幕間
雲間にて
雲間にて
関連キャラクター:チック・シュテル
- 君が寂しくならないように
- ●
指が真っ直ぐに首へと伸びていく。
瞳を丸くした弟は、全てを受け入れて柔らかく微笑んでいた。
(やめて)
それがいけないことだと既に知っていて、何度も夢に見る。記憶を辿って勝手に動く体はいつも通り首へと指を回し、気道を締め上げ――なかった。
代わりに顔を寄せ、弟の白い首筋に牙を突き立てた。
命の雫を一滴も残さず飲み干して、『ひとつ』になる。
これで、ずっといっしょ。
「――――ッ」
夢を見て飛び起きた。ぜえぜえと荒い呼吸に肩を弾ませて、『知らない』壁を凝視する。何処という疑問は既に浮かばない。忙しいと理由をつけて家に帰らず、最近借りている宿屋の一室だ。
天義から帰ってから、悪夢が変わった。
煙の香りで意識せずに済んだのに、まるで”それ”を望んでいるようだ。
(……怖い)
コツン。窓が鳴った。
窓の外には、二羽の小鳥。チックが窓を開くと二羽の小鳥は室内に入ってきて、レムレースたちはふわりといつものシーツおばけの姿に変わる。
「どうして……ここに」
「おにいちゃん、さびしいかもって」
「ゆーおにいちゃんがね、おしえてくれたの」
――君たちなら大丈夫。
なんのことだろうね。ねー? と、ふたりは顔を見合わせ首を傾げた。
レムレースたちは肉体は既に土へと還った、血肉の無い無垢な魂だけの子。
――大丈夫だよ。
此処に居ない彼の声が聞こえた気がした。 - 執筆:壱花
- 魅惑のイトラ、幕間
- ●
バザール内は香辛料の香りで満ち、アルニール商会の芳しい香りとはまた違う。ストールをぎゅうと握っていたチックは少しだけ顔を上向かせた。
「チック、口を開けて」
「……」
雨泽がバクラヴァを指で摘んでいる。もう少し上向かねば、蜜まみれになった指が口に入るかもしれない。
彼が嫌いな訳では無いが――それは今のチックには、恐ろしいことだ。
「……失敗して噛んでもいいのに」
言葉とは裏腹に、器用な指はチックの口に甘味を届けて離れていく。
脳が痺れそうな程に甘い蜂蜜とバターの香りが腔内を満たした。どうやら付属のピックが折れたらしいが、雨泽は指が蜜まみれになるのも構わず甘味を楽しむつもりらしい。
「僕に噛みつかないの?」
「どう……して」
その言葉で、チックは『知っているのだ』と理解した。
チックの瞳が丸くなる。哀しい事を言わないで。
雨泽の瞳も丸くなる。不思議そうに。
「君が言ったんだよ」
がおーって。あやかしの夜に。
「鬼は、噛みつくものなんでしょ」
「でもそれは……」
「今の君も、僕も、豊穣では鬼だよ」
「でも」
「あ。君が僕を噛んだら、僕も噛むし……すごく痛くする」
「……え」
「やられたらやり返す。当たり前でしょ?」
血が出たのなら、舐めるのは医療行為。そうでしょ?
だから深く考えないでと、雨泽はチックの口に甘味を放り込んだ。 - 執筆:壱花
- 桜流し
- ●
チックと一族の邸へ行った別の日、刑部卿が視察に行くとのことで、俺も遠津へ向かった。
宴会をし、夜桜も愛で、綺麗だねと空いている傍らへと声を掛けて驚いた。
そうだった、遠津に君は来ていない。
(……眠れているのかな)
不安そうにしている顔ばかりが浮かんで、心配になった。
そんな彼の顔を思い浮かべると、邸へ行った日の事を思い出す。
『――あの、ね。さっきの……』
桜花の下で、聞こえてしまったのだと『置いてきた名』をチックが口にした。
知られてしまったことへの気まずさは、君をずっと騙していたせい。
置き去りにした『俺』が喜んでいることに気がつく、苦い気持ち。
煙に撒くことは出来たけれど、そうしなかった。
そうだよと認めるだけで話を逸らし、団子を買い求めた。
(呼んでいいよとか、言ってあげればいいのに)
きっと彼は困っただろう。
(でもチックは皆の前では口にしないだろうし)
俺は宴席を抜け出し、手水川へと向かう。
懐から取り出すのは、昼間にスペアと誤魔化してふたつ彫った大蛇、の片割れ。
綺麗な桜花を大蛇へと載せ、黒黒とした川へと流した。
(チックの願いが叶いますように)
あの日願えなかった最低な俺の代わりに。
君の幸せを、今、願う。
例え君の傍らに俺が居なくても、君が幸せならそれでいい。
花弁の行方を見守らず、俺はその場を立ち去った。 - 執筆:壱花
- 光芒プレリュード
- ●
君を浚った。
これ以上はもう、本当に良くないと思ったから。
女王への敬愛を口にして暴れる君を体格差で抑え込んで、引っ掻かれた傷から溢れた血に怯んだ所を抱き上げて連れ去った。
葛藤を、しているのだろう。この期に及んで。
抗おうと、しているのだろう。腹が減って仕方がないだろうに。
抱え上げれば自然と君の顔は僕の首元だ。ごくりと鳴った喉は――きっと血の味を知っている。
「噛んで」
白い髪がいやいやと振られて首を擽る。
「……心と体、傷はどちらが痛いと思う?」
それでも僕は許さない。君の後頭部を押さえて、君が抗いきれなくなるのを待つ。
「僕はもう限界なんだよ。これ以上君が苦しむのを見ていられない」
君は頑なに抗う事で、周囲の人を傷つけている事に気付いていない。
首筋が痛みと熱を帯びて、息を飲む。不思議な感覚に体から力が抜けそうになったけれど、君の後頭部から手を離さず、宥めるように撫で続けた。
「いいこだね」
沢山泣かせてしまった。水晶の涙が幾つも地面に落ちて、僕は場違いにも両手が塞がっていなければ集められるのにと思う。
そうして意識を手放した君を抱え、神殿を経由して海洋へと飛んだのだ。
「怒ってる?」
「…………」
「怒ってるんだ?」
チックは俯いたまま、答えない。
「嫌いになった?」
「きら、いに、なんて……!」
「嫌っていいのに」
「なる、しない!」
勢いよく顔を上げたチックの表情が必死で、雨泽は笑った。
「チック、僕は沢山傷ついたよ」
「……ごめん、ね……」
「違う。何も解っていない」
怪我をさせた事を、血を吸ってしまった事を謝ろうとする彼は何も解っていない。だからもう、黙って見守るのを雨泽はやめた。この子には言わないと伝わらない。
「君が我慢するから、僕は痛かった。僕は君の友人なのにって、君の一番の友じゃないから頼って貰えないのかって、ずっと痛かったんだよ」
他の誰かから供血されてる方がずっと良かったのに、そうならなかった。
「幸せを願っている相手が苦しむのを見守るしか出来ない気持ちが君に解る?
……君の罪悪感が薄くなるようにって言葉を選んだのに伝わってないし」
言葉を尽くされ、チックは瞳を丸くした。
「友と思ってくれるのなら、俺をもっと頼って」
「うん……」
「もっと自分を大切にして」
「……うん」
「次我慢したら脅迫するから」
驚きに固まるチックに畳み掛けていく。
「『俺に自傷させるか、自分で噛んで最小限の傷にするか選んで』って言う」
どちらを想像したのか、チックの顔がくしゃりと歪む。
「負い目を感じるくらいなら、嫌って」
詰って突き放してと笑う雨泽に、チックは何も返せない。
彼にここまで言わせたのは、自分なのだから。 - 執筆:壱花
- 光芒の下には行けなくて
- ●
「………………ん」
思わず溢れかけた声音を噛み殺す。
恍惚に呆けた頭で意識を手繰り寄せて肩を軽く叩けば、意図を察した君が牙を抜いた。最後に溢れた血を舐め取る熱い舌も、吸血も、そのどれもが波となって押し寄せる。
(……おかしくなりそうだ)
実に合理的だ、とも思う。食事と言う行為は生物を無防備にさせる。その最中獲物に逃げられず、筋肉も弛緩させ『食べやすく』する、なんて。
「……ごめ」
「チック」
縋るようにぎゅっとくっついたまま謝りかける君の言葉を遮って、決めたでしょと不思議な色の瞳を覗き込んだ。
吸血は二日置き。頻度を減らして一度に多く血を失うのは流石に良くなく、毎日はチックが大きく頭を振り、かと言って我慢して他者の血に君が誘惑されるのは俺が面白くない。
それから、謝らない事。悪い事をしている訳ではないし、ありがとうの方が嬉しい。
「これくらい全然痛くないし」
寧ろ気持ちいいとは流石に憚られ、気にしないでと襟を正した。
「ゆーずぅぁ……かみつく、しない?」
「あれは君の気持ちを軽くする冗談だよ」
ぱちりと瞬き、幼い顔が更に幼くなる。
「流石に僕でも番以外に痕は残さないかな」
……失言だ。この手の冗談を言う相手は選んでいるのに、未だにクラクラとする頭の思考力が落ちていた。
「つがいはかむ、の?」
「まあ多分……って、冗談だから! 口が滑っただけ!」
俺が慌てているのが面白いのだろう。君が笑みを見せてくれて、そこに苦しさがないことに安堵を覚えた。
(ラサで用意される薬は俺が取りに行って、その後は)
後遺症の状況に合わせ、また話し合いが必要だろう。
(チックには友人が多く居るのに、俺が独占していてはいけない)
ずっと血を提供しても構わないけれど、俺は君が日常に戻るための『繋ぎ』に過ぎない。俺と居るよりも家に帰りたいだろうし、後遺症も無い方がいい。
(すぐに完治しますように)
そんな事を考えながらも唇を尖らせた拗ねた表情を作って見せれば、君は楽しげに笑っていた。 - 執筆:壱花
- 雨乞い
- ●
――後遺症で解った事があったら教えてね。
薬を飲んで日常生活に戻れるようになったが、まず自分の後遺症の状況を把握する必要があった。雨泽の言葉は主に、吸血衝動と必要な血液量だろう。
海洋に居た日々と同様に雨泽は二日置きに顔を出し、「大丈夫?」と問うた。以前ならば強い衝動があったのに、それが無いことに安堵した。
また二日経ち、雨泽が確認をする。衝動が湧き上がるものの、憔悴することなく抑えることが叶い、ホッとした。けれど彼を見て『飲みたい』と思ったことを少し恥ずかしく思った。
(雨泽に、何て言おう……)
他者の血を欲してしまう。其れは浅ましく思え、乞うのも我儘であるような気がした。
頼ってと言われた。……頼りたい。
けれどどこまでが我儘で、欲で、甘えで――どこまで許してくれるのだろう。
惑う気持ちが視線を彷徨わせた。それでもチックは勇気を出し、あのねと切り出した。
「それなら週二くらいがいいかな」
「お願い、できる?」
「勿論大丈夫だよ。週に二回も君に会えるなんてラッキーなだけかな」
雨泽はいつだってチックの心が軽くなる言葉を選んでいる。最近チックにもそれが解ってきた。本心は違っていても、チックの心を優先しようとしてくれている。
(それは嬉しい、こと。でも……)
寂しいとも思ってしまうのが、不思議だった。
雨泽自身も嘘をついている訳ではなくて、幾つかの思いのひとつを口にしているだけ。けれど其れ以外を隠してしまうから、彼の本心は解り難い。
「量も……少しでよさそう、な感じする」
「そう? じゃあ首じゃなくて指……あ、ごめん。無し」
「……雨泽?」
「……抱擁みたいで好きだし、首からでお願いします」
答えを求めてジッと見てみたけれど、教えてくれる気はないらしい。
とりあえず今回の分をと襟を開いて招かれれば、その先の『おいしい』を知っているチックはその誘惑に抗えなかった。
●
首筋に顔を埋めた君を撫ぜる。触れる髪がくすぐったい。
(……顔を見られたら恥ずかしい、なんて。言えないでしょ) - 執筆:壱花
- こころ灯すもの
- ●
家へ帰るとすぐ、おかえりなさいの元気な声が響いてくる。
長い間家を空けていたせいか、最近は毎日こうだ。同居している家族が、チックの帰宅の度に玄関までお出迎え。それを申し訳なく思うけれど、その度『彼』の言葉を思い出す。
『謝らないで』
(ごめんね、じゃない……ありがとうの気持ち、がいい)
だから申し訳ないと思うよりも、子どもたちへの感謝と家に帰れる喜びを抱こうと湧き上がる申し訳無さを幸せな気持ちに変えた。
「おにいちゃん、おみやげ?」
おばけの子の視線がチックの手元へと向かった。よくお留守番している良い子たちへとお土産を買うからだろう。
「これ、は……おれの」
作ってもらった、自分だけのランプ。
置いてくるねと、部屋へと向かった。
――――
――
「鳥?」
問うたチックへうんと返した雨泽は、白、灰、黒へ。黒、灰、白、とランプシェードを回しながら指で辿った。ガラス片で身体と翼、頭と尾羽根をビーズで足した鳥が橙と白で作られた花模様の上を飛んでいる。
「生まれた時は灰色で、成長すると白くなる鳥がいるんだって」
チックの翼の変色の理由を知らない雨泽は、君も変わるタイプなのかなと口にした。
「……雨泽、は……白の方が、好き?」
「うーん、僕と同じ色だなって思うくらい?」
チックの視線が少し落ちた。
「黒だと僕が好んで纏う色かな」
視線が上がる。
「ほら、今日も黒いでしょ」
腕を上げて衣を見せて、君は何色を纏っても似合うと思うよと雨泽は笑っていた。
――
――――
白、灰、黒へ。黒、灰、白へ。
雨泽との会話を思い出しながら、チックの指はランプを辿る。
(おれのこと、よく見てくれてる……)
翼の変化に気付いていても、烙印で小さくなっても、雨泽は「似合うね」しか言わない。
斑で歪で、鏡に映る瞳の色を怖いと自分自身でも思ったのに、雨泽はいつもと変わらぬ態度で目を見て話してくれていた。
沢山の優しさにひとつずつ気付く度、幸せで。
「ランプ、どこに飾る……しようかな」
こつんとランプに爪を当て、飾った時の光景を思い浮かべるのだった。 - 執筆:壱花
- ある海洋の日
- ●
海洋へ渡ってから数日経過したある日、毎朝同じくらいの時間に食堂で顔を合わせていた雨泽がやってこなかった。
(どうしたんだろう……)
この宿は一階が受付と食堂なため、客室にある二階へ繋がる階段を見上げた。
最初は体調を案じられての同室だったが、症状が落ち着いてきた事が解ってからは「僕が居たら気が休まらないでしょ」と一人部屋となった事を思い出す。
(休まらない、しない……けど、雨泽は)
本当に休めていないのは彼なのではないかと思い、異を唱えなかった。部屋は別だが、隣部屋だ。大丈夫。
(昨日、のせい……?)
血を多く貰い過ぎたのではと、途端に怖くなった。
(でも……)
ただ疲れてゆっくり寝たいのだとしたら?
邪魔をするのはよくない。
昼になったが、まだ雨泽は訪ねて来ない。
(やっぱり体調が)
不安な心はもう、我慢できなかった。
――コンコン。
出来るだけゆっくりとノック。返事はない。
「……ゆーずぅぁ」
名を呼んでみた。返事がない。
――コンコン!
今度は強く。
「ゆーずぅぁ!」
不安が胸に溢れていく。
倒れていたらどうしよう。……扉を破壊しようか。
――ドン。
何かが落ちるような音がした。
息を飲んで耳を澄ますと、足音が聞こえた。
がちゃりと扉が開けば、不思議そうな顔で壁に凭れ掛かる雨泽がいた。
●
扉を叩く音で瞼を持ち上げた。
そのまま寝返りを打てば、視界は床を映した。
誰かが呼んでいる。起き上がって扉へと向かい、ぼうと重い頭を壁に預けながら扉を開けた。
「……あれ、チックだ」
何故だか小さいチックがいた。
(夢かな……)
ぼんやり眺めているとまた瞼が降りてきそうになる。
「……だいじょうぶ?」
昨日までの記憶が急に戻ってきて、眠気が吹き飛んだ。夢じゃない。
「ごめん、また後でっ」
勢いよく扉を閉めたから驚かせたかも知れない。
振り返ろうとして、ゴツン。壁にぶつかった。
「ゆーずぅぁ!?」
「……大丈夫……」
寝癖で髪はボサボサだし、寝間着のままだし、声だって寝起きで化粧だってしていない。
(あー……)
頭を抱えてしゃがみ込む。
(……死にたい) - 執筆:壱花
- アルアーブ・ナーリヤの違和
- ●心配
(やっぱり衝動があったのかな)
いつもより長く吸血しているように思え、そんなことを考えた。
(脈も早い気がするし……無理をさせたのかも)
彼は優しい子だから人のせいにしないし、すぐに我慢をする。我慢しないで欲しいと思うのに、結構頑固な事も知っている。
「もし僕が暫く留守にしないといけなくなったら、我慢せずにちゃんと誰かから貰ってね」
「……予定がある、するの?」
首から顔を上げたチックの瞳が微かに見開かれている。
驚かせたかな。いつもなら吸血後は小さく歌を口遊んで噛み跡をすぐに癒やしてしまうのに。
「そういう訳ではないけど」
何事も備えておくことに越したことはない。常に最悪を考えて先に手を打つだけだ。
(保護している子からは嫌だろうし、本当は弟から貰えればいいんだろうけど)
あの弟は、頼めばきっと二つ返事だろう。……けれど彼はどこか剣呑だ。
(家族の問題は俺が口出しすることじゃない。俺は『繋ぎ』に過ぎないのだから)
彼に多く居る友人のひとりに過ぎない事を理解している。
「我慢、しないで。周りを頼ってね」
だから言えることは、ただそれだけ。
●違和感
もしもの話なのに、暫く会えない日々を想像してチックは少し悲しくなった。
思わず見上げた雨泽の灰色の眸には、自分だけが映り込んでいる。
いつもは嬉しいのに……けれど何故だろう。
(……あれ?)
少しだけ違和感を覚え、確かめたくて背伸びをした。
「わ、チック。何、どうしたの。え、本当に口吸いしているように見せたいの?」
彼の言葉で我に返り、意識しないように慌てて顔を背けた。それなのに頬に熱が集って……恥ずかしい。
「吃驚した。……ねえ、甘いものを食べに行こうよ」
暗さと花火の灯りでチックの頬の朱に気付いていないようだ。彼は襟を正して笑って――違和感は隠れた。
空にはまだ花が咲いていて、今なら店が空いているよと手を引かれた。
……花火の灯りのせいで見間違えたのだろう。
色素の薄い虹彩が、罅割れているように見えた、なんて――。 - 執筆:壱花
- 星海鉄道の夜 、幕間
- ●ただいまの行方
「おかえり」
そう告げた君に、少し驚いた。
「……ただいま」
返事が遅れた僕を不思議に思わないでくれたことに、密かに胸を撫で下ろす。
(おかえり、だなんて)
これまでだって少し席を外す時におかえりとただいまは言っていた。けれども眠るために向かった寝台車で言われたら、まるでチックの居る場所が帰るべき場所みたいじゃないか。
(帰る場所なんて――ないのに)
帰る場所は、自分で手放した。
新しく作ったらそれは自由じゃなくなるような気がして出来なくて、猫だって飼わないようにしている。
けれど彼の側が居心地好いということは、認めていた。
(……でも、無理)
彼とは恋人でも家族でもない、ただの友人だ。
最近では友人同士のルームシェアというものがあるらしい。けれどふたりきりでもない――何人も人が住んでいる場所での生活なんて、息が詰まってしまうことが容易く想像できた。
ぼんやりと考えながらもチックと会話を続け、ふあと欠伸が溢れて横になる。疲れてふわふわとした思考に子守唄が優しくて――だからだろうか。『本当』が零れ、君が眠るのを待つ前に寝入ってしまった。
●例え終点が暗くとも
柔らかな寝息が聞こえてきたことに安堵して、チックは寝転がりながら窓を見上げた。
窓の外には幾つもの綺麗な星が流ていて、本当は進んでいないけれど――列車は終点へと進んでいく。
(終点は、どんな風になってるんだろ)
星は果てでも瞬いているのか。それとも何もない、暗くて冷たいところなのか。
けれどそこがどんなところでも、チックは雨泽と一緒なら怖くはない。
(雨泽は……どう思う、する……かな)
人が多いのは苦手だと零したから、星が多く瞬いている方が苦手かもしれない。
暗くて冷たい場所だったら、また風邪を引いてしまうかもしれない。
歌を灯し、照らしてあげたいと思った。温めてあげたいと思った。
(この気持ちが欲張り……じゃない、なら)
――雨泽が安心して帰れる場所になりたい。
チックは流れる星へと願った。 - 執筆:壱花
- 白片ノ灯
- ●
「……落ち着く、した?」
「うん、少し。ありがとう」
僕に小さく笑みを零す余裕が生まれると、君はよかったと柔らかに笑った。
「……あ、そうだ」
握っていた手を離して、ごそごそ。
何かを取り出そうとしている様を見てランタンを預かろうかと申し出たけれど、それだと雨泽の手が塞がっちゃうと君が言った。
「雨泽、これ」
手を出してと言われて広げた手に乗せられた、水色の箱。中身は装飾。白い羽根と銀の鈴、星の形の花。少し早い誕生日プレゼントだと君が言った。
「……羽根、チックの?」
「うん」
「抜いたの?」
君が少し目を逸らす。
「……痛くないの」
「平気、だよ」
雨泽だって。そう言いたいのだろう視線を感じた。君に供血しているから。
「ありがとう、大切にするね」
微笑んだ君は、また小さく歌っていた。
白い光と君は――ああ今日も、つきあかりのようだ。
●
――ちり。
摘み上げると鈴が鳴った。
光に翳すと綺麗でいつまでも見ていたくなるけれど――水色の箱に綺麗にしまって、棚へ。
(お守りって言っていたから持ち歩いた方がいいのかもしれない、けど――)
持ち歩くと無くしそうで怖いから。
無くしたらきっともう戻らないから。
俺はスカイウェザーではないから白い羽根をくれたことに意味があるのかは解らないけれど、君が俺の手元に白を残しておきたいと思ったのなら綺麗な状態で保管したかった。
棚をぱたんと閉ざして立ち上げる。
(――求愛で羽根を贈るのは梟だっけ)
気落ちしている時で良かった。そうじゃなかったら問うていただろう。綺麗な羽根を選んで贈ってくれたのかなと自惚れ、その気恥ずかしさを隠すための軽口で。
(チックって何の鳥なのかな)
彼のことを詳しく知らない事に気がついた。
(聞いてみたら教えてくれるのかな)
そんなことを考えながら、俺は塒を後にした。 - 執筆:壱花
- 白星ノ祈
- ●願いと祈り
週に二度、必ず君に会う。
「ん……」
もう何度も経験してるのに、牙が離れる瞬間に慣れることはなくて。
けれども僕も君も、割りと『慣れた』方だと思う。そうすることが習慣になって、当たり前になって、触れる熱にも離れる熱にも気恥ずかしさは何処かへ行ってしまった。……と思っているのは僕だけかも知れない、けど。
「ありがとう」
「どういたしまして」
最初の頃の申し訳なさそうにする表情では無くなったから、慣れたかなって思っている。
その後は、用事が済んでいればバイバイしたり、食事をしたり、夜歩きをしたり。いつも違うけれど、今日は少し歩こうって君を誘った。
秋の香りを楽しんで、月の色を楽しんで、それから……君はどうやってくれたっけって考えた。あの日の俺は気が動転していて、君のことも気遣えなかった。手を引いて貰っていたことは覚えているけれど、話した内容も少し曖昧だ。小さな箱が塒に戻ってもあったから、ああ現実なんだって、全部夢じゃないんだって思ったんだ。……夢だったら良かったって思っていた。皆が案じてくれたのに、自分のことばかり考えてしまう俺は本当に最低だ。
「……雨泽?」
「あ、ごめん。考え事しちゃってた。なぁに、チック」
「月が綺麗だね、って」
満月じゃなくても、月は綺麗。君の言葉に含みはないだろうから、そうだねと返した。
「悩む、してる?」
「うん。どうやって渡そうかなって考えてた」
半分、本当。
渡す? と首を傾げる君の手を掬って、小さな箱をその手に乗せた。
「これ……」
「少し早いけど、誕生日おめでとう」
君がそうしてくれたように、俺からも。当日に渡しても良かったけれど、君の誕生日は俺も君も姿が違う可能性が高い。今の俺の姿で、普段通りの君に渡したかったんだ。
箱の中身は、白い桔梗のブローチだ。文(ふみ)で話を聞いてから、そうしようって決めていた。桔梗は君の誕生花であり、俺が君に貰った花と同じ星型で、豊穣の秋の七草。
中身を見て、俺を見る君の瞳が真ん丸で面白い。本当に月みたいだね、チック。
ありがとうと紡ぐ君に俺がつけてもいいかと問うて。頷いた君の手からブローチを摘まみあげる。
「これから先もあなたの魔法が誰かの助けと為る様に」
君の一族みたいに魔法が使えない俺には祈るだけしか出来ない。けれど精一杯の想いを籠め、ブローチを君の衣服へと飾ったのだった。
――どうかその魔法が、俺の助けとはなりませんように。
他者のために自身を惜しまない君が、己の身を顧みて魔法を行使できますように。
――
アイテム名:白星ノ祈
フレーバー:
白い桔梗のブローチ。特別な何かなんてものはない。籠められているのは、ある鬼人種の祈りのみ。 - 執筆:壱花
- Moon Child
- ●
うとうとと微睡むような心地ではなく、ふと、唐突に目が覚めた。
とても温かいことを不思議に思うが、答えはすぐに視界に入ってくる。
(……チック。俺、あのまま寝ちゃったんだ)
ぬくもりを分けてくれた彼もずっと気を張り詰めていただろうから、暫く後に寝たのだろう。俺でもぬくもりを与えられているのかと都合の良い考えが過りかけるのを振り払う。そんなの、依存しあってるみたいじゃないか。
姉上がチックの分の布団も用意してくれたのだろう。眠る君を起こさないように気をつけながら小さく半身を起こせば、夜明け前の気配が頬を撫でる。腕で這って顔が並ぶように移動して、眠る君をじっと見た。頬に触れて、涙袋の下へ指で触れた。肌が乾燥している。時折泣いているか、寝ている時に泣いているか。そのせいだろう。
万全になったら高品質な化粧水を贈ろうと決めた。泣いたらしっかりと保湿しないと。彼の頬を少し摘んでから離す。滑らかな肌でいてほしい。
(君は他人を優先するから……)
俺だからじゃなくて、他の人にも。だから俺の気持ちを優先して、自分の悲しみを分けてくれない。俺ばかりが甘えてしまっていて、けれども言ってと言うのも言わせているようで複雑で。誰かに促されなくとも頼れるようになってほしい。……そうなってくれたら良いのにね。
君の頭に手を伸ばし、両腕で引き寄せる。
(辛い思いをした分、救われないとダメだよ)
額に唇を寄せて良い夢をと願い、頭を撫でた。今の俺の腕でも、いいこって撫でてあげることくらいは出来る。いっぱい頑張ったねって言ってあげることはできるんだよ? ねえ、チック。
(人は鼓動を聞くと安心できるんだっけ? 君も俺で安心してくれる?)
そうあればいいと思ってぎゅうと抱き込み、君の額を胸に押し付ける。
今この時、君の世界が俺の鼓動(おと)だけになるように。
朝が来る前に元の位置に戻るつもりだったのに……いつの間にか俺はまた寝てしまって、目覚めた君を驚かせたようだった。 - 執筆:壱花
- 輝かんばかりの日に向けて
- ●
「お待たせ、した?」
「ううん、全然」
髪をふわふわと弾ませ、小走りにチックが駆けてきた。急がなくてもいいのにとは思うものの、待ち合わせ場所に先に人が居たらそうなるのも解る。だからそれ以上は何も言わず、僕の傍へと辿り着いた君がふうと吐息を整えてから「それじゃあ行こうか」と告げた。
今日の目的は、先日文(ふみ)で彼にねだった買い物だ。
――折角だからお揃いの物がほしいなって。
少し恥ずかしいお願いではあったけれど、欲しいなって思ったのだから仕方がない。
「お店、楽しみ」
僕の行きたい店でいいと君が言ったから、どうしようかなって結構悩んだんだ。
ローレットに通うようになる前の僕にとってちゃんと用意をした贈り物というものは相手からの心象を良くするための手段に過ぎなくて……まあ言ってみれば賄賂と同じ。一緒にウロウロしている時に買ってあげるのは気まぐれだし、特に意味のない物や勘違いされない物や消え物を選ぶ。
けれどローレットに通うようになって暫くして、僕の考えは変わってきた。
(喜んでくれるかな。喜んでくれるといいな)
贈る相手のことを考えて、受け取った相手の反応や笑顔を楽しむ。
友人から貰う物も、気持ちが多く籠められている事に気がついた。
ただの賄賂。意味のない物。
だった筈なのに、貰うと嬉しくて、贈るのも楽しい物となった。
「チック、この店だよ」
「小物屋さん?」
「そう。前に赤と白いのあげたでしょ? あれもここの」
僕好みの造形の物を多く扱ってるこの店は、僕のお気に入りだ。持ち物が被るのって好きじゃないし、あまり他人に店を教えたくはないけれど、チックならいいかなって思ったんだ。
「ピアスを贈りたいなって」
「ピアス……?」
でも、と君の視線が持ち上がる。見ているのは横髪に隠れた僕の耳だろう。
僕の耳に、ピアスホールは空いていない。個性を増やすということは変装したりする時に不利になるからだ。それでも別にいいかなと思えるように最近なった。
「そう、ピアス。どんなのがいいかな」
「水引……多い感じ?」
「そうだね。主力商品」
赤い石のピアスへと視線を向けて少し考え、やめた。贈るのだから、君に持っていて貰いたい色にしよう。
「あ、そうだ、チック」
うん? 首を傾げた君が僕を見上げてくる。
ピアスをしている左耳へと手を伸ばしても君は逃げなかったから、そっと君の耳へ触れてみる。
「僕のここに、穴を開けてくれない?」
初めて触れた君の耳たぶは、ふにっとしていて柔らかかった。
――
アイテム名:梅に翡翠
フレーバー:
翠珠揺れる水引ピアス。固い絆と魔除けの梅結び。さらりと揺れる真白の房飾りは掴み所なく。 - 執筆:壱花
- 禍福倚伏の渦雲、幕間
- ●涙雨
それじゃあまたねと別れようとした矢先、両肩を掴まれて驚いた。
君の顔が髪で隠れていて、いつも顔が見えるのは君が見上げてくれているからなのかと何となく思った。
「チック?」
疲れて体調が悪いのか、それとも――あ、血かな。戦ったりすると脳が興奮状態になるせいで英雄は色を好むとも聞くし、吸血衝動もあったりするのかもしれない。
パッと君が顔を上げた。僕は笑みを浮かべかけた微妙な顔で固まった。
あ~、これはなんかよくないぞ。よくない。怒られるパターンだ。
真っ直ぐに見上げて怒ってくる顔は新鮮だし可愛いけど、今だけは絶対に告げてはいけない。もっと怒るに違いない。
「何で、犠牲になる、選ぼうとしたの!」
……気付いてたんだ。いや、気付くよね。
少し前の俺なら、絶対にそんな選択はしなかった。俺は俺の命が一等大切で、けれどいつどこで終えても良かった。でもチックたちが俺を変えたんだ。沢山の出来事があって、『大切』が増えて、俺の一等が変わってしまった。全然自由じゃなくなったのに、それでもいいかと思えるようになったんだ。
君が感情のままに言葉を紡いで涙を零すのを、少し嬉しく思っちゃってごめんね? 俺って君の大事な人のひとりになれてたのかって、俺のために怒ってくれるのが嬉しいんだ。
君の涙を拭いたいけど、怒られている立場で拭って良いのか解らない。
辛さを零す君に寄り添う資格があるのかも解らない。
けれども君が俺を掴んだまま離さないから、傍に居てって言われているのは解った。
「……もう、おいていかれるのは……いやだよ……」
そうだね。大切なふたりを喪ったのに、俺まで居なくなるのは酷だろう。
「もうしない。おいていかない。約束」
涙を拭って良いのか解らなかったから、背へと腕を回して抱きしめた。
「……家に帰れそう?」
暫く腕の中で震えていた君が落ち着いたタイミングで、驚かせないように頭を撫でてから声をかけてみた。
泣き腫らした顔で家に帰れるのか、胸に顔を寄せている君も悩んでいるのだろう。否定も肯定も返らない。
「俺のところ、来る? あ、でも寝具も何もないや。どこか宿とか……」
畳だから転がれなくもないけれど、寒いだろう。それに物が溢れすぎている。
いけそうな宿はと考えようとしたところで、君の手に僅かに力が籠もった。
「……雨泽のとこ、がいい」
「……何もないよ」
「雨泽がいる」
「俺しかいないよ」
「ん。いっしょに、いて」
「わかった」
こうして抱きしめていればきっと寒くないし、夜通しだって君の悲しみと言葉を受け止めよう。
それじゃあ行こうと抱き上げたらワッと声が上がった。
「君の泣き顔を他の人に見せたくないし、少しだけ我慢していて」 - 執筆:壱花
- 最近嵌ってる甘味の話
- ●
「口吸い、してもいい?」
問うのは毎回、吸血の後。毎度ではなく、3度の吸血に1度くらい。
深いものだから驚かないように都度聞くのだろうかと思いながら、チックはこくんと頷いた。……期待するような表情になっていなければいい。けれど以前よりも誰かの瞳に映った自分の表情は豊かになっていて、見つける度に色んな感情が混ざってしまう。
頬に触れた手が顎へとかかり、持ち上げられれば唇が触れ合う。迎え入れた熱で頭はすぐにいっぱいになって、短いだろうそのひとときを長く感じてしまう。
(もっとって言ったら、雨泽は)
欲張りだとはきっと思われない。けれど恥ずかしくはある。
「大丈夫?」
「……うん」
「嫌だったり苦しかったら」
「嫌、じゃない」
パッと顔を上げて否定をすれば、そうと呟いた雨泽が笑った。自分ほどじゃないけれど雨泽の頬も普段より血色が良く、機嫌良さげな笑顔を可愛いとつい見つめてしまう。この表情を見られるのは自分だけなことは是迄の彼の言葉を辿れば明らかで、自然と心が満たされる。
「雨泽は?」
「僕? 僕は好きだよ」
『好き』という単語が彼から聞けるのはどんな時だって嬉しい。おれもと返そうとし――爆弾が落とされた。
「チックって甘いし、美味しい」
「っ」
肩が跳ね、頭の先から湯気が出そうなほどに顔が熱くなる。
「食べすぎないようにちゃんと我慢してるんだよ?」
偉いでしょと上がった口角と、猫のように細められる瞳。
そこでアッと気がついた。
「……わざと言う、してる……?」
「血が美味しいって言われる時の僕の気持ち、解ってくれた?」
「っ、それとこれは違……」
「一緒。何方も体液」
熱が駆け上り、きっと首まで赤くなった。知らず開いた口を閉じるのにも苦労して。けれど彼の意地悪な笑顔も可愛いから、ただずるいと思う。
「……雨泽」
「僕が本気を出したら君なんてすぐ気をやっちゃうんだから」
声を低くして窘めると、我慢のできる僕を褒めて欲しいくらいだと口を尖らせて。
その表情も可愛いと少し思いながらも、チックは知らない言葉に首を傾げた。
雨泽は失言だから忘れてと言う。
けれど何となく。『もっと』は当分口にしない方が良いのだろう。 - 執筆:壱花
- 猫にまたたび
- ●
椿園で華しょこらを口にした後、手作りチョコもあるのだと告げたチックへ、雨泽が奇遇だねと笑った。
雨泽からの灰冠の贈り物は、椿屋での一泊。温泉に入って美味しい夜ご飯を口にして、椿屋の客室でのんびり過ごすひとときにラム酒風味のトリュフチョコを手渡して。食べさせてとねだられるままに一粒ずつ口へと運んだ。
「お酒が呑みたくなってきちゃった」
呑んでも良いかと聞いてくる気遣いが嬉しくて頷けば、少し待っていてと雨泽は部屋を出ていった。
チョコを食べたから洋酒にしたと、チックの分のグラスも手に雨泽が戻ってきてから――暫く。
「うーん」
「雨泽……」
「むーー」
殆ど甘いソーダ水なチックと違い、氷のみでグラスを空けていた雨泽が唐突に卓袱台へ倒れ込み――それからずうっとこの調子。
「酔う、してる……?」
「……君に? そうかも」
「……お酒に」
「ふふふ」
トロンとした表情で雨泽が楽しそうに笑う。その様子を可愛いと思って眺めてしまっていたら、のそのそと体を起こした雨泽がまたグラスを傾けた。
「もうおしまい」
グラスを持つ手を止める。だって雨泽が持ってきた洋酒の瓶の中身はもう殆どない。
不満を示す雨泽の手から簡単にグラスを抜き取って卓袱台へと置けば、あれっと雨泽が目を瞬かせた。
「チックがふたりいる」
「……おれは、ひとりしかいないよ」
「ほんと?」
触れてくる指が常よりも温かく、瞳は眠たげだ。
「雨泽、眠たい? 布団に……」
「やだ」
フイと顔を逸し、チックの頬に触れていた指も離れていく。
「チックといたい」
「……一緒にいるよ」
ん、と返る声に、チックは微笑んだ。酔った雨泽は子供みたい。
「洋酒、よわい」
「知っていて……呑んだ?」
「うれしかったから」
話が続いていないように思え、チックは首を傾げた。
「特別仕様だった」
ああと思い至る。試作の時には無かったラム酒の風味。それが嬉しかったのだろう。
「俺が……を……だか……潰し……」
「雨泽?」
途切れ途切れだった言葉が、ついに聞こえなくなった。雨泽はうつむいて瞳を閉ざしていて、座ったまま寝てしまったのだろうかとチックは覗き込もうとした。
その途端、チックの視界はぐるんと回った。
天井を映す筈の視界は白い髪のカーテンで覆われ、雨泽が機嫌良さそうに笑っている。
抱きつかれて押し倒されたのだと頭が理解しだした頃には雨泽の顔が近寄ってきて――
「……」
「……翠雨?」
チックの顔の横にポテンと落ちた頭は、健やかな寝息をたてていた。
――翌朝。
「俺、何もしてないよね!?」
飛び起きた雨泽は酷く慌てた様子でそう言った。
何も覚えていないことが解ったチックはジトリとした瞳を向けるのみで、答えてなんてあげなかった。 - 執筆:壱花
- 君の翼
- ●
雨泽は悩んでいた。多分、今月入ってから一番の悩みに直面している。
前方には背を向けたチック。姿勢を正して座っており、その背中は少し強張っており緊張の色が見える。
(飛行種の人ってどうもふるのが正解なんだろ……)
ぶんぶん鳥ならば、主にもふるのは胸毛や綿毛だろう。
雨泽にとっての鳥は小さくて愛らしい存在で、指先で軽く擽るように撫でるのは許される。だが飛行種は翼があれど『人』で、大きい。体表にも羽毛が生えている人もいるが、チックの『鳥部分』は翼のみだ。
(翼ってどうもふるんだろ……)
翼は繊細だろうから、普段から出来るだけ触れないように気をつけている。
思えば、『今度触らせて』と告げてから随分と時が経った。折ってしまったら怖くて、結局触るのを避けていたのだ。
「……触るね」
「ん」
待たせ続けるのもよくないからと意を決してそろりと指先を伸ばせば、翼の先が揺れた。
羽根の流れに沿って表面を撫でる。
(もふもふっていうよりはなでなでだけど)
正解が解らない。難しい。
普段触れたいと思うのは猫で、猫ならば撫でたり、胸や腹をもふもふしたり――吸ったりする。
(――あ。吸って良いのかも!?)
閃いた。これだ。
猫を吸うと何とも言えない幸せで胸が満たされる。
彼を吸ってもそうなるに違いない。
「ねえ」
「ん、なぁに」
「君を吸ってもいいの?」
一応聞いてみる。
「す……」と小さく聞こえたような気もするが、返答はない。
「駄目? じゃあかぷってするのは? あっ、痛い感じのじゃないよ?」
猫の耳なんて愛らしすぎて甘噛みしたくなるものだ。
肩が揺れた。背中を向けているから表情が解らない。これも駄目なのかなと首を傾げた。
(やっぱり嫌なことは聞いておくべきだよね)
三眼へと両手を伸ばしたチックの表情を思い浮かべれば、心からそう思う。
「ねえチック、どこまでなら許してくれる?」
翼の付け根の肌は?
羽根はかき分けてもいいいの?
やっぱり僕は吸いたいなって思うんだけど!
ねえ、聞いてる!? - 執筆:壱花
- 言う/言わない
- ●
おしまいにしよう、と雨泽が言った。
「……え?」
それは唐突なことで、チックにはすぐにわからなかった。
――何が。
考えて、考えて、あっとなる。直前にしたことだ。
時折する、深い口付け。それをやめようと雨泽は言ったのだ。
「……どうして?」
つい先刻分け合った熱が、唇に灯った熱が、冷めていくようだった。
好きだと以前は告げていたけれど、本当は嫌だったのだろうかと頭の片隅で考えてしまう。けれどジッと見上げた雨泽にそんな素振りはない。
それに。
(甘くておいしい、って言ってた……)
思い出せば頬に羞恥の熱が灯ってしまう。自覚するくらいに熱くなった頬は赤を宿していることだろう。
「え。だってもう、必要ないかなって」
「必要ない……」
「確認の」
「確認、の?」
鸚鵡返しに口にして、首を傾げる。と、雨泽も同じように首を傾げた。
「確かめたいって言ったやつ。もう三ヶ月たったし、もう確認の必要はないよね?」
触れるくらいでいいかなぁ、って。
ぱちぱちと瞬いた。言われた言葉をゆっくりと噛み砕いて、チックは考えた。
深い口付けは、本質的な部分での嫌じゃないかの確認。きっとそこには雨泽の気持ちだけじゃなくて、チックの気持ちも含まれている。確認の必要がないということは、好きという気持ちを認識しているからだろう。それは喜ばしいこと、だと思う。けれど――少し物足りない、ような。
また、欲張りな自分を自覚してしまった。
「……」
「チック」
視線が下がって俯きかけた顎を、雨泽の指がすくっていく。いつだって力は籠められない。指の動きで顔が見たいと告げるのみで、見上げるのはチックの意思に任されている。
「どうしたの? ……確認が続いていたことが嫌だった?」
チックは首を振る。それは了承済みだ。
(でも……何て言おう……)
言ってくれないとわからないよと雨泽が眉を下げる。
してほしいことも、したいことも――。
「チックの気持ちを教えて」
「おれは……」
望んでいると口にすれば雨泽はそうしてくれるけれど、そうでなければきっともう『しない』のだ。 - 執筆:壱花
- 真白の鬼と飛べない鴉
- 『ファントムナイトの日、少しだけ独占してもいい? チックの誕生日だからちゃんと皆に君を返すけど、少しだけ俺だけの時間を頂戴』
10月に入ってから、雨泽がそう言った。「昨年は一緒に居られなかったから、今年は少しだけ時間が欲しいな」と。
会える。お祝いして貰える。
楽しみな約束事があると、月日というものの流れは一瞬だ。
「雨泽っ」
待ち合わせ場所にはいつもの彩はなくて。けれどもチックはそれが彼だと見逃さない。
今日はファントムナイト。なりたいものに、なれる日。
なりたいものとふたりが願ったのは、互いの種族だった。事前に『君の種族になろうと思う』と伝えていれば合わせられたかもしれないけれど、そこは自由意志。互いに相手の行動や意思を縛りたいとは思っていないのだ。
けれども『相手』ではなく『種族』を願ったのは自分たちらしいか、と雨泽は心の裡で笑った。いくら好いていても彼自身になりたい訳ではない。違う存在として側にいたくて、同じ種族だったらもっと相手のことが知れるし――雨泽は持って産まれた種を変えられるのなら『同じ』になりたいと思っている。
「よく見つけられたね」
「俺、雨泽なら……どこにいてもわかる、するよ」
「そうなんだ」
黒い髪も綺麗だねとチックが笑い、そんな彼の笑みに穏やかに口角を上げた雨泽は手を伸ばしかけ――チックの額に生えた白い角に触れる前に止めた。躊躇ったのがわかるから、チックが一歩前に出てその手に角を擦り付けた。
「……雨泽が触られるのと同じ感覚、なのかな」
「どうだろう?」
指先で触れる、つるりとした角。他人の角に触れたいと思って触れたのは初めてかもしれない。
「チックは鬼人種の姿でも可愛いね」
「雨泽も、可愛いしてる。鴉の翼……? も、黒い髪も綺麗、だね」
「そう、鴉なんだ。あ、そういえば、翼って面白いね」
「面白い……?」
「うん、何か腕がもう1セットある感じ」
幼い頃から当たり前に翼のあるチックはなるほどと目を瞬かせた。
「飛んでみる、した?」
「怖いからしてないよ」
キュッと眉を寄せた雨泽がブンブンと首を振るから、チックは頬が緩んで仕方がない。
「今日は俺が『えすこーと』したい、思う」
差し出された手に雨泽が何かを言いかけ、やめる。
「それが君の望みなら」
手を重ねてから、柔らかに「あのね」と紡がれた。
「チック、誕生日おめでとう。
産まれてきてくれてありがとうって毎年言わせて欲しいと思ってるよ。
プレゼントを用意してあるけれど、それは後から。ひとまずは僕ってことで」
だから、何だって言うことを聞いてあげる。
鬼人種の力を試したいのなら抱えてくれたっていいよと鴉が咲った。 - 執筆:壱花