗き込む。
「おにいちゃん、きれい」
「あのひみたい」
「……あの日?」
リュケの言葉に瞳を瞬かせて首を傾げれば、「うん」と元気に答えるのは別の子だ。
こどもたちは顔を見合わせ、せーのとタイミングを合わせてチックへ告げた。
「「「おにいちゃんと、ぼく(わたし)たちがはじめてあったひ!」」」
月明かりのステージで歌うチックが綺麗で、それがどれだけ嬉しかったか。
だから、ね。
今日もお歌が聞きたいな! - 執筆:壱花
- あやかし道中、幕間
- ●嚼
鬼灯提灯揺らして、漫ろ歩き。
「……がおー、噛みつく……するよ?」
指を軽く折り曲げてがおーのポーズをしたチックに、傍らで狐の手を作っていた雨泽が「えっなにそれ」と吹き出した。
「チックの中の鬼ってそういうイメージ?」
「おかしい、した? ……雨泽は、噛む……しない、の?」
「え。僕? うーん……噛んでもいいのなら噛む、かも?」
「噛む……するんだ」
「好きなものしか噛みたくないけど」
真っ直ぐに向けられる無垢な瞳に、狐の半面の下で雨泽がえーとかうーんとか暫く唸って葛藤している。
「いや、やっぱり噛まない」
転じる答えに、チックが首を傾げた。
結局、どちらなのだろう。
「本気で噛んでも許されるのは猫だけなんだよ、チック」
鬼灯提灯を揺らして、作り直した狐の手の口部分をパクパクさせながら零した言葉。
それは静かで、それでいて真に迫るような声だった。 - 執筆:壱花
- 幽けき涅槃吹、幕間
- ●演目前
「雨泽、よろしく、ね」
何かあったら――危険があったら、逃げて欲しい。
そうして、刑部省に伝えて欲しい。
そう告げたチックに、雨泽はいつものようにすぐにうん――とは言わなかった。
「あのね、チック。それは君もだよ」
前にも似たことを言ったかもしれないけれどと、ばつが悪そうに指先が耳飾りを弄る。
助けを呼ぶのは大事だし、救いたいって気持ちはわかるし、希望を捨てたくない気持ちも解る。――例え殆ど答えが出ているとしても。
けれど、それでも。
「俺は君の事を友と思っているから――」
「雨泽?」
言葉の続きはない。
情報屋として依頼をしている以上、危険なことをするなとは言えない。
「ううん、気にしないで。今日の公演、楽しみにしているね。チックの歌、僕好きなんだよね。特等席で聞きたいくらい」
どこかいつもより早口でそれじゃあまた後でと会話を切り上げ、背を向ける。
(……雨泽?)
チックは首を傾げて彼の背中を見送っていたけれど、やることをやなくてはと関係者入り口に姿を消した。
チックの気配がなくなってから、雨泽は慌てて路地に入ってしゃがみこむ。
(何かすごく格好悪いこと言っちゃったよね、今!)
演目を終えて再度芝居小屋の前で合流した時には雨泽の態度はいつも通りで、チックは緩く首を傾げていた。
気のせい、だったのかな? - 執筆:壱花
- さいわいの魔法
- ●
「付き合ってもらっちゃってごめんにゃ、チック」
「ううん。いい、よ」
とててと軽い足取りで地を歩く白猫とは視線が合わない。
いつもは――多少のヒールの違いはあれど――同じ高さだからか、何だか少し不思議な間隔を覚えながら、チックは手に抱えた荷物を抱え直した。
『お願いがあるのだけれど、付き合ってくれにゃい?』
そう首を傾げた白猫――雨泽は、収穫祭に賑わう町の中を抜け、ケーキ屋さんへと向かった。受け取る予定の手が使えにゃくにゃっちゃってさ、なんてにゃむにゃむ言う雨泽の代わりにチックは荷運びをしてあげているのだ。
揺らすと中身が崩れてしまうと聞いているから、揺らさないように慎重に菓子の入った箱を運ぶ。今日は収穫祭だから、南瓜のお菓子だろうか。それともお芋? どちらも美味しそう。
「あとは……」
雨泽が時計台を見上げる。時間を気にしているようだ。
市場の色とりどりの菓子たちの間を泳ぐように歩む。
「これ……あの子たち、好きそう……」
レムレースたちが好きそうな菓子を見付けたから買って、お土産にする。
そうして買い物を楽しむと、再度雨泽が時間を気に掛けた。
「そろそろいいかにゃー」
帰ろう、チック。
白猫が鈴を鳴らして笑う。
可愛い彼らが君の帰りを待っているよ。
「おかえりなさい!」
明るいレムレースたちの声と、笑顔。
ただいまとチックがレムレースたちに返す前に、とたたと走った雨泽がレムレース側へと廻った。
誰かが「せーの」と口にした。
「おめでとう、おにいちゃん!」
「誕生日おめでとう、チック」
弾けるように、祝いの声が降り注ぐ。
「え……」
「びっくりした?」
「ふふっ、おめめまんまるっ」
「成功にゃね」
屈んだレムレースと白猫がハイタッチ。
「こっちにきて」
レムレースが空いている手を掴んで急かし、リビングへ。
「わ……」
リビングは、チックへのお祝いの飾り付けになっていた。
雨泽が迎えに来た時は、数日前からレムレースたちがチックと飾り付けていた収穫祭仕様だったはずなのに、いつの間に。
「……あり、がとう」
いつも以上に、言葉に詰まってしまう。
箱も開けてと急かす声に倣えば、そこには―― - 執筆:壱花
- 南瓜が笑えば猫も歌う
- ●
にゃ、にゃ、にゃ♪
短く白猫が歌っている。
否、合わせているのだ。チックの奏でる歌声に。
今日の雨泽はいつもよりも――心の底から本当に、楽しいのだろう。
白い尾はピンと立っているし、『ヒゲ時計』は10時10分を指している。
その姿が感情に素直なことに、きっと雨泽は気付いていない。
「チックのその姿って、歌を奏でるひとだよにゃ」
小さな猫の身体にはあまり量は入らないからとチックに分けてもらう形であんぱんももなかも口にした雨泽は、腹がくちくなった頃にそう口にした。
「雨泽、ふぁんとむ……知ってる、の?」
おれは詳しくは知らない。
目を僅かに丸くしたチックに、雨泽がうんと頷いた。
雨泽はその物語を知っていた。
ファントムは、仮面で『醜さ』を隠している。
だからチックは――。
水色の瞳が細まって――蕩けるように綻び、思考を隠す。
「彼の有名な言葉は知っているにゃ?」
「……何、だろう?」
「『歌え、私のために』」
物語内で歌姫と歌の掛け合いがあるのだ。
「一緒に、じゃ……ダメ?」
「ダメ。……ねえ、言ってよ、チック」
僕に命じて。悪戯だと思ってさ。
今宵はファントムナイト。君の欲も願いも叶う夜。
いつもは歌ってと言って目を伏して耳を傾けるだけなのに。
雨泽は今日のこの日――このファントムナイトの夜だけは、チックの声に合わせて楽しげににゃあと歌っていた。 - 執筆:壱花
- 暗雲払う野分、幕間
- ●お守りの行方
「あのね、チック」
「うん」
話しかけてきたのに、雨泽がその先を話さない。
否、話そうとはしているようだ。唇を薄く開き、そして閉じるを繰り返している。
チックはそうした時、相手を急かすことはない。幾らでも待つ気で、ただ静かに彼の側に居た。
「……ごめんね」
時間を掛け、ようやく零されたのはそんな言葉。
どうしたのと視線を向けて首を傾けると、言葉に詰まったような微妙な視線とかち合った。視線はすぐに外されて、一度落ちてからまた上げられる。
「せっかくお守りくれたのに、壊れちゃった」
見える場所につけておいたのに、と左手が右手首を撫でた。
小さくぽつりと零されるのは、気付いたら弾けて無くなってしまっていたこと、欠片を探そうにも戻れなかったこと。
――なんだ、そんなこと。
彼の元気がない理由が解って、チックはホッと息を吐いた。
「雨泽が無事で、よかった」
「うん。チックも無事で……じゃなくて。だからね、代わりを贈ってもいい?」
「本当に、気にしていない……よ?」
あげたものだから弁償するようなものでもない。
かぶりを振るチックに焦れたのだろう。ああもう、と笠で隠されていない前髪をくしゃりとして。
「俺が気にするの!」
だから今度、一日付き合って。
勢い任せにそう言った。
いつも通り「君が気にしないならいい」とは言えなくて。 - 執筆:壱花
- 甘い満月と兎
- ●重さ
「待たせてごめんね」
ちょっと待っていてと言いおいて、暫く。人混みに辟易しながらも雨泽が駆け戻ってきた。
手には離れる時にはなかった紙袋を抱えている。
「ゆーおにいちゃん、あまいにおい」
「おいしそうなにおい!」
「……お菓子?」
「そ。鼻がいいね」
レムレースたちの背に合わせるようにしゃがんで小さな紙袋を開くと、ふんわりと甘い香りが更に広がって。
わあと声を上げるレムレースたちに彼等の掌サイズの今川焼きめいた菓子を配れば、湯気立つそれを早速ぱくり!
「ありがとう、おにいちゃん」
「わ、なかにあまいのはいってるよ!」
とろりと蜜色の飴が溢れて、見て! とチックの袖を引いてくる。
「本当、だね……美味しい?」
「うん、おいしい!」
「チックの分もあるけど、まずはこっち」
手を出してとジェスチャーで示し、チックが掌を上向けると「これが僕からの贈り物」と小さな何かを置いた。
「……うさぎ?」
「そう。置物の」
掌の上では親指と人差し指で摘める大きさの兎が、体の半分くらいの満月にちょこんと手を置いてチックを見上げている。
「重くなさそうな物って中々探すのが大変で、遅くなっちゃった」
「……重い?」
兎は、確かに軽い。
「うん。……はい、チックも」
兎の居ない手に菓子を載せ、自分の分を齧る寸前「気持ちが」とだけ呟いた。 - 執筆:壱花
- おもかげ香、幕間
- ●割れた林檎
まるで空を飛んだような浮遊感とともに、意識が覚醒した。
目尻に溜まっていた涙が瞬きで零れ落ち、指先で触れてから手の甲で拭う。
香を焚いた皿の上には灰だけが残っており、それを確認してからチックはベッドを抜け出た。
寝間着から着替え、朝食の支度をしようと髪を縛る。鏡に映る己の顔は、幸せな夢を見たというのに何処か物憂げだ。
(……まだ、いつもより早い……)
時を刻む針は随分と早いところに留まっていたから、チックは少し悩み――そうして決めた。
アップルパイを、焼こう。
朝からアップルパイだなんて、一緒に暮らしている子たちは驚いてしまうかな?
でもきっと、その驚きは喜びへと傾いた驚きだ。みんなは「美味しそう!」ってキラキラと瞳を輝かせてくれることだろう。
チックはキッチンへと向かい、林檎を切る。夢の中で『あの子』がそうしていたように。
夢の中のチックはひとりでは出来ないことが多くて、助けてもらってばかりだった。
(……でも、今は)
チックはひとりでも出来ることが増えた。今ではもう、アップルパイを作ることだって出来てしまう。
出来ることは日々を重ねるごとにひとつひとつ増えていく。それはとても嬉しいことのはずなのに、かたわれの夢を見たせいか、チックの胸はズキリと痛んだ。
もし、叶うのなら。
君とまた、アップルパイを焼けますように。
「おにいちゃん、おはよう」
「わあ、いいにおい」
レムレースと、それから一緒に暮らしている子たちも起きてくる。
朝日よりもキラキラな瞳と穏やかな空気。
幸せだ、と思う。
焼きたてのアップルパイを囲んで、切り分けて。美味しいねと笑い合う。
本当に、幸せだ。明日も明後日も、こうしていたい。
けれどもそこに、君だけが居ない。
チックの『新しい家族』が笑っている。
(……いつか、君に……会えたら)
あの子にも家族を紹介して、一緒に暮らしたい。
それからまた、一緒にアップルパイを食べたい。
ゴロリとした林檎は甘くて、とても美味しくて――少しだけ、胸が苦しくなった。 - 執筆:壱花
- 君が寂しくならないように
- ●
指が真っ直ぐに首へと伸びていく。
瞳を丸くした弟は、全てを受け入れて柔らかく微笑んでいた。
(やめて)
それがいけないことだと既に知っていて、何度も夢に見る。記憶を辿って勝手に動く体はいつも通り首へと指を回し、気道を締め上げ――なかった。
代わりに顔を寄せ、弟の白い首筋に牙を突き立てた。
命の雫を一滴も残さず飲み干して、『ひとつ』になる。
これで、ずっといっしょ。
「――――ッ」
夢を見て飛び起きた。ぜえぜえと荒い呼吸に肩を弾ませて、『知らない』壁を凝視する。何処という疑問は既に浮かばない。忙しいと理由をつけて家に帰らず、最近借りている宿屋の一室だ。
天義から帰ってから、悪夢が変わった。
煙の香りで意識せずに済んだのに、まるで”それ”を望んでいるようだ。
(……怖い)
コツン。窓が鳴った。
窓の外には、二羽の小鳥。チックが窓を開くと二羽の小鳥は室内に入ってきて、レムレースたちはふわりといつものシーツおばけの姿に変わる。
「どうして……ここに」
「おにいちゃん、さびしいかもって」
「ゆーおにいちゃんがね、おしえてくれたの」
――君たちなら大丈夫。
なんのことだろうね。ねー? と、ふたりは顔を見合わせ首を傾げた。
レムレースたちは肉体は既に土へと還った、血肉の無い無垢な魂だけの子。
――大丈夫だよ。
此処に居ない彼の声が聞こえた気がした。 - 執筆:壱花
- 魅惑のイトラ、幕間
- ●
バザール内は香辛料の香りで満ち、アルニール商会の芳しい香りとはまた違う。ストールをぎゅうと握っていたチックは少しだけ顔を上向かせた。
「チック、口を開けて」
「……」
雨泽がバクラヴァを指で摘んでいる。もう少し上向かねば、蜜まみれになった指が口に入るかもしれない。
彼が嫌いな訳では無いが――それは今のチックには、恐ろしいことだ。
「……失敗して噛んでもいいのに」
言葉とは裏腹に、器用な指はチックの口に甘味を届けて離れていく。
脳が痺れそうな程に甘い蜂蜜とバターの香りが腔内を満たした。どうやら付属のピックが折れたらしいが、雨泽は指が蜜まみれになるのも構わず甘味を楽しむつもりらしい。
「僕に噛みつかないの?」
「どう……して」
その言葉で、チックは『知っているのだ』と理解した。
チックの瞳が丸くなる。哀しい事を言わないで。
雨泽の瞳も丸くなる。不思議そうに。
「君が言ったんだよ」
がおーって。あやかしの夜に。
「鬼は、噛みつくものなんでしょ」
「でもそれは……」
「今の君も、僕も、豊穣では鬼だよ」
「でも」
「あ。君が僕を噛んだら、僕も噛むし……すごく痛くする」
「……え」
「やられたらやり返す。当たり前でしょ?」
血が出たのなら、舐めるのは医療行為。そうでしょ?
だから深く考えないでと、雨泽はチックの口に甘味を放り込んだ。 - 執筆:壱花
- 光芒プレリュード
- ●
君を浚った。
これ以上はもう、本当に良くないと思ったから。
女王への敬愛を口にして暴れる君を体格差で抑え込んで、引っ掻かれた傷から溢れた血に怯んだ所を抱き上げて連れ去った。
葛藤を、しているのだろう。この期に及んで。
抗おうと、しているのだろう。腹が減って仕方がないだろうに。
抱え上げれば自然と君の顔は僕の首元だ。ごくりと鳴った喉は――きっと血の味を知っている。
「噛んで」
白い髪がいやいやと振られて首を擽る。
「……心と体、傷はどちらが痛いと思う?」
それでも僕は許さない。君の後頭部を押さえて、君が抗いきれなくなるのを待つ。
「僕はもう限界なんだよ。これ以上君が苦しむのを見ていられない」
君は頑なに抗う事で、周囲の人を傷つけている事に気付いていない。
首筋が痛みと熱を帯びて、息を飲む。不思議な感覚に体から力が抜けそうになったけれど、君の後頭部から手を離さず、宥めるように撫で続けた。
「いいこだね」
沢山泣かせてしまった。水晶の涙が幾つも地面に落ちて、僕は場違いにも両手が塞がっていなければ集められるのにと思う。
そうして意識を手放した君を抱え、神殿を経由して海洋へと飛んだのだ。
「怒ってる?」
「…………」
「怒ってるんだ?」
チックは俯いたまま、答えない。
「嫌いになった?」
「きら、いに、なんて……!」
「嫌っていいのに」
「なる、しない!」
勢いよく顔を上げたチックの表情が必死で、雨泽は笑った。
「チック、僕は沢山傷ついたよ」
「……ごめん、ね……」
「違う。何も解っていない」
怪我をさせた事を、血を吸ってしまった事を謝ろうとする彼は何も解っていない。だからもう、黙って見守るのを雨泽はやめた。この子には言わないと伝わらない。
「君が我慢するから、僕は痛かった。僕は君の友人なのにって、君の一番の友じゃないから頼って貰えないのかって、ずっと痛かったんだよ」
他の誰かから供血されてる方がずっと良かったのに、そうならなかった。
「幸せを願っている相手が苦しむのを見守るしか出来ない気持ちが君に解る?
……君の罪悪感が薄くなるようにって言葉を選んだのに伝わってないし」
言葉を尽くされ、チックは瞳を丸くした。
「友と思ってくれるのなら、俺をもっと頼って」
「うん……」
「もっと自分を大切にして」
「……うん」
「次我慢したら脅迫するから」
驚きに固まるチックに畳み掛けていく。
「『俺に自傷させるか、自分で噛んで最小限の傷にするか選んで』って言う」
どちらを想像したのか、チックの顔がくしゃりと歪む。
「負い目を感じるくらいなら、嫌って」
詰って突き放してと笑う雨泽に、チックは何も返せない。
彼にここまで言わせたのは、自分なのだから。 - 執筆:壱花
- 雨乞い
- ●
――後遺症で解った事があったら教えてね。
薬を飲んで日常生活に戻れるようになったが、まず自分の後遺症の状況を把握する必要があった。雨泽の言葉は主に、吸血衝動と必要な血液量だろう。
海洋に居た日々と同様に雨泽は二日置きに顔を出し、「大丈夫?」と問うた。以前ならば強い衝動があったのに、それが無いことに安堵した。
また二日経ち、雨泽が確認をする。衝動が湧き上がるものの、憔悴することなく抑えることが叶い、ホッとした。けれど彼を見て『飲みたい』と思ったことを少し恥ずかしく思った。
(雨泽に、何て言おう……)
他者の血を欲してしまう。其れは浅ましく思え、乞うのも我儘であるような気がした。
頼ってと言われた。……頼りたい。
けれどどこまでが我儘で、欲で、甘えで――どこまで許してくれるのだろう。
惑う気持ちが視線を彷徨わせた。それでもチックは勇気を出し、あのねと切り出した。
「それなら週二くらいがいいかな」
「お願い、できる?」
「勿論大丈夫だよ。週に二回も君に会えるなんてラッキーなだけかな」
雨泽はいつだってチックの心が軽くなる言葉を選んでいる。最近チックにもそれが解ってきた。本心は違っていても、チックの心を優先しようとしてくれている。
(それは嬉しい、こと。でも……)
寂しいとも思ってしまうのが、不思議だった。
雨泽自身も嘘をついている訳ではなくて、幾つかの思いのひとつを口にしているだけ。けれど其れ以外を隠してしまうから、彼の本心は解り難い。
「量も……少しでよさそう、な感じする」
「そう? じゃあ首じゃなくて指……あ、ごめん。無し」
「……雨泽?」
「……抱擁みたいで好きだし、首からでお願いします」
答えを求めてジッと見てみたけれど、教えてくれる気はないらしい。
とりあえず今回の分をと襟を開いて招かれれば、その先の『おいしい』を知っているチックはその誘惑に抗えなかった。
●
首筋に顔を埋めた君を撫ぜる。触れる髪がくすぐったい。
(……顔を見られたら恥ずかしい、なんて。言えないでしょ) - 執筆:壱花
- こころ灯すもの
- ●
家へ帰るとすぐ、おかえりなさいの元気な声が響いてくる。
長い間家を空けていたせいか、最近は毎日こうだ。同居している家族が、チックの帰宅の度に玄関までお出迎え。それを申し訳なく思うけれど、その度『彼』の言葉を思い出す。
『謝らないで』
(ごめんね、じゃない……ありがとうの気持ち、がいい)
だから申し訳ないと思うよりも、子どもたちへの感謝と家に帰れる喜びを抱こうと湧き上がる申し訳無さを幸せな気持ちに変えた。
「おにいちゃん、おみやげ?」
おばけの子の視線がチックの手元へと向かった。よくお留守番している良い子たちへとお土産を買うからだろう。
「これ、は……おれの」
作ってもらった、自分だけのランプ。
置いてくるねと、部屋へと向かった。
――――
――
「鳥?」
問うたチックへうんと返した雨泽は、白、灰、黒へ。黒、灰、白、とランプシェードを回しながら指で辿った。ガラス片で身体と翼、頭と尾羽根をビーズで足した鳥が橙と白で作られた花模様の上を飛んでいる。
「生まれた時は灰色で、成長すると白くなる鳥がいるんだって」
チックの翼の変色の理由を知らない雨泽は、君も変わるタイプなのかなと口にした。
「……雨泽、は……白の方が、好き?」
「うーん、僕と同じ色だなって思うくらい?」
チックの視線が少し落ちた。
「黒だと僕が好んで纏う色かな」
視線が上がる。
「ほら、今日も黒いでしょ」
腕を上げて衣を見せて、君は何色を纏っても似合うと思うよと雨泽は笑っていた。
――
――――
白、灰、黒へ。黒、灰、白へ。
雨泽との会話を思い出しながら、チックの指はランプを辿る。
(おれのこと、よく見てくれてる……)
翼の変化に気付いていても、烙印で小さくなっても、雨泽は「似合うね」しか言わない。
斑で歪で、鏡に映る瞳の色を怖いと自分自身でも思ったのに、雨泽はいつもと変わらぬ態度で目を見て話してくれていた。
沢山の優しさにひとつずつ気付く度、幸せで。
「ランプ、どこに飾る……しようかな」
こつんとランプに爪を当て、飾った時の光景を思い浮かべるのだった。 - 執筆:壱花
- ある海洋の日
- ●
海洋へ渡ってから数日経過したある日、毎朝同じくらいの時間に食堂で顔を合わせていた雨泽がやってこなかった。
(どうしたんだろう……)
この宿は一階が受付と食堂なため、客室にある二階へ繋がる階段を見上げた。
最初は体調を案じられての同室だったが、症状が落ち着いてきた事が解ってからは「僕が居たら気が休まらないでしょ」と一人部屋となった事を思い出す。
(休まらない、しない……けど、雨泽は)
本当に休めていないのは彼なのではないかと思い、異を唱えなかった。部屋は別だが、隣部屋だ。大丈夫。
(昨日、のせい……?)
血を多く貰い過ぎたのではと、途端に怖くなった。
(でも……)
ただ疲れてゆっくり寝たいのだとしたら?
邪魔をするのはよくない。
昼になったが、まだ雨泽は訪ねて来ない。
(やっぱり体調が)
不安な心はもう、我慢できなかった。
――コンコン。
出来るだけゆっくりとノック。返事はない。
「……ゆーずぅぁ」
名を呼んでみた。返事がない。
――コンコン!
今度は強く。
「ゆーずぅぁ!」
不安が胸に溢れていく。
倒れていたらどうしよう。……扉を破壊しようか。
――ドン。
何かが落ちるような音がした。
息を飲んで耳を澄ますと、足音が聞こえた。
がちゃりと扉が開けば、不思議そうな顔で壁に凭れ掛かる雨泽がいた。
●
扉を叩く音で瞼を持ち上げた。
そのまま寝返りを打てば、視界は床を映した。
誰かが呼んでいる。起き上がって扉へと向かい、ぼうと重い頭を壁に預けながら扉を開けた。
「……あれ、チックだ」
何故だか小さいチックがいた。
(夢かな……)
ぼんやり眺めているとまた瞼が降りてきそうになる。
「……だいじょうぶ?」
昨日までの記憶が急に戻ってきて、眠気が吹き飛んだ。夢じゃない。
「ごめん、また後でっ」
勢いよく扉を閉めたから驚かせたかも知れない。
振り返ろうとして、ゴツン。壁にぶつかった。
「ゆーずぅぁ!?」
「……大丈夫……」
寝癖で髪はボサボサだし、寝間着のままだし、声だって寝起きで化粧だってしていない。
(あー……)
頭を抱えてしゃがみ込む。
(……死にたい) - 執筆:壱花
- アルアーブ・ナーリヤの違和
- ●心配
(やっぱり衝動があったのかな)
いつもより長く吸血しているように思え、そんなことを考えた。
(脈も早い気がするし……無理をさせたのかも)
彼は優しい子だから人のせいにしないし、すぐに我慢をする。我慢しないで欲しいと思うのに、結構頑固な事も知っている。
「もし僕が暫く留守にしないといけなくなったら、我慢せずにちゃんと誰かから貰ってね」
「……予定がある、するの?」
首から顔を上げたチックの瞳が微かに見開かれている。
驚かせたかな。いつもなら吸血後は小さく歌を口遊んで噛み跡をすぐに癒やしてしまうのに。
「そういう訳ではないけど」
何事も備えておくことに越したことはない。常に最悪を考えて先に手を打つだけだ。
(保護している子からは嫌だろうし、本当は弟から貰えればいいんだろうけど)
あの弟は、頼めばきっと二つ返事だろう。……けれど彼はどこか剣呑だ。
(家族の問題は俺が口出しすることじゃない。俺は『繋ぎ』に過ぎないのだから)
彼に多く居る友人のひとりに過ぎない事を理解している。
「我慢、しないで。周りを頼ってね」
だから言えることは、ただそれだけ。
●違和感
もしもの話なのに、暫く会えない日々を想像してチックは少し悲しくなった。
思わず見上げた雨泽の灰色の眸には、自分だけが映り込んでいる。
いつもは嬉しいのに……けれど何故だろう。
(……あれ?)
少しだけ違和感を覚え、確かめたくて背伸びをした。
「わ、チック。何、どうしたの。え、本当に口吸いしているように見せたいの?」
彼の言葉で我に返り、意識しないように慌てて顔を背けた。それなのに頬に熱が集って……恥ずかしい。
「吃驚した。……ねえ、甘いものを食べに行こうよ」
暗さと花火の灯りでチックの頬の朱に気付いていないようだ。彼は襟を正して笑って――違和感は隠れた。
空にはまだ花が咲いていて、今なら店が空いているよと手を引かれた。
……花火の灯りのせいで見間違えたのだろう。
色素の薄い虹彩が、罅割れているように見えた、なんて――。 - 執筆:壱花
- 白片ノ灯
- ●
「……落ち着く、した?」
「うん、少し。ありがとう」
僕に小さく笑みを零す余裕が生まれると、君はよかったと柔らかに笑った。
「……あ、そうだ」
握っていた手を離して、ごそごそ。
何かを取り出そうとしている様を見てランタンを預かろうかと申し出たけれど、それだと雨泽の手が塞がっちゃうと君が言った。
「雨泽、これ」
手を出してと言われて広げた手に乗せられた、水色の箱。中身は装飾。白い羽根と銀の鈴、星の形の花。少し早い誕生日プレゼントだと君が言った。
「……羽根、チックの?」
「うん」
「抜いたの?」
君が少し目を逸らす。
「……痛くないの」
「平気、だよ」
雨泽だって。そう言いたいのだろう視線を感じた。君に供血しているから。
「ありがとう、大切にするね」
微笑んだ君は、また小さく歌っていた。
白い光と君は――ああ今日も、つきあかりのようだ。
●
――ちり。
摘み上げると鈴が鳴った。
光に翳すと綺麗でいつまでも見ていたくなるけれど――水色の箱に綺麗にしまって、棚へ。
(お守りって言っていたから持ち歩いた方がいいのかもしれない、けど――)
持ち歩くと無くしそうで怖いから。
無くしたらきっともう戻らないから。
俺はスカイウェザーではないから白い羽根をくれたことに意味があるのかは解らないけれど、君が俺の手元に白を残しておきたいと思ったのなら綺麗な状態で保管したかった。
棚をぱたんと閉ざして立ち上げる。
(――求愛で羽根を贈るのは梟だっけ)
気落ちしている時で良かった。そうじゃなかったら問うていただろう。綺麗な羽根を選んで贈ってくれたのかなと自惚れ、その気恥ずかしさを隠すための軽口で。
(チックって何の鳥なのかな)
彼のことを詳しく知らない事に気がついた。
(聞いてみたら教えてくれるのかな)
そんなことを考えながら、俺は塒を後にした。 - 執筆:壱花
- 白星ノ祈
- ●願いと祈り
週に二度、必ず君に会う。
「ん……」
もう何度も経験してるのに、牙が離れる瞬間に慣れることはなくて。
けれども僕も君も、割りと『慣れた』方だと思う。そうすることが習慣になって、当たり前になって、触れる熱にも離れる熱にも気恥ずかしさは何処かへ行ってしまった。……と思っているのは僕だけかも知れない、けど。
「ありがとう」
「どういたしまして」
最初の頃の申し訳なさそうにする表情では無くなったから、慣れたかなって思っている。
その後は、用事が済んでいればバイバイしたり、食事をしたり、夜歩きをしたり。いつも違うけれど、今日は少し歩こうって君を誘った。
秋の香りを楽しんで、月の色を楽しんで、それから……君はどうやってくれたっけって考えた。あの日の俺は気が動転していて、君のことも気遣えなかった。手を引いて貰っていたことは覚えているけれど、話した内容も少し曖昧だ。小さな箱が塒に戻ってもあったから、ああ現実なんだって、全部夢じゃないんだって思ったんだ。……夢だったら良かったって思っていた。皆が案じてくれたのに、自分のことばかり考えてしまう俺は本当に最低だ。
「……雨泽?」
「あ、ごめん。考え事しちゃってた。なぁに、チック」
「月が綺麗だね、って」
満月じゃなくても、月は綺麗。君の言葉に含みはないだろうから、そうだねと返した。
「悩む、してる?」
「うん。どうやって渡そうかなって考えてた」
半分、本当。
渡す? と首を傾げる君の手を掬って、小さな箱をその手に乗せた。
「これ……」
「少し早いけど、誕生日おめでとう」
君がそうしてくれたように、俺からも。当日に渡しても良かったけれど、君の誕生日は俺も君も姿が違う可能性が高い。今の俺の姿で、普段通りの君に渡したかったんだ。
箱の中身は、白い桔梗のブローチだ。文(ふみ)で話を聞いてから、そうしようって決めていた。桔梗は君の誕生花であり、俺が君に貰った花と同じ星型で、豊穣の秋の七草。
中身を見て、俺を見る君の瞳が真ん丸で面白い。本当に月みたいだね、チック。
ありがとうと紡ぐ君に俺がつけてもいいかと問うて。頷いた君の手からブローチを摘まみあげる。
「これから先もあなたの魔法が誰かの助けと為る様に」
君の一族みたいに魔法が使えない俺には祈るだけしか出来ない。けれど精一杯の想いを籠め、ブローチを君の衣服へと飾ったのだった。
――どうかその魔法が、俺の助けとはなりませんように。
他者のために自身を惜しまない君が、己の身を顧みて魔法を行使できますように。
――
アイテム名:白星ノ祈
フレーバー:
白い桔梗のブローチ。特別な何かなんてものはない。籠められているのは、ある鬼人種の祈りのみ。 - 執筆:壱花
- Moon Child
- ●
うとうとと微睡むような心地ではなく、ふと、唐突に目が覚めた。
とても温かいことを不思議に思うが、答えはすぐに視界に入ってくる。
(……チック。俺、あのまま寝ちゃったんだ)
ぬくもりを分けてくれた彼もずっと気を張り詰めていただろうから、暫く後に寝たのだろう。俺でもぬくもりを与えられているのかと都合の良い考えが過りかけるのを振り払う。そんなの、依存しあってるみたいじゃないか。
姉上がチックの分の布団も用意してくれたのだろう。眠る君を起こさないように気をつけながら小さく半身を起こせば、夜明け前の気配が頬を撫でる。腕で這って顔が並ぶように移動して、眠る君をじっと見た。頬に触れて、涙袋の下へ指で触れた。肌が乾燥している。時折泣いているか、寝ている時に泣いているか。そのせいだろう。
万全になったら高品質な化粧水を贈ろうと決めた。泣いたらしっかりと保湿しないと。彼の頬を少し摘んでから離す。滑らかな肌でいてほしい。
(君は他人を優先するから……)
俺だからじゃなくて、他の人にも。だから俺の気持ちを優先して、自分の悲しみを分けてくれない。俺ばかりが甘えてしまっていて、けれども言ってと言うのも言わせているようで複雑で。誰かに促されなくとも頼れるようになってほしい。……そうなってくれたら良いのにね。
君の頭に手を伸ばし、両腕で引き寄せる。
(辛い思いをした分、救われないとダメだよ)
額に唇を寄せて良い夢をと願い、頭を撫でた。今の俺の腕でも、いいこって撫でてあげることくらいは出来る。いっぱい頑張ったねって言ってあげることはできるんだよ? ねえ、チック。
(人は鼓動を聞くと安心できるんだっけ? 君も俺で安心してくれる?)
そうあればいいと思ってぎゅうと抱き込み、君の額を胸に押し付ける。
今この時、君の世界が俺の鼓動(おと)だけになるように。
朝が来る前に元の位置に戻るつもりだったのに……いつの間にか俺はまた寝てしまって、目覚めた君を驚かせたようだった。 - 執筆:壱花
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